深夜、はひとり、風呂でまた星空を見上げていた。傍らには冷蔵庫に入っていた炭酸水。ちらりと振り返ると、窓越しにぐっすりと眠り込んでいる牧が見える。
琥珀さんに対して感じる奇妙な感覚を振り払いたかったは、牧が嫌がらないものだから、普段の自分では考えられないほど大胆に振る舞い、1日中駆け回っていられる体力を持つ相手を寝オチさせてしまった。なので汗だくになっていた。全身洗ってすっきり。
他の男の影を払拭したかった、というのは決して気分の良いものではなかったのだが、その勢いで筋骨隆々長身の彼氏を攻めたてるというのは思った以上に楽しくて、牧は確か「かっこいい彼氏」だったはずなのだが、今夜ばかりは彼が可愛くて仕方なく、はひとりでニヤついていた。やばい、癖になりそう。
だからといって明日の婚約パーティが気乗りしないのは変わらなかった。というか結局ただの観光静養旅行にならなかったこの一泊二日が鬱陶しくなってきた。婚約パーティ以前にさっさと帰って旅行を終わらせたい。
ふたりきりでコテージ泊はロマンチックだし、牧と過ごす時間には満たされるけれど、興奮から覚めると「いや別にどうせもうすぐ一緒に暮らし始めるんだし」と冷静な自分も戻ってきた。というか今夜のような異様な興奮は日常の中には持ち込みたくない気がした。こういうのは特別な時に特別な場所でするものにしておきたい。
でも紳一はどう考えるかな……
今後は生活の全てがこうして「ふたりで考えていかなければならないこと」になっていくのだと改めて実感したは、深夜の冷たい風にぶるりと体を震わせ、湯の中に首まで浸かった。
そして見ないふりをしていた自分の心の片隅の声に目を閉じた。
同居、ちゃんと出来るのかな。ちょっと、怖い――
それはラ・グロワールでの夜にも感じたことのなかった感覚だった。牧との同居は敬さんも交えて何ヶ月もかけて話し合った結論だったはずなのに、この狂おしいほど熱い情事の後になぜか不安が押し寄せてきた。はそのまま頭まで湯の中に沈む。
違う、そうじゃない、違うよね私。
あの琥珀さんを初めて見たときから、なぜか心に不安が生まれるようになってしまった。
なんなの、なんなのこれ。あの人は一体、なんなの――
翌朝牧の腕の中で目覚めたはしかし、あの不可解な不安感はほとんど忘れており、いわゆる「深夜テンション」だったのかなあとぼんやりと考えていた。追って目覚めた牧は牧で、昨夜のの余韻がまだ残っているようで、ちょっとばかりとろりとした目で甘えてきた。
「別にオレはどんなでも好きなんだけど、昨日みたいなのもたまにはいいな」
「昨日の紳一は可愛かったよ」
「かわいい……は違くないか?」
正直言えばとろりとした目で甘えてくるこの状態の牧も可愛いのだが、まあ「かわいい」という表現はお気に召さないだろうし、言わないでおいてやることにした。
「てかこんな時間まで寝てたの久しぶりだな」
「3学期意外と忙しかったよね」
「受験生少ないとはいえ、あんなに誘われるとは思ってなかった」
現在8時半、常に朝練などで早朝や夜明け頃に目覚めていたふたりなので、8時半にまだベッドの中というのは盆暮れ正月くらいにしかないことでもあった。
そして牧が回想するように、部活で余暇がほとんどなかったにも関わらず、内部進学で受験のない同級生たちは「最後くらい遊ぼう」と声をかけてくれて、それだけでもずいぶん時間を使った。なのであとは卒業を残すのみではあるのだが、慌ただしさにその節目のことは忘れがちだった。
「私、小学校の卒業の時、めちゃくちゃ泣いたんだよね。6年間だし、家族みたいに思ってた」
「まあそうだよな。中学の時は泣いてる子少なかった」
「私も泣かなかった。中学の制服ボロボロになってて、早く高校の制服着たいって思ってた」
「なのに制服よりジャージ着てる方が多かったなあ」
「それよ。せっかく女子高生だったのに」
朝の紫黄村はやはり気温が低い。ひやりとした空気から身を守るように布団の中で抱き合い、囁き声でくすくす笑い合うのはなんとも心地がいい。一日中でもこうしていられる気がした。
だが、10代の胃袋がそんなことを許すはずがないのである。牧の腹が突然唸りを上げ、は笑った。
昨夜寝オチしたままだった牧はシャワーを使い、その間に身支度を済ませたはビジターセンターに連絡を入れ、朝食の手配を頼む。メイさんが起きてくるわけもないので、インルームの方が気楽だ。そしてインルームの朝食は純和食のフルコースとでも言えそうな御膳で、ふたりは歓声を上げた。
楽しい。本当に楽しい。
寒いけど雪はないし、台風も来ないし、帰ろうと思えばすぐに帰れるし、殺人事件は起こらないし。
「いやそんなの当たり前なんだけど。私たちがおかしいだけなんだけどね」
牧はのツッコミに味噌汁でむせそうになる。いやほんと、それが普通。
なのでだいぶ気分が上がってきたふたりは朝食後にショッピングセンターを覗いてみることにした。部活の都合上アルバイトが出来なかったのでふたりは小遣い生活であり、それだけでは心許ないのだが、今回は敬さんから少々掴まされているので、自分たちの分も含め、家族や身近な友人への土産を見繕っていかねばならない。
家族には食品、友人には小物やお菓子、そして敬さんには煎餅。昨日休憩中に齧ってたし。
それらをコテージに運ぶと、ふたりは散策に出た。まだ時間は余裕があるし、メイさんは起きないだろうし。
コテージエリアとショッピングセンターの間にある公園は奥に広がる作りになっており、手を加えていない自然を残しつつ、どこで写真撮影をしても絵になるように管理されていた。そしてまた見覚えのある作業着が箒を忙しなく動かしている。やっぱり式村さんなんだろうか。
「あ、おはようございます。コテージはいかがでしたか」
「おはようございます。温泉めちゃくちゃよかったです。きれいに星が見えて」
「昨日すごく寒かったから温まりました」
公園内の落葉などを掃き集めていた職員さんは親しげに声をかけてきて、ふたりはそれに応じていた。白蝋館以来、大人の中にポツンと未成年という機会が多かったせいか、ふたりは「無難な雑談」が得意だ。それを確かめてか、人懐っこそうな職員さんは清掃の手を止めて近寄ってくる。
「特にオフシーズンや平日はカップルのご利用が多いんですよ。とても静かだったでしょう?」
「はい、コテージの中にいると外の音がほとんど聞こえなくて、驚きました」
「今さらですけど、お声掛けしてしまってすみません」
「えっ、そんなこと、全然、大丈夫です」
「僕まだ新人で、先日も訳ありっぽいカップルに声かけてしまって、怒られちゃって」
言われてみると、お忍びの逢瀬にこの紫黄村はぴったりに思えてきた。コテージは籠りっぱなしに最適だし、食事も届けてもらえるし。紫黄村はとことんアピールする点を間違えてしまっているのかもしれない。と牧がそんなことを考えていると、職員さんの背後から派手な感じの女の子が3人現れて、ピタリと足を止めた。
「おーいしさ……あ、お、おはよございます」
「あ、ありがとう。彼女たちはこの村の高校生で、春休みなのでボランティアをしてくれてるんですよ」
「へえ、偉いですねー! おはようございます」
「お、おはざす……」
「春休み羨ましいですよね〜」
主に牧、そしても若干苦笑いだ。ふたりも卒業前なのでまだ一応高校生なのだが、敬さんにタカった私服であるのと、牧の方はそもそもが10代に見られたことのない風貌をしているので、大人だと思ったらしい。
「え!? まじで!? 1コ上っすか!? すっげ大人っぽいすね」
「もうすぐ卒業なんだけどね」
「ははは……26歳の僕より貫禄ありますね……」
職員さんと高校2年生だというボランティア女子高生は目を丸くしている。また苦笑いの牧だったが、ふと視線を落とすと、職員さんの作業着の胸元が目に入った。刺繍で名前が入っているのだが、式村さんではなかった。
「あ、はい、僕はこの村では珍しい『式村じゃない人』なんですよ。移住者なんです」
「移住……そういう方もいらっしゃるんですね」
「うちらは全員式村だよ〜!」
「ここって式村さんがたくさんいらっしゃいますけど、みなさん親戚、なんですか?」
つい気になったが聞いてみると、女子高生3人は揃って首を振る。
「確かに名前は式村だし、大昔は親戚同士で結婚とか多かったらしいんだけど、いつだっけ、百何十年前とかからそーゆうのだめって決めたみたいで、そこからは村の中だけで結婚しないようにしてきたんだって。だから名前だけ残ってるけど、本当に式村の血を引いてるのは本家と、分家がいくつか、あとは村の外に出ちゃってるかな。うちらも高校卒業したら村を出るし」
女子高生3人は今度はちらりと職員さんを見る。「式村じゃない人」の彼は大石さんというらしい。
「あーはい、昔は僕みたいなのが婿養子に入ったりしたそうですよ」
「でも大変ですね、お名前が同じだと」
「まあここで生まれ育った方々は慣れてますから。僕は最初パニックでしたけど」
そこで本日このあと本家の婚約パーティに招かれていることを漏らすと、大石さんと女子高生3人は昨日の式村さんのようにすくみ上がった。おいおい、本家どんだけ怖がられてんだよ。
「そんなに怖いんですか、本家って」
「こ、怖いっていうわけじゃないんですが、恐れ多いっていうんでしょうか」
「だって、このリゾートエリアを作ったのだって本家、ていうかご当主様だし」
「こーいう大石さんみたいな人を招いてるのも本家だし」
「招くというか求人ですかね。3年前からは役場で移住者支援制度も始まりまして、僕も2年前に」
「確か診療所の先生も移住だったよね〜」
誰も聞いていないと思うが、それぞれ小声でまくし立てている。それらをまとめると要するに本家はこの村の様々な事柄に対して投資を行い、この村が発展できるよう尽力しているらしい。それだけなら大変立派なことではないかと思うのだが、どうも昨日の式村さんも含め、怖がっているようにしか見えない。
「なんていうかその、ご当主様は迫力のある方ですし……」
「この村の王様みたいな感じだから」
「確かにそういう雰囲気はありましたけど……」
「それにしては後継ぎの息子さんは物静かな方でしたね」
牧が言うなり、今度はも含めた全員がギクリと肩をすくめた。
「え、な、なにかマズいこと言いましたかオレ……」
「いえそういうわけでは決して! 僕はお目にかかったことすらないですし!」
「そーなの!? 琥珀さん、ご当主様とは正反対な感じだけどインテリっぽくて優しそうだよ!」
「そーそー! 玻璃さんもかっこいいけど琥珀さんはちょっと影がある感じでエロい!」
「ちょっと! そんなこと言ったら怒られるよ!」
4人は必死だが、それがあからさまに怪しい。というか玻璃さんて誰。なので真顔になってしまうと牧に、結局4人はため息とともに茶化すのをやめた。オフシーズンの午前中、公園には誰もいないというのに、4人は距離を詰めてさらに声を落とす。
「ですからその、本家は実質この紫黄村の支配者なんです。村長は別におりますが、それも名ばかりで」
「本当かどうか知らないけど、本家に逆らったら全財産を取り上げられて追い出されるとか」
「駐在さんも洗脳されてて本家のやることは見ないふりしてるとか」
「診療所の先生も本当は当主様に借金があって連れてこられたとか」
「……よくある話のように聞こえますが」
「確かにそうなんだけど、その琥珀さんだって、長男だけど跡継ぎじゃないって親が」
「え!? じゃあ玻璃さんが跡継ぎなの?」
「知らないよ親が話してるの聞いただけだし!」
そうは言っても「式村じゃない」大石さんと、まだ高校生の3人にはこうした噂話くらいが精一杯のようだが、それでもあの金剛氏は絶対的な権力を持っていて、村の住民はその権威に敬意を払いつつ目一杯怯えているらしい。そして琥珀さんはなぜか跡継ぎではないという。本家は微妙に謎だらけだ。
本音で話してしまって気が楽になったか、女子高生3人は牧をかっこいいと言い出し、もはやその程度では嫉妬心もないが「そのうち日本代表になる選手」だとブチ上げたせいで記念写真まで撮らされる始末。だからもうそういうのうんざりだって言ったのに!
「彼氏が女の子に囲まれて一緒に写真撮ってて平気なのかよ」
「その程度のことで1日中不機嫌になってほしいの? 大人気の選手になって欲しいって願ってるのに」
「いやまあ、それは、ごめん」
一旦コテージに戻ったふたりはチェックアウトに備えて荷物をまとめていた。
「と言っても……そういうことってちゃんと言葉にするべきだよね」
「え、どういう意味?」
牧の隣に正座をしたは膝に手を揃え、咳払いをする。
「いいでしょ、私の彼氏めっちゃかっこいいでしょ、かっこいいだけじゃなくて優しくて真面目で努力家で、私たち春から一緒に暮らすんだよ。昨日なんかめちゃくちゃ愛し合ったんだよ、いいでしょ、羨ましいでしょ、私、すーっごく幸せなんだから。……て思ってたよ、心の中では」
そもそも、付き合う前から牧紳一という人物と誰より深く理解し合っていて想い合っているのは自分しかいないと思ってきた。自分以上に牧紳一という人のパートナーに相応しい人はいないと確信してきた。それはもう2年以上に及ぶ。なので嫉妬よりは誇らしい気持ちや自慢したくなる感情の方が強いと思った。
「……そっか、ごめん」
「別に謝るようなことじゃないよ。嫉妬して欲しいって気持ちもわかるし」
「すまん嫉妬した」
「えっ、いつ?」
「さっき。写真撮ってる時、大石さんと距離近すぎた」
「えっ、ちょ、まじで、オレのに近付くなとか思ってた!?」
「ま、まあ、そういう系の」
「うそ、やばい、押し倒したい」
「待て、逆」
膝立ちになって飛びついてきたを受け止めた牧はそのまま床に転がり、笑いながらキスを繰り返した。
昨日の琥珀さんによれば婚約パーティは昼を挟んで行われる身内だけの席で、おそらく午後3時くらいにはお開きになる予定だという。それなら地元駅に到着するのはそれほど遅い時間ではないだろう。メイさんと別れたらふたりで食事をして帰ってもいい。
そういう「日常」がほしい。全国大会の頂点を目指しながら殺人事件に巻き込まれ続けた1年は日常ではないし、少なくとも牧はまた頂点を目指す練習の日々に戻っていく。そんな日々が始まる前にせめて、日常を過ごしたい。いつかその「日常」が飽きるほど当たり前の毎日になっていくのだとしても。
チェックアウトの時間が迫っているので、ふたりはお土産で重くなった荷物を抱えてコテージを出ると、まずはメイさんのコテージに向かった。きっと朝寝坊をしていると思って連絡は入れなかったが、ちゃんと帰り支度は出来ているだろうか。
「お〜は〜よ〜」
「……二日酔いですか、珍しいですね」
「紳一くんの真顔は見飽きたわよ〜」
「も〜お水飲まなかったんですか?」
「ちゃんのお小言も聞き飽きたってば〜」
見たところ顔色は悪くないし、マタギみたいなコートの下も普段通りのシャラシャラ音が鳴る民族衣装っぽい服だが、全体的にヨレヨレして見えるのはなぜだろう。
「だってえ、あんなの宵の口じゃない。温泉入ってちょっと寝たらだいぶ醒めちゃって。あんたたちはふたりで楽しんでるだろうし、飲酒未解禁を連れ出す趣味はないし〜」
というわけでメイさんは再度「四季の詩」に出かけ、地酒をたっぷり堪能し、深夜になってからコテージに戻ると、そのまま寝てしまった。なのでしっかり二日酔いであり、朝食を食べる気力もなく、ヨロヨロしながらショッピングセンターでスポドリを買って流し込んだ。
「そんなんで婚約パーティ大丈夫なんですか」
「もし食事を勧められたら紳一くん代わりに食べてくれない」
「それはいいですけど……」
そしてチェックアウトを済ませると、昨日の案内係の式村さんが大きなビニールバッグを差し出してきた。なんと紫黄村、チェックアウト時に野菜や例の牧場の商品詰め合わせをプレゼントしてくれるらしい。根菜や乳製品がぎっしりで重い。メイさんが傾く。
「んも〜手で持って帰るんだから〜ありがた迷惑っていうのよこういうの〜」
「これ持って本家行っていいんでしょうか……」
「ていうか普通に訪ねちゃっていいのかな。玄関てどこなんですか」
チェックアウトはしたがまだ帰れない3人は、ビジターセンターからまた回廊ストリートに戻る。コテージエリアから見える本家は植栽で覆われていて、屋根くらいしか確認できない。ので、反対側に回ってみる。と、その中ほどに琥珀さんが立っていた。
瞬間、または言いようのない不安に襲われた。
大好きな人をたっぷり愛して振り払ったはずの、不愉快な不安。どうしてか彼の希薄な存在感に意識が引っ張られる。どうにかして彼を助けてやらねばならないような焦りを感じる。けれどその感覚自体がなにより不愉快だ。それは自分がやるべきことではない。
まるで自分まであの薄っぺらい雰囲気に飲み込まれてしまう気がして、怖い。は牧の手をぎゅっと握り直し、頬をそっと彼の肩に寄せた。そうして牧と触れ合っていれば、魂が抜け出して琥珀さんの中に吸い込まれるのを防げる、そんな気がして。