たちが30階に移動してから20分ほど経った頃、馬場氏の隣の部屋の利用客から「隣の部屋でものすごく大きな音がしている」とフロントに通報が入り、まずはスタッフが内線をかけた。しかし反応がないので、実際に部屋まで行ってインターホンを鳴らし、ノックをしたが、やはり無反応。
プレミアムクラス担当のスタッフは商談のついでに宿泊の馬場氏が階下に部下を泊まらせていると聞いていたので、そこに内線で連絡を取ってみると、例の金切り声の白鳥さんと、コンビニ袋の男性がすっ飛んできた。だが馬場氏は携帯も無反応。
隣の部屋の利用客によれば、壁を固いもので何度も殴りつけるような音がしばらく続いて、5分ほど前からそれが聞こえない、という。緊急事態を疑ったスタッフがマスターキーでドアを開け中に入ってみると、普段より数倍増しで真っ赤で腫れ上がった顔の馬場氏が床に倒れて痙攣していた。
なのですぐに救急搬送されたのだが、状況を怪しんだスタッフが通報、警察がやってきた――ということらしかった。そして直近で馬場氏と接触のあった牧、、敬さんが呼び出されてしまったというわけだった。メイさんたちはまた廊下の向こうで様子をうかがっている。
「私たちが中に通された時は特におかしなことは……」
「あ、テーブルの上に大金が積んでありました。たぶんこの散らばってるやつじゃないでしょうか」
淡々とした態度の警察官に戸口で事情を聞かれていたと牧は、ちらりと室内を見て腕を組んでいた。馬場氏の部屋は荒れている――というか半壊滅状態だ。床の上には一万円札が散らばっていて、バスルームに繋がるドアのあたりは水浸し、奥の部屋の床にはキラキラ光るものが散乱している。おそらく割れた鏡だ。まるでこの部屋だけ爆発してしまったかのような大惨事。
壁の薄い安ホテルじゃあるまいし、通常人間が立てる物音、適度な音量の喋り声くらいなら、隣の部屋になど音は聞こえなかったはずだ。だがここまで室内が荒れるほど馬場氏本人や誰かが暴れたのなら、それはかなり大きな音がしたことだったろう。
「では室内には君たちふたりと、保護者代理のあなたと、馬場さんしかいなかったんですね」
「といっても、ドアは開けっ放しで、僕たちの連れが廊下で待機していました」
「あとは途中であの白鳥さんという方が色紙を持ってきただけです」
「その後、我々が退室した直後にあの男性が戻ってきたくらいですかね。ほぼドアの前ですれ違いました」
、牧、敬さんは代わる代わる答えていく。事情を聞きに来た警察官は、素人には「おまわりさん」にしか見えない制服で、事務的に話を聞いている。
警察からの事情聴取というと、白蝋館や青糸島でちょっと慣れてしまっているたちだったが、それらに比べるとずいぶん優しいな、と思っていた。白蝋館の時は勝手に容疑者を追い詰めたり拘束するなどをしたので敬さんがちょっと怒られ、青糸島の時は犯人を追い詰めた上に崖から飛び降りられてしまい、さらにそれを追って牧まで飛び込んだことで、かなりきつめに怒られた。
一応今回は被害者が亡くなっていないし、たちはほんの10分ほどこの部屋に滞在しただけなので、怒られる理由もない。なので警察官に事情を話し終えると、牧は敬さんに詰め寄り、「そういうわけで探偵の出番はありません」と真顔で言い放った。
「もったいぶるなよ白米探偵」
「その白米ってのやめてください」
「なんで白米なの?」
部屋に残っていてもソワソワするだけなので、メイさんたちはまた廊下で待っていた。一応たちが馬場氏の部屋に連れ込まれている間に通りかかった人物を証言出来るわけだが、その内容は「ホテルのスタッフが3人、利用客と思しき男性がひとり通り過ぎました」だけなので暇になって首を突っ込んできた。
「白蝋館の時も青糸島の時も、犯人の目星がついたとき白米食ってたんだよ、この子」
「やだ何その設定。いつかミステリ書くときに使っていい?」
「設定じゃないです偶然です。てか白蝋館の時は食べ終わったあとです」
探偵と呼ばれることも面白くないが、それがバスケット無関係の白米であることはもっと面白くない。
「ていうか急病で錯乱しただけじゃないの? 暴れ過ぎだとは思うけど」
「ですよねえ……」
だが警察官たちはたちに帰ってよいと言わない。今夜はこのホテルに宿泊するということは伝えてあるのだが、待ちぼうけを食ったままだ。事情を聞いていた警察官によれば、馬場氏の異常に隣室から通報が入ってからはそろそろ2時間ほどが経過しようとしている。
すると今度は室内から白鳥さんともうひとりの男性の部下がまろび出てきた。
そこにすかさず敬さんが声を掛けると、ふたりは慌てて襟を正して頭を下げた。
「さきほどは大変失礼を……白鳥と申します」
「これはご丁寧に、夏川と申します」
「えっ、なつ、夏川、グループの代表!?」
「あ、あの、私は熊井と申しまっ、大変、失礼を!」
馬場氏は敬さんの名刺をもらっても無反応だったが、ふたりは仰天している。親しいので忘れがちだが敬さんとは本来こういう人物だった。なので話を聞きたい時は特に便利である。
「それで……馬場さんどうしたんですか」
「それがその、アナフィラキシーショックらしいという話で、社長は蕎麦にアレルギーが……」
「ああ、そうでしたか!」
「そうだったんですか……オレ知らなくて……」
熊井さんの方は蕎麦アレルギーだと知らなかったらしく肩をすくめたが、後ろから覗き込んでいたメイさんたちも含め全員が納得して大きく頷いた。馬場氏は真っ赤に腫れ上がった顔をしていたと言うし、何らかの理由で蕎麦を口にしてしまい、アナフィラキシーショックを起こしたのだとしたら、この大暴れはわからないでもない。予期しない呼吸困難は特にパニックを起こしやすい。
「ご容態はいかがなんですが?」
「それはなんとも……蕎麦は近付けないよう気を付けていたのですが……」
「ああ、だから昼間ロビーで和食とフレンチはダメと」
「ええ、はい、その節は大変ご迷惑を……」
和食とフレンチは蕎麦粉を使う可能性がゼロではないという白鳥さんの判断だったのだろう。それに馬場氏本人も牧に中華を奢ってやるとしつこかった。中華も一般的には安全圏と言える。
「でもそれだけ気を付けていらしたら混入しようがないですよねえ」
「と思いたいのですが、社長は身の回りのことはずぼらで」
「熊井さん!」
「まあ、バッグの中身をベッドにぶちまけるような方でしたしね」
「私たちが管理するにも限度がありまして」
馬場氏の様子を思い出すと、納得の人物像だ。ぶちまけたバッグの中身に蕎麦粉が付着していそうなものはなかったよな……と牧は首を傾げた。ベッドの上にぶち撒けられたのは、大量のレシート、丸まったハンカチ、ゼムクリップ、鍵、手帳、筆記具、ガム、インスタントコーヒー、角砂糖、割り箸、靴下、小型ラジオとイヤフォン、そして、とにかくキャンディーが大量。それもバラバラのプラ個包装のまま。ゴミも大量。
「お恥ずかしながら、社長は異常に甘いものが好きでして……」
「糖尿病を患っているので控えるように言っているのですが……」
「そんなことあなたたちが言ったところで、聞きゃしないでしょう」
敬さんの苦笑いにふたりは深く頷いた。
「なのでさっき、僕が買ってきたのも甘い缶コーヒーでして」
「すると……馬場さんはあのあと、その缶コーヒーしか口にしていないということですか?」
「おそらくそうだと思うのですが……あとは手持ちの飴くらいは食べたかもしれません」
白鳥さんによると、馬場氏は年齢にしては大食漢だそうだが、ルームサービスは頼んでいなかったようで、あるいは自分で何か食べに行ったり買ってきたりということも、「大の面倒くさがり」なので考えにくいとのことだ。それに、たちには知らされないだろうが、カードキーの情報が開示されれば、馬場氏が部屋を出入りしたかどうかは確認が取れるだろう。
そんな雑談をコソコソしていると、さきほどの警察官が首を突っ込んできた。馬場氏は一命を取りとめ、ひとまず命に別状はないとのことだ。熊井さんが大きく安堵の息をつき、輪を離れてどこへかと電話をかけ始めた。だが、それを見ていた白鳥さんは反応が弱い。
「どうしました、白鳥さん」
「あっ……、すみません、その、いつまでこうして振り回されるのかなと、思ってしまって」
「仕事上のご関係ですしね」
「社長は独身で、私を家政婦のように扱うものですから」
「……そうでしたか」
と牧は「そんな職場、辞めちゃえばいいのに」と内心思ったけれど、ふたりにはわからない「大人の事情」というものがあるのだろうかと口にはしなかった。あんな風に怒鳴られて馬鹿にされて、それを我慢しても馬場氏に仕えていたい理由とはなんなんだろう。もしかして給料がすごくいい、とか?
すると部屋から出てきた警察官が白鳥さんに声をかけてきた。
処置が進んで話せるようになったらしい馬場氏が「部屋には誰も入れていない、缶コーヒーを飲んだら苦しくなった、口にしたのは缶コーヒーだけ」と証言しているそうで、さらに「白鳥を連れてこい、部屋の荷物を忘れるな」と言っているらしい。淡々とした様子の警察官だったが、ちょっと困り顔だ。たちもみな一様に困った顔になった。家族がいないからといって、部下をそんなふうに使っていいものだろうか。
「もう一度確認しますが、缶コーヒーは熊井さんが購入したんですよね?」
「わ、私、蕎麦なんかくっつけてないですよ! コンビニで買ったものをそのまま」
だがそれは疑いの余地がないようだ。警察官はまあまあと宥め、馬場氏の命に別状はないし、事件ではなく事故のようだから、これから病院に行って本人に事情聴取をしたら終わりになると思います、と会釈をしてくれた。たちも白米探偵の出番がなくて済みそうなのでホッとしていた。
「じゃああの、荷物はまとめても構いませんか」
「大丈夫ですよ。カードキーの履歴からご本人の出入りもなかったと確認が取れましたし」
「どこかで蕎麦がくっついちゃったんですかねえ」
警察官と白鳥さんたちはつい笑っているが、かといって半壊状態の室内がもとに戻るわけもなく、おそらく白鳥さんは馬場氏の後始末、熊井さんはホテルと交渉なんだろうなあと思ったはつい一歩進み出た。
「あの、お手伝いします」
「えっ!? そんな、申し訳ないです、ご迷惑かけたのに」
「みんなでやれば早いですよ」
敬さんは驚いた顔をしていたが、牧がすかさず顔を突っ込むと、やれやれとため息をついた。いい子なのは大変結構だけど、こういう真面目さはオレにはない……とでも言いたかったのだろうが、ニヤニヤ笑いのメイさんに肩を撫でられると黙って部屋の中に入った。
ひとまず部屋の残骸は措くとして、まずは馬場氏の私物をまとめなければならない。おそらく馬場氏はあの現ナマが手元にないことが気になって仕方ないのだろう。なので優先的にかき集めたが、そもそもほとんどが帯封で守られており、一部が散乱していただけのようで、熊井さんが数えたところ、不足はなかったらしい。水濡れや破損もほんの数枚。
というか牧にサインをねだったときにブチまけたバッグの中身はちゃんと自分で戻したらしく、その殆どがソファの上のバッグの中にあった。床に落ちているのはレシート数枚、ゼムクリップ、角砂糖とキャンディーがいくつか。なのでテーブルの上から散らばった一万円札以外はほぼ破壊された鏡や椅子の破片のようだ。しかし何か忘れ物があるとまた白鳥さんが怒鳴られるかもしれないので、隈なく確認して回る。
「鏡……椅子で破壊したんですかね」
「暴れる前に助けを呼べばいいのにね」
「……頭に血が上りやすいんです。それに、怒ると物に当たる癖があって」
鏡が粉々に割れたドレッサーを眺めていた牧と島さんの傍らで白鳥さんが俯いていた。薄汚れた皮のバッグを胸に抱いた白鳥さんについ心が動いてしまった牧は、ちょっと声を潜めて言ってしまった。
「そこまでして馬場さんに仕えなくても……辞めることは出来ないんですか」
見たところ白鳥さんは30代半ばといったところ。牧の目には馬場氏の会社なんか辞めたところで、まだまだいくらでも人生仕切り直せるように見えた。だが白鳥さんはギクリと身を震わせると、少しだけ渋い表情をした。
「……私程度の人材だと、再就職も厳しいから。将来有望な君とは違うよ」
「……そんなこともないですけど。何の保証もない夢を追いかけてるだけの不安定な学生なので」
白鳥さんを哀れに感じたのが声に出たのだろうか、それなら敬さんに――と言いかけた牧の腕を、島さんが掴んで止めた。なので白鳥さんはその場を離れ、床に散らばった角砂糖を拾い集め始めた。
「紳一くん、あの人、なんか引っかからない?」
「……まあ、確かに熊井さんに比べると、白鳥さんは何かありそうですよね」
事件だと思うと興奮が抑えきれないのか、少し頬の赤い島さんを促して牧は入り口ドアのあたりまで下がった。
「もどかしいな、彼女の様子に違和感は感じるけど、僕にはそれがなんなのか、さっぱり」
「オレだってわかんないですよ。誰かが出入りした形跡はないし、馬場さんだって缶コーヒーを飲ん――」
また白米探偵を蒸し返されたのかと思って不貞腐れた牧は、ポケットに手を突っ込んでカクリと頭を落とした。その瞬間、言葉を切ってしまったので、島さんが喉を鳴らすのが聞こえてきた。
「どうした、何か、気付いた?」
「……これ、紙コップ、ですよね」
牧の足元には紙コップが転がっていた。顔を上げると、無惨に鏡が割れたドレッサーの上にはティーセットが置いてあり、ティーバッグとマドラーやスティックシュガーと一緒に紙コップが置かれていた。鏡は粉々だが、ティーセットは無傷のようで、小さなケースに入れられたコーヒーフレッシュも転がり落ちていない。
「異変を感じた馬場さんは……どう動いたんですかね」
「普通はバスルームかなあ。バスルームもびしょ濡れだし、顔を洗ったとか」
「この水濡れはその時のものでしょうね。でも苦しいままで、水を垂らして混乱しながら部屋に戻った」
牧と島さんの視線がバスルームからベッドルームの方に戻っていく。
「どんどん症状が悪化して、パニックになって、椅子を掴み、振り上げる」
「鏡を割り、壁にも叩きつけて、テーブルの上の札束もひっくり返して……」
「それは、コーヒーを飲んだ後なんですよね?」
「本人はそう言ってるらしいね」
「熊井さん、すみません、ちょっといいですか」
牧に声をかけられた熊井さんと、彼と破損したお札を数えていたが入り口ドアのところまでやって来た。
「どしたの、紳一」
「熊井さん、馬場さんに買ってきたコーヒーって、どういうものですか?」
「どういうって、普通の缶コーヒーだよ」
「商品名とか、覚えてませんか?」
怪訝そうな顔をした熊井さんだったが、ひょいと肩をすくめて口を尖らせた。
「商品名はちょっと。赤い缶だったと思うけど、社長は本当はあれが好きなんだよ、男の人の顔が描いてある昔からある甘い缶コーヒー。でも一番近いコンビニにはなくて、しょうがないから別のを。でも微糖だったみたいで、怒られたけど。うん、そう、あったかいやつ。今日寒いしね」
熊井さんに礼を言うと、牧はの手を引いて引き寄せ、島さんとも顔を近付けた。
「なに、やっぱり何か気付いたの、探偵」
「残念ながら。ていうか確信はないですけど。なのでちょっと罠を」
「犯人をあぶり出すの? 危なくない?」
「柴さんがいるから大丈夫じゃないかな」
心配そうに眉を下げたを抱き寄せ、牧はちょっと笑ってみせた。
「それに、どうしてもこれ以上の罪になってほしくないから」
頷くと島さんの脳裏に、南雲志緒と青井実の面影が浮かんだ。