紫黄村の殺人

Chapter 2 : 紫黄村の殺人 13

時は1964年、昭和39年のことである。

世はアジア初の夏季オリンピックの開催に湧いており、戦争を知らない世代が続々と社会に出てきていた。新幹線やモノレールが開業し、一面の焼け野原だった記憶は遠く、次々と生活に便利な商品が現れ、人々は「未来とは今よりも必ず良くなるもの」と思い込んでいた。

そんな上昇気流の渦の中にいた東京の片隅で、深夜、橋の欄干によじ登ろうとしている女性がいた。

女性は単衣の着物姿で、まとめ髪は乱れ、夜の闇に腕の白さが際立っていた。

彼女が欄干によじ登ろうとしているのは、そこから飛び降りるためだった。下には落ちても死にそうにない緩やかな流れの川だったけれど、それよりもそのひどい悪臭に、水を飲み込んだらただでは済まないように見えた。だが、着物姿のせいでよじ登るのに手間取っていた女性は、突然仕立てのよい背広の人物に襟首を掴まれて引き戻された。身体がぐらりと傾く。

「何をしてるんです、やめなさい!」
「離してください、死なせてください、お願いします」
「君、そんな若い身空でこんなドブ川に落ちて死ぬなんて、馬鹿なことだよ」
「いいんです、あたしは馬鹿なんですから、ここで死ねばいいんです」

女性は暴れたが背広の男性に引きずり戻されると、地面に蹲っておいおいと泣き始めた。

……君、もしかして、花よ志さんとこの子じゃないのかい」
「えっ、あ、な、夏川様……!?」
「何があったか知らんが、こんなところから飛び降りるなんて向島芸者のやることじゃないぞ」

仕立てのよい背広の人物は夏川といい、華族出身の名家であるが、終戦後に特権を失い、以後は様々な商売に手を付けてその規模を拡大させている一族のひとりだ。彼はその中でも分家にあたる筋の人物ではあったが、それだけに仕事には熱心で、今も接待で飲みすぎて遅くなってしまったので、酔い覚ましがてら歩いて帰っていたところだったらしい。

一方の単衣の女性は向島花街の花よ志という置屋に籍を置いていた芸者で、背広の男性の顔を見た途端に夏川一族のひとりだと気付いて震え上がった。

だが仕立てよく高価そうな背広の夏川氏は地面にあぐらをかくと、女性の背中をさすり始めた。

「君、名前は? 本当の名前」
「スヱ子、です」
「一体何があったね。まだ二十歳にもなってないんじゃないのか、もったいない」
……あたしは、子供を、捨てたのです」

スヱ子はそう言うと、またさめざめと泣き出した。

「こんななりをしてますが、もう芸者はとっくにやめてます。あたし、お客様の子供を身籠ったんです。お客さんは喜んでくれて、一緒になろうって言ってくれたんです。あたしは親なしできょうだいもいなかったから、嬉しかった。だけどあの人は、あたしのお腹がどんどん大きくなってくると、それを嫌がるようになって、赤ちゃんが生まれるふた月前から連絡が取れなくなってしまったんです」

夏川氏はため息を付くと、涙に濡れたスヱ子の手を取って繋いだ。

「それで産んだはいいが、育てられなくて他所にやったのか」
「玉のように可愛らしい女の子だった。あたしのかわいい赤ちゃん、一ヶ月と一緒にいられませんでした」
「そうか……それはつらい思いをしたな。君ならいいおっかさんになっただろうに」

優しい夏川氏の声に、スヱ子はますます泣き出した。

「子供もなくして、仕事もなくて、アパートも追ん出されました。あたしはもう、死ぬしかないんです」
「なにを馬鹿なことを。そんなわけあるか。君、身体は? 健康なんだろう?」
「えっ、はい、病気は、してません」
「だったらその身体はまだまだ何かのお役に立つはずじゃないか。もったいない」

夏川氏は繋いでいた手を振り回し、叱るような口調になってきた。

「そんなことで命を捨ててはいけない。人は何もしなくてもいつかは必ず死ぬものだ」
「だけど、だけどあたしはもう自分のために生きる気力がありません」
「上等じゃないか。だったら人のために生きろ」
「え!?」
「よし、こうしよう、君は今ここで死んだんだ。君自身はもういない。あとは世のため人のために生きろ」

きょとんとした顔をしているスヱ子の肩を掴んで真正面から向き合うと、夏川氏は挑むような目つきでニヤリと笑った。スヱ子はまた震え上がった。言っている意味がわからない。

「というか君は炊事洗濯などは全部出来るね?」
「は、はい? 一応は……
「よろしい。スヱ子さん、君の生活は僕が面倒見るよ」
「なんですって!?」
「その代わり、頼みたいことがある」

東北の山奥からたらい回しの末に芸者となったスヱ子だったので、名家の紳士の申し出に素っ頓狂な声を上げた。数分前まで死ぬ覚悟だったのに、あれよあれよという間に話が飛躍していく。

「僕もこういう家の生まれなもので、腹違いの姉がいるんだ。彼女はひとり暮らしをしていてね。金は親父が送ってるようだけど、姉は身体が丈夫じゃなくて、目も悪くて、生活に難儀してるんだよ。君はその近くに住んで、彼女の手助けをしてくれないか。それで、余った時間を世のため人のために生きてくれればいい」

夏川氏の妙な迫力にスヱ子は思わず頷いていた。

「なに、難しいことじゃない。困ってる人がいたら手を貸し、悲しんでいる人がいたら共に泣きなさい。あなたが心を尽くして人の役に立てば立つほど、あなたが手放した娘さんの生きる世界はよいものになる」

またスヱ子の目から涙がはらはらと流れ落ちた。あたしの赤ちゃんのため――

「まあ、体裁は僕のお妾さんてことになってしまうだろうけど、それだけは勘弁してください」
「そ、そんな、あたしなど、もったいない」
「そういうのはやめた方がいいよ、君。これからの女は自分の力で生きていくものだ」
……そんなこと、出来るのでしょうか」
「もちろん出来るとも。人間は長いこと女を埋もれさせてきたんだ。こんなもったいないことがあるか」

特権を失ったとはいえ裕福な家に生まれたんだろうに、夏川氏が「もったいない」を連呼するのでスヱ子は少し笑った。娘を失って以来、死ぬことしか考えられなかった心が少しだけ浮き上がる。膝を叩いて立ち上がる夏川氏に手を引かれ、スヱ子もよろめきながら立ち上がる。

「あの、夏川様、あたし、お役に立てるように、頑張ります。もう二度と死のうなんて思いません」
「いいぞ、その意気だ。僕は月に一度は姉に会いに行くからね」
「はい。身命を賭してお仕えいたします」
「なんだよ、君はまるで武士だな。そんな世はとっくに終わってるぞ。刀は置きたまえ」

ドブ川の悪臭漂う東京の片隅の深夜に、ふたりの笑い声がこだました。

「その子供が珠子さん、なんですか?」
「どうもそうらしい。近所にもらわれていったらしく、八重洲でバイトしてたのは地元だったからみたいだな」
……昭和39年、15歳の墨田さんがひとりで島を出た年ですね」

敬さんが広げた報告書には、珠子さんとスヱ子さんふたりぶんの経歴が記されていた。

「環境が人を作るっていうけど遺伝も恐ろしいよな、スヱ子さんと珠子さんはそっくりだ」

スヱ子さんは自殺しようとしていた所を止められるという経緯で夏川氏の「愛人」となり、夏川氏には正妻がいたけれど、いつまでも関係は途切れることなく、彼の異母姉が亡くなった後も妾として生きた。夏川氏は先立つ前にはまとまった金を残して有言実行、スヱ子さんが病没するまでを支えた。

「夏川の一族ってそういう人が多いんですか?」
「まさか。たまたまだろ。オレの親父なら飛び込むのを見ても通報すらしない」
「あの、愛人て現在でいう愛人とは違ったんですかね」
「ロマンスはあったはずだけど……でもそもそも曽従叔父には正妻がいたし、子供も5人いたからね」

敬さんの記憶にあるスヱ子さんと夏川氏は、恋愛関係にあるというよりは、心からの本音を話せる親友のように見えた。なので夏川氏がやって来ると滞在は長く、宿泊はしないで帰る夏川氏だったけれど、深夜まで話し込むので学生時代の敬さんは帰るに帰れないことがたびたびあったという。

「スヱ子さんのことは、オレが居候してた家のご近所さんたちが詳しかったらしい。今では再開発で消えた街の人々だけど、調査員が探し出して話を聞いてみたら、知らなかった情報が山のように出てきた。あんなに長く同居してたっていうのに、オレの知らないことだらけだ」

敬さんは資料を眺めながら、鼻で笑う。それだけ長く一緒にいたというのに、敬さんとスヱ子さんの間には湿っぽい愛情なんてものは存在せず、まるで出来の悪い生徒と厳格な教師のような関係のままだった。

「今思い出しても笑い話だよ。スヱ子さんは療養所みたいなところで亡くなったんだけど、そこから葉書が来たんだ。亡くなる1ヶ月前くらいに。びっしり説教だよ。オレまだ怒られんのかよと思って笑うしかなかった。というか、オレもスヱ子さんが亡くなったって聞いた時、泣かなかったなあ、そういえば」
「悲しさを感じなかったんですか?」
「うーん、というより、長らくお疲れさまでした! って感じだったんだよな。世話にはなったけど厳しくて怖くてちょっと鬱陶しい先輩の卒業式って感じだった」
……それも、いい関係って気がしますね」
「そうだろ。オレはスヱ子さんを失っても大丈夫なように、育ててもらったんだ」

そうして運命は巡り、スヱ子さんが手放すしかなかった珠子さん、その子供、そして孫に出会った。敬さんの顔は晴れ晴れとしている。いつかどこかに置き忘れていた描きかけの絵を見つけたような、やるべき仕事が見つかったような、そんな表情だ。

「それは元を辿れば夏川の曽従叔父の教えだったかもしれないけど、オレに『真っ当に生きる』とはどういうことなのかを教えてくれたのはスヱ子さんだ。スヱ子さんが愛人をやりながらその使命に邁進する中で得たものだったと思うよ。だからオレは学んだ通りのことをするだけだ」

スヱ子さんの曾孫の治療については、琥珀さんと瑠璃さんが出頭し、全てが明らかになったら、改めて相談の予定。おそらく琥珀さんと瑠璃さんは当分家には帰れないだろうから、玻璃さんがマンションを引き払って同居するとのこと。

「スヱ子さんは言われた通りに曽従叔父に仕えただけの人生だったかもしれない。でも、あの人が自分なりに真っ当に生きてきたことが、巡り巡って自分の曾孫の命を救うかもしれないんだ。彼女が子供にしてやれなかったことは、こんな遠い時間を経て孫曾孫たちに届くんだよ。こんなかっこいいことあるか?」

誇らしげな敬さんに受け継がれたスヱ子さんの教え。それはこうしてまた牧やの中に流れ込み、ふたりの未来に種を蒔く。誰かが誰かの苦しみに手を伸ばすことは、いつかその身体が燃え尽きて灰になっても、巡り続ける。人の思いは血の中にではなく、心から心へと繋がっていくから。

「今度こそスヱ子さんはオレを褒めると思うんだよな」

嬉しそうな敬さんと一緒に笑いながら、牧は隣に座るの手を取った。

家族という言葉にはいつも「血の繋がり」がついて回る。けれど、どんな時でも家族というものは、手を取り合う他人と他人から始まるのだ。異なる他者と交わり合うこと、それを受け入れていくこと、何かを守り、育て、次に受け渡すまで。それが家族というもの、なのかもしれない。

の手に牧はそれを感じ、この繋がり合った手がいつか、家族というものの礎になることを願った。

琥珀さんと瑠璃さんは簡単に身辺整理を済ませたのち、約束通り出頭、逮捕された。

その一報に紫黄村はまた大混乱。村長と観光課課長の死を乗り越えようとしている真っ最中だというのに、再びセンセーショナルな事件の渦中に放り込まれ、押し寄せるマスコミの対応で目が回るほどだったそうだ。

事件の概要は牧が推理した通り。薬の代わりに瓶に詰められていたサプリや整腸剤を購入したのは翡翠さんだったそうだが、本当に父親の殺害計画を実行するとは思っていなかったらしく、彼女は兄と妹が罪を犯したと気付いていながらも黙っていたということで、証拠隠滅の疑いで一応逮捕された。

だが、幼い子供が入院中という事情から在宅起訴になり、のちに罰金刑が科された。

敬さんが首を突っ込んだことで金剛氏の遺産の相続はスムーズに進み、敬さんの提案通り土地を含む屋敷は村に寄贈され、事業などは一部廃業、玻璃さんが相続するのは主に金剛氏の個人的な資産と宝石コレクションで、それらも相続税のためにほとんど売却され、あとは子供の治療費にあてられることになった。敬さんの支援はその不足分や、必要な人材の紹介ということになりそうだ。

また、幼い子供の治療費のために起こってしまった事件ということが周知されていくと、ネット上では同情的な意見が多く見られるようになり、いつの間にか真珠さんのアカウントは閉鎖になっていた。

かつ、そんな悲しい事件のもっと悲惨な巻き添えになった村長と観光課課長を悼む声も増え、紫黄村へ旅行に行こうというムーブメントが静かに動き出し、折しも紫黄村は花の季節であったし、直後に控えたゴールデンウィークには観光客が押し寄せ、皮肉にも事件のお陰で手頃なリゾートとして知られることになった。

屋敷を今後どうするかについては観光課と敬さんが相談を繰り返しているそうだが、ひとまず水晶の社は撤去され、二色水晶はビジターセンターの片隅にひっそりと置かれることになった。

また、金剛氏が亡くなって本家が意味をなさなくなったことで、各地の都市部に追い出されていた式村の血縁の人々が帰郷を望むようになったとかで、大石さんの言っていた通り、「紫黄村」はまた新たなスタートを切ることになりそうだ。ひとまず牧とはグルメをアピールした方がいいと念を押しておいた。

そのふたりは気付けば入学式が目前に迫っており、慌ただしくフォーマルな装いで出席、晴れて学生になった。

にも牧にもたくさんの傷を残した事件で頭がいっぱいになっていたけれど、ひとたび学期が始まるとそんなことに気を取られている暇はなく、ふたりだけの新生活にもまだ慣れず、紫黄村の事件は急速に遠い過去のものになっていった。

その紫黄村の大混乱だけを残し、人々はまた日常に戻っていった。