紫黄村の殺人

Post-story : 追憶

真っ青で澄み切った空に暖かな風が吹くようになった2014年の2月末、東京の片隅にある古びた家に暮らしていたスヱ子は、夏川グループから派遣されてきた弁護士を玄関で見送っていた。長年妾として暮らしてきたスヱ子だったが、その旦那さんが亡くなったのである。

「それでは、何か困ったことがありましたら、遠慮なくご連絡ください」
「ありがとうございます。敬さんによろしくお伝え下さい」

深々と頭を下げた着物姿のスヱ子は、弁護士の姿が見えなくなると静かにドアを閉めた。

スヱ子は現在70歳、長く暮らしていた下町の古い家は地域が再開発になったことで跡形もなく消滅した。なので旦那さんの用意した別の家に越してそろそろ10年である。この家も前の家に負けず劣らず古くて小さな家だったが、旦那さんが選んだ家だったので、古くても造りは立派で、スヱ子が引っ越す前には既に水回りのリフォームや耐震補強が施されていた。

その家の居間に戻ったスヱ子は、ちゃぶ台の上の書類をまとめ直し、改めて確認をした。旦那さんは2年ほど前から体調が優れず、8年前に患った癌を手術した時の傷が今も痛むような気がすると言い、不調を繰り返していた。とはいえ本人は「もう80も過ぎてるんだから、そのくらいいいじゃないか」と楽観的で、おかげで身辺整理は余裕を持って片付き、妾であるスヱ子にかなりのまとまった金が入ってくることも騒ぎにはならなかった。

というかそもそも旦那さんの正妻は既に故人だし、旦那さんの子供たちは身辺整理期間の間にきちんと事情説明を受けていたようで、特に揉め事はなかったらしい。あるいは現在夏川家の当主である夏川敬がスヱ子と長く同居生活を送っていて親しい事情もあるので、言いたくても言えなかったのかもしれない。

というわけでスヱ子の元には旦那さんの意志である「100歳まで安全に生きられる金」が入ってくる予定。スヱ子は現在70歳なので、あと30年分の生活費である。さすがにそんな大金をひとりで抱え込むことには不安があるので、敬に申し出て、管理を助けてもらうことにしてある。

だけでなく、弁護士はいくつかの遺品を置いていった。どれも旦那さんがスヱ子に届けるよう指示したものらしい。

万年筆、懐中時計、ふたりの共通の愛読書である山本周五郎の全集、ふたりが好きだったフレンチポップスのレコード盤など、子供たちが貰っても困る私物がまとめて贈られたようだ。

まったく、古いものばかりね。まあ、あたしもこんな「お古」だから、お似合いだけど。というかこのレコード盤どうすりゃいいのよ。うちにはもうレコードプレーヤーなんてないんだけど。

しかし現物を見るとまた聞きたくなってくる。スヱ子はメモ帳を引き寄せ、敬にレコードプレーヤーはどこで買えばいいのか聞くこと、と書き留める。スヱ子は今のところひどい物忘れにはなっていないけれど、彼女は旦那さんに彼の異母姉の面倒を任されたときからメモ魔になり、以来書き潰したメモは数しれず、電話台の下には今もメモ帳のストックが積み上げられている。

そうね、せっかくだから万年筆もちゃんと使おうかな。でも今、文具店てないのよね。しょうがない、これも敬さんに聞いとかなきゃ。あら、懐中時計も止まってるじゃないの! 時計直してくれるところなんて近所にあったかな。やあね、また敬さんに頼るのかしら。

しかし敬はスヱ子が何を聞いても全部しっかり教えてくれるだろうし、なんならレコードプレーヤーは送り届けてくれるだろうし、万年筆のインクも懐中時計の電池も請け負ってくれるに違いない。そう思うとスヱ子は面白くないのだが、旦那さんの遺品となれば致し方ない。

旦那さんから預かった本家の跡取りであった敬は、実質スヱ子が育て上げた当主である。同居すること実に16年、高圧的な父親に反発してグレていた彼を容赦なく叩き直し、元華族の名家のボンボンとしてではなく、末端まで含めると数百人の従業員、そしてその家族の生活の責任を背負う人物としての覚悟を叩き込んだ。

敬は父親には抑圧され、母親には放置気味で育てられたせいか、多くの点で「中途半端」な少年であった。なので「叩き直し」は容易ではなく、敬が殆ど叱られなくなるまでには10年を要した。

だがスヱ子に敬への愛情はないに等しく、彼は出来の悪い生徒であり、いつまで経っても長い髪にチャラチャラした服装が直らないだらしない跡取りであり、彼を自分の子供のように慈しむ気持ちはなかった。

彼の父親である先代の夏川家当主が急逝し、まだ30そこそこの敬が跡目を継いだときには「夏川家もこれでお終いかしらね」と思っていた。事実、未だに敬は嫁も取らずに受け継いだ仕事をこなすのみで、もし明日敬が死んでしまったらグループは一気に崩壊する危険がある。

同居していた頃なら、そんな敬を叱り飛ばしていたかもしれないが、旦那さんが亡くなった今、それはもはやスヱ子にとってどうでもいいことになっていた。彼女が敬を厳しく鍛え直したのは、旦那さんが困り果てていたからだ。旦那さんの力になれることだったから頑張っただけ。

そう思うと、今まさに自分の「余生」が始まったのだなと思った。

遺品を片付け、書類を仕分けし、さあてこれでもう旦那さんは来ないのだし、生活のリズムを変えていかないと……と考えていると、書類の隙間から封筒がひとつするりと抜け落ちた。しっかり糊で封がされており、見慣れた字で「すえこへ」と書かれていた。

その瞬間、スヱ子は腹のあたりがギュッと締め付けられるような感覚がして、目をそらした。

旦那さんとは知り合って50年が経つ。立場は妾だったけれど、スヱ子は多くの場合、彼の「社外相談役」とでもいうべき存在だった。旦那さんとの間に隠し事はなく、お互い誰にも言えないようなことを話し合い、意見が食い違ったとしても、食い違うならどこまで混ざり合うことが出来るのか、何を持って自分たちの意見が食い違うのかを徹底的に議論した。

もちろん旦那さんと違ってスヱ子はろくな教育も受けておらず、最初は旦那さんが仕事の話をするとちんぷんかんぷんで、旦那さんの方は「難しい話をして悪かった」と気遣ってくれたけれど、スヱ子はそれが悔しくて、以来彼女は旦那さんと対等に話が出来るようにありとあらゆる本を読み、独学で多くのことを学んだ。

それは旦那さんが「これからの女は自分の力で生きていくものだ」と言ったからでもある。

スヱ子は子供を産んですぐに養子に出したことで絶望し、仕事も学もなく子供も取られ、自分はもう生きていく術がないと思い、自殺をしようとした過去がある。けれどそうやって少しずつ学んでいくと、生きていく術がないのではなく、生きていく術を知らなかっただけなのだと気付いた。教育を受けられないということは、生きる術を取り上げられているのと同じだと感じた。

それを旦那さんに話すと、「だからもったいないと言うんだよ。頭の切れる女性は世にごまんといるのに、なぜそれを使わないのか。オレはそんな非合理な人間とは仕事をしたくないね」と言われた。なのでスヱ子の「勉強」はますます加速し、旦那さんが相談したいことがあるとまずスヱ子を頼るようにまでなった。

特にふたりが老齢に差し掛かってからはそういう関係だったので、死後にこんな手紙らしきものをしたためられてしまうと、いつになく緊張が走る。一体何を言われるのかしら。まさか文句じゃないだろうけど、今さら愛の言葉なんか綴られていたら自分がどうなってしまうかわかんないわ。かといって事務的な連絡事項とほんの二行程度の感謝の意だったら腹が立つんじゃないかしら。

封筒から目を離したまま、スヱ子は大きく深呼吸を3回。はさみを取り出して封を開く。

一行目は「すえこへ」。

さすがに名家の出とでも言えばいいのか、旦那さんの字はとても美しく、また力強いものだった。スヱ子はその字にそっと指を触れてみる。おそらく遺品として届けられた万年筆で書かれたものだ。

スヱ子はもう一度深呼吸をして、読み始めた。

君がこの手紙を見ているころ、僕は既に旅立っていることだろう。妻はいないのだし、君が葬儀に来たって構わないんじゃないかと思うけど、君はそういうのが嫌だろうから、報せないことにする。僕たちの別れの言葉は「雨が降りそうですよ、傘は?」「持ってないけど車はすぐそこだから」「風邪引いたら肺炎で死んじまいますよ」ということになりそうだ。僕たちらしいね。

僕の死後の君の暮らしについては、まとまった金を用意しておくし、敬によく言い含めておいたから、遠慮しないで何でも相談してほしい。君と敬はまるで手のかかる子供と先生のような関係だったけれど、それでも敬という子は君に尽くすことを厭わないだろう。たっぷり恩を売ってあると思って、あの子を使ってほしい。

もし僕の子供たちや、夏川の誰かで困ったときも、敬にすぐ言うように。敬は君が僕の公私に渡る良き相談相手であり、僕が仕事をする上で欠かせない頭脳だったことの証人となってくれるはずだ。君はそうやって表に出ることを嫌うだろうが、堂々としていてほしい。君は自分で大変な努力をして、そこまでの知恵知識を身に着けたのだから、気にすることはないよ。

まさか深夜のドブ川に飛び込み自殺をしようとしていた君が、そんな立派な人物になるとは、正直思っていなかった。姉の生活を助けてくれる人が欲しかったのは事実だが、1年や2年できっと次の男を見つけて行方をくらますだろうなと思っていたんだ。

一度死んだと思って世のため人のために働けなんて、君の自殺を思いとどまらせる方便でしかなかったというのに、君はそれを本気にしていて、僕は大変驚いたものだった。もしやこの人はまともな教育を受け、安定した家庭に生まれていたら、ひとかどの人物になっていたのではと何度も思った。

けれどそこで君を学校にやるとか、仕事を世話するとか、そういうことをしなかったのは、僕のわがままだった。いつでも僕の話を聞いて、議論をし、まだ見えぬ答えを共に模索してくれる友を失いたくなかったからだ。それは本当に申し訳ないことをした。君はそれでよかったんだと言うかもしれないが、君が人生の殆どを妾として生きねばならなかったのは僕のせいだ。それは齢80を過ぎて猛省をしているところ。

それを許してくれとは言わないが、君に嘘はつきたくないし、さよならも言えずに別れる君に調子のいいことを言って、善い人を気取るつもりもない。誓ってこの手紙の内容は僕の本心なので、どうか受け取ってほしい。

スヱ子は遠い日のことを思い出す。

1967年、昭和42年。スヱ子が夏川千登世の妾となって3年が過ぎた。千登世の7歳年上の異母姉である里代子は、年齢が上がるにつれて体調が悪化していくので、スヱ子という助っ人を大変喜び、スヱ子も誠心誠意尽くしたので、ふたりはまるで姉妹のように親しくなっていた。

里代子が喜んでくれるのでスヱ子は張り切り、料理でも編み物でも熱中して練習し、かと思えば里代子の家のご近所、自宅のご近所でも進んで人の困りごとに手を貸し、「あの人二号さんらしいわよ」なんて陰口を叩いてくる人ですら、困っていれば助けるような人になっていた。

千登世は月に一度か二度、姉に顔を見せてはスヱ子を家まで送り届け、一緒に食事をしながら会話をして帰る、ということを繰り返していた。最初は他愛もない話ばかりで、お互いの身の上話やら、夏川家の話、スヱ子や里代子の近所の噂話、そんな内容に終始していた。

だが、それが千登世の仕事の話になるとスヱ子はちんぷんかんぷん。千登世はそれを申し訳なく思い、努めて雑談を心がけていたのだが、しばらくするとスヱ子は本を突き出して「お勉強したんです。今日はこれについてお話しましょう」と言い出すようになった。

千登世は面食らい、おそるおそる話を始めてみるのだが、スヱ子は話に躓くとすぐに本を開き、千登世に質問をし、千登世が戸惑うほど熱心に貪欲に様々なことを学び吸収していった。もしかしてオレはとんでもない拾い物をしたのでは……と千登世は思うようになり、スヱ子が里代子の面倒に飽きて姿を消すまで面倒を見ればいいか、と思っていたのを考え直すようになっていた。この(ひと)はもしや、手放してはいけない人なのではないか。

春、里代子が夏川が懇意にしている温泉旅館に湯治に出かけたので、千登世はただ食事をして話すためだけにスヱ子の家に来ていた。仕事は忙しいし暇ではなかったけれど、自宅は人が多くて落ち着かないし、結婚して10年以上になる妻は男の子を生むということに異様な執着があり、女の子が4人も続いたので次は男の子を、跡継ぎを! と夜な夜な迫ってくるので、あまり家には帰りたくなかった。それに比べるとスヱ子の家は静かで穏やかで、有意義な時間が過ごせる。

だが、そんな得難い人物を手放したくないと思ったせいで、千登世はちょっとばかり不安を感じていた。なので仕事帰りのシャツ姿で台所の戸に寄りかかり、夕食の支度をしているスヱ子の背中に向かって聞いてみた。

「なあスヱ子、君、まだ22とか23だっただろ。その、好きな男とか、いないのか」

芸者の身で客の子を身籠って路頭に迷ったスヱ子である。当初千登世はどうせ1年やそこらで新しい男を見つけてくるだろうと思っていた。それならそれで、家は譲ってもいいので、せめて里代子の手伝いだけは継続してほしいと頼むつもりでいた。だがそれでは困るなと千登世は思い始めていた。

すると割烹着姿のスヱ子はくるっと振り向き、おたまを手に眉を吊り上げた。

「なんてこと言うんですか。妾の私が男を作ってどうするんです」
「いやほら、妾といってもそれは対面的な話だろ。僕は姉の助けになってほしかっただけだし」
「だとしても、夏川の妾が旦那さんのいない時に男を連れ込んだら、夏川の看板に泥を塗ることになります」
「相変わらず武士みたいだな君は」

千登世は勢いよく吹き出し、両手を上げてまあまあとスヱ子を宥めた。

「だけどオレは君を所有物にしたくて囲ってるわけじゃないんだ。君がもし誰かに惚れたんなら――
「見くびらないでください。あたしはあの夜、旦那さんに身命を賭して尽くすと誓ったんです」
「そりゃそうかもしれんが……

それこそ「言葉の綾」だと思っていた。だがスヱ子の方はまったく本気だったらしい。千登世は後頭部をボリボリと掻いて照れた。

「あたしにとっては、こんな立派なおうちに住めることですら、夢のようなんですよ。食うに困らず、おべべはどっこも破れてないし穴も空いてないし、お風呂だってついてる、ラジオも持ってる、新聞だって読める。それをぽいっと捨ててその辺の男にうつつを抜かすなんて、あたしは馬鹿だけど、そこまでじゃあ、ありません」

育ちの違う千登世には「その程度のこと」だったわけだが、ろくに親の記憶もないスヱ子にとっては夢のような暮らしでもあった。

「あたしは旦那さんの『器』、お人柄に惚れてるんですよ。そりゃあもう、ぞっこんですとも。あたしが投げ捨てようとした命をもったいないと言い、自分で産んだ子の母親にすらなれないと思っていたあたしに、あの子のために生きる目的をくれたんです。なのにふらふらと他の男によろめくなんて、あたしはそんな不義理な女じゃありません。里代子さんや旦那さんの助けになれるような人間になること、それがあたしの女の道なんです」

武士というより、これは羽織芸者の心意気だな。千登世はまた感心しながらも、不意にスヱ子を愛しく思う気持ちが募ってきて、つい手を伸ばした。器だろうがなんだろうが、この女はオレに惚れているのか。そう思ったら、不安に揺らいでいた心が熱を帯びて喜びに満たされた。

思い返せば千登世自身、今や誰もが自由に謳歌している恋愛には自由がなかった。学校は全て男子校、妻は当然親が決めた相手、学生の頃に仲間に誘われて盛り場で遊んだことがあったくらいで、どうせ家のための結婚をしなければならないのは変わらないので、誰かに深入りをする気もなかった。

なので「ぞっこん惚れている」などと真剣な目で言われるのは初めて。既に子供が4人もいる大人だったけれど、幸せな胸の疼きに抗えなかった。人から想いを寄せられる喜びは想像以上に千登世を蕩かせた。

スヱ子の生活を面倒見るには妾という方便を使うのが1番手っ取り早かったけど、嘘から出た真って言葉もあるじゃないか。というかスヱ子が妾なら、オレがこの(ひと)を可愛がるのは何もおかしなことじゃない。この女がオレに惚れてるってんなら、オレが彼女に惚れたっていいんじゃないか。

千登世の手がスヱ子の頬に触れ、するりと撫でる。

「そんなふうに熱っぽく口説かれたのは、初めてだよ」
「口説いたつもりはありませんけど……これは私が選んだ道ですから」
「寂しく、ないのかい」
「あら、こうして会いに来てくれるじゃないですか。そんな贅沢は言いませんよ」

少し恥ずかしそうなスヱ子を引き寄せ、千登世は強く抱き締めた。薄っすらとした白粉の香りが鼻をくすぐる。

「本当の、意味で、妾になるのは、嫌か?」
……あたしが嫌といえば、引き下がるのですか?」

そんなまさか。千登世は鼻で笑い、身を引くと有無を言わさずにスヱ子の唇を奪った。突然のことにスヱ子は身を縮ませ、千登世のシャツをぎゅっと掴んでいたが、そんな初々しい仕草に千登世の理性は吹き飛んだ。これでもスヱ子は子をひとり産み落としている大人の女性だが、どうしてか少女のようにも見え、かと思えば全身で甘えられる年上の姐さんのようにも感じられた。

ふたりはそのまま交わり、以来、名実ともに「旦那と妾」になった。

千登世の妻は夏川家と同じ旧華族の家柄に生まれた深窓の令嬢であり、特権を失って卑しい商売人に転落した家の分家に嫁いできたと思っているらしく、なんとしてでも実家の血を受けた男児を跡継ぎにし、実家の血筋でこの夏川家を本家を凌ぐ格の家にしなければと躍起になっていた。

かと思えば、千登世の母親は旧公爵家の遠縁であることを自慢の種にしていて、孫娘たちを淑女に育て上げ、然るべき名家へ嫁がせるのだと夢中になり、男児を授かることしか頭にない妻はこれ幸いと娘たちを任せた。

当然ふたりとも里代子の存在は承知していたし、彼女のために連れてきた女を妾という体裁で囲っている、ということも了承していた。自分たちはそういう格式の世界に生きる人間だと思っているので、千登世が里代子だけでなくスヱ子の家で過ごしていても、疑問は感じていない様子だった。

それから数年後にとうとう男の子が生まれると、妻は一瞬で息子に夢中になり、彼以外は目に入らないようになった。千登世の母親は相変わらず孫娘4人に夢中だったし、千登世の父親は別宅や妾宅から帰ってこないし、いくつもに分断された千登世の夏川家は、家族という言葉だけでかろうじて繋がった他人のようだった。

なので千登世はスヱ子ばかりを可愛がるようになり、彼女の家に立ち寄る機会は増える一方だった。一時は仕事が終わると毎日のようにスヱ子の家に寄り、食事をし、彼女を抱き、深夜になってから帰宅して書斎で眠るという生活を送っていた。

スヱ子は里代子のために鍛えた料理の腕を振るい、千登世は素朴で温かい庶民の家庭料理を喜び、あるいは枕を交わしたあとに布団の中でフレンチポップスを聞きながら経済の話をし、丸いちゃぶ台でお茶と煎餅を挟んで世界の宗教問題について語り合い、狭い風呂で背中を流し合いながら宇宙開発について議論した。

やがて里代子が亡くなると、スヱ子は以前にも増して近所の人々と関わり、千登世とは単なる妾の域を超えて、頼れる相談相手になりつつあった。千登世の妾となって15年ほどが経つと六法全書にまで手を出すようになり、いつしか千登世も知らない知識を溜め込むようにもなった。

途中千登世は何度も「スヱ子の存在を公にして会社で雇い、自分の片腕として働いてもらった方がいいのでは」と思ったのだが、家にいても気が休まらない千登世が唯一心から安らげる場所がスヱ子の家と彼女だったので、その考えは浮き上がってきては沈みを繰り返し、結局スヱ子は古びた小さな家と街から出ることはなかった。

ふたりが出会って数十年、いつしか互いの髪が白くなってきて、以前のように床を共にすることは少なくなっていたけれど、それでも千登世はスヱ子を一番頼りにし、だけでなく新聞や本を挟んで激論を交わしたり、誰にも話せないことを語り合うことだけは変わらなかった。

そうして、かつてスヱ子が暮らしていた向島の近くにはスカイツリーが開業し、スヱ子の住んでいた街は再開発で消え、スヱ子は住み慣れた土地を離れてまた新たな街で暮らしていた。

2013年の年末、2ヶ月ぶりにスヱ子の家に顔を出した千登世は最近また調子が良くないと言いつつ、昼には好物であるスヱ子のカレーライスをぺろりと平らげ、食後はソファに身を沈めて寄り添い、彼女の手を取って撫でながら、この日は珍しく思い出話をしていた。

分家とはいえ、夏川の一角を担う立場をわきまえ、千登世はどんなに遅くても必ず帰宅していた。それはまたスヱ子が肉欲の愛妾なだけではないことの証のためでもあったのだが、ふたりがやたらと盛り上がっていた頃に、一度だけ都合がついて旅行に行ったことがある。それも二泊三日の温泉旅行という慎ましい旅だったけれど、完全にふたりきりの日々は初めてで、まるで学生のカップルのようにべったりとくっつきながら、寝る間も惜しんで語り合い、愛し合い、夢のような時間を過ごした。

今思うといい歳をしてずいぶんはしゃいだ旅行だったなと笑いながらその旅程をなぞり、あんなことを話した、こんなことをしたと笑いながら語り合った。遠い日のたった3日間の思い出だが、自分たちでも驚くほど記憶は鮮明で、目を閉じればその頃の相手の姿が目に浮かぶようだった。

そして千登世は夕方頃に暇を告げ、どんよりと曇っている空を見上げながら玄関を出た。

「あら、雨が降りそうですよ。傘は持ってきて……ないわね?」
「持ってないけど、まあいいよ、車はすぐそこだから」
「んもう、若くないんだから、風邪引いたら肺炎で死んじまいますよ」

千登世はあははと笑い、片手を上げると金の持ち手のステッキをついて、帰っていった。

それがスヱ子と千登世の今生の別れとなった。

スヱ子は手紙に目を戻す。

そしてひとつ、君に打ち明けたいことがある。これはかなりの確信を持った憶測なのだが、僕の息子、あいつはどうも僕の種ではないらしいんだ。上の娘たちは僕の子だろうと思うんだが、どうにも息子だけは違うようだ。あの頃の僕は君の方に夢中だったし、娘たちが出来るまではかなり時間がかかっていたのに、息子のときだけはやけにすんなり妊娠したことを当時も不審に思っていたんだ。おそらく相手は僕の部下だ。年々似てきて、今じゃそっくりだよ。

かといって僕はそれを責める気持ちや怒りなんかは微塵もないし、妻は死の床にあっても息子しか見えていなかったし、これまでの礼を言う僕には息子を跡継ぎにするよう何度も懇願していて、夏川の人間としては長い間尽くしてくれたことを感謝していたのだが、結局彼女とはそういう関係しか築けなかったのだと思うと、少し悲しかった。

その息子は妻に甘やかされ放題で、あの敬にすら困りましたねと言われてしまうような男だし、娘たちはそれぞれ僕の母のコピーのようになってしまったし、なんだか虚しい思いがしていた。

でもねすえこ、僕は、君とは本当に家族のように付き合ってきたと思うんだ。

なんでも話し、笑い合い、つらいこと悲しいことは分け合い、嬉しいこと楽しいことは一緒に、飯を突っつきながらテレビを見て、そんなふうにやってきたじゃないか。僕が父親から受け継いだ巨大な家と血の繋がった人々と妻と子供たち、それよりもよっぽど君は僕の家族だった。あの下町の小さな家が僕の本当の家だったんじゃないかと、今は思うんだよ。

死を前にしたからって、何を今さらと思うかもしれないが、僕に家族や妻というものがあったとしたら、それは君しかいない。

すえこ、君は妾なんかじゃなくて、真実に僕の妻だったんだよ。

ついこの間までは死ぬのが嫌で、怖くて、こんな病院なんか抜け出して君の家に行きたいと思ってた。だけど昨日、僕は死ねば夏川の人間というしがらみから解放されるのじゃないか、と思いついた。死んでも僕は夏川千登世なのかもしれないが、あの世に夏川家はないだろうし、旧華族も夏川グループもないし、僕は自由になれるんだと思ったら、だいぶ気が楽になってきたんだよ。

だってそうだろ、僕が君と家族になれなかったのは夏川の人間だったからだ。

今となっては分家の夏川なんかどうでもいいから、君の娘を取り戻し、3人で暮らせばよかったと後悔が募る。君の子供なら僕はきっと可愛がったはずだ。それに、君との子供がほしいとずっと思っていたんだ。あの時代にそんなことは難しかったかもしれないが、僕たちならきっと出来たはずだ。

僕はその後悔を死ぬ前に取り戻したいと思い、それで柄にもなくこんな手紙を書いている。

君がこの手紙を読んでいるころ、僕は解放されているはずだ。夏川家のひとりでも、社長でも、夫でも父親でもない。だから何をやったっていいんだ。僕はもう自由なんだ。封筒の中身を出してご覧。指輪が入ってるだろう。ひとつは君の、ひとつは僕のだ。

すえこ、僕と結婚してください。僕の妻に、そして家族になってください。

一度も言えなかったけれど、すえこ、君を心から愛してる。それだけは死んでも変わらない。

僕を夫にしてくれるのなら、どうか指輪をはめて、僕を「あなた」と呼んでほしい。

僕はきっとそれを聞いているから。

僕の愛しいすえこ、君とともに歩んだ日々は僕の宝物だよ。本当にありがとう。

いつまでも、そのままの君で

すえこへ

ちとせ

封筒の中からは飾り気のない銀色の指輪がふたつ転がり出てきた。そのうちの小さい方を取り上げ、スヱ子は左手の薬指にはめる。手を掲げると、窓から差し込む夕焼けに指輪は鈍く光って、手の輪郭を赤く染めた。

スヱ子はその左手に手紙を持ち、胸にそっと当てると、右手で優しく包みこんだ。

「あなた」

スヱ子の目に涙があふれ、頬に幾筋も伝う。

「あなた」

スヱ子は顔を上げ、夕焼けに向かって微笑む。

「あなた」

空にいる夫に呼びかけるように。目には見えなくとも、千登世に抱き締められているような気がしたから。

6年後、病を得たスヱ子はしかし、敬が先進医療の整った病院での治療を勧めるも断り、1年ほどの療養生活を経て亡くなった。千登世の残した「スヱ子の生活費」は当然余るので、遺言により敬に丸投げされ、それは元々自分たちのものだと訴えてきた千登世の子供たちを退けると、もはや敬の趣味になりつつある個人的な投資に分配されることになった。青糸島のリゾート開発もそのひとつだ。

スヱ子はもちろん夏川家の墓には入れないわけだが、千登世との関係をよく知る敬により同じ霊園の樹木葬で葬られ、千登世とスヱ子は向かい合って眠っている。

そしてふたりが夫婦であった証の指輪は今、ひとつに繋ぎ合わされて敬の手の中にあった。

その記憶を受け継ぐに相応しい、式村翡翠とその子供、そして式村玻璃に届けるために。

繋ぎ合わされたふたつの指輪はやがて、式村珠子の愛用のハンカチに乗せられ、いつまでも孫曾孫たちを、家族を見守ったという。

END