紫黄村の殺人

Chapter 2 : 紫黄村の殺人 8

炊き出しで少し温まったと牧は早速コテージにメイさんを運び、荷物を回収するためにまた屋敷に戻った。すると玄関先でやはり両手に荷物を下げた玻璃さんと行き会った。

村の女子高生3人組が言うように、玻璃さんは見るからに「かっこいいお兄さん」といった雰囲気で、すらりとしていながら肩幅は広く、身長も高め。しかしそれにときめきなど微塵も感じなかったは自分で自分が可笑しくなって、顔を背け唇を歪めた。友達の顔が浮かんでは消えていく。あいつらがいたらみんな玻璃さんにメロメロになってる気がする。

その隣の真逆な愛しの彼氏はの様子には気付かず、玻璃さんに声をかけた。

「これから帰るんですか?」
「いや、屋敷中調べるらしいので、僕たちもコテージをお借りすることになったんです」
「翡翠さんの具合は……
「だいぶ持ち直したみたい。姉より秋名さんの方が心配ですよ。どうですか」
「インフルエンザは陰性だったので、様子見です。迎えが来るそうなので、それまでオレたちが見てます」

玻璃さんはきらめくような笑顔でにっこりと頷き、荷物を抱え直した。

「それなら安心。コテージは隣なので、もし助けが必要なときは呼んでくださいね」
「はい、ありがとうございます」

玻璃さんと別れ、屋敷の中に戻ったはふと思い立って呟いた。

……たまにいるよね、私たちなんてまだ子供みたいな年代なのに、ちゃんと敬語で話してくれる人って」
「そういえばそうだな。必ずとは言えないけど、まともな人の確率が高い気がする」
「墨田さんなんか何回言っても敬語やめてくれなかったしね」
「敬語でしか話さないけど全然まともじゃない菊島さんみたいな人もいるけどな」

ふたりはメイさんの分の荷物も分担して抱えると、久しぶりに声を出して笑った。

「でもよかったね紳一、今回は探偵やらずに済んで」
「事件そのものはつらいけど、そこは正直ホッとしてるよ」
「ね、コテージ帰ったら敬さんに電話してみない?」
「いいよ、賭けようか。絶対第一声は『ほら見ろ紳一が疫病神だったじゃないか』だと思う」
「いやそれ賭けにならないよ」
「わかんないぞ。案外最初は心配して優しいことを言ってくれるかもしれない」
「それさっき言ってたから、もう言わない気がする」

回廊ストリートのカーブを歩きながら、またふたりは声を上げて笑う。もうもうと白い息が立ち上っては背後に流れて消えていく。気付けば日付は変わっていて、凄惨な事件からも12時間が経過しようとしていた。まるで何日も前の出来事のように感じる。

部活で高校生活の殆どを使い切ってしまったふたりの場合、こうして深夜を一緒にすごす機会はそれほど多くなかった。ほとんどが敬さんやメイさんたちと一緒で、「保護者代理が付き添う夜遊び」だった。しかし今はどうしてか、大人として深夜の街を歩いているような気がした。

それは少し気持ちよくて、くすぐったくて、夜が終わらなければいいのにと思う。この暗闇に取り囲まれた夜の間なら、ずっとそんな大人でいられる気がした。「成長」は止まり、いよいよ何の変化も訪れない完成した人間のスタート。自分自身は今始まる。そんな気持ちの高揚に頬だけは少し赤らんでいた。

解熱剤を飲んでぐっすり眠ったメイさんは明け方に目覚め、傍らで眠っていたを起こさないようにトイレに立とうとして空のペットボトルを蹴飛ばし、その音でと牧は目が覚めた。

「ごめぇん……
「熱、下がってますね。紳一、大丈夫みたい。メイさん、お腹へってる?」
「今はあんまり……私朝はエンジンかかるの遅いのよ」

牧はコテージのミニキッチンで焙じ茶を淹れ、トレイに乗せて戻ってきた。明け方とは言うものの、まだ3月の夜明けは遅く、早朝というほどでもない時間。薄日の差し込むコテージは明るく、焙じ茶のまろやかな香りが3人の間に漂う。

「ごめんねえ、カップルの邪魔しちゃって……
「そんなこと気にしなくていいですって。メイさんが寝たあと、一緒に風呂入りましたから」
「紳一、そんなこと言わなくていいから」
「うふふ、白蝋館で出会ったばかりの頃は『私たち付き合ってません』て頑なだったのにねえ」

思い返せば、白蝋館で最初に親しくなったのはメイさんだった。白蝋館にはおよそ不似合いなジャージの二人組にも嫌な顔をすることなく、親切にしてくれた。と牧はそれも一緒に思い出して少し笑った。

確かにと牧の日常に深く食い込んでいるのは敬さんの方だ。だが、「友達」という視点で見ると、それに一番相応しいのはメイさんのような気がした。

例えばの場合、白蝋館で牧以外に「共に困難を乗り切った」と感じているのは国竹さんだったし、青糸島においての牧の場合、それは墨田さんだった。

けれどメイさんはいつでも「友達」だったような気がした。

……メイさんてさ、他人に無関心なようで、本当はものすごく人の幸せを願ってますよね」

が言うなり、焙じ茶を飲もうとしていたメイさんの手が止まる。

「そんなこと、ないわよ」
「それに照れ屋で、繊細で、傷付きやすくて、人の笑ってる顔が好きだから楽しいことが大好き」
「ちょっとやめてよ。ねえ紳一くん、あんたの彼女止めてくんない」
「恥ずかしがってるメイさんとかレアなのでそれは出来ないですね」
「あんたたちなんなのよ、もう!」

友達なので、凄惨な事件に心を痛めるあまり熱を出したあなたを放っておけないだけ。それは言わなかったふたりだったが、それからしばらくはまるで事件なんかなかったかのように下らない雑談をし続けた。が、やっぱり10代の腹はそんなことを許さないのである。

今日一日の食事についてを何も聞いていなかったので、牧がひとっ走り外の様子を見てくると言ってコテージを出ていった。昨夜の様子では、警察は全て引き上げた……なんてこともないだろうし、ビジターセンターが開いていれば「四季の詩」の営業状況を聞いて朝食を頼みたかったし、それが無理なら他の手段を教えてほしい。

だが、メイさんはひとまずベッドに監禁である。牧が診療所も見てくると言っていたので、もし先生がいるようなら様子を報告してアドバイスを貰いたかった。

「まったく、白蝋館のときは大人の間でオロオロしてるしかなかったあんたたちに助けられるとはね」
「私たちみたいなのって、大人でも子供でもない、ってやつなんでしょうね」
「私はその辺の大人みたいにそれに郷愁を感じたり神聖視したりしないわよ。それはそれで嫌な時期よ」
「メイさんとか敬さんはそういうタイプだって、知ってる」

だから友達でいられるとも言う。敬さんの場合は親戚じみてきたので感覚はまた異なるが、メイさんには高圧的な態度も嫌味な自虐もないので、たちにとっても年齢や立場を気にせず親しく出来る気楽さがある。

「昨日までは大人ぶってあんたたちの保護者代理だなんて言ってたけど、もうそんなのいらないわよね」
「そんなこともないですよ。月末に引っ越し予定だけど、全然不安あります」
「そりゃ生活環境が変わるのは不安もあるでしょうよ。でももう自分で試行錯誤出来るじゃない」
「そうかな……
「それすら導いてもらわなきゃわからない、そういうのを子供っていうのよ」

メイさんの言わんとしていることは分かる気はするが、どうしても「失敗しない正解」を求めてしまう。そんなもの、きっと存在しないってどこかでわかっているのに、それさえ掴めばなんでも上手くいくような気がしてしまう。高校の3年間を競技に捧げてきた経験からも、そんなものは幻想だと知っているのに。

……4年間、喧嘩しないようにね」
……そこなんですよね」

牧がいないのではつい本音とともに足を崩して肩を落とした。お互い微かな恋心を抱き始めてからは2年半、付き合い始めてからは1年が過ぎている。その間、深刻な諍いは起こさなかった。だがそれは、お互いそれぞれの実家に暮らしていて、日常の殆どの時間が学校と部活だったからかもしれない。目指す目標も同じ、そのための心構えも同じ。

「でも、今度は家が同じだし、私はバスケットから離れてしまうし」
「彼氏彼女という意味では関係は変わらないけど、その他の点で何もかもが変わるものね」
「昨日も言われたんです。紳一がメイさんを抱っこしてて嫉妬しないのかって」
「しないわよねえ」
「しないです。大事に運んであげてねって思います」
「てか誰よ、そんな野暮なこと言ったの」
「琥珀さん」
「あら、そう」

メイさんはちょっと意外だったらしい。少しの間目を丸くしていた。

「でも、一般的には嫉妬するものなのかも、とは思うんです」
「変な話よね。30過ぎたら女じゃないって扱いのくせに、自分の男が近付くといきなり女にされるのよ」
「でも嫉妬しないのはメイさんだからかもしれないし」
「でもどうせなら老若男女に好かれる人気のアスリートになってほしいわよね」
「そこなんですよ……

この矛盾した気持ちとそれを処理しきれないもどかしさ、もやもやと心にまとわりつく不快感。そんな感じをつい昨日まで持て余していたな……と思い出したはふと顔を上げて聞いてみることにした。集団嫌いのメイさんだけど、それはそれ、人生の大先輩ではあるので。その琥珀さんなんですけど……

だがメイさんはの話を聞いている途中から俯き始め、頷いてはくれるものの、返事もしなくなってしまった。そんな様子のメイさんには、琥珀さんに感じていたような冷や汗を伴う恐怖を感じた。

「メイさん……?」
「私の解釈を、言っていいのかしら。後悔しない?」

メイさんは優しげな表情をしていた。けれどその眼差しは自分よりはるかに年長の経験豊富な大人のもので、は初めてメイさんという大人に対する畏怖を感じた。それは普段のお仕事モードの敬さんを初めて見たときの印象に似ていた。この人、やっぱり気軽なお友達なんかでいていい人ではないのかもしれない。

けれど、聞きたくないことに耳を塞いで忘れてしまおう、なんていうことは、マネージャーといえど海南大附属高校バスケットボール部の一員として他人が許しても自分では絶対に許せないことであった。それは目の前にそびえる超えるべき壁を前にして恐れをなし、挑戦を放棄する「逃げ」だから。

は息を吸い込んで頷いた。

「あなた、琥珀さんに惹かれてるのね」

朝の紫黄村は静かで、昇り始めた太陽の明かりが降り注ぐコテージにメイさんのため息が吸い込まれていく。

一瞬メイさんの言葉の意味がわからなかっただったが、一呼吸置くと、焙じ茶のカップを持つ手が震え始めた。すっかり冷めてしまって底の方に残るだけになった焙じ茶が揺れ、さざ波を立てる。

「自覚はなかったわよね。不快な感覚だったんだし」
……いえ、メイさん、私、紳一が、好きなんです、けど」
「一度にひとりしか好きになれない人なんて、実は稀なのよ」
「でも、好きって気持ちは、紳一にしか、感じてない」
「好きって感覚もひとつじゃないもの。それに、紳一くんに飽きたわけじゃないのよ。同時進行」
……やだ」
「これは浮気とか、不道徳で倫理観の崩壊とか、感じるわよね。それが一応良識ってものだし」
……やだ、メイさん、私、そんなのやだ」
「それも別に間違ってないわよ。初めてのことだから戸惑うだろうけど、人間には起こることなのよ」
「嫌だ!」

震える手でカップを床に置いたは、そのまま体を2つに折り曲げて蹲った。理解できないし、したくもないし、信じられないし、信じたくないし、琥珀さんに感じていた全ての不快な感情が一気に押し寄せて、涙となって目から溢れ出た。

だというのに、メイさんに向かって「それは違う、勝手なことを言うな」と反論出来なかった。

「しかもその様子だと琥珀さんの方もあなたに惹かれてるみたいね。まあ、有り体に言えばアラフォーの男が10代の子にそんな感情向けてるなんて犯罪だ! ってなるところだけど、面倒くさいわよね人間て。性欲関係なく心から惹かれるってことがあるんだもの」

の目からは濁々と涙が流れ出る。自分で自分の心を汚してしまったような、自分の中に大事に持っていた誇りを自分で投げ捨ててしまったような気がする。

「確かに琥珀さんはちょっと影があって不幸そうな感じだし、実際にあんな形で父親を亡くすという悲劇に見舞われているわけだし、色白で線が細くてスマートで、紳一くんとは真逆。スポーツの世界で生きてきたあなたには、初めて接するタイプだったでしょうしね。その上あなたは3年間も『誰かをサポートする』という日々を送って、将来もそういう方向を目指してる。父親の死を目の前にして泣けなかった琥珀さんへの哀れみが少し、軌道を反れてしまったんじゃないかしら。この人を助けられるのは私しかいない、なんて、ダメな男ばかり好きになっちゃう女の典型よ」

これが自分のことでないなら、メイさんの言うことはよくわかる。「あいつチョロいよな、ちょっと頼るとすぐ調子に乗って何でも言うこと聞く」と言っていた後輩の彼女がまさにそのタイプだった。だけどそれとは違う、私は違う、そう思いたくても、琥珀さんを助けたいという気持ちを拒絶できなかった。

ちゃん、人の心は白か黒かだけでははかりきれないのよ。あなたが嫌でもあなたの脳は勝手にそういうことをする。これからあなたたちが生きていく社会ってものには、そういうトラップがいくつも潜んでるの。琥珀さんだからまだいいわよ。これが同じ職場の人だったら大変よ。その時に紳一くんと喧嘩でもしてご覧なさい。一番大事にしてる心の拠り所と拗れたとき、人の心に空く穴は想像以上に大きいのよ」

きっとメイさんはそんな人を何人も何人も何人も見てきたのだろう。彼女の脳裏に長い年月の間に通り過ぎていった人達の横顔が浮かんでは消え、に残酷な現実を突きつける。

「メイ、さん、私、どうしたら、いいの」
……私きっと敬に怒られるわね。絶交されるかも」
「ねえ、メイさん、教えて、おねがい」

重すぎる頭を無理矢理持ち上げたの頬に、メイさんの手のひらが触れる。

「どうすればいいか、じゃないのよ。どうしたいか、なの」

意味がわからない。は重い頭に軋む首を傾げた。

「誰だってアラフォーの男なんか忘れて紳一くんを大事にしなさいって言うわよ。心を律してよそ見はせず、紳一くんていう逸材を支える女になれって言うわ。紳一くんのパートナーでいられることを感謝して、謙虚に生きろって。倫理的には正しいのかもしれないけど、それは正解じゃないのよ。正解なんてものがあるとしたら、それはあなたが、ちゃんがどんな選択をするかってことなのよ。あなたの人生なんだもの、大事なことよ」

しかしそれは「どうしたらいいのか」に対する解ではないように聞こえて、はさらに首を傾げる。

「私の、選択は、紳一、だけ」
「だったらそれでいいじゃない。あなたの心が嘘をついていないなら、それでいいの」
「他の人なんか好きになりたくない、紳一を裏切るなんて嫌だ」
……ちゃん、それは選択であって、人を想う気持ちではないってこと、覚えておきなさいね」

がのろのろと体を起こすと、メイさんも少し涙ぐんでいた。

「あなたが琥珀さんに対して気持ちを傾けてしまったことは、やりたくてやったことじゃない。脳が勝手に感じてしまったこと。それをあなたが拒絶するなら、努めてこの紫黄村のことを忘れ、紳一くんとの生活を守ればいい。だけど脳はまた勝手に誰かを助けてあげたいと思うかもしれないから、自分の脳はそういうことをする厄介なやつなんだと自覚して、それには振り回されないぞって、腹をくくるくらいしか出来ない。それもひとつの生きる試練てやつかしらね。大人になると基本何でも自由になるから、色んなものからの誘惑は尽きないわよ。そういうものとの戦いでもあると思うわ、人が生きるって」

鼻を啜り、冷えた焙じ茶を勢いよく流し込み、座り直したはぐいっと目を擦る。

……メイさんがいてくれてよかった。私ひとりじゃ処理しきれなかった。今もし琥珀さんを前にして、助けてあげるって手を挙げた人が私以外にもいて、琥珀さんが私以外の人を選んだら、腹が立ったんじゃないかって、思いました。メイさんの言う『惹かれてる』っていうの、それだと思います。好きになりかけてる。この気持ちの正体を知らないまま琥珀さんと一緒にいて、琥珀さんに選んでほしい、頼られたいって思い続けていたら、完全に好きになってしまって、取り返しがつかないことになってたかもしれない」

ときめいて胸が疼いて心が暖かくなって幸せを感じるだけが愛ではない。醜く身勝手で怒りと恐怖が渦巻く愛もある。それは人間である以上、いつ襲いかかってくるかわからない感情でもある。だからこそ、メイさんは「どうしたいか」であると突き放したのかもしれない。は深呼吸をして背筋を伸ばす。

「私は間に合ったと思う。こんなふうに自分で抑えられない感情があるってこと、それに理由なんかないってこと、それを今知ることが出来たのは、運が良かった。紳一と手を繋ぎながら取り返しのつかないスイッチを入れてしまうところだったのかもしれないけど、その前に、覚悟、出来たと思う」

それを好機と受け取るか、不運と受け取るか、それにより未来は変わる。

「メイさん、私、どうしても紳一と一緒にいたい。どうしてもダメってなってしまうまで、紳一と一緒にいるための努力、していきたい。紳一が、あの人が、大好きなの。好きで好きで、どうしてもあの人がいい。知り合ってもう3年が経つけど、その気持ち、変わらないの」

の頬にまた、涙が伝う。

「私は、紳一を、愛してる。それが私の選択」