紫黄村の殺人

Pre-story 1 : 旅路

青糸島での滞在2日目、午後。

実は雨や台風で頭痛がする体質だと言って、敬さんはソファに横たわり、やがて眠ってしまった。そのせいで静かにしていたので、もウトウトし始め、彼女もまたソファで眠りに落ちた。ふたりを静かに眠らせてやりたかった牧は、所在なさげな墨田さんを誘い、ストレッチをしないかと言ってみた。実のところ、気持ちは慌ただしいままだが、体はほとんど動かしていないのでだるさを感じ始めていた。天気が荒れてさえいなければ走りに出たいくらいだった。

「なんと、プロみたいなトレーニングをしてるんですなあ」
「年に数回、専門家に来てもらって指導してもらうんです」
「なるほど、こういう学生さんがやがてプロ選手になっていくんですねえ」

墨田さんはストレッチひとつにも感心しきりで、しかしアスリート用のストレッチにもついてこられるし、本当に70代なのか牧は疑わしく感じてきた。確かに顔にシワはあるし、腕はシミだらけだが、背中が曲がっているわけではないし、コテージに備え付けのヨガマットの上の墨田さんは実に動きが軽い。

「あたしはこの島の分校しか出てないですから、クラブなんかあってないようなもので」
「何か好きなスポーツとか、なかったんですか?」
「スポーツと言っても、よくわからんのですよね。島には当時テレビがなかったし」

東京オリンピックの年に島を出たという墨田さんは、島にいる子供時代にはラジオが精一杯だったと言って笑っている。島を出たあともテレビなんぞ買える暮らしじゃなかった、とまた笑った。なので牧が話す高校バスケットの話には目を丸くして聞き入っていた。ただそれを話すとなると、自分たちが日本で2番目に強いチームなのだと説明しなければならず、墨田さんは余計に牧を尊敬の眼差しで見つめ、スヤスヤと寝ているをちらりと見ては「敏腕マネージャーなんですな」と嘆息している。

「でも……これだけお元気で体もしっかりしてるんですから、運動に向いてたんじゃないかな」
「いやいや、体が動いたって頭がついていきませんよ。単に頑丈なだけ」

そうかなあ……と首を傾げたくなる牧だったが、この墨田さんの自虐癖はまだ高3の自分が何か一言言ったくらいで変わるものではないだろうし、それをしつこく否定しても無意味だ。牧は高校バスケットの話が終わってしまったので、今度は墨田さんの半生について話を振ってみた。事件解決の糸口になるかもしれないし、この様子では昔語りの説教が出てくることもないだろうし、聞いて損はない気がした。

「ええ、そうですよ、中学を出て就職。少ない求人でしたけど、それを親や先生が選んでね」
「えっ、自分で選ばないんですか」
「そうですねえ、自分で何かを決めることはまずなかったですね」

墨田さんは9人兄弟の末っ子で、五男。なので名前が松五郎。上には兄と姉が4人ずついて、物心ついたときには長男はとっくに大人になっており、しかし兄姉たちや親にすら可愛がられた記憶がないという。それだけ島の生活は忙しく、幼い子供に構っている暇がなかったのかもしれない。

「一番上の兄がとにかく厳しくて、『お母ちゃんはお前をおぶって働き、夜っぴてお乳を飲ませてたんだぞ』とよく怒られましたけど、当時のお母さんはみんなそんなもんでしたからねえ。兄や姉たちだってそういうふうに育てられたはずなんですが……

墨田さんが小学生くらいだった当時、彼の家には両親のほかに兄夫婦が2組、年上の甥や姪を含むその子供が数人、まだ分校に通っていた兄がひとり暮らしていたそうで、本人の記憶では「狭い家にひしめきあって、お互いを邪魔者扱いして暮らしていた」らしい。小中学生に相当する墨田さんの学習机はなく、宿題をこなす場所がないので、いつも少し早く登校して学校でやっていたと振り返る。この極端な自虐癖はそういう幼少期に由来するのか……と牧は内心大きく頷いていた。

やがて中学卒業相当になった墨田さんは、分校の先生と父親の意向で東京の奥地に就職が決まった。

「ずいぶん遠くだったんですね」
「ええ、当時はいわゆる高度経済成長の最中で、家が増えるから林業は儲かるいい仕事だって話で」

東京に就職できるなんてエリートだ、と言わんばかりに分校の先生と父親はその選択を気に入り、15歳の春の墨田さんはそれをペコペコと頭を下げて礼を言い、学生服に風呂敷包み、そして墨田本家の奥様から就職祝いで頂いた鞄に僅かな私物を詰め込んで島を出た。分校の卒業式の4日後だったという。

「もう古い話ですけど、あの頃ってのは本当に雑でいい加減な時代でしたねえ。あたしは島もろくに出たことがなかったですから、東京までは親戚のおじさんが一緒に行ってくれることになったんですよ。さすがに島を出るときは家族全員が見送りに来てくれて、北港には墨田の人たちがいっぱいいて、まるで出征でしたな。わかりますか、出征。戦争に行かされる人の見送りみたいな感じで、万歳三唱やら国旗を振るやら、どうにもこの島は時間が止まってましたねえ。都会はそんなこととっくに忘れてたんじゃないですかねえ」

しかし墨田さんは言いながらニヤニヤしっぱなしだ。

「にしても東京までは遠くてね。あたしが島を出た昭和39年はオリンピックだけじゃなくて、新幹線も始まった年でね、でももちろんそんなもの乗れませんから、長い時間をかけてえっちらおっちら、東京の山奥の会社の寮に着いたときにはすっかり夜になってました。また寮母さんが怖い人でねえ。15の子が遠い島からやって来たっていうのに、もう夕食は終わってるから食い物はなにもないよと言われて、あたしの独り立ちの第一歩は夕飯抜きから始まって」

牧は正直不快な気持ちになっていたが、墨田さんはまだニヤニヤしている。何がそんなに楽しいのか。

「ところがね、一週間ほどしたら、会社の方に島から電話がかかってきましてね、あたしを東京まで送っていったはずの墨田のおじさんが帰ってこないって言うんですよ。それでよくよく話を聞いたら、東京までの交通費と一緒に墨田の人たちからまとまった額の餞別があったらしいんですよ。そう、おじさん、墨田一同の僅かな餞別に目がくらみ、本土の都会に目がくらみ、島には嫁子供がいたっていうのに、そのまま行方不明になっちゃったんです。ね? 自由な時代でしょう?」

さもおかしそうに墨田さんは笑っているが、牧は苦笑いだ。自由で済む話なのか。しかし墨田さんの餞別を盗んで消えたおじさんの消息は知れることがなく、墨田さんは所持金ゼロで働き始めた。海に囲まれた島育ちだが、島の真ん中に山があったおかげで、戸惑うことはなかったらしい。

「だから今でも木材の扱いとか、慣れてるんですね」
「そうなんですよねえ。人生に無駄なことなんかないって、ほんとなんですよね」

しかし林業で働くだけの10代を送った墨田さんは、20歳の頃に山を下りることになる。実際儲かっていたらしい社長が従業員の給料ボーナスを払わないまま会社の金を全て持って行方不明になった。牧の渋い表情に墨田さんはまた笑う。おかげで怖い寮母さんを含めた全員が一晩で路頭に迷った。

「実家が近い人は少なくて、みんな手荷物だけ持って最寄り駅で途方に暮れましてね。幸い季節が良かったもんで、何日か路上生活しながらそれぞれ職探しに走り回って、寮や会社に残っていたものを売っぱらって飯を食ったり、今にして思えばちょっと楽しかったですけどね」

やっぱり墨田さんはにこにこしているが、牧は胃のあたりに不快感を感じずにはいられなかった。しかしこの時点で墨田さんはまだ二十歳。話が長くなりそうだ。

「今なら若い人の方が有り難がられるんでしょうけど、あの頃の若者っていうのは役に立たない半人前で、集団就職ならともかく、飛び込みでは使い物にならないんで最後まで残りまして、結局あたしを雇ってくれたのは隣の駅のキャバレーでした。キャバレーってわかります? 今のキャバクラなんかとはちょっと雰囲気が違うんですけどね、そこの、まあ下働きって感じですかね。基本的には雑用係です」

だがここで墨田さんは運命の出会いをする。

「男が男に惚れると言うんですかねえ、兄貴はとにかく面倒見がよくて、気風のいい男前でね。彼も店では若い方だったけど、そういう若い衆のリーダーみたいな存在で、右も左もわからないあたしをよーく面倒見てくれて、色んなことを教えてもらいました。実際の兄たちよりも兄と慕って、まあそれが結局あたしの人生を決めてしまったんですね」

どうにか潜り込んだキャバレーの下働き、その若い衆の中でも下っ端の墨田さんはとにかくその「兄貴」に導かれて思いもよらない人生を歩み始めた。兄貴は墨田さんが入ってきてから1年も経たないうちに、ごく親しい年下のボーイふたりと墨田さんを連れて店を辞め、既に話をつけてあった建設会社に転職した。それも墨田さんたちには何の相談もなく、断りもなく、有無を言わさずに引っ張り込んだ。だが墨田さんの言う「男が男に惚れる」で兄貴に心酔していた弟分たちは文句も言わず疑問にも感じず、兄貴が言うならと素直に従った。4人で狭い掘っ立て小屋のような家を借り、働いて帰ってきては安酒で酒盛りという日々はとにかく楽しかったと墨田さんはまた笑顔で振り返る。

しかし、墨田さんたちの心を掴んで離さない「兄貴」は責任感のある善良な人物ではなかった。

「その家ってのが、親方の口利きで借りてた家だったんだけど、兄貴が女作って出て行っちゃって、仕事もサボるようになったんで追い出されちゃったんですよね。兄貴は彼女に夢中だし、あたしらは兄貴がいなければ一緒にいる理由もないってんで、それぞれ職を求めて解散、あたしは寮がある隣町の工場に潜り込めたんですよね。そしたらまた1年後くらいに」

牧は遠慮なくため息を付いて「またですか」と言ってしまった。墨田さんが声を上げて笑う。

「知らないうちに兄貴の借金の連帯保証人になってたらしくてですね」
「なんで笑ってられるんですか」
「もう遠い話ですしねえ」

おかげで墨田さんは借金取りに追われる羽目になり、工場の他にアルバイトを掛け持ちして働いた。そうしてやっとのことで借金を返し終わったが、気付けば墨田さんは30代になっていた。しかし兄貴に振り回される人生はまだ終わらず、今度は「病気になったから治療費を援助してくれ」と言われた。

……そのへんで絶縁しそうなものですけど」
「とんでもない! 兄貴は恩人なんですから、助けない理由はなかったですよ」
「恩人……
「兄貴がいなかったらあたしは遠からず犯罪者にでもなってたでしょう。そうならずに済んだ」

だが工場の給料とアルバイトだけでは兄貴の求める金額には届かず、それを申し出ると兄貴が仕事を斡旋してくれると言いだした。それが高度経済成長の最終到達点であるバブル景気の、地上げ屋だった。

「地上げ屋わかりませんか? まあそうですよねえ。といってもそういう連中の使いっぱしりみたいな仕事しか回ってこなくて、やっぱりアルバイトを掛け持ちして、病気だっていう兄貴の援助をしてたんですけど、気付いたら兄貴はいなくなってて、どうやらまた彼女が出来たんで、そっちに転がり込んだらしいんですけどね」

兄貴が本当に病気だったかどうかは怪しいと思いつつも、牧はもう突っ込まなかった。墨田さんはここまでされても「兄貴」のことは恩人であり、尽くすべき相手だと今でも信じているようなので、それを糾弾しても仕方ない。それを否定することは墨田さんの人生を全て否定することにもなってしまう。

兄貴が逐電したことで地上げ屋をやる必要もなくなった墨田さんは、紹介を受けてまた建設作業員として働くことになった。一応経験者だし、林業の山奥から徐々に都心に移動していたので、兄貴に搾取されないぶん、収入や生活は安定していた――のだが、世の中がそれを許さなかった。

「バブル崩壊ですわ」
「笑い事じゃないですって」
「いやいや、笑うしかないですよ。あの時は建設業が大打撃でね」

事象というものは、どれだけ上昇が緩やかでも、いざ頂点に達してしまうと崩壊するし、その時は一気に壊れる。そういうわけであっさり失業した墨田さんだったが、転職にも慣れているし、既に流転の人生続きなので立ち直りは早かった。

「あの頃はコンビニが続々と増えて、若者にとってはちょっとしたおしゃれなスポットだったんじゃないですかね。そういう店に卸す食品工場はものすごく忙しかったんですよ。それから……ラブホテルの清掃がね、当時はずいぶん高給だったんですよ。しかもああいう施設ってのは忘れ物が多い割に、それを探しに戻ってきたり連絡をよこすお客がまずいなくてね、ちょっとした小銭や貴金属は回収して放置ってことが多くて、よほどの貴重品でなきゃ持って帰っちゃうってのが当たり前になってて、それも旨味でしたね。それに交通警備の日雇いバイトを入れるとけっこう稼げたんですよ」

ここに来て牧は墨田さんの「人生に無駄なことなんかない」という言葉を思い出し、本当に墨田さんの人生が現在のアルテア・ブルーでの生活に結実していっているのを感じて身震いをした。そろそろ墨田さんの半生は島への帰還まで20年に迫ろうとしている。

「なもんでしばらく気楽な生活をしてたんですが、また突然兄貴から連絡がありましてね。今にして思うと兄貴はなんであたしの連絡先を知ってたんだろうと思うんですが、まあとにかく今度はキャバクラです。昔のキャバレーと違って派手なお嬢さんをいっぱい雇ったおしゃれな店でね。そこで雇われ店長になりまして、そこで長く働きましたね」

そうして延々キャバクラの雇われ店長だった墨田さんだったが、店はやがて傾き、墨田さんの人生を振り回した兄貴は事故死、今度こそひとりきりになってしまった墨田さんはもう正社員で働ける年齢ではなくなっていた。しかし相変わらず病気もせずに体力もある状態だったので、また交通警備に戻った。

そこに遠く記憶の彼方で揺らめいていただけの青糸島にリゾートホテルが出来るらしい……と耳にしたのは偶然だったそうだ。親族とも疎遠で結婚もしなかった墨田さんには兄貴以上に親しい友人もおらず、しかし人恋しいという感情を持ち合わせていなかったので、淡々と孤独な日々を生きていた。だが激しい職歴がゆえに「知人」はとにかく多かったそうで、その中のひとりが「墨田さんて確か青糸島っていう島の出身じゃなかったですか?」と連絡をくれた。アルテア・ブルーの建設に関わっていた人で、現地にも足を運んだところで墨田の名を聞き、思い出して連絡をくれたらしい。

「すぐに求人担当に連絡をしました。最初は高齢だからどうですかね……って感じの反応だったんですが、翌日すぐに青井さんが電話をくれましてね。よかったら面接に来てくれないかと。しかも面接は東京でって話だったし、連絡をもらって一週間くらいのうちにアルテア・ブルーへ行くことが決まりました。不思議でしたね、15で島を出て以来、帰ることもなかった島で、良い思い出もない島なのに、あんなに心が踊ったのは人生で初めてだったかもしれません」

15歳で島を出た墨田さんは末っ子で、両親にとっては予定外の遅くに出来た子供で、しかし特別に可愛がってもらうこともなく、盆暮れ正月には帰省をした方がいいのかと兄に尋ねてみても「帰って来ても寝るところはないし、お前をもてなしてやるほど余裕もないし、仕送りもしないのだから、お客様待遇してもらえると思ったら大間違いだぞ」と言われたので、帰らないようにしていた。

それを兄貴に話すと、彼は「なんて冷血漢だ。それが血の繋がった家族の言うことか。そんなやつのことは放っておけ、お前の兄貴にはオレがなってやる」と憤慨した。せめて両親の誕生日には贈り物をしていた墨田さんだったが、お礼の電話ひとつ、近況を報せる葉書ひとつ来ないので、兄貴にやめろと言われてやめてしまった。

そうして兄貴にくっついて20代をやっている間に父親が亡くなったが、そんな状態だったので事後報告だったし、荼毘に付されて2ヶ月も経った頃に本家の奥様から葉書が届いて知る始末だった。母親が死んだのはそれから数年後だったけれど、それを知るのはさらに数年後。墨田さんは青糸島の出身ではあったが、青糸島の人間ではなかった。

だというのに、無人の青糸島に帰るということは墨田さんの心を踊らせ、弱り始めていた気力を蘇らせた。

「なんでだったんでしょうねえ、15年……記憶にあるのはほんの10年程度の故郷でしかないのですが、嬉しくて仕方なかったですねえ。笑っちゃうんですよ、住んでいたアパートを引き払ってこの島に移住するっていうその日は興奮で眠れなくてね。島に降り立った瞬間、まるで自分が若返ったみたいな、子供に戻ったような感じがしてね、思わず走り出してしまったんですよ。もしかしてあたしは、本当は……島を出たくなかったのかもしれません。だから戻ってこられて嬉しかったのかも」

体を伸ばしながら言う墨田さんを見つめながら、牧は思った。

墨田さんは本当は島を出ずに生きることを望んでいたのかもしれないが、彼の人生は全てアルテア・ブルーに向かっているかのようだった。彼の人生には本当に無駄な時間は少しもなく、兄貴に振り回された人生のようでいて、青糸島への帰還という結末に向かっていた。

林業と建設作業員の経験がホテル内のどんな修繕も可能にし、長い水商売の経験が厨房やバーでの仕事や接客に繋がり、ほんの高給なアルバイトでしかなかったラブホテルの清掃業がアルテア・ブルーでも活かされ、交通警備や掛け持ちのバイトに培われた底なしの体力が今も彼を支えている。

牧は改めて思った。本当にこれは自虐すべき人生だろうか。

確かに兄貴には振り回されたし、自分の家族も持てなかったし、ひとつの職を新人から定年まで勤め上げることもなかった。しかし墨田さんの人生はいつか生まれ故郷に帰って活き活きと日々を送るために必要なことを習得し続けた長い旅だったかのようだ。それは島に残っていたら得られない人生のラストスパートだった。もし本土に出ることなく暮らしていたら、やがて島での生活は限界を迎え、二十歳の頃よりもよほど潰しのきかない年代で外に出なければならなかったかもしれない。兄貴という人生を捧げるほど心酔できる相手にも出会うことはなかっただろうし、引っ越しの前夜に眠れなくなるほど心が踊ることはなかっただろう。

やがて青糸島は無人島になり、いくつもの廃墟と深い自然が風に揺れるだけの場所になった。そこに新たな時代を拓くために彼は島の外に出て、そしてまた戻る運命にあったのでは。

牧はついそんな想像をして鳥肌が立った。

そして、そんな長い旅の末にたどり着いたアルテア・ブルーが今、危機を迎えている。青井さんという仲間を失ったこと以上に、この島が旅の終着点でなくなってしまうかもしれないことが墨田さんにはつらいに違いないと思った。

「船を出してくれる人がいるらしくて、今でもしょっちゅう島に渡っては掃除とか、してるみたいだよ」

10月、国体が終わり、中間テストを控えた金曜の夜。国体も観戦していたらしい敬さんは「お仕事モード」のまま湘南までやってきて、と牧を食事に連れ出した。場所は鎌倉のローストビーフの名店。高級食材しか出てこないコースにふたりはビビり気味だが、敬さんは赤ワインを片手にリラックスモードだ。

そこで青糸島で一緒だった人々のその後についての話が出た。山吹さんが雇えとしつこいとか、紅子さんがSNSに島での詳細を書きまくっていて先日とうとう弁護士を飛ばしたとか、そんな話の末に、墨田さんとみどりさんの話になった。ふたりは港に近い墨田さんのアパートの縁側で弁当と惣菜の店を始めたらしい。港で働く人々や近所の高齢者に好評で、敬さんはプレハブ小屋を建てて店にしたらどうかと考えているようだが、ふたりはあくまでもアルテア・ブルーに戻るまでの「繋ぎ」だと言っているらしい。

「墨田さん、島に戻りたいんでしょうね……
「そういえば紳一くんは墨田さんとかなり話し込んでたよな」
「ストレッチしながらでしたけど、墨田さんの半生を全部」
「それはすごいもんを聞いたな。履歴書だけでもかなり激しかったのに」

と敬さんが興味津々という顔で身を乗り出してきたので、牧は記憶を頼りにざっと墨田さんの話を繰り返した。途中何度も想像で補った部分はあったけれど、墨田の千草の件といい、墨田さんの記憶も完全に正確とは言えないかもしれない。ただ牧としては、彼の人生は全て青糸島に向かっていたということが伝わればいいと思っていた。

「激しいとかいうレベルじゃねえな」
「現代は心の冷たい時代だ、昔は人情があったとか言うけど……昔だって冷たい人はいっぱいいたよね」
「その『兄貴』って人だって、墨田さんを本当に可愛がっていたかどうか」
「まあ、そういう強い絆で結ばれた男同士の親友とか先輩後輩って、昔はよくいたんだよな」

10代の頃、横浜で自称「やわらかくグレていた」らしい敬さんは苦笑いだ。サンプルをたくさん知っている……という顔をしている。

「今でも運動部の男子とかによくいるよね、そういう人」
「特に墨田さんはそんな子供時代だったんなら、兄貴が家族のように思えただろうね」
「ていうか、なんでそんなに親御さんやお兄さんたちは冷たかったんだろう……

スパークリングワイン……ではなく、ノンアルコールシードルのグラスを手に首を傾げるに、敬さんは鼻で笑う。

「実の親子でも憎み合い殺し合う……なんてこともあるしね」
「でもそれだけ家族がいて、誰も墨田さんと仲良く出来なかったって、変じゃないですか?」

墨田さんにだってよちよち歩きの可愛い頃があったはずだ、8人も兄姉がいて誰も墨田さんに興味がなかったなんておかしい、とはちょっと不服そうだ。ましてや親が死んだことも知らされず、里帰りもするななんて、そりゃ兄貴も怒るはずだと。それは牧も考えないでもなく、理解の至らない遠い時代の人々の心について、ひとりになるとぼんやりと考えることがあった。

「オレの想像でしかないですけど、いい話前提で想像をすると、数十年後には無人島になる島で生きるより、どんどん発展する都会で楽しく暮らしてほしいって思っていたとか」

確かにそんな「冷たさの裏に愛情」なんていう人情噺はありふれている。しかし親の死からも締め出す理由になるだろうか。敬さんはワイングラスをテーブルに戻すと、少し目を伏せた。

「もしかしたら、親ふたりはそんなこと考えてなかったのかもしれないよ」
「どういうことですか」
「墨田さんが君に語ったのはいつも一番上のお兄さんの言葉だ。彼の独断だったのかも」
「ええと、長男が末っ子を追い出した、ということですか」
「近代ではもちろん考えられないことだけど、遠い時代にはあり得ないことじゃないと思うよ」
「でもなんでそんなこと……
……貧しかったから、じゃないのかな」

実感の伴わない想像にと牧はちょっとだけ俯いた。

「親御さんは墨田さんが若い頃にどちらも亡くなったみたいだし、てことはだいぶ遅くに出来た予想外の末っ子だったんじゃないのかな。長男は老いた両親に代わって家長になっていたのかも。兄さんの家族も一緒に暮らしてたっていうし、どんなに少なくても10人以上があの島の集落のひとつの屋根の下で暮らしていたら……それは厳しい暮らしだったと思うよ。昔の社会では通常、家の舵取りをするのは長男で、それ以外は外に放り出されるのが普通だったからね。子供が簡単に死ぬ時代だから、みんな予備なんだよ。それがみんな育ち上がっちゃったらとてもじゃないけど暮らしが立ち行かない。家が生き残るためには予備には外に出て自力で生きていってもらわないとならない」

両親はもちろん、墨田さんの兄弟姉妹も全員他界しており、島に里帰りすることもなかった墨田さんはそれ以上に親しい親戚もおらず、無人島になるまでに本土に散らばっていった墨田の人々も消息が知れない。誰の思惑か島から完全に切り離された墨田さんはいつしか墨田唯一の生き残りになっていた。

「それに、もしかしたら一番上のお兄さんは、島から出ていく弟や妹が羨ましかったのかもしれないよ。墨田さんの長兄って言ったらギリギリ徴兵を免れたくらいの年代かもしれないし、そうしたら青春時代は戦中戦後だし、それが過ぎたら結婚して家を継がなきゃいけない。島に縛られていたお兄さんには、墨田さんの未来は完全に白紙で、なんでも自由に出来るように見えたかも」

何も持たずに島を出た墨田さんだったけれど、島から出られない兄の目には自由という名の全てを持っているように感じられたかもしれない。自分の人生を選択できる、自分の力で生きていける、それだけが憎しみに変わるほど羨ましかったのかもしれない。

……青糸島は、墨田さんの最後の家族かもしれないんですね」

だというのにアルテア・ブルーは再開の目処が立たず、墨田さんが島に戻れる日はまだ遠い。場がしんみりしてしまったので、敬さんはワインをおかわりすると、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「だとしてもこれだけ流転の人生、そのどこにも墨田さんには恋愛や結婚のエピソードがない。古い時代だからこそ周囲の人々はそれをしつこく勧めたはずだし、当時は結婚してはじめて一人前って社会だったから、その流れに乗らなかった、ってのは余計な想像を巡らせるね」

ふたりがきょとんとした顔をしたので、敬さんは少し声を潜めた。

「墨田さんは、本当の意味で、兄貴が好きだったのかもしれないな、とね」
……だけど、兄貴はいつも女の人と」
「それだけ愛されずに育ったから、自分の感情の掘り下げなんてこと、出来てなかったのかもよ」
「ありえるかも、しれませんね、墨田さんなら」

湘南の夜はすっかり夏の香りを失い、暮れた空の潮風が庭木を揺らす。また少し俯いてしまったふたりに敬さんは優しい声で語りかけた。

「血が繋ってるだけで『家族』になれるなら、誰も苦労しないんだよな」