金剛氏の遺体は警察から返還されてすぐに火葬され、彼の遺骨は現在翡翠さんの自宅に安置してあるらしい。とはいえ、それに線香を上げたいとかいう申し出も不自然なので、敬さんは志津夫さんを介して正直に「事件のことについて話したい」と申し出た。場所は夏川グループ本社。
「……そうか、ここで働くのか」
「そういう予定だけど……既にちょっとビビってる……」
「、オレ、限界までバスケ続けていいよな?」
「結婚もしてないのにいきなりそれ」
2日後、ふたりはラ・グロワールでの会のために見繕ってもらった服で身を寄せ合いながら、1階ロビーで5階分の吹き抜けを呆然と見上げていた。エントランスにあるフロアガイドに並ぶ表示を見ても、一体夏川グループがなんの業務を行っている会社なのかさっぱりわからなかった。
というか指定の時間にやって来たものの、ロビーには駅の自動改札のようなゲートがあり、ふたりは為す術もなく立ち止まっていた。ここからどうすればいいの……敬さんはこういうところが雑……
なので敬さんの秘書と思われる人物に声をかけられると、ふたりとも驚いて5センチほど飛び上がった。
「ごめんて……オレがフラフラ出ていくわけにも行かないからさ」
「さっきの人に『4年後が楽しみ! 時間ないからビシバシ鍛えてあげる』って言われたんですけど……」
「そうなんだよな〜。がここに就職したとしても、彼女はその時55歳」
「てっ、定年までに、を使えるようにしなきゃいけないんですね……」
「なんで笑ってんのそこ! 笑い事じゃないんだけど!」
10年もかからずにキャリア30年以上の職業人の跡継ぎにならなければならないなど、どう考えてもスパルタ教育が待っているだけだ。牧だけでなく敬さんも肩を震わせて笑っている。
敬さんのオフィスはしかし、想像より遥かに簡素で、ふんだんに金を使いました! という様子は皆無。最上階ということもなく、秘書室とお抱えのIT技術者の部屋の間に敬さんのオフィスが挟まっているような状態。なので応接セットはまた別の部屋にあり、さながら敬さんの仕事場はアリの巣のようになっていた。
その一角にいくつかの会議室が並んでいて、今日はその中の一室を借りている。
「よかったんですか、こんなことでお借りして」
「まあ、常に全室使用中ってわけでもないからな。明るいし、広いし、落ち着いて話せると思うよ」
敬さんのオフィスは全体的に明るくて清潔感があり、安易なイメージの「社長室」にありがちなどっしりと重厚で近寄りがたい雰囲気はない。フロア全体が働く人々の声や物音で溢れており、その中心に敬さんがいるような、そんな場所だった。
遠くない未来に自分もここにいるのかと思ったは、窓の外を眺めながら身震いをした。
「……敬さん、いつもここにいるんですね」
「親父の代まではもっと大きな企業だったんだよ。海外にも支社があってね」
「縮小しちゃったんですか?」
「オレは別に、夏川グループを拡大したいとかいう気持ちがないからね」
ふたりのそんな声を聞きながら、牧は壁にかかる写真を眺めていた。かなり古いモノクロの写真に写っている人々は、どう見ても庶民の装いではなかった。夏川敬は想像以上に別世界の人だったらしい。
「……敬さんの先祖って、特権階級だったんですか?」
「そう。子爵家だった」
「そこまで行きましたか……」
「でも華族制度は廃止になったし、そこからは一族でビジネスでのし上がった家だね」
「でももう、敬さんの代で世襲は終わるんですよね」
「だから、少しずつ片付けてるよ。人の手に委ねたり、終わらせたりしながら」
とは言いつつも敬さんの性格では死ぬまで引退できないだろうし、はそこまで付き合えばいいか、と努めて気楽に考えるようにしている。未来のことはわからない。未来は自分で作り上げるものかもしれないけれど、それが必ずしも誰かひとりの都合に合わせて予定通り想像通りにいくわけじゃない。
自分の感情ですら勝手なことをするのに、未来など自分でコントロール出来るわけがない。
こんなときはいつも南雲志緒の言葉を思い出す。今、目の前の時間を生きなければ。
するとノックの音がして、さきほどの秘書が顔を出した。
「お客様がお見えです」
「会議室に通してください。あと、何があっても誰も入れないように」
「かしこまりました」
立ち上がった敬さんが手招きをするので、ふたりが近寄ると、そのままぎゅっと抱き締められた。
「大丈夫、こんなことはこれで最後だ。もうすぐただの学生生活が始まる」
「……はい」
「……そう願ってます」
と牧も敬さんを抱き締め返すと、サッと離れた。
「よし、じゃあ行こうか、全部終わりにしてこよう」
「急にお呼び立てしてすみません」
敬さんは頼れる大人だが、今日はあくまでも牧が中心である。探偵などとからかわれるのを嫌っていた牧だが、自ら進んで事件に顔を突っ込んでいる素人だと思われたくないことが主な理由だった。白蝋館でも青糸島でも、結局のところ牧の目的はいつもひとつで、事件を終わらせて誰かの苦痛をこれ以上増やさないことだった。
だが今回はそうもいかない。何しろ事件は終わり、絹田さんの犯行として片付こうとしている。それをわざわざ蒸し返すわけなので、自分の責任で話を進めたいと考えた。
都心のオフィスビルに呼び出された四きょうだいは全員固い表情で、中でも最後に入ってきた琥珀さんは紫黄村にいたときよりも更にどんよりと影の強いオーラを纏わせていて、彼への気持ちを断ち切りたかったがそれを忘れて怯むほど厳しい目をしていた。
というわけで本日と敬さんはアシスタントなので、ふたりでお茶やらを用意していた。そんな状況にも落ち着かない様子で、席につくなり声を上げたのは瑠璃さんだった。半休取ってきました、といった様子で、彼女もまた警戒しているのか、頬が強張っていた。
「あの、どういうことでしょうか。事件のことと聞いたのですが、解決したのではないんですか」
「紫黄村に問い合わせたのですが、やはり絹田さんが犯人だという確実な証拠が出てこないそうなんです」
「それは私たちも聞いてますが……」
「なので状況証拠と本人の一方的な自白により、被疑者死亡のまま送検だとか」
「はい、そう聞いています」
牧は頷きながらデスクの上のタブレットを取り上げ、操作してからモニタ面を外に向けた。
「これ、絹田さんの検査結果です」
「検査……癌のですか?」
「そうです。絹田さん、検査受けてたんですよ。だけどその結果を聞きに行かずに事件が起きてる」
返却された絹田さんの携帯に、志津夫さんが紹介した病院から電話がかかってきたのは、川崎のファミリーレストランでの会合の翌日のことだった。検査結果は出ているし、早く受診して治療を始めた方がいいという連絡だった。だが息子さんは事情を話して結果を送ってもらい、届いたものを撮影して敬さんに送ってきてくれた。
「確かに癌だったんですけど、だいぶ初期の癌でした。さっさと治療すれば、完治出来る状態だったそうです」
「え、あ、そうですか、それが……」
「おかしいと思いませんか。検査結果も聞いてないのに悲観して犯行に及ぶって」
唐突にそんなことを聞かれたので、4人は面食らって目を丸くした。
「いやあの、その前に、あなたええと」
「牧です」
「そう、牧くん。あなた事件現場には居合わせたけど、何の関係もない人ですよね?」
佇まいから表情から気の強そうな人という印象があった瑠璃さんだが、間違っていなかったらしい。両手にスマホを握りしめたまま身を乗り出し、少しだけ首を傾げた挑戦的な態度だ。声もビジネスシーンでありがちな慇懃無礼に上ずったもので、苛立ちが滲み出ていた。
「はい、関係ありません。金剛さんの気紛れでお祝いに混ざっていただけです」
「そうですか。私たちは大人で暇じゃないの。言いたいことがあるならさっさと言ってくれませんか」
「わかりました。僕は絹田さんが犯人ではないのではと考えてるんです」
は落ち着き払った牧の姿をちらりと見てから、四きょうだいの方を見てみた。琥珀さんは何もない空間を虚ろな目で見ている。翡翠さんは青い顔をして俯き、口元にミニタオルを当てている。瑠璃さんは牧を睨んでいる。玻璃さんは居心地悪そうに視線を逸らしている。
さすがに、海南の主将やってただけのことはあるなあ。
は久々に牧を誇らしく思う気持ちを思い出していた。四きょうだいは「大人」らしく落ち着いているように見えるが、それぞれがこの状況を持て余して苛つき、あるいは怯えているのが見え見えだ。だが牧の方は緊張の欠片も感じさせない。どんな大きな試合でも彼に恐れはなかった。それに比べればこんな会談など、取るに足らないのかもしれない。
「志津夫さんに紹介してもらった病院で検査を受け、治療を受けるつもりがあった絹田さんが犯人だとすると、色々辻褄が合わないんです。検査結果は知らない、いつ発動するかわからない仕掛け、不完全な殺害方法、証拠はなかったのにいきなり自殺、ちぐはぐなんです」
タブレットを置くと、牧も身を乗り出した。
「絹田さんの息子さんに話を聞きました。なぜ夫の敵である金剛さんがいる式村本家で使用人をやることになったのか。復讐のためにこそこそと潜り込んだのではなく、皆さんのお母さん、珠子さんが正体を隠して雇い入れたそうですね。金剛さんのせいで突然収入が途絶えた絹田さん親子を憐れんで、呼び寄せた」
珠子さんの名前が出た瞬間、四きょうだい、特に琥珀さんの目が釣り上がった。
絹田さんの息子さんいわく、珠子さんはあの金剛氏が名前で気に入って妻にしたという人物だったわけだが、実はとても心が強く、また高潔な人物でもあったとのことだった。彼女のお陰で絹田さん親子は安定した生活が出来るようになり、非常に恩義を感じていると言っていた。
「絹田さんは安定した生活を手に入れ、息子さんを進学させることも出来て、その状態で20年近くも使用人を勤めてた。10年くらい経ったところで珠子さんが亡くなっても、さらに10年、夫の仇である金剛さんに仕え続けた。絹田さんには10年間も金剛さんを殺すチャンスがあったことになります。なのになぜ、今このタイミングだったんでしょうか。絹田さんのスイッチを入れたのは、本当に金剛さんの再婚だったのでしょうか」
それを、データが不足していた警察は「癌の可能性に悲観したのでは」と考えるしかなかった。これがもし既にステージ3に到達していた進行の早い癌だったとしたら、悲観したとしても無理はない。しかしだとすると絹田さんの「仕掛け」は時間がかかりすぎるし、確実性がない。
「癌で人生の残り時間が少ないと悲観した絹田さんが、発作が起こるのを期待して薬を入れ替えたと考えるのは簡単です。けれど、検査結果も聞いてないのに残り時間が少ないとどうして思ってしまったのでしょう。昔に比べ、癌は必ずしも不治の病ではないと聞きました。焦って思い込んだのだとしても、検査に行った以上は、結果を知るつもりがあったわけですよね。それにより、殺害方法はもっと単純で確実なものだったもしれません。普段は金剛さんと屋敷にふたり暮らしだったわけだし、死期を悟った人物の行動としては、何もかもが曖昧です」
癌の疑い、そして薬を入れ替えるのが最も容易だった。絹田さんを動機と自白以外の点で容疑者候補にさせているのがこの二点。だが、検査を受けに行っていたとすると、どちらもが根拠として揺らぎ始める。
「そして、検査を受けに行ったのなら、あんな最後を遂げる必要もありませんでした。金剛さんの殺害は成功したんですから、絹田さんはすぐに薬を元に戻し、何もわからないと言い続けるだけでよかった。いつも瓶から薬を出していたのは絹田さんですから、指紋がついてることは証拠にならないし、あるいは薬の残量を調節しておけば、たまたま数日間飲み忘れていたようにも偽装できます。そうしたらすぐに検査結果を聞きに行き、入院して治療を受け、退職金をもらい、息子さん家族と暮らせばよかった」
検査を受けたこと、息子の暮らす東京の病院を望んだことは、そういう予定を想定していたから以外にはありえない。そこに自分の命と引き換えに夫の仇を殺してやるという強い意志は見えづらい。
「警察が来るまで30分以上もかかったのに、絹田さんは薬を戻さなかった。それどころか突然包丁を持ち出すまで、僕たちに食べさせる料理を作っていました。確かに自決覚悟の犯行だとすれば不審な点はありませんが、その自決覚悟がおかしい。必要がない。だったら検査も必要ない。あの気難しい金剛さんに休みを願い出て東京まで検査に行く必要もない。検査を受けたあとに何か考えを覆すようなことがあったのだとしても、発作を待つだけの復讐はリスクが大きい。金剛さんが結婚してしまい、真珠さんが薬の管理をするようになったら間に合わないと考えた……のだとしても、それまでに確実に死に至る発作が起こるかどうかはわからないですしね。金剛さんが処方されていた薬は最大でも30日分しか出せないものだったそうですから、真珠さんが近付けば近付くほど入れ替えも困難になったでしょう。だったらさっさとあの包丁で犯行に及べば済む話です」
牧の声は淀みなく、隙あらば言い返そうとしていた瑠璃さんは口を挟めないまま、スマホを握りしめている。
「そういう、ちぐはぐな絹田さんの行動の全ては、一応説明がつくのですが……」
「だったらさっさと言いなさいよ。暇じゃないって言ってるでしょ」
「自分を犯人だと思わせることです」
唸るように言い返した瑠璃さんは、喉をグッと鳴らしてまた黙ってしまった。
「一応復讐の動機はありますし、検査を受けに行ったことは息子さんはおろか病院を紹介した志津夫さんですら知らなかったことだし、自分が犯人である証拠は弱いかもしれないが、同様に他の犯人を指し示す証拠もない。そんな状況で大仰な自殺をして、自分が犯人であるという自白だけを残して死ぬことにより、絹田さんは自分自身を黙らせたのではないでしょうか。裁きを受けるつもりはない、と仰ってましたが、死んで自分を捜査させない、正しく裁かせないという意味だったのでは」
死んでしまえば、殺してしまえば、もう何も言えなくなってしまえば、真実が隠されたままに出来るなら。
「……そういうのって普通、誰かを庇っている、って言いますよね」
誰も何も言わないので、牧はお茶を一口飲むと、またタブレットを手にする。
「絹田さんの息子さんと、紫黄村の皆さんにもお話を伺いました。絹田さんの息子さんは離れて暮らしていたせいか、母親の死に現実感がないと仰っていましたが、紫黄村の観光課の皆さんは今、悲しみと憎悪の間で毎日苦しんでおられます。課長さんはとても慕われていた方のようでした」
タブレットを立て、紫黄村観光課の集合写真を見せた牧はその一部を拡大する。
「特にこの、ええと、お名前を忘れてしまいました。式村さんではないという、琥珀さん、ご存知でしたよね」
「……大石さん」
「そう! 村長が始めたという支援制度で越してきた、移住者の大石さん」
静まり返る会議室、牧は顔を上げて琥珀さんを真っ直ぐに見つめた。
「琥珀さん、なぜ彼が『大石さん』だと知っているのですか」
虚ろな目をしていた琥珀さん、俯いていた翡翠さん、睨み続けていた瑠璃さんが真顔に戻る。玻璃さんは意味がわからないのか、キョロキョロと兄姉と牧を交互に見ている。
「……皆さんが事情を話してくださるなら、このことは持ち出さないつもりでいました。でも、話してくださらないようなので、僕が言うしかありません。琥珀さん、あなたは紫黄村に戻るのは3年以上ぶりだと警察に証言したはずです。でも、この大石さんが移住してきたのは、2年前です」
翡翠さんの喉がヒュッと鳴り、玻璃さんが勢いよく立ち上がる。
「ちょっと待って、どういうこと? みんな、どうなってんの、これ」
「……玻璃、座りなさい」
「いやなんで? オレだけ知らないの? 何? お前ら何したんだよ」
玻璃さんは椅子に足を引っ掛け、よろめきながら兄姉たちと離れ、窓辺に座っている敬さんの近くに移動すると、壁に寄りかかって体を折り曲げ、両手で顔を覆った。
「真珠さんとの再婚自体は知っていたものの、先日の婚約パーティー自体は突然決まったことで、皆さんは急な呼び出しで久しぶりに紫黄村に戻ってきたはずです。一番早かった琥珀さんでも前日の昼頃。そして屋敷の外に出たのは僕たちと出会った水晶の社に行くためで一度、次は僕たちにパーティーについてを伝言するために一度、それだけ。大石さんは早朝から清掃の業務があるので残業が少ないそうです。自宅は村の奥の方です。彼とはいつお会いになったんですか?」
2年前から観光課に勤務の新人である大石さんは村に馴染めるようにと、早朝から午前中に「ホテル村」の範囲の清掃を任されていた。なので定時以降の残業は優先的に免除されており、「四季の詩」以外に盛り場の少ない紫黄村なので、夜間は自宅に戻り、早めに就寝する生活を送っているらしい。
「ああ、もしかして2年前に紫黄村を訪れているという瑠璃さんと翡翠さんに聞いたんですか? あの混乱の中、あの人が移住者の大石さんだと、彼を探して教えてもらったんですか? 深夜だし、あの炊き出しには大石さん、いませんでしたよ。それともわざわざ写真を入手して彼が大石さんだと教えてもらいました? 翡翠さんと瑠璃さんは2年前、村にやってきたばかりの大石さんとどこで知り合ったんですか?」
玻璃さんが呻く声の中、牧はまた琥珀さんだけを見て言う。
「大石さんは皆さんとは一度もお会いしたことがないそうです。間近に見たこともないと。けれど紫黄村を出る時、琥珀さん、僕と話していた彼のところへ真っ直ぐにやって来て、迷うことなく彼を『大石さん』と呼んだこと、覚えていませんか? 琥珀さん、いつ、彼を大石さんだと知ったのですか。観光課の方は誰もあなたに大石さんを紹介していないそうです。というか、役場の方は誰もあなた方と会話したことがないそうです」
水晶の社で偶然出会った案内係の式村さんのように、例え四きょうだいが目の前に現れたのだとしても、村の住民にとって本家の式村は雑談ができる間柄ではなかった。お辞儀をして「失礼します」と通り過ぎるのが精一杯。あのときも金剛氏はメイさんが日野木あかりだと気付いたから話しかけてきただけで、清掃をしている役場の職員になど挨拶もしなかっただろう。
「……ここからは僕の想像です。この大石さん、人懐っこい雰囲気で観光業に向いてる方って感じがするんですが、本人の言葉では『先日も訳ありっぽいカップルに声かけてしまって、怒られちゃって』と言うんです。30代くらいの男女のカップルで、帽子を目深に被っていたそうです。例えばそれがお忍びの訳ありカップルだったとしても、素性を知られていない役場の職員さんが声をかけてきただけで、怒ります? 喋りたくないなら適当にスルーするとか、無視するとか、それでいいはずです」
それに、スルーや無視なら大石さんも記憶に残らなかっただろう。そして、その訳ありカップルには親しげに声をかけてきた大石さんに対して「怒る理由」があったわけだ。
「どう怒られたのか、思い出してもらいました。女性に『話しかけないでよ』と言われたそうです。そして、男性の方が前に進み出て『ふたりで過ごしたいから、構わないでくれ』ときつく言われ、怖かったそうです。このカップル、琥珀さんと、翡翠さんか瑠璃さんのどちらかなのでは、ありませんか? 役場の方は仕事中、作業ジャンパーを着ています。胸には名前の刺繍。その時に覚えたのでは? 紫黄村を出る時には、大石さん私物っぽいベンチコート姿で、名前が分かる状態じゃなかったですからね」
玻璃さんの呻き声が涙声に変わる。
「何年も帰っていないなんて嘘、玻璃さんがこの様子では、琥珀さんと翡翠さんか瑠璃さん、最近村に戻って、薬をすり替えたんじゃないですか? そして絹田さんはそれを庇って、自分を犯人にし、自らの口を封じた」
タブレットをそっと伏せた牧は背筋を伸ばし、また琥珀さんを見つめた。
「僕が間違っているなら、そう言ってください。どこを間違えているか、教えて下さい」
俯く翡翠さんと瑠璃さんの隣で琥珀さんは体を起こし、伸びをするように仰け反った。
「せっかく絹田さんが身を挺して守ってくれたのに、台無しにしやがって、偽善者め」
前髪をかきあげた琥珀さんは、不遜で凶悪なしかめっ面になっていた。
「親父が死んで全部丸く収まったってのに、何もかもオシャカにしやがって……クソが!」
琥珀さんはそう吐き出し、瞬間、の中に巣食っていた悪魔は粉々に砕け散った。