回廊ストリートをあちこち回って帰ってきたらが目を赤くしていたので、牧は驚いたものの、本人が「メイさんとエモい話をしちゃって、なんか胸が一杯になっちゃって」と言うと、それを疑う様子もなく、バスルームに引き入れて抱き締め、頭を撫でた。
そこでが感じたのは、心が楽になって暖かくなる幸せだった。そういう幸せをくれる牧を改めて愛しいと思い、また胸が詰まった。それに比べると、琥珀さんに選ばれたいと思うことはいつか自分を追い詰めて破滅に追いやる選択のように思えた。
「紳一、キス、して」
「いいよ、おいで」
眉を下げてそうねだったを引き寄せると、牧は優しく唇を重ね、髪を指で梳いた。
「私、昨日まではこんな旅行来なきゃよかったって、ちょっと思ってた」
「また事件だったしな……」
「でも、紳一のこともっと好きになれた気がするから、やっぱり来てよかった」
少し照れくさそうな顔で微笑む牧の頬に触れ、は心を決めた。
「紳一、私も愛してる。ずっとずっと、大好きだからね」
その日1日は「熱は下がったんだから薬もいらないし酒は解禁」というメイさんと「熱が出るほど心と体がショックを受けたんだから禁酒」というと牧の攻防に終止し、食事も運んでもらうことが出来たので、ずっとコテージで過ごした。「四季の詩」のスタッフさんいわく、敬さんが「一週間貸し切りにできるくらいの料金をぶん投げてきた」のだそうで、欲しいものがあったら何度でも呼んでくれ、とにこにこしていた。
屋敷だけでなく村中に警察官が溢れ、事件についての証拠となるものの捜索は依然続いており、しかし3人のコテージに警察関係者は誰も訪ねて来ず、進展はないらしかった。
コテージを訪ねてきたのは初日に水晶の社へ案内してくれた式村さん、診療所の先生、それから玻璃さんだった。しかしそれらも全員、様子を見に来ただけで、何か新しい情報などはなかった。
なので敬さんのご厚意を存分に利用して紫黄村グルメを堪能し、温泉に浸かり、3人はまた下らないことで喋り倒してから、ぐっすりと眠った。
そして翌日、まだメイさんがピーピー寝息を立てながら眠っていた朝7時、敬さんから「もうすぐ着く」と連絡が入ったので、メイさんを守らねばと緊張続きだったと牧は村の駐車場まで迎えに行った。敬さん! 敬さんが来ればもう大丈夫!
「いや、頼りになるけど夏川敬……」
「寝て帰れる車とは言ってたけどさ……」
敬さんの愛車である超高級外国車が引き連れてきたのは2台のメタリックでゴージャスなキャンピングカー。後部座席を倒せば横になれる程度の車を想像していたふたりは真顔。しかも2台ということは、牧用とメイさん用に分かれているに違いない。自宅前まであれで帰るの……? メイさんもうすっかり元気だけど……
「ー! 紳一ー!」
「おはよう敬さん、すごいので来たんですね……」
「あ、また敬のやつテンション上がっちゃってんのかよと思ったんだろ」
「まあそれは否定しません」
「たまたま、たまたまキャンピングカーに詳しい人と一緒だったんだよ」
「別に責めてないじゃないですか。ただちょっと家から離れたところで降ろしてほしいなと」
「うわーすっげー! とか思わないの、君ら。オレの車ポルシェだよ? パナメーラだよ?」
「うわあ……とは思いました」
「心細くて寒くて震えてるだろうから早く助けに行かないと、と思って早起きしてきたのに」
「それは感謝してますって」
それはごく日常で繰り返されているようなやりとりで、一気に気が緩む。キャンピングカーには「うわあ」と思ったが、非日常の中に大量の日常が流れ込んできたようで、紫黄村という異世界に迷い込んでいたような、落ち着かない不安定さがかき消えていく。
だが、敬さん本人も一緒にやって来たのにはたちを迎えに来るだけが目的ではなかった。新年度を控えて多忙なシキちゃんこと式村志津夫さんから見舞いを預かってきただとか、もしこの事件で観光事業に影響が出るなら相談に乗ると直接言いたかったとか、まあそんなわけで、役場に消えてしまった敬さんを待っていたので、結局紫黄村を出発できることになったのは午後になってからだった。
なのでようやく警察が引き上げ始めるのと重なり、村の入口と駐車場は人でごった返していた。
「観光課の課長、亡くなられたんじゃなかったんですか」
「村長も亡くなっちゃったからな。役場も可哀想だったよ。怖いのと悲しいのと忙しいのとで」
「日本刀は美術品だと言うんですけど、それ自体は人を殺すための道具ですからね。怖かったですよ」
急ぐ帰り路でなし、警察が引き上げてから出発することにしたので、牧と敬さんはコーヒーを片手に紫と黄色の花が交互に植えられている花壇の縁に腰掛けていた。牧たちの想像通り、東京に帰るメイさんと神奈川に帰る牧のために2台のキャンピングカーを引き連れてきたのだが、式村本家四きょうだいも今日のうちに東京に帰るというので、1台を明け渡すことになった。
「……課長代理と話してきたんだけど、どうもこの『紫黄村』、金剛氏が思うほどには流行ってないらしい」
「あまり収益が出てないということですか?」
「君らから見てどう? バイトでお金を貯めて旅行に来たいって思うか?」
「ええとその……あんまり……食事は美味しかったんですけど」
「まあそういうことだよ。ひどい赤字ってわけでもないそうだけど、大繁盛で大儲けには至ってない」
だが金剛氏はひたすらその「大繁盛で大儲け」を望み、元々自分が手広くやっている事業で得た金がどんどん紫黄村に流れていくことに不満を持っていたらしい。そして「紫黄村事業」が大繁盛で大儲けにならないのは村長と観光課課長の責任だと考えていた節がある……と課長代理は泣きそうな顔をして話していたそうだ。
「だからあの時、錯乱してふたりを斬りつけたんですね」
「あとは神社の人な。ご祈祷をしょっちゅうやってたらしい」
「ご利益がないと不満に思っていたってことですか。山吹さんたちといい、みんな自分が被害者なんですね」
「金剛氏の死に関しては謎が残るけど、二次被害の方はそんなところのようだね」
金剛氏の場合は、薬のすり替えに気付かなかっただとか、そもそもそんな管理をしていなければすり替えは起こらなかったとか、事件を回避できたポイントはある。だが亡くなった村長と観光課課長は今のところ全くの無実で非業の死を遂げることになってしまった。
「事件の関係者のこと、調べてるんでしたよね」
「君らに禍が及ばないように、準備だけはね」
「……いつもすいません」
「ふふん、やっぱりお前が疫病神だったな」
「言われると思ってましたよ」
だがそもそもは志津夫さんから敬さんへの「ご招待」だったはずなので、イーブンと言えるかもしれない。ダブルで疫病神とは被害者ヅラ代表の山吹さんの言葉だが、いつでも事件は牧が解決への糸口を掴み、敬さんがその事後処理を完璧にこなしてきた。疫病神かもしれないが、尻拭いは自分でやっている。
「……いいよ、何度でも巻き込まれてくれ。その度にオレが助ける」
「……もう嫌ですよ、これで最後にしてほしい」
ふたりが笑いながら眺めているのは、大石さんが台車で運んできた「紫黄村のおみやげ詰め合わせ段ボール」が重すぎると文句を言ってるメイさんと、それをキャンピングカーに運び込んでいるの姿だった。紫黄村観光課は金剛氏の圧力にもめげずに努力を重ねてきた課長の死に打ちのめされ、男女の別なく泣きっぱなしだそうだが、健気に働いている。牧は思う。こんなの見ちゃったら敬さん放置できないだろうなあ……
「あれ、段ボールの中身ってなんなの?」
「バッグでもらったときは食品でしたね。野菜とか、乳製品とか」
「全部地酒だったら文句言わねえんだろうな、あいつ」
「ショッピングセンターにいっぱいありましたよ、地酒」
「えっ、まじか。それはちょっと見てこようかな……」
というかどのみち帰りの車を敬さん自身が運転するわけでなし、この調子ではポルシェ・パナメーラを部下に任せて敬さんはキャンピングカーに乗り込んでくるものと思われる。なので地酒やおつまみなどを買ってくれば車内でちょっとした飲み会が出来る。
いそいそと地酒を見に行った敬さんの空の紙カップを預かった牧は立ち上がり、ゴミ捨て場を探してキョロキョロしていた。するとやっとメイさんから解放されたらしい大石さんが声をかけてきた。今日も寒いので、作業着ではなくベンチコートを着て鼻を赤くしている。
「あ、ゴミですか。お預かりしますよ」
「いいんですか、すみません、お願いします。てかすごい量ですね、おみやげ」
「秋名さんはお野菜いらないみたいだったんですが、さんが全部もらって帰ると」
「親たちが喜びます。ありがとうございます」
メイさんが野菜などもらって帰ったところで、国竹さんが困るだけだ。彼女らは今結婚へ向けてのあれこれで多忙を極めているので、のんびりメイさんのために手作り料理を作っている暇もないだろう。
「でもあんなに無料で配っちゃって大丈夫なんですか?」
「ええとその、今回の場合はさっきの夏川さんですか、コテージをしばらく借り上げると言って」
「金持ちってえげつないですね」
「あはは、ご当主様とは大違いですね」
「言っていいんですか、そんなこと」
「もういませんからね。屋敷は無人だし、お子さんたちも帰っちゃうみたいですし」
大石さんの声色には金剛氏が「自分たちの仲間である観光課課長を殺した犯人」である怨嗟がこもっているように聞こえた。大石さんととともにキャンピングカーの方を振り返ると、琥珀さんたちも荷物を運び込んでいるところだった。翡翠さんも回復したようで、携帯で話しながら絵画らしき包みを抱えている。
「血縁のある方が出ていかなきゃならないというのも、厄介ですね」
「紫黄村は今、スポンサーと代表と現場監督を失った状態なので、そうも言えなくなってくるかもしれません」
「……本家屋敷もこのままというわけにはいかないでしょうね」
「それも含めて夏川さんが相談に乗ってくださるそうなので」
そもそもあんな観光化した街のド真ん中に屋敷なんか建てるからだ、と思ったが、口にはしないでおく。しかし、金剛氏がいなければ「紫黄村」は生まれなかった。もどかしいところだ。
すると琥珀さんが駆け寄ってきた。彼も鼻が赤い。
「お話し中すいません、大石さん、ガムテープとか借りられませんか?」
「あっ、はい! 持ってきますのでお待ち下さい」
「すみません、お願いします」
「琥珀さん、翡翠さんの具合はどうですか」
「おかげさまで、だいぶ良くなったみたいです」
琥珀さんの肩越しに、雑多な荷を運び込んでいる玻璃さんが見える。
「すごい荷物ですね」
「……母のものを、持って帰ろうと思いまして」
「……そうですよね」
「あの家の中にあるものは、母のハンカチ1枚でも持ち出すなと言われていたので」
目を落とすと、琥珀さんの手の上には薄いピンクで花柄のハンカチが乗っていた。縁がヨレていて、珠子さんが愛用していたものなのかもしれない。琥珀さんはそのハンカチを両手で包み込み、大事に守るように胸元に引き寄せた。金剛氏にとってはそれすら「オレの金で買ったもの」だったのだろう。
「遺体が戻っても父の葬儀はせず、火葬するだけにしようと思ってます。村のお寺に墓地があって、巨大な本家の墓があるんですが、それも小さくして、他の式村と同じように、眠ってもらおうかと。村長や観光課の課長のご家族は私たちを責めませんでした。心苦しいですが、そのくらいしか出来ることがなくて」
一体この村の中の誰が金剛氏を止められただろう。彼の中で村長と課長らへの責任転嫁が膨れ上がり、被害感情を持ち始めていることなど、気付いていても誰が諌められただろう。村に暮らす人々は誰よりもそれが分かるので、村の習慣として都会へ出されてしまった子供たちを責める気になれなかったんだろう。
「でも今後の紫黄村については敬さんが相談に乗ってくれるそうですよ」
「はい、夏川さんに聞きました。A大の志津夫さんも助けてくださるそうなので、なんとかやってみます」
「跡継ぎ、なっちゃいましたね」
「あはは、なりたくなかったんですけどね」
牧のいたずらっぽい声に気が緩んだのか、琥珀さんは笑った。2日前には影を落としたようだった琥珀さんの笑顔だが、今はどうしてかまるでどこにでもいる普通の人の笑顔に見えた。そうしていると優しげな雰囲気の人好きのしそうな人物に見える。事件自体は悲劇だったけれど、四きょうだいはこれで解放されるのかもしれない。
そんなふうに和やかな空気になっていると、村の方から「紳一〜! 酒運ぶの手伝ってくれー!」という敬さんの声が聞こえてきて、またふたりは笑った。敬さん、持てないほど地酒を買ったらしい。
「おいしいですよね、地酒」
「琥珀さん、オレまだ飲めないんです」
「あっ、そうだった。大人っぽいから忘れてました。じゃあ飲める年になったらまたぜひ」
「はい。またと来ます」
敬さんの方へ走り去りながらしかし、牧はなぜか背中に琥珀さんの視線を感じた。それも、微笑ましいやり取りに目を細める視線ではなくて、重く冷たい雪のような視線だった。
不意に蘇る冷たい雪と南雲志緒の怒りに満ちた眼差し。あれに似ている気がする。
そんなものを琥珀さんに向けられる覚えもない牧は心にかすかな不安の風を感じつつ、敬さんとともにショッピングセンターに向かう。大人はわかりにくい。本音はいつも深い深い心の奥底に秘められていて決して見せないくせに、いざという時に人の行動を支配するのはその深部にある本音だ。
オレ、琥珀さんに何か言ったかな――
居酒屋と化したキャンピングカーで神奈川まで戻った一行は無事に自宅に帰り着き、と牧は数日後に無事卒業を迎えた。は友人たちとの別れに涙していたけれど、そのひとりとして牧との同居は教えていない。牧が肩を叩き合って別れたバスケット部員たちも同じだ。
そもそもバスケット部は校内でも一目置かれる存在だったので、ふたりが2年生の終わり頃から恋愛関係にあったことを知る者は少なく、敬さんの尽力もあって夏に孤島で殺人事件に巻き込まれたことは誰も知らず、ふたりの進路自体も分かれるため、4月からのと牧紳一ということに詳しい生徒はいなかった。
卒業式を終えたので引っ越しまでは1週間ほどしか時間がなく、その間ふたりは家族と過ごし、メイさんや敬さんとも連絡を取っていなかった。紫黄村の件は依然捜査中のようで進展の報もなく、おそらく金剛氏の火葬は終わったものと思われるが、それについても特に連絡はなかった。
そして3月下旬、ふたりは1日違いで引っ越しをし、新たな生活をスタートさせた。
といっても牧は既に大学のチームの練習に参加していたし、はひとり出歩いては見慣れぬ街のどこに何があるのかを探索したり、自分だけ時間があるのだから家事をやってしまいたいという衝動に抗って過ごしていた。これは日常であると同時に挑戦なので、出来るところまでは努力をしてみたい。
だが4月も待たずに敬さんが限界突破してしまい、仕事終わりで転がり込んできたり、島さんがご飯奢るから出ておいでよと声をかけてくれたりと、ふたりの挑戦と努力は早くもなし崩しになり始めている。
なのではアルバイトを始めてみようかなと考えていた。それも敬さんのコネではなく、自分で職場を探して。敬さんは充分な生活費を出してくれているが、それは決して多くはなく、ふたりの生活費である以上は自分のためだけに無理に切り詰めることも出来ないので、自分で稼いだ方が早い。
そんな話を聞きつけたメイさんが自分の書いた脚本の校正のバイトをしないかだの、柴さんが自分の職場は常に人手不足だから来ないかだとか、国竹さんが現在の職場を寿退職する予定だからバイトで来ないかだの言ってきたけれど、全て断った。自分で探すって言ってんのに。ていうか柴さんの職場は遠い。
日々はまた日常に戻り、ふたりは試行錯誤しながら一日一日を送っていた。事件も非日常も過去のものになり、急に節電意識が芽生え、ごみの分別に戸惑う毎日が過ぎていくだけになりつつあった。
だがそんな繰り返しの中でもと牧はやっぱりお互いが大好きだったし、まだ毎晩どちらかの部屋に泊まるばかりで、ひとりで眠ったことがない。それも楽しかった。
そうしてふたりは4月を迎えた。
夜、3日ぶりにやって来た敬さんはふたりが作った焦げ気味のナポリタンと焼いたソーセージとサラダを美味そうに食べ、タクシーで帰るからと持参した缶ビールをリビングで引っ掛けていた。
「今日、紫黄村から電話があってね」