紫黄村の殺人

Pre-story 2 : 秋夜

秋、2年生が修学旅行に出かけ、そして帰ってきた週末。4泊5日の旅行帰りの2年生と引率で着いていった監督が休むため、海南大附属バスケットボール部にしては珍しく週末に練習が休みになった。

といっても牧は朝から波乗りに出かけ、帰宅後には筋トレなどのトレーニングをしっかりやっていたのだが、からオフだと聞きつけた敬さんが仕事を放り出してまた湘南までやって来た。というか早春の白蝋館と夏の青糸島、どちらも静養のつもりだった敬さんは正月以来まったく気が休まっておらず、かといって年末年始の休暇は遠いので、すぐに年下の友人ふたりを捕まえては食事に誘うようになっていた。本日はオーシャンビューのイタリアン。質量的に牧はちょっと物足りない。

アルテア・ブルー再開の目処どころか白蝋館の再開もまだまだ机の上、という敬さんはしかし着実に後始末をつけており、ふたつのホテルの今後以外はほとんど片付いたらしい。まあどちらも殺人事件が起こってからまだ1年と経っていない。

「山吹さん諦めたんですか」
「一応仕事紹介してそっちに行ってもらったんだけど、それで納得するかどうか」
「てか紺野さんも待ってるんですよね……
「まあ彼女は言ってみれば手に職のある人だから、しばしフリーランスやってみるみたいだけど」

ちらほらと自分自身のことも語り始めた敬さんによると、たくさんの事業を手掛ける立場にある彼には「少数精鋭の秘書チーム」がいて、何を放り投げても全て片付けてくれるそうで、気は休まらないけれど後始末は順調のようだ。なので触れないわけにもいかないトピックはわざとらしく出てきた。

「そっ、そういえば、もう、入ったんですか、け、刑務所には」
……うん、先週ね」

青井実の裁判が終わり、実刑判決が出た。強い殺意や殺害方法に残虐性などが認められたものの、被害者のパワハラ行為やパートナーの自殺などが酌量されたか、それでも比較的短い懲役刑となった。敬さんがご家族から受けた報告によれば、ご両親はそれでも娘が生きているだけでいいと礼を言ってきたそうな。

「裁判や刑務所なんて、ドラマの中の話みたいに感じちゃう」
「それでいいと思うんだよな。そういうものを知らずに一生終えられるなら、その方がいい」
……志緒さんも、もう刑務所なんですよね」

南雲志緒も数ヶ月前に実刑判決が出た。こちらも懲役刑だった。弁護士や家族、高校時代の友人たちは控訴を勧めたが本人は拒否。しつこく面会にやってくる島さんに月額利用していたサービスなどの解約や自宅の始末などを依頼して、そのまま収容されてしまった。

「ふたりとも同情すべき点はあるし、再犯の可能性は低いし、初犯だし、だからまあ判決はそこそこ優しめだと思うけど、なんせ本人が反省は一切しないってのを譲らなかったからな……きっと仮釈放もないだろうな」

他のことはともかく、南雲志緒は被害者を殺めてしまったことへの「反省」だけは死んでもやらないと語っており、それは判決が出るまで一切揺るがなかった。と牧に語ったように、裁判でも「残された3人を殺したいという気持ちはもうありませんが、私がこの世界で最も愛する人を悪ふざけで死に追いやった東丸恭介の命を奪ったことは、今私を裁こうとしている法律が悪ふざけで人を死に追いやることを許す以上、私の意志であり、最も望んだことであり、今までもこれからも、それについては後悔も反省もいたしません」と断言してしまったので、弁護士や家族を落胆させていた。

「島さんはどうしてたんですか」
「だからその後始末を頑張ってたよ。志緒のアパートに泊まり込んで」
「あのー……それって……
「まあそれくらい許してやりな。ちゃんと荷物をご家族に届けて、全て始末つけたんだから」

相変わらず志緒さんに夢中らしい島さんは頼まれたとおりに全てを片付け、早速面会も申請したらしい。柴さんはそんな相棒の豹変に呆れていたけれど、最近では慣れてきたのか自分も差し入れがしたいと言い出しているとのこと。

「あの、法律のこととかよくわからないんだけど、志緒さん刑務所から出てきたらどうするんですか」
「それを今から島くんに頼まれてるよ。まあオレがやだって言うわけもないしね」

なので島さんは志緒さんが出所するまで死なないでくれと言ってきたそうだ。敬さんは苦笑い。

「まあ、その頃にはきっと白蝋館はどうにかなってると思うから、そこにいてもらってもいい」
「それはちょっと残酷じゃないですか……?」
「それは志緒次第だな。島くんに絆されないとも限らないだろうし」
「じゃあ島さんが引き受ければいいじゃないですか」
「志緒が嫌だって言ったらどうするんだよ」
「敬さんの支援だって嫌がるかもしれない」

そんなと敬さんのやりとりを牧はちょっとニヤついて眺めていた。雪に翻弄されて偶然知り合っただけの敬さんだが、なんだかすっかり親戚のおじさんみたいになってきた。青糸島ではへの思いが高ぶるあまり敬さんに嫉妬してしまった牧だが、島からの帰還後はそんな気持ちは想像すらも出来なくなっていた。には恋愛や友情よりももっと深層にある人間としての結びつきを感じるようになり、それは自分の大人としての第一歩のような気がしていた。これをしっかり守っていけるかどうか、それが大人という人間になれるかどうかの、最初の試練なのだと。

だが、そんな牧をよそに女子高生と資産家のおじさんの言い合いはヒートアップ。

「だいたい敬さんは情に厚いけど色んなことが雑だと思うんですよ」
「雑ってどういう意味だよ」
「今思うと、菊島さんはホテルの支配人には絶対向かない人だと思うんですよ!」

のツッコミに牧と敬さんは同時に吹き出した。だが、菊島さんといえば元空き巣である。それを思い出した牧はひょいと顔を上げて首を傾げた。

「そういえば……菊島さんてあんな厳重なマンションにどうやって侵入したんですか」

敬さんの現在の住まいは都心にある低層マンションだが、先日そこに立ち寄ることになったに「その低層が逆にタワマンよりも高級感が出て引く」と言われるような家。湘南でバスケットに夢中になっている高校生でも「こりゃ数億はするな」と思ってしまうような佇まいであり、正直そんなところで寛げるのか疑問でもあった。その話を聞いた時は菊島さんのことなど思い出しもしなかったのだが、改めて考えると菊島さんは凄腕の空き巣ということになってしまう。

「ああ、それは別の家だよ。昔住んでた家。そっちは古い家だったからね」
「ご実家ですか?」
「いんや、実家は横浜。菊島さんがやらかしたのは、東京の下町の古〜い家でね」

さわやかな潮風が音もなく3人の頬を撫でていく。敬さんの指先でゆっくりと揺れているワイングラス、その中で煌めいている深い赤、それを見つめていたは両手で頬杖をついて優しげに微笑んだ。

「敬さんの昔話、二度目ですね」
「そうだったっけ」
「一度目は島で、横浜でヤンチャしてたときのことを」
「そっか、ちょっと話したよな、そういえば」

年は離れているが、敬さんは言葉で表すなら「友人」である。そんな友人関係に必ずしも詳細な来歴の説明は必要ないのかもしれない。けれど、と牧というカップルと夏川敬は現在、その友人関係の範囲をはみ出しそうになっている奇妙な状態にある。が都内の夏川家に立ち寄ることになったのもそのせいだ。は敬さんの「コネ」で某大学の推薦入試を受けた。

それを聞きつけたメイさんは「やだ裏口入学じゃない」とニヤニヤしていたが、私立だし金銭の授受はないし入試は行われるし、一応違法性はない。しかもその「コネ」はメイさんもよく知る間柄の人物で、彼女もニヤニヤしつつ「そしたらふたりとも受験ないのよね! 遊びに行きましょ!」とはしゃいでいた。

そんなふうに、ただの友人であるはずの夏川敬はふたりにとって、そしてふたりの人生にとって重要な役割を担うようになっていた。その人の過去を知りたいと思ってしまうのは無理もないのではないだろうか。

決して催促はしていないだが、その優しげな微笑みは「よかったら話して」と語っていた。心なしか敬さんの頬が赤く染まる。

「学生時代から……ずっとそこに住んでたんだ。下町の、ものすごく古い、家でね……

本人曰く「成金のボンボンしかいないような中高一貫校」を卒業した敬さんは、当時彼にとっての目の上のたんこぶであった父親に強制的に望まぬ大学へ進学させられた。横浜での中高生時代を「やわらかくグレていた」せいで親子関係は極限までギスギスしており、敬さんは一時は本気で家を出て横浜でひとりで生きていこうと考えていたそうなのだが、父親とは顔を合わせれば大喧嘩でも、母親との関係は良好で、自分が家を飛び出せば母親が父親になじられることは容易に想像がついたので、

「オレが大人になってやったんだよ、ガキの駄々みたいな親父の横暴を許してやってな」

と彼はふんぞり返る。

「そういう状態だったからさ、大学に入ったときに家を出て、その下町の家に引っ越した」
「いきなり一軒家でひとり暮らしですか?」
「まさか。オレの祖父さんの、いとこの、お妾さんの家」
「おめかけさんて……
「まあ、妻公認で生活の面倒を見る愛人、て感じかな。だから無関係じゃないけど親戚ではない」

元芸者だというその「お妾さん」はスヱ子さんといい、知り合った頃は50歳くらいだったそうだが、景気のいい時代でも東京の下町の小さな家で夏川某の愛人としてずっと静かに暮らしていた。元芸者とはいうものの、実際にそれで稼いでいた期間はごく短かったようで、かなり若い頃に妾になり下町の一軒家を与えられ、慎ましく暮らしていけるだけの金を渡されていただけの人だったようだ。

「でも……愛人てその……
「旦那さん? たまに来てたよ。その時オレは外出。その頃は愛人ていうより大親友みたいなふたりでね」
「スヱ子さんとは前から親しかったんですか?」
「いや、全然知らなかった。オレがヤンチャしてたのを知った祖父さんがそれを話したらしくて」

敬さんの「ヤンチャ」はそれでも長いこと父親には知られずにいたのだが、進路を考えねばならない高校3年生の時に一気にバレた。それが父親から祖父へ、祖父からそのいとこへと話が伝わり、本家の後継ぎが悪い遊びを覚えて困ってるらしいという話を聞いたスヱ子さんが「だったらあたしが預かりますから、連れておいでなさい。面倒見ますよ」と言い出した。

「とにかく古くて小さな家でね。車も通れない細い路地に立ってて、だけどよく手入れがされてたから壊れたりしてなかったし、スヱ子さんはきれい好きだったから汚くもなかったし、まるでタイムスリップしたみたいなその街がすっかり気に入っちゃってさ。スヱ子さんが表の通りが見える2階の部屋を譲ってくれて、ほんの四畳半くらいの狭い部屋だったけど、大正や明治の学生気取りはなんだか楽しくて」

まだまだ好景気気分の抜けない東京の大学に通い始めた敬さんだったが、それを離れて「家」に帰ると、まるで映画の中の世界に迷い込んだようなレトロな暮らしを送るようになった。スヱ子さんは敬さんの祖父のいとこである「旦那さん」がやってくる日と日曜日以外は毎日朝昼晩敬さんの分も食事を手作りし、敬さんが望めばお弁当も作り、洗濯や掃除や、その他生活で面倒なことは全部やってくれた。

だが、スヱ子さんは何も、旦那さんと同じように親身になって生活の面倒をみたいと思って敬さんを預かっていたわけでは、当然ないのである。

そんな至れり尽くせりの穏やかな日々だったのだが、バブル気分のまま学生をやっている敬さんが徐々に羽目を外しだし、親の金で酒を飲みだすようになると一転、恐ろしい顔を見せるようになった。

「彼女はそんな時代でもいつも着物で割烹着だったから、古き良きおっかさんみたいな人なのかと思ってたんだけど、怒ると怖いのなんのって……狭い居間に正座させられて扇子で膝をピタピタ叩かれながら3時間説教された時はあんまり怖いんで泣きそうだった」

しかもスヱ子さんの「説教」は父親の横暴な支配とは違い、グレていた頃の癖が抜けきらない学生がぐうの音も出ないような立派な内容で、敬さんはなぜこの小柄なおばさんが今でも「愛人」をやっているのかを理解した。そのくらいスヱ子さんの言葉は敬さんを叩きのめし、鍛え直し、そして躾けた。本当に厳しくて容赦なかった、と敬さんはゆったりと微笑む。

「スヱ子さん自身については詳しく知らないけど、一生『妾』をやってたくらいだから色々事情はあったと思うんだよな。そりゃあの頃も『金持ちの旦那に囲われてるだけの暮らしなんて』って陰口はあったみたいだけど、それを除けばスヱ子さんて人は本当にきちんと日々を生きてる人だった。嘘はつかず、人の悪口は言わず、卑怯なこと狡いことは嫌いで、出来る範囲で近所の人と助け合って真面目に生きてた。ていうか後で知ったことなんだけど、近所で夫に殴られてる奥さんとかがいると、やっぱり扇子持って説教しに行くらしいんだよ。着物は地味だったし小柄で可愛らしい感じなのに、えらい迫力のある人だったから、勝てなかっただろうね、暴力夫も」

そんな風にスヱ子さんに叩き直されること4年、敬さんは同年代の学生たちがチャラチャラ遊んでいる間に勉強しながら働き、卒業を迎える頃にはすっかり「更生」させられていた。

かといって夏川本家の当主である父親が変わるわけでなし、スヱ子さんにビシバシ指導されたせいでやけにメンタルが強くなった敬さんは父親が急逝するまで喧嘩し続けた。そういう状況だったので、夏川グループの中で働き始めても、スヱ子さんの家を出る気にならず、スヱ子さんの方も出て行けと言わないものだから、その奇妙な「同居」は実に16年に及んだ。

「そこが敬さんですよね……
「だからどういう意味よ」
「だって彼女とか友達とかどうしたんですか、それ」
「それはそれなり。なんでもやってもらえる実家住まい続けてたみたいなもんだからね」

それに、スヱ子さんとの同居を嫌がり家を出ろと言い出した女とはすぐに別れた。スヱ子さんはいつでも彼女や友達を連れておいでと言ってくれたし、連れてきたこともあったけれど、その誰ひとりとしてスヱ子さんと普通にお喋りをし、スヱ子さんの作る料理を食べてくれた人はいなかった。誰もがみな口を揃えて「金持ちのくせに、なんであんなボロっちい家でババアと住んでるの?」と言った。

「かといって、今でもスヱ子さんに対して強い思いがあるとか、大好きな人だとか、そういう感情はないんだよな。16年も一緒に暮らしたと言っても、社会人になってからはオレも帰宅が遅くなるし、説教も減ったし、仕事の話とか社会の話とか、最後の方なんかは人生哲学だとか、そんな会話ばかり増えて、家族や友達に感じるような愛着や親しみはほとんどなかった」

なので敬さんの父親が急逝した時には慌ただしく同居を解消することになった。

「スヱ子さんて、敬さんのメンターとか、先生って感じですね」
「あー、そんな感じ。今でも感謝はあるけど、大好きな人とは到底思えない怖さだったからな」
……で、そこに菊島さんが空き巣に入ったんですね」

菊島さんの金切り声を思い出しながら牧が言うと、敬さんは吹き出し、は不愉快そうに眉をしかめた。そんな家に空き巣に入ろうなんて、ほんとに菊島さんは……という顔だ。

「あれはきっと、旦那さんが高級車で近くまで乗り付けてやって来るのを知ってたんだろうな。いつも高級なスーツに帽子を被って、最後の方は持ち手が金のステッキなんか持ってたような人だったから、そりゃ妾宅にも金があると思うだろうけど」

菊島さんがスヱ子さんの家に侵入したのは、敬さんが父親の急逝により夏川家当主になってしまった直後のことで、入居予定のマンションが完成するのを待っていた時だった。あまりに多忙だったのでまともな休みも取れず、空き時間が確保出来るとすぐに帰って寝るようにしていた。スヱ子さんはそんな敬さんを気遣い、彼が平日の昼間に寝ている時は出来るだけ外出していた。そのタイミングで空き巣に入ってきたのが菊島さんである。

「旦那さんはもう少し余裕のある生活をさせたかったらしいんだけど、スヱ子さんはなんでも『これで充分やっていけますから』って感じで、宝飾品とかブランド品とかも興味ないみたいで、服も和装だし、それも何だか庶民的な着物ばっかりで、実際スヱ子さんちに高価な金目のものはなくて、あるとすれば当時オレが持ってたノートパソコンとか腕時計くらいで、しかもスヱ子さんとは違う足音で目が覚めたオレにとっ捕まったんだよな」

スヱ子さんの家は古く、手入れはしてあっても、どこを歩いても「軋み」が大きな音を立てていた。16年の同居により聞き慣れていたスヱ子さんの歩き方ではない「軋み」に敬さんは目覚め、疲れとストレスで苛ついていたのも手伝って菊島さんを力任せにねじ伏せ、縛り上げた。

「そこにスヱ子さん帰ってきたんだよ」
……嫌な予感がしますね」
「縛られたまま正座で4時間説教だったらしい」
「怖い……
「トイレどうしたんですか……

また仕事に戻っていた敬さんが帰ってきた時、スヱ子さんの説教に空き巣の菊島さんはすっかり改心……したわけはなく、あまりの恐怖にマジ泣き、すいませんと繰り返しつつも、恐怖にガタガタ震えながら自分はリストラされて生きていけないから仕方なく空き巣に入ったと喚いていたそうだ。

「その時は色んなものを一気に相続して、その管理をどうするかってことを色々考えてた時期だったし、スヱ子さんが警察を嫌がったから、そのまま白蝋館に放り込んだんだけど……でもそこでオレがよくやる『拾い物』をどうすればいいのかってことを覚えたんだよな。まあ、悪い癖なのかもしれないけど」

以来敬さんはあちこちで「拾い物」をしては受け継いだ事業の中に放り込んで働かせてきた。気付けばそれに文句を言う人はいなくなっており、その「悪い癖」は加速した。

牧は、自分たちもその「悪い癖」の範疇だよな……と思ったが黙っておく。それを悪癖だと言いたがる人は多いけれど、それこそが夏川敬という人物を形作るものだからだ。

「でも今はひとり暮らしですよね、敬さん」
「母親はフランス、スヱ子さんは亡くなったし、あの家があった街は再開発で消えちゃったからね」

表情には出ないけれど、そんなことをゆったりと語る敬さん、それを眺めていた牧とは、最近何かというと湘南までやって来ては食事を振舞ってくれるのは、もしかして寂しいからなのでは……と思い始めていた。

敬さんの日常である仕事とは何の関係もない、気楽で気軽な友人のと牧。それは今、敬さんが持つことのなかった家族に一番近いものなのかもしれない。

きっと自分たちなら、スヱ子さんとお喋りをして、スヱ子さんの手料理をいただきますと言って食べ、食べ終わってご馳走様でしたと言えただろう。敬さんもそれを思っているに違いない。

そんな人とは出会えないままだった。そんな人は敬さんの目の前には現れなかった。

「だからってわけじゃないけど、君らの4年間を預かるのは、スヱ子さんへの恩返しでもあるんだよ」

ちょっと照れくさそうな敬さんなので、と牧はニヤリと笑ってみせる。

「敬さんも説教するの?」
「オレたち敬さんよりいい子にしてますよ」

涼やかな潮風が3人の笑い声をさらっていく。

の推薦入学が決まったら敬さんはふたりの親に話をすることになっている。家と牧家、まとめて「夏川がふたりの学生生活の面倒を見たいが、どうですか」と言いに行くことになっている。

それが叶えば、と牧は来年の春から同居で学生生活を送ることになる。青糸島でが思いついて言ったことが現実味を帯びてきた。

と牧は4年間真っ当に学生生活を送る気でいるし、いくら敬さんという強力な支援者がいたとしても、生まれ育った家相当の自分というものをはみ出そうとは思っていない。何しろ敬さんはセレブとかいう言葉が白々しく感じるほどの人物であり、物質主義イコール幸福とならない現実も目の当たりにし、また、南雲志緒の残した言葉を忘れられない間は目の前の世界を懸命に生きることを選んでいた。

なのでそのことに浮かれてはしゃいでいるのはメイさんであったり、島さんであったり、あるいはメイさんの家に居候している国竹さんと松波さんで、それに比べると敬さんはどこか安堵しているようでもあった。

と牧を手元に引き寄せること、その話が具体化するたびに、白蝋館以来少しも気が休まらない敬さんの表情が緩んでいく気がする。そんな風に感じていたふたりは、敬さんとのディナーから自宅に戻る度、彼が寂しさを感じているのではと思うようになっていた。激しい感情などなくとも安心して戻ってこられる場所、人、それが家族なのではという気がしたからだ。

大人、特に男性の場合、かつ敬さんのように仕事中には多くの部下に囲まれて生きている人が寂しさを口にする、あるいは自分でその寂しさを認めるというのは難しいに違いない。

父親とは終ぞ解り合えぬまま死に別れ、母は遠く欧州の空の下、導き手であったスヱ子さんも亡い。

必死に夏川を守ってきたけれど、気付けばひとりぼっちになっていた。もしかしたら敬さんはそんな状態なのかもしれない……は考えた。

責任者として見捨てられない数千人を守ってきたけど、自分を守ってくれる人はもう誰もいない。もしかしたら敬さんはそれに気付いたのかもしれない……と牧は考えた。

どれだけ親しくても敬さんは家族ではない。それはふたりに共通した考えだったが、さりとて他人としてのボーダーラインを改めて引き上げ、金の切れ目が縁の切れ目の関係をしっかり意識して境界線を曖昧にしないようにしなければ……とは思わなかった。

ふたりの心に南雲志緒の声が囁き続ける。

「大人って、そんなに立派なものでもないよ」

自分たちの目の前に「大人の世界」が透けて見えるようになった今、どこか白々しかった南雲志緒の言葉は実感として重く背中にのしかかってきた。白蝋館で、青糸島で、何度も何度も困った大人にため息をついて苛立ちを感じ、怒りを覚えてきた。なんで大人がそんなみっともない真似をするのかと憤った。南雲志緒の言うように、立派な大人など幻想だった。あれはそう、大人の皮を被った子供だった。

だからといって、自分たちも困った大人になりたいとも思わなかった。白蝋館と青糸島の記憶が身勝手に振る舞うことを拒絶し続けている。あんな人間にはなりたくない。

もし話がうまくまとまれば、と牧は敬さんの支援を受けて大学の4年間を同居して過ごすことになる。それは部活でずっと一緒のふたりが、さらにその垣根を超えて「他人同士との暮らし」を実践するということでもある。そこで何が得られるのか、ある種の挑戦でもあった。

いつかその挑戦が実を結び、ふたりがその暮らしを全うできた時、と牧だけでなく、敬さんも家族になれるのかもしれないと思った。

血の繋がりも書類の繋がりもないけれど、心は繋がるはずだから。