「お前さ、何がしたいの? 探偵気取り? アニメキャラに憧れてんの?」
「いいえ、どれも違います」
「だったらこんなとこに呼び出して推理ショーとかやってないで、警察呼べばいいだろ」
「最初はそう思ってたんですが、僕たちも一応当事者なので事情を知る権利があるかと」
「今度は被害者気取りか」
琥珀さんは芝居がかった口調で牧を煽るが、そんな程度で頭に血が上るようなら、海南の主将になどなれないのである。牧は冷静なまま、翡翠さん瑠璃さんには目もくれず、琥珀さんだけを見ていた。
「それに、僕たちも一歩間違えれば本当の被害者になるところでした。それは金剛さんの気紛れのせいでもあり、この杜撰な殺害計画のせいでもあります。そこには怒りも感じます。敬さんが志津夫さんと親しくなければ絹田さんの情報を知ることはなかったと思いますが、知ってしまって、その違和感に気付いた以上、見過ごすことが出来なかったのは、自分たちの納得のためであり、紫黄村の役場の方々のためでもあり、後のことを支援しようとしている敬さんや志津夫さんのためでもあります」
警察に即通報という手段を取らなかったのは、事情を全て話してくれたら力になれることもあるかもしれない……という思いからだった。それは青井実の犯行を止められなかったメイさんや敬さんの後悔から牧たちが学んだことだ。だが、琥珀さんが態度を一変させたので、牧はそれを言うつもりはない。
「だから何。事情なんか知ってどうするんだ」
「それは知ってから考えます」
「理由になってない」
「理由になっている必要はありません」
「いい加減にしろよ!」
「もうやめて!!!」
牧と琥珀さんの言い合いに割って入ってきた悲鳴は、翡翠さんのものだった。
「もうやめてください、話します」
「話す必要なんかない!」
「もうだめ、もう隠せないから、無理だから」
「バカ言うな、なんのためにこんなことしたと思ってんだ、せっかく絹田さんが」
「だからでしょ! だからもう、ダメなの!」
「翡翠姉さんやめて、あなたは黙ってて、私が、私が話すからふたりは黙ってて」
今度は玻璃さんが虚ろな目をし始めた。どうやらこの様子では、本当に彼だけ何も知らなかったらしい。しかしそれに構うことなく、牧とと敬さんはお茶を飲み、姿勢を正す。
「皆さん暇ではないんでしょう? 話すのが嫌であれば今すぐに出ていって下さっても大丈夫ですよ。ただその場合、当然通報はします。皆さんが出頭なさるのであれば、通報は控えます。どうしますか」
ここまでボロを出してしまっては、いずれにせよ追及の手はやって来る。3人は言い争うのをやめ、俯いた。
「簡単な、話なんです。私が、お金が必要だったんです」
そう切り出したのは翡翠さんだった。両脇の琥珀さんと瑠璃さんは顔が見えないほど項垂れている。
「私の子供が、病気、なんです。それで、お金が。父は、援助を拒否しました」
静まり返る会議室、翡翠さんの弱々しい声だけがかろうじて聞こえてくる。すると敬さんの携帯が鳴り、通知を確認した彼はスタスタと会議室を出ていってしまった。だが、牧もも、それには反応せずに翡翠さんの言葉を待った。
「屋敷でお話しましたよね、式村の血を受けたものは、近親交配を防ぐために、昔から中学や高校を卒業すると東京に出されるしきたりでした。特に本家の私たちは村民以外の女を娶る跡継ぎだけが村に戻れるというルールで、あるいは、東京に出た本家筋が子供を設けた場合、その子供なら村に戻ってもよいと言われてきました」
女子高生3人組によれば、「百何十年前とかから」式村内での結婚を控えるようになったという。外に出て余所者の血が混じれば戻っても構わないという判断だったのかもしれない。近親交配という点だけで考えれば、このシステムは悪いことではなかった。都市部から離れているにも関わらず過疎化を免れているのも、こうした制度を積極的に進められる気風によるところが大きかったかもしれない。
だが運の悪いことに金剛氏のような性格を持つ本家当主が誕生してしまった。
「それに父は、女に本を読ませるとつけあがる、という古い価値観の持ち主でした。なので琥珀と玻璃は4年制の大学に進学しましたが、私と瑠璃は父の会社の受付嬢になることしか、許されませんでした。だけど父は兄も弟も跡継ぎとしては不満で、もちろん女に継がせるなんて問題外で、なので私たちに興味がなかったのだと思います。だけど私の結婚には反対で、妨害もあって、私は子供たちの父親とは内縁関係のままでした」
とはいえそれは籍が入っていないというだけの問題で、翡翠さんは反対された相手と家庭を持ち、紫黄村には近寄らないようにして暮らしてきたのだが、2番目の子供が先天性疾患を持って生まれてきた。
「……あなたたちの年代だと知らないことかもしれないけど、健康を損なっていたり、障害を持った子供の親は、離婚率が高いんです。特に父親はそういう子供を愛せないことが多い。私の夫もそういう人だったんです。最初の子とは普通に暮らしてました。可愛がっていたと思います。責任も感じてたと思います。だけど、病院から出てこられない子供が誕生して以来、そういう父親ではなくなりました」
会議室のテーブルに突っ伏していた玻璃さんが呻きながら顔を上げる。
「それだけじゃない。あいつはいい年して、子供にかかりきりになった翡翠姉さんに対して『オレの面倒は誰が見るんだ』って、そういう不満を募らせてたんだよ。あいつにとって妻と子供は自分の付属品でしかなかったんだ。翡翠は幸せな家庭を築いてると思ってたのに、その夫が親父と同類だったときの、あのつらさは、君たちにはわかんないよ。またそういうやつのせいで苦しむのかと思った、あの怒りと苦しみは、わからないよ」
ひとりだけ殺害計画を知らされていなかった様子の玻璃さんは、兄姉たちの近くにいられなくて席を離れた。しかしすっかり牧の側に立つことも出来なくて、中間あたりの席で鼻を鳴らしながら呻いている。どちらの言うことも理解できる、どちらの気持ちにも共感出来ない、そんな様子だ。
「不幸中の幸いなのでしょうか、子供がいるのは私だけで、私たちきょうだいは母を亡くして以来、この縁もゆかりもない東京で協力しあって生きてきました。みんな、私の子供を可愛がってくれました」
「当たり前でしょ! 自分の姪っ子甥っ子なのよ!」
「それにあいつらは母さんの血を継いでるんだ。オレたちの母親の孫なんだよ」
「それを、そんな子供が治療に耐えながら生きていて、上の子は文句も言わずにいて、なのにあの男は」
「どこの馬とも知れない男の血を引いた人間が本家に混ざろうったってそうはいかないって」
「自分の孫なんだよ!? 母が見ることのなかった孫が苦しんでいるっていうのに、あいつは」
堰を切ったように瑠璃さんと琥珀さんがまくし立て始める。
それを牧とは黙って聞いていた。金剛氏の性格を考えれば不思議なことは何もなく、納得の「事情」だと思えた。そもそも金剛氏のスピーチからは、式村本家当主の座というものは次代に受け継がせていくものではなく、永遠に自分のものにしておきたいものだったのではないだろうか。
「あの女との再婚だって、オレたちの取り分を減らすためだったんだ」
「真珠さんは知らなかっただろうけど、あの人はそのために選ばれただけ」
「孫の治療費を拒否したあいつはその後何を買ったと思う。2000万の原石だよ!」
「この世にふたつとない貴重なものだって自慢してた。それは孫の方でしょ!?」
琥珀さんと瑠璃さんの叫びは至極真っ当なものに聞こえる。なので牧は口を挟んでみることにした。
「……だから玻璃さんを計画から外したんですね。彼に後を任せられるように」
今後こそ全員が、玻璃さんも含めた4人が顔を上げて目を見開いた。
「オレが後を、って、どういう、意味」
「皆さんの様子を見るに、実行犯は琥珀さんと瑠璃さんですね。翡翠さんは計画を知っていただけ」
「……そうです」
「お子さんのために翡翠さんは手を貸してはならないし、そのサポートのために玻璃さんは外された」
牧はタブレットを立ててため息を付く。
「少し、調べました。例え琥珀さんと瑠璃さんが逮捕されても、その計画を知らなかった玻璃さんが罪に問われることはありませんし、金剛さんの遺産は受け継ぐことが出来ます。一番若いので甥っ子さん姪っ子さんの保護者としても最適ですよね。万が一琥珀さんと瑠璃さんが逮捕されても子供たちに影響はない」
するとまた琥珀さんと瑠璃さんの眉が釣り上がり始めた。
「そうよ! うまくいったの! それをあなたが今ブチ壊そうとしてるの!」
「そうでしょうか。僕には余計な犠牲者を出し、絹田さんが無駄に死んでしまっただけのように思えます」
「絹田さんはこんなこと望んでないんだよ! 身を挺してオレたちを守ったのに!」
「違います。絹田さんはあなた達や子供たちのためではなく、珠子さんへの愛情から手段を間違えただけです」
「そんな失礼な言い方ある!?」
「村長や観光課の課長さんを巻き添えにしたあなた達が言えたことですか!」
「だったら幼い子供が死ねばよかったっていうわけ!?」
「そういうことではありません! 僕は――」
また言い合いのようになってきたところに、先程会議室から出ていった敬さんが戻ってきた。封筒やクリアファイルを持ち、出ていったときと同じようにスタスタと会議室に入ってくると、それらをバサリとテーブルに投げ出した。封筒には夏川グループのエンブレムが印刷されている。
「末っ子だけ計画から外されてるって話だったな。じゃあ金剛氏の遺産は誰かが相続するんだな?」
「えっ、ええ、まあ、そういうことになるかと……」
「だけど金剛氏の資産は莫大で、ある程度現金化して相続税を払ってからようやく手元に来る、違うか?」
「たぶん、はい」
高校を出たばかりの牧と違い、お仕事モードの敬さんである。突然戻ってきた珍しく高圧的な態度の敬さんには、さしもの琥珀さんも勢いを削がれたらしい。すると敬さんは封筒だけを取り上げ、パン、と手で叩いた。
「そんなもの詫びの印に全部村にくれてやれ。病気の子供はオレが助ける」
敬さんの気紛れをよく知ると牧ですら「え!?」と大きな声を上げた。敬さんには「経済的な事情で助からなかった命」というトラウマがあるし、そこから来る性分だということは分かるが、そういうことを言い出すとキリがないのでは……と思ったからだ。
「で、でも、あなたは……」
「ここの会社の代表。見て分かる通り金には困ってない。翡翠さん、あとで連絡先を」
「いえ、ですから、なんでそんな、あなたとはほとんど初対面で」
戸惑う翡翠さんだったが、敬さんは表情ひとつ変えずにまた封筒を置いた。
「絹田さんはやり方を間違えた。オレは間違えない。だからあんたらはちゃんと警察に行け」
牧はさきほど敬さんのオフィスで見た古い写真を思い出していた。
敬さんの父親も確か、金剛さんみたいな人だったはずだ。夏川家は特権階級で、世の中は変わらない、変えてはいけないと思って生きてきた一族だったはずだ。見ず知らずの他人の子供の医療費を助けてやるなんてこと、嫌がる人の方が多いんじゃないか。あの写真の中の人々は怒っているかもしれない。敬さんに呆れ、夏川家は終わりだと嘆いてるかも。跡継ぎがいないから、実際終わるしな。
まあでも、オレはそういう敬さんが好きだから、いいけど。
急転直下で重病を患う子供への不安がなくなってしまった琥珀さんと瑠璃さんは一気に鎮火し、元の雰囲気に戻った。玻璃さんだけはまだ気持ちの整理がつかないらしく、ひとりでぼんやりしていたが、携帯を操作して何やら動画を眺めていた。甥っ子姪っ子のものだったらしい。
鎮火はしたものの、琥珀さんは今度は一気に老け込んだような、疲れて青白い顔になっていた。
「母は、東京駅の近くの喫茶店で働くウェイトレスでした。そこをよく利用していた父が、母の名前を見て気に入り、半ば騙して結婚しました。母は僕を産んだあとに父の正体に気付き、離婚を望んだそうなんですが、叶わなかった。でも母はそんなことにめげる人ではなかったんです」
珠子さんは生来曲がったことが嫌いで、卑怯な振る舞いもよしとせず、子供たちには助け合うことを教え込み、金剛氏に抑圧されればされるほど、それを跳ね除けて誰かの力になることを望んで生きていたという。しかし結果的にそのストレスから離れられない生活環境が彼女の体を蝕み、亡くなってしまった。
「絹田さんが母を慕っていたのは知っています。まるで神様か何かのように思ってた。だからあの夜、君たちがダイニングに来る前、見張りの隙をついて『私がなんとかするから、あなたたちは何もしてはいけない』ときつく言われました。何をするつもりなのか、わかりませんでした。『これは全て珠子さんのためだから』と言われると、それ以上何も聞けなかった」
絹田さん自身、あの「薬を入れ替える」方法を思いつくのはごく身近な人間でしかありえないことから、四きょうだいを疑ったのかもしれない。それでなくとも金剛氏の死により再婚もご破算となり、珠子さんの子供たちが金剛氏から完全に解放されることを助けるのは、自分の全てをかけた使命と考えた可能性はある。
牧が想像した通り、琥珀さんと瑠璃さんは婚約パーティーの前に何度か旅行客を装って紫黄村を訪れ、屋敷への侵入経路を確保し、事件当日の2週間ほど前に薬を入れ替えた。その中身であるサプリや整腸剤など、元の薬に似た錠剤を用意したのは翡翠さんだったらしい。
「でも、最初に父親を殺そうって言い出したのは私。翡翠は反対したけど、怒りっぽいの、昔から」
「でも実際に薬を入れ替えたのは僕です。瑠璃は薬を元に戻す担当だった」
「しかもあんなパーティー、急に呼び出されたときはどうしようかと思った」
「既に2週間くらい薬を飲んでいない状態なのは変えようがなかったし」
「絹田さんしかいない時にひとりで発作起こして死んでくれればよかったんだけどね」
「床の間に真剣が置いてあるなんてことも、知らなかったから」
それでも薬の入れ戻しが間に合わなければ絹田さんは疑われたかもしれないが、思い余った行動に出ることはなかったかもしれない。なにしろあのパーティーで発作が起こり、巻き添えを出したことが再度歯車を狂わせた。
「でも神社のあいつはちょっと惜しかったかな。私、昔襲われかけたことがあるから」
「昔だったら村長より上座に座ってたはずだ。そしたら死んでたのにな」
「……皆さん、倫理観が崩壊してるみたいですね」
「そうだろうね。姪っ子甥っ子可愛さに父親を殺したんだから」
「母親を使い捨てにされて亡くした時から、そんなもの壊れたままだもん」
牧がちらりと目をやると、玻璃さんは小さく首を振っていた。同意できないらしい。
「……治療費のためだけでは、ないんですね?」
「それはそう。私たちは何ひとつ自由がなかった。役に立たない置物みたいな存在だった」
「僕たちと父親はお互いそう思ってたんですよ。血が繋がっていれば愛情家族、なんて幻想でしょ」
「……琥珀さん、父親が亡くなったのに、涙が出てこない、って」
ついそう呟いたに、琥珀さんはいびつな笑顔を返した。
「父親が死んで涙が出てくるような人間に、家に、人生に生まれたかったよ。将来の夢を描き、そのために努力をして、社会で生きる。そういう人間であれば、僕はあの夜、泣き続けていたと思う。母の意思を継いで妹たちを守り、その子供たちも守り、そのためだけに生きてきた僕の人生の中身は空っぽ。血の繋がった家族の死とか、恩人のために命を捨てた人の死とか、そういうものに涙を流せるような心は持ってないんだよ」
瑠璃さんはその言葉を引き継ぐようにして、大きく息を吐きながら「疲れた〜」と言った。
「さっきの大石さん、もし私たちだって気付かれたら殺そうと思ってたし、もし発作が起こらないまま結婚しちゃったら真珠さんも片付ける気でいたんだけど、人ひとり殺すだけでこんなに疲れるのね〜」
自分の肩を揉みながら平然とそんなことを言う瑠璃さんに牧は少し胸が痛んだ。志緒さんも青井さんも犯行に及んだことを後悔しておらず、やはり平然としていた。けれど、彼女らの平然と瑠璃さん琥珀さんの平然は違うような気がした。瑠璃さんと琥珀さんはそういう感覚が麻痺しているように見える。
琥珀さんが言うように、他者への思いやりや生命の尊厳を重んじる心を持っていない、そんな感じだ。
だが、絹田さんが命を捧げた珠子さんは子供たちをそんな人間に育てる人物とは思えなかった。
だとしたら、ふたりから心を奪ってしまったのは、なんだったのだろう。
4人は一旦帰宅して身辺整理が出来るように準備をしたのち、琥珀さんと瑠璃さんだけで近くの警察署に行って事情を話すと言う。この2年ばかり、子供の治療のことで精一杯だった4人は、ほとんど一緒に暮らしていたらしい。瑠璃さんは部屋を引き払って同居、琥珀さんは近くのアパートに暮らし、玻璃さんだけが少し離れた通勤に便利な場所に住んでいるという。
敬さんと翡翠さん玻璃さんが連絡先を交換し、簡単に病状や治療の説明をしているので、牧は立ち上がって琥珀さんに近付いていった。もう二度と会うこともあるまい、勘違いでも思い込みでもいいから、気になっていたことを聞こうと思った。
「あの、ひとつ聞いていいですか」
「まだ何かあるの」
「紫黄村でオレが敬さんに呼ばれた時、背中に憎悪の籠もった視線を感じたんですが、気のせいでしょうか」
真顔で遠慮なく言う牧に、琥珀さんはフッと鼻から息を吐いて笑った。
「気のせいじゃないと思うよ」
「どういう意味だったんでしょう。ろくに話もしてないと思うんですが」
「君は強いなあ。競技の世界で生きるだけのことはある」
琥珀さんはちらりと視線を外しての方を見ると、表情を歪め、低い声を出した。
「憎悪はちょっと違うかな。嫉妬だよ。親父を始末して、やっと解放される! と思ったら、あいつに支配され抑圧されてきた時間の中にあったかもしれないものへの渇望が異常な強さで襲ってきたんだ。平穏な子供時代、帰りたいと思う故郷、青春、恋愛、自分で選んだ仕事、結婚や家族を持つこと、旅行や趣味の楽しみ、オレには何ひとつないものだから」
そしてその殆どは、もう二度と手に入らないものだ。牧の胸がギュッと軋む。
「君とちゃんを見ていると、その思いはどんどん強くなっていくんだ。しかもちゃんは優しくて強くて、そして可愛い。あんな子と恋愛がしたかった、結婚して家庭を持ちたかった、親父をやっと消したのにそれは叶わない。だけど君にはその可能性がほとんど約束されてる。死ぬほど羨ましいよ」
琥珀さんは牧の鎖骨のあたりに手をかざし、触れそうで触れない距離に置いた。
「君が聞きたいと言うから言うけど、あの事件の夜、オレはちゃんに恋をしていた。中学生の遊びみたいな恋、高校生の自分勝手な恋、学生の欲に任せた恋、20代の面倒くさい恋、30代の打算的な恋、それを全部あの夜のうちに感じてた。優しいちゃんは父親を失っても泣けないオレを憐れんで親切な言葉をかけてくれた。ああ、この子と恋愛をしたい、愛し合いたいと思ったよ」
恋愛というものにネガティブな言葉しか思い出せない琥珀さんの手のひらの熱を感じながら、牧はしかし、その告白に嫉妬や不快感は感じなかった。なぜなら、
「……でも、琥珀さんとでは、はそんな恋愛は出来ない」
「そう。そうなんだよ。君だからちゃんはああいう女の子でいられるんだよ」
「オレも、だからこういうオレなんです」
「そうだろうね。だから君の背中に憎悪にも似た嫉妬の視線を向けるしか、なかっただけ」
例えを手に入れても、そこには理想通りにいかない苦痛の恋しかなかったであろうことは、琥珀さんもわかっていたらしい。琥珀さんは手を引っ込めると、自分の胸に当てた。まるで牧の中から何かを抜き取って、自分の中に込めるようにして。
「ないものねだりだよ。僕の人生の中にひとつもないものを、君がすべて持っているから」
琥珀さんは不愉快そうな顔を隠しもしなかった。死ぬほど羨ましいあまり歪む表情をそのまま牧にぶつけた。
だが牧は松波さんの言葉と、弟に冷徹だった墨田さんの兄を思い出しながら、それを記憶の奥底にとどめておきたいと思った。これは人生も心の中も空っぽの琥珀さんに残された、最後の人間らしい感情だったのだ。人を羨み、自分にないものを求める渇きに歪む、誰もがどこかに持っている、自分自身。
それはおそらく自分の中にも潜んでいる眠れる悪魔だ。
敬さんたちが連絡先を交換し終わったようなので、4人は会議室を出ていく。最後に出ていく玻璃さんは振り返って深々と頭を下げ、言った。
「逃亡や自殺は、させませんので。お約束します。今後のことは、また改めて」
それを見送った3人はドアを閉め、しばしの沈黙ののち、ため息とともに肩を落とした。
「敬さん、別に文句じゃないんですけど、いいんですか、治療費のこと」
「いいんだよ。犠牲になった方には本当に申し訳ないけど、これはオレの運命だったらしいんだよ」
「えっ? 運命……」
敬さんはテーブルの上の封筒を取り上げ、中身を出す。いくつかの写真がクリップ止めされた書類だった。
「珠子さん、あの人は、スヱ子さんの娘だったんだ」