式村本家使用人の絹田舞花は包丁で自殺を図ることが難しいと考えたのか、屋敷を出ると回廊ストリートを走り抜け、神社へ飛び込んだ。扇状地である紫黄村だが、かつての河川の名残で村の真ん中に段丘があり、神社の最奥がちょうどその突端になっていた。絹田舞花はそこから飛び降り、崖下に体を強く打って死亡した。
「絹田さんは……母をずっと支えてくれていた人だったんです」
絹田舞花が犯行を仄めかして自殺してしまったので、屋敷にはさらに警察の人間が増え、村は騒然としていた。そんな中、たちは四きょうだいと一緒に応接室に閉じ込められていた。翡翠さんが目眩を起こしたので体を楽にできるソファーのある部屋で、ドアがひとつしかなく監視の警察官がひとりでよいという都合だったかもしれない。テーブルの上にダイニングの食事が移されていたけれど、牧ですら手を付ける気になれなかった。
そこで絹田さんの話をしてくれたのは、次女の瑠璃さんだった。
「兄や玻璃は進学で、私と翡翠も高校卒業後にこの村を出ましたので、玻璃を最後に母はこの広い屋敷に残されたのですが、いつでも絹田さんがそばにいてくれると思うと、何も心配はありませんでした。絹田さんがこの家に来たのはええと……20年近く前でしたか、ちょうど兄が家を出た頃だったと思いますが……。母の死後もこの家に残り、あの父の世話をしてくれていたのですが、なぜこんなことに……」
おっとりお嬢様風の翡翠さんに比べると、瑠璃さんは気が強そうで、いかにも都会で仕事をしていそうな雰囲気だ。だが声だけは疲れ切っていて、ピンクブラウンで緩いカールの髪を耳にかける手の甲は真っ白だった。
「夫を死に追いやった、とか叫んでおられましたけど」
「それが、私たち全員18歳でこの村を出てるんです。当時はまだ子供扱いですし、詳しいことは知らなくて」
「まあ、父はああいう人間でしたから、人の恨みを買うのは得意で」
翡翠さんだけでなくメイさんまでソファに寄りかかって目を閉じているので、瑠璃さんたちと話しているのは牧だ。苦笑いの琥珀さんにお茶を差し出したは、牧のすぐ隣に腰を下ろすと、手を繋いだ。
「あの、皆さんはどういったご関係の方々なんですか? お名前は皆さん違いましたよね」
「あ、すみません、奇異に聞こえるかもしれませんが、メイさんとは友人なんです」
「はあ、お友達」
案内係の式村さんは割と本気な様子で3人をきょうだいと思っていた様子だが、間近で見ればかなり若いカップルと大人ひとりの組み合わせ。それを友人関係だけで済ますのは無理があるか。
「さっきお話されていた……ええと、志津夫さん。彼とメイさんが常連客だった白蝋館というホテルがあるんですが、そこで1年前に知り合いました。大雪で外に出られなくなってしまって、居合わせた宿泊客同士、一緒に過ごして以来の仲間というか、僕たちは下っ端ですが、友達って感じなんです」
刑事さんあたりが吹聴でもしない限り、わざわざ殺人事件に巻き込まれた仲間だとか言う必要もあるまい。殺人事件が起こる前からメイさん敬さんや冬コンビとは楽しく過ごしていたし、不思議な繋がりの友達になっていたのは変わらなかったかもしれない。
そう、白蝋館で殺人事件が起こらなくても青糸島には行ったかもしれないし、白蝋館が休業にならなくても国竹さんと松波さんは結婚を選んだかもしれないので、それを理由にラ・グロワールにも行ったかもしれない。けれど白蝋館仲間をメイさんが嫌う「メンツの変わらない仲間」として結びつけているのは、事件を目の当たりにした心の傷という共通点があるからかもしれなかった。
傷の痛みを解り合える者同士、スイッチが入らない日々を送れるように、それを忘れないように。
「……ですが僕たちも来月から大学に進学します。こういった機会は少なくなっていくんだろうと思います」
「そうね、同年代のお友達付き合いの方が主体になっていくから」
「……ん? ええと牧くんはすごいバスケット選手なんじゃなかった?」
絹田さんの騒ぎの直前にしていた話を琥珀さんは覚えていたらしい。牧は内心舌打ちをする。メイさんめ、余計なことを言うから。それも簡単に流そうとした牧だったが、結局根掘り葉掘り聞かれてサインを書かされてしまった。四きょうだい、意外とミーハーだった。
そうやってしばし雑談をしているしかなかったが、しばらくするとこちらもげっそりやつれたように見える刑事さんが入ってきた。今度は玻璃さんがお茶を用意してくれた。
「正直まだ不審な点が多いのですが、絹田さんのご主人が22年前に亡くなっているのは事実でした」
「22年前……この家に来るほんの数年前ですね」
「はい。ですから、絹田さんのお子さんはこの村から中学に通っていたとか」
「えっ、それじゃあ私や玻璃と同年代じゃないですか」
「ご存じなかったんですか?」
「はい、私たちは全員私立中学で……」
なので四きょうだいは絹田さんの子供がこの村にいたことを知らず、その子供も高校からこの村を出て遠方に進学したようで、なおさら絹田さんのプライベートなことを知る機会がなかったらしい。それに絹田さんはあくまでも「使用人」であり、珠子さんが家事育児を放棄していたわけでもなく、中学から私立校に通っていて家にいる時間が短かった四きょうだいは、当時も今も絹田さんと家族のように親しいというわけではなかったようだ。
「もちろんまだ捜査中ですから、確かな証拠はありません。ですが本人が自供とともに死んでしまっては……」
「……父はその、東京で学生をやっている間から土地を転がすことを覚えまして」
「そのようですね。この村に戻るまでに蓄えた資産の多くは不動産関係で手にしたもののようで」
「はい。ですが村に戻ってからも東京に部下を置いて様々な商売をしていたらしく」
「全て確認できたわけではないのですが、かなり手広くやっていたようですね」
「この村を観光地化させるために稼いでいるのだと言っていましたが、我々も詳しくは」
琥珀さんが言うなり、瑠璃さんと玻璃さんもがっくりと肩を落とす。
「なのでその中で絹田さんのご主人を追い詰めたのかもしれません」
「……そうみたいですねえ。精神を病んだのちに自殺だったそうなので」
「他にも、他にもそういう人がいっぱいいるかもしれないんです……!」
膝についた手をぎゅっと握りしめた瑠璃さんの声は、涙声にも聞こえた。
「絹田さんとは普段から連絡を取られてました?」
「いえ、正直、絹田さん以前に、この村に用がないので……」
「それじゃ、この村に来るのは久しぶり、とか?」
「私は2年くらいだと思います。その時は翡翠と一緒でした。琥珀兄さんもかなり来てなかったよね」
「はい、3年以上は確実に……でも一番長いのは玻璃で」
「ええ、おそらく6年ぶりくらいだと思います。母が亡くなったので、この村に用がなくなりましたから」
しかもこの村で四きょうだい全員が揃ったのは、玻璃さんの成人式を祝った時以来だと琥珀さんは言う。その数年後に珠子さんが亡くなったので、玻璃さんの言うように用もなく、この様子では金剛氏の方も子供たちには用がなかったのだろう。
「皆さんここに到着されたのはええと……」
「バラバラに来たので、一番早かったのはええと、琥珀兄さんだったよね」
「はい。それでも昨日の昼頃です。今日の席については急に言われたので、それぞれ来ました」
四きょうだいは各自の都合もあるので現地集合、絹田さんの方は婚約パーティーのことで慌ただしく、そもそも全員「大変ご無沙汰してます」という状態だったので、特に今回の金剛氏の再婚についての話などをしている暇はなかったし、外にも出ず、琥珀さんだけが2度屋敷を出ただけ。そのどちらもたちと会っていた。
「でもどうですかね、絹田さん、この再婚のこと、良く思ってなかったとか」
「そこまでの感情はないように見えましたけど……。いつでも父は突然突飛なことをしますし」
「そこに真珠さんが増えたとしても、日々はそれほど変化がなかったんじゃないかと思います」
「真珠さんが高圧的に振る舞ったりとかは……」
「そういう話も聞いてないですね。少なくとも我々は見てないです」
「彼女、すごく口数が少なくて……。挨拶はしましたが、それだけで」
それはそれ、身近な人物なので捜査対象なのか、刑事さんは真珠さんのことは何も言わないつもりのようだ。絹田さんがあのような行動に走ったとはいえ、薬のすり替えが行われたのが今だったということは、その動機は夫の復讐だけではないかもしれない。
「ん〜、皆さん絹田さんについてはあまりご存じないようですな」
「お力になれず、すみません」
「いえ、そういうことではなく……実は絹田さん、癌を患っていたそうなんです」
「え!?」
つらそうにソファに寄りかかっていた翡翠さんですら、目を開けて体を起こした。
「診療所の先生が健康診断の結果から精密検査をするよう勧めたそうで、先生の見立てでは癌の疑いが濃厚だったそうです。まず間違いないと。ただ、その後の結果などはまだ聞いていなかったそうで、もし病状が進行していたのなら、悲観してしまったのかもしれません」
絹田さんには動機もあり、金剛氏の薬を入れ替えるのが一番容易だった人物でもある。なので刑事さんは初めて表情を緩め、ひょいと頭を下げた。
「では、本日はひとまず終わります。また伺いたいことがあるかもしれませんので、お帰りになるにしても、所在確認はご協力お願いします。外部へのご連絡は構いませんが、どうか捜査中ということにご配慮頂ければと思います。それでは、失礼します」
刑事さんとともに見張り役だった警察官も応接室を出ていった。室内の空気が一気に緩む。
「えっと、ということは、あとは自由にしてていいってことですか?」
「たぶん、そうでしょうね」
「なんか、そう思ったら途端に腹が減ってきたな」
牧が腹を擦ると、翡翠さんとメイさんを除いた全員が何度も頷いた。なんともう22時だった。テーブルの上の料理はすっかり冷め、おにぎりは乾いていた。
「台所って使えるんですかね」
「聞いてみましょうか」
「みんなで温め直して食べますか」
「いいですね」
絹田さんのことは残念だが、ひとまず疲れたし腹も減った。気が楽になったので、一同は途端ににこやかになった。だが、だいぶ回復してきた様子の翡翠さんと違い、メイさんはまだぐったりしている。
「メイさん、大丈夫ですか?」
「ごめん、なんかすごくしんどいの」
「触りますよ、いいですか…………メイさん、熱出てますよ」
メイさんに声をかけた牧が額を触ると、ものすごく熱くなっていた。が急いで廊下に出ると、玄関の辺りにまだ警察の人々がひしめいていたので、診療所の先生がいないかどうか訪ねてみたところ、まだ屋敷の玄関前で刑事さんと話していると教えてくれた。
先生はの話を聞くと、時期が時期なので急な高熱はインフルエンザの心配があるから検査してみましょうね、と言ってくれた。はまた応接室に飛んで帰る。
「じゃあオレがメイさん運んで付き添ってくるから、あとは頼んでいいか」
「わかった。なにかあったら呼んでね」
「ごめん、ふたりとも、私の方が、大人なのに」
「そんなこと気にしないで。敬さんには私から連絡入れておきますね」
その方が早いので、牧はメイさんを抱き上げ、先生と一緒に診療所へ向かった。なので残ったは琥珀さんたちと一緒に食事を温め直そうと思っていたのだが、台所の使用許可が降りなかった。現在台所は基本的に絹田さんのテリトリーであり、彼女の私物も多く残されていたからだ。
だが、そんな話をしていたところ、屋敷の目の前の通りに会議室などで見るような長机と一斗缶の焚き火が見えた。が外に出てみると、なんと炊き出しが行われていた。村の一大事に落ち着いていられない住民が温かいお茶や軽食などを振る舞っているらしい。
「あの、琥珀さん、私たちもあれ、頂きましょうか」
「そうですね。村の皆さんのご厚意に甘えましょうか」
「じゃ私、瑠璃さんたち呼んできますね」
異常事態が続いているので、間近に見る琥珀さんへの妙な感覚がだいぶ弱ってきていただったが、そう言って屋敷の中に戻ろうとした手を琥珀さんに掴まれ、また全身が震えるような緊張感が戻ってきた。
「さん」
「はっ、はい……?」
「今日は本当に申し訳ありませんでした。せっかくの旅行なのに、台無しにしてしまって」
琥珀さんは本当につらそうな表情をしていて、緊張におののいていたの胸も痛んだ。そういえばこの人は今日、父親を亡くしたばかりだった。いくら傲慢そうに見えても、家族は家族。親を亡くすということは想像できないほど苦しいに違いない。そう感じたは、ついその琥珀さんの手に手を重ねた。
「いいえ、おつらいのは皆さんの方だと思います。ご家族を亡くされたんですから、悲しいですよね」
「……さんは、優しいんですね」
「えっ、そ、そうでしょうか」
「恋人の牧くんが秋名さんを抱きかかえてても、嫉妬したり、しないんですね」
「えっ、えーと、それは、まあメイさんは親しいので、そういう気持ちには」
何を言われているのかよくわからない上に、名前で呼ばれてしまったは余計に緊張してきて、冷や汗が出てきた。だが琥珀さんの悲痛な表情は変わらず、重なっている手は夜風に冷たくなっていくばかり。
「……私は、目の前で父を亡くしたというのに、激しい感情が、湧いてこなくて」
「……離れて、暮らしていたからですか」
「それもあると思います。倒れた父を見ていても、涙は出てこないし、縋りつきたいとも思えなくて」
それ以前にショッキングな事件だったのだし、それは無理もないのでは……と思ったが、この琥珀さんの存在感の希薄さはそういう、金剛氏に対する感情の希薄さから垣間見えるものだったのではないか、と思えてきた。琥珀さんの存在感が薄いのではなくて、父親の前では薄っぺらい人間でいるしかなかったのでは。
「私は長男ですが、後継ぎではありませんでした。父の望む男ではなかったらしく、成人したときには『お前にはこの家の資産を渡さないから、そのつもりで』と宣告されましたし、なので進学で家を出たままずっと東京で暮らしてきました。それ自体はショックでもなんでもなく、私には式村家を自分のものにしたいという気持ちもなかったので、無関心だったのですが……」
回廊ストリートの街灯の明かりが琥珀さんの青ざめた頬を照らし、顔半分に黒い影を落としている。は、その頬を両手で包んで温めてあげたいという衝動に駆られた。だが、それよりも早く、勝手に口が開いた。
「琥珀さん、悲しみたかったんじゃ、ないですか?」
瞬間、琥珀さんの目が大きく開き、には異様に希薄に見えていた彼の「存在感」が蘇ったように見えた。
「そう、かもしれません」
「……なぜ、私に、話してくれたんですか」
「……わかりません。だけど、なぜかあなたに聞いてもらいたいと、思った気がします」
琥珀さんはありがとうございますと言って深々と頭を下げると、自分が妹たちを呼びに行くと屋敷の中に戻っていった。その場に残されたは彼の姿が見えなくなると、大きく息を吸い込んで、勢いよく吐き出した。
やっぱり琥珀さんを見ていると不安や恐怖や緊張が襲ってきて、不快になる。冷や汗は出るし感覚は鈍くなるし、考えてもいないことを口走ったりするし。怖い、琥珀さんの近くにいることは怖い。
だが同時に抗いようのない気持ちに襲われて、はまた息を吐く。
もっと琥珀さんと話したい。彼の話を聞いて、存在感を取り戻して、この現実に引き止めなきゃいけない気がする。そうでなければ琥珀さんは金剛さんが亡くなっても薄っぺらい人間のまま、死んでしまうんじゃないか。気付いたら消えて無くなってしまうような気がする。だから、助けないと。
それが出来るのは、自分だけしかいないような気がして。
診療所に担ぎ込まれたメイさんのインフルエンザの検査は陰性、他に目立った症状もなく、触るとやたら熱かった体温も計ってみると37.8度で、しかし既に鎮静剤を飲んでしまっていたので、先生はもう数時間待ってから飲むようにと解熱剤を1錠手渡し、「様子を見て異変があったらすぐに報せて」と言って送り出してくれた。
なのでまたお姫様抱っこで屋敷に戻ってきたふたりは、家の前が炊き出しで賑わっているのでを探した。がそれに気付いてメイさんを花壇の縁に座らせ、熱々の味噌汁をもらってきた。真冬のような気温に味噌汁の湯気がもうもうと立ち上っている。
「そっか、メイさん、疲れちゃったんじゃないですか。つらいこと、続いたから」
「かもしれない。私、包丁は見えなかったけど、絹田さんの横顔をばっちり見ちゃったのよ」
「さっき敬さんに電話したんです。そしたら、迎えに行くから待っててって」
「えっ、敬さん来てくれるのか」
「どうしても明日は都合つかないけど、明後日の朝には来てくれるって」
「……じゃあもう一晩、か」
たちを心配した敬さんは当然すぐに行動を開始、と牧がまた事件に巻き込まれていることを万が一にも漏れないよう手配をし、ふたりの家族に連絡をして謝罪し、事後処理のために事件に関わること全ての調査を開始したらしい。さらにメイさんがショックで高熱を出したことを伝えると、横になって帰宅できるように車を出すから、待ってて欲しいと言ってくれた。
「敬さん、何日かコテージ全部貸し切りにしちゃったみたい」
「え? だって今も利用客いるんじゃないのか」
「それを買収したみたい。2駅戻ると観光ホテルがあるから、そっちに無料で送迎付きだって」
「夏川敬えげつねえな……」
なのでコテージに泊まってていいよ、と言う敬さんの声は優しかったが、やはりちょっと緊張しているらしかった。はそれを感じ取ると、わざとらしいふざけた声で「早く迎えに来て。敬さんがいないと私たちなんにも出来ない」と言ってみた。
すると電話の向こうの敬さんの声が揺れ、鼻を啜る音が聞こえてきた。
自分でも信じられないよ。のその声聞いたら涙出てきた。オレも早く助けに行きたい。
そう言われての涙腺も緩んだ。
父親が死んでも泣けなかった琥珀さんのあの青ざめた頬、私たちは血の繋がりなんかなくても相手を思って涙が出てきてしまうのに、どうして琥珀さんは涙を流せなかったんだろう。どうして父親とそんな関係にしかなれなかったんだろう。どうして琥珀さんには死んだら悲しい父親がいなかったんだろう。
「ねえ紳一、今日はメイさんも同じコテージで、よくないかな」
人を想う気持ちの難しさにまた心が痛んでいたは、牧の手を取ってそう言ってみた。自分たちはカップルだし、メイさんはあくまでも友人であって家族とかではないのだけれど。だが、牧は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「もちろん。そんなの当たり前だろ。敬さん来るまでオレたちがメイさんを助けないと」
の涙腺はまたカッと熱を帯び、返事もせずに牧に抱きついた。
「え、どうした、大丈夫か」
「平気。紳一がいるから平気」
「お、おい……」
炊き出しの人々や、警察、屋敷の前は大人数でごった返している。なので牧はちょっと狼狽えたけれど、やがての体をくるむようにして抱き締め、そして頭を撫でた。
「オレも。と一緒にいれば、どんなときでも大丈夫って思ってる。3年前からずっと」
牧の腕の中では何度も頷いた。高校の3年間はいつでも一緒だったし、どんなときも力を合わせてきた。
改めて牧とは心が繋がっていると思えた。
非日常の夜空の下、は全ての不安を忘れ、恐怖を忘れ、ふいに湧き上がる自分の中の小さな勇気を感じた。大丈夫、私は紳一とずっと一緒にいられる。きっと4年間の同居もやっていける。たくさん話してたくさん迷って、それでも同じ方向を向いて歩いていきたい。
この、未だ冬から抜け出せない紫黄村には敬さんの迎えで別れを告げ、日常に帰ろう。