紫黄村の殺人

Chapter 1 : ホテル・ラ・グロワール東京 5

散らばっていた一万円札を全て集め、私物が残っていないかを確認したが、もう部屋の中には何も残っていない様子だった。なので全員が顔を上げ、ふうやれやれと深呼吸をしていたときのことだ。牧とが湯気のたつ紅茶を手にして輪の中に入ってきた。

「もう何もなさそうですね。あとは鏡の破片とか、そんなのばっかり」
「それにしてもホテルの中って乾燥してますね。喉乾いちゃった」
「やあねえ、あんたたち、自分だけそんなの淹れちゃって」

呆れて腰に手を当てているメイさんに、はエヘヘ、といたずらっぽく笑い返す。

「だってみんなはあとでお酒を飲むんだから、いいかなって」
「それは否定しないわよ! 今日は敬の金でしこたま飲むって決めてるんだから!」

メイさんの高らかな宣言に一同が笑っていると、牧が紙コップを少し掲げて見せる。

「実はオレも蕎麦アレルギー持ってるんですよね」
「あら、初耳! やだ、そんな体してても食べられないものってあるのね〜」
「心臓が止まることもあるらしいから、怖いんですよね。でもティーバッグの紅茶なら心配ない」

そして白鳥さんの傍らに進み出ると、「ひとつください」と言って彼女が抱えていたバッグの中から角砂糖をひとつ取り出し、紅茶の中に落とした。マドラーでかき混ぜながらの隣に戻り、紙コップを打ち合わせる。

「でも良かったです。馬場さんが無事で。これでもう、安心ですね」

そう言った牧がコップに口をつけようとした瞬間、それは叩き落されて床に飛び散った。その飛沫に驚いて飛び退いた敬さんと柴さんが思わず抱き合って目を丸くしている。

牧は身じろぎひとつせずに顔を上げると、悲しげに首を傾げた。

「どうしてオレが紅茶を飲んではいけないんですか」

そしてそっと、目の前の人物に手を差し出した。

「教えて下さい、白鳥さん」

「白米! なかった!」
「だから米は関係ないって言ってるじゃないですか」
「でも紳一って朝はご飯派だよね〜」
「あら、彼氏の朝食の趣味を知ってるなんて、色っぽいわね」
「そりゃ合宿とかインターハイはいつも一緒だから」
「いいじゃないのよ、わかってて言ってんのよ、ノリツッコミくらい覚えなさいよ」

一行がエグゼクティブ・スィートに戻れたのは、日付が変わってからだった。敬さんの金でご用意されまくっていた酒や料理は放置のまま、なのに全員疲れて大あくびだ。

牧の罠に引っかかった白鳥さんは紅茶の入った紙コップを叩き落し、牧に名指しされると、その場に泣き崩れた。に促されてベッドに座らされても、子供のように「うえーん」と声を上げて泣いていた。

そして泣きながら白鳥さんは自分が馬場氏に蕎麦粉を盛った犯人であると認めたので、再度通報、とんぼ返りの警察官に事情を話し、白鳥さんを見送った。熊井さんが馬場氏のバッグを抱えて呆然と立ち尽くしていたが、手を貸せるのはここまでだ。

……違和感を、感じたんですよ、紙コップがひとつ、転がってることに。馬場さんは缶コーヒーを飲んだだけだって言ってたし、それって普通、缶のまま飲むじゃないですか。わざわざ紙コップに移す必要がない。でも、たまたま今日は紙コップに移す必要があったってことですよね」

そうして異変を感じた馬場氏の動きを想像していくと、他にも違和感にぶちあたった。

「島さんと、馬場さんがどう動いたかってことを目で追っていたら、白鳥さんが床に落ちてる角砂糖を拾い集めてたんです。ひとつひとつ拾っては、バッグの中に戻してた。それもおかしいでしょ。土足の部屋の床に落ちたものですよ。ゴミ箱に入れるのが普通だと思って」

それに、一万円札を除くと、床に散らばっていたものは、レシートとゼムクリップ、角砂糖とキャンディー。レシートとゼムクリップはレシートの整理をするため、キャンディーはそのまま食べるため、とそれぞれ馬場氏が何をしようとしていたのか分かるけれど、角砂糖がバッグの外に出ていたのなら、何か液体に入れるためとしか考えられない。一般的な缶コーヒーの飲み口に角砂糖は入らない。

「だから熊井さんに聞いたんです。缶コーヒーってどんなんでしたか、って」
「そっか、微糖だったから、あのオッサンは紙コップに移して手持ちの角砂糖を入れたのね」
「で、その角砂糖に細工がしてあった、というわけか」

プラ個包装の中のキャンディーと缶コーヒーに事前に蕎麦粉を混ぜることは不可能。でも角砂糖なら不可能ではない。馬場氏は白鳥さんに大金を入れた荷物を持って来いと言いつけるくらいなので、日常的にバッグを触らせていた可能性も高い。そして白鳥さんは馬場氏のアレルギーを知っていた。なので、牧は一芝居打って蕎麦アレルギーだと嘘をつき、角砂糖を入れた紅茶を飲もうとした。

「でも、全部の角砂糖に細工をするって、めちゃくちゃ大変じゃない?」
「全部にする必要はなかったんじゃないですかね。いつか蕎麦粉入りに当たれば」
……そっか、上手くいけば自分に完璧なアリバイがあるときに馬場さんを殺せたかもしれないのね」
「白鳥さんはそれを待ってた。だけど、上手くいかなかったんだね」
「馬場さんは独身だし、もしこれが自宅だったら、あるいは……

メイさん、敬さん、柴さんはため息とともに吐き出すと、ソファに背を預けた。

白鳥さんは、何らかの理由で馬場氏の息の根を止めるため、角砂糖の中に蕎麦粉を詰めたものを紛れ込ませていた。いつかそれが発動して馬場氏がこの世から消えることを夢見て。だが運悪くホテルの一室でその仕掛けが発動してしまい、ホテルスタッフの迅速な対応により馬場氏は事なきを得た。白鳥さんは落胆したことだろう。

しかし角砂糖の細工さえバレなければ、まだチャンスはあった。馬場氏はホテルやレストランに言いがかりをつけたかもしれないし、なんなら缶コーヒーのメーカーに怒鳴り込んだかもしれないが、その時までに角砂糖を一旦処分し、蕎麦粉の紛れていないものを持たせれば誰も疑わなかったはずだ。

そしてほとぼりが冷めた頃にまた蕎麦粉入りの角砂糖を作り、再度混入させればゲーム・リセット。

……島さん、白鳥さんてどういう罪に問われると思いますか」
「まあ、あのオッサン死んでないし、殺人未遂、なのかな」

一時はだいぶ興奮していた様子の島さんだったが、大泣きの白鳥さんが「私悪くないもん、あいつが悪いんだもん」とまるで子供の駄々のようなことを言い出すと一気に冷めたようだった。答えてはくれたが、興味はなさそうだ。どうやら島さんの好みはプライドの高い孤高の犯罪者であるらしい。

なので牧は敬さんの方へ向き直り、聞いてみた。再就職ってそんなに難しいの?

「そんなことないと思うよ。以前より転職のハードルはかなり下がってるはず。感情論ではあるんだけど、昔は一度勤めた職場を去るには深刻な理由が必要だったし、再就職の面接ではなぜ前の職場を辞めたのかってことを詰問されることも珍しくなかったし、何しろこの国はほんの最近まで仕事ってものを『奉公』だと思っていたからね。でも彼女は現代の一般的な会社員なわけだから、パワハラは立派な転職理由になると思うよ」

じゃあなんで殺そうなんて極端な発想になってしまったんだろう。牧はずっとそれが心に引っかかっていた。もしこれで馬場氏が亡くなり、白鳥さんの犯行だと発覚してしまったら、退職どころか檻の中じゃないか。もし刑期が短かったり仮釈放が認められたとしても、殺人の前科持ちが短期間で元通り社会復帰できるとは、高校卒業間近の牧でも無理に思える。いくら馬場氏を葬ったところで、白鳥さんは何も得しないのでは。

「もしかして、自分が自由になるためでは、なかったりして」
「あらちゃん珍しいわね、どういう意味?」
「ええと例えば、パワハラだけじゃなくてセクハラも受けてたとか」
「それで恨みが募って、ってこと? それこそ辞めちゃえばいいのに」

セクハラと言われると口を出しづらい男性陣が黙ったので、国竹さんが腕を組んで唇をへの字に曲げた。

「ええとだから、そういう理由が重なって、自由になるよりも、馬場さんを生かしておけないと思ったとか」
「そっか、自分の自由のためではなくて、制裁ね」
「馬場さんが生きてることが、許せなかったのかな、って」

黙ってしまった男性陣も含め、全員が南雲志緒のことを思い出した。殺したかったから殺した。死んでほしかったから。もう1秒だって生きていてほしくなかったから。自分の自由なんかどうでもよかった。命を奪うのが目的だったから。自分という唯一無二の存在を苦しめた相手に対する、復讐。

すると、黙っていてももはや別人にしか見えない松波さんが口を開いた。

「でもオレ、最近ちょっと思うんです。そういう、感情的な原因と結果が動機になってるだけ、まだ人間らしいなって。何のストレスもなく、目の前をのんびり歩いている人が邪魔だからナイフで刺そうみたいなのばかりになってしまったら、いよいよ人間終わりだよなって」

そういう犯罪がないわけではないけれど、まだほとんどの犯罪は人間の感情が複雑に絡み合って起こっている。それなら皆の努力次第で止めることも不可能ではないのでは……と松波さんは言いたいようだった。だが、元々寡黙な松波さんである。言いたいことが上手くまとまらずに脱線し始めた。

「だってそうでしょう、そんな社会で子育てとか不安で不安で」
「え、ちょ、隼人さん」
「えっ、なに隼人、子供欲しいの?」
「えっ、そりゃ結婚するんですから子供は作りますよね?」
「やだあんた大丈夫なの、子供好きって性格じゃなかったでしょう」
「大丈夫ですよ、美晴の子なんだから、可愛いに決まってます」
「キャーーー!!!」

最後の悲鳴はと柴さんだ。国竹さんは両手で顔を覆って蹲っているし、敬さんとメイさんは大爆笑。

不可解な事件に巻き込まれて疲れていた一行はやっと気が緩み、生あくびばかりだった大人たちもちょっと目が覚めてきた。見ればまだ1時。エグゼグティブ・スィートからご来光を見るというのも悪くないではないか。敬さんと島さんが酒を引っ張ってくると、全員の顔が見えるように座り直して乾杯をした。

事件は終わった。白蝋館の悲しい事件も、青糸島の恐ろしい事件も、ハイクラスホテルの不愉快な事件ももう、終わったことだ。今度こそ8人は心ゆくまで語り合い、笑い、大人は酒を楽しみ、幸せな時間を過ごした。

そしてご来光を待てずに5時頃に限界を迎え、それぞれの部屋に戻って仮眠を取ることになった。

と牧はふたりでシャワーを浴びると一緒に横になり、イチャつく間もなく眠りに落ちた。だが、この短い眠りはふたりが付き合い始めて以来の一番幸せな眠りだったのかもしれない。悲しくて苦しい夜をともに乗り越えた人々と語らい、笑い合うこと、その輪の中で一緒にいられること。

そんな夜がいつまでも続けばいいのに――そんな夢を思い描いた。

後日、事件の詳細が敬さんから届く。熊井さんから電話がかかってきたそうだ。

それによると、白鳥さんは以前、社内不倫をしていたことを馬場氏に知られてしまったらしい。しかも、その時初めて不倫相手の妻が同社の社員であり、白鳥さんが入社以来ずっと目をかけてもらっていて尊敬していた先輩であったことを知った。不倫相手は白鳥さんにそれを隠していた。

馬場氏は当然それを承知していて、「尊敬する先輩に知られたくないよな?」と白鳥さんを脅して召使同然にこき使っていた。白鳥さんは自分の保身だけでなく、敬愛する先輩が夫の不倫を知らずに済んで欲しい一心で耐えていたが、もう限界だった……ということだったらしい。

当然の結果として白鳥さんは解雇であると熊井さんは報せてくれたが、さてその後馬場氏の社内で事件がどう影響したのか――ということは、たちの耳に届くことはなかった。白鳥さんがどんな罪に問われ、どんな刑罰を下されたのかも、島さんが興味を持たなかったせいもあり、知ることはなかった。

3月、あとは卒業を残すだけになったと牧は、引っ越しの準備も終え、束の間ののんびりした時間を楽しんでいた。牧の都合で新居への入居は3月下旬になり、は急ぐ必要もなかったのだが、「ふたりで生活する」ということに慣れたい、とも同時に入居することになった。

なのでそれまではしばらくぶりの長期休暇である。

――ということを聞きつけて「今度は旅行行きましょ!」とメイさんが連絡を寄越したのは、ホテルパーティーの翌週だった。早く出ていけばいいのになどと愚痴っていたメイさんだが、国竹さんと松波さんが新居を探し始めたらしいので、寂しくなったのかもしれない。

「また事件が起こるんじゃないかって心配してる? 大丈夫よ、疫病神は敬だから! それに今度はシキちゃんの故郷で陸続きだし、雪は降ってないし、たかが一泊二日!」

はしゃいだ声のメイさんはそう電話を寄越した翌日には「シキちゃんの故郷」のパンフレットを送ってきた。

シキちゃんというのは、例のの推薦入学を請け負ってくれたA大理事の式村さんのことだ。彼はD県にある「式村」という地域の出身で、本格的な春休みに突入する前なら余裕があるから、ご招待しますよと言ってくれたのだそうな。だが元は敬さんに来た誘いで、敬さんは仕事が立て込んでいたのでメイさんに横流しした。なのでメイさんはいそいそとに連絡をしてきた、ということらしい。

パンフレットを見たはすぐに牧の家までやってきて、それを突き出した。

「どうする、これ。なんかちょっと行かなきゃいけないような気がしちゃうけど」
「まあな……当分は旅行なんか難しいだろうし、温泉てのはちょっと惹かれるけど……

牧が広げたパンフレットには、大きな文字で「美しい自然と 豊かな温泉 『紫黄村』」と書かれていた。なんらかの理由で式村をもじったのだろうが、紫色に黄色といえば海南カラーである。おそらくメイさんもそれに気付いて誘う気になったのだろうが……

「確かに孤立しようがない場所だし、雪もなさそうだし、温泉と和牛とコテージってのは……悪くないよな」
「しかも村の中だから、駐在所とか診療所とかも近い」
「白蝋館や青糸島に比べるとはるかに安全そうに見える」

つい2ヶ月ほど前に都心で殺人未遂事件に巻き込まれたことは棚に上げて、ふたりはうんうんと頷いている。旅費は敬さんが卒業祝いの名目で出してくれるらしく、そっちも心配ないし、条件は悪くない。もしコテージがメイさんと別なら、それはそれでロマンチックな夜を過ごせるかもしれない。

それに思い至ったのか、は両腕を伸ばして牧に抱きつく。

「重厚な洋館もリゾートアイランドもいいけど、浴衣に温泉も、よくない?」
……浴衣、脱がしてみたい」
「あ〜れ〜ってやつ?」
「それは違う」

笑いながら唇を重ねると、はその牧の唇を指でなぞる。

「私も紳一の浴衣脱がしたい」
「オレを脱がしても面白くないだろ」
「帯で手足を縛って、目隠しをして、弄り回したい」
「それ楽しいのか!?」

ふたりは抱き合ったまま床に倒れて笑い転げた。今はまだ昂る気持ちをぶつけ合うくらいが精一杯だが、これからは「半分オトナ」くらいの気持ちで新生活を送ることになる。そんなふうにふたりの時間にも遊び心を持てるような、余裕を持ちたい願望がある。

この旅行がその入り口になってくれるなら。

そういうわけで3月、卒業間近のふたりはメイさんとともにD県まで出かけていったのである。