敬さんに連絡を寄越したのは例の観光課の課長代理の式村さんで、今日から課長になりましたと緊張した声をしていたそうだ。その初日の最初の仕事が敬さんへの報告の電話だった。
「例のすり替えられた薬の中身はサプリとか整腸剤とかだったらしい」
「気付かないもんなんですね」
「真珠さんの話では、毎回飲む薬を瓶から出して用意するのすら絹田さんだったらしいよ」
「だったら瓶詰めになんかしなくてよかったじゃないですか」
「合理的な理由があるとかじゃなくて、ただのオレ流ってことなんだろうな」
仕事で東京に出て来て宿泊、ということがあると、絹田さんは朝昼晩の薬を小分けにして荷物に詰め、今度は東京にいる部下がその薬を差し出していたらしい。金剛氏は手のひらに乗った薬を口に放り込むだけ。本人はそこまで思い至っていなかっただろうが、おそらく結婚したら真珠さんがやることになっていたと思われる。
「ていうかその真珠さん、SNSで大暴れらしい。最近はこれが厄介だよな」
「大暴れって、真珠さんそんな激しい感じ、なかったのに……」
「別人みたいだそうだよ。絹田さんが包丁を持ち出すまでは真珠さんが最有力容疑者だったみたいでさ」
あの想像力豊かな刑事さんの考えそうなことだ。真珠さんは入籍もまだだったわけだが、紫黄村への転居に備えて1ヶ月ほど前に3日間ほど滞在していたそうで、その時に入れ替えたのではないかと疑われていたらしい。それを「科学的に証明されたエビデンスもなく状況証拠だけで容疑者として扱い、フィアンセを亡くした自分に対する配慮が全く感じられなかった」として、事件の概要から事情聴取の様子まで投稿しまくっているらしい。慌てて敬さんも確認したが、と牧についての言及がなかったので、ひとまず放置。
「ザッと確認しただけだけど、前からSNSでは積極的に投稿を繰り返してたみたいで、金剛氏との結婚についても色々書いてたみたいだったよ。本人も望んでの結婚だったようだけど、あの四きょうだいの存在はいずれ障害になると思うから、早く男の子を産んで跡継ぎにしたいと考えてたらしい」
それでなくとも真珠さんの投稿は俗に言う「お気持ち」のオンパレードで、敬さんは早々に確認するのをやめた。真珠さんは一見して「社長令嬢」なんていう雰囲気を感じさせない控えめな印象を持つ人だったが、昨今人は現実の人格とネット上の人格のふたつを抱え込むのが当たり前になりつつある。真珠さんはそのふたつの人格の乖離が激しいタイプだったようだ。
「ということは、金剛氏は宣言通り琥珀さんを跡継ぎにはしない方針だったってことですよね」
「玻璃さんも跡継ぎにしなかったってことでしょ。なんでダメだったんだろう」
「真珠さんの子だって、跡継ぎのつもりがあったかどうかわからんぞ」
だが真珠さんは入籍前に金剛氏に死なれたので全てが白紙で、その怒りもSNSにぶつけている状態なのかもしれない。跡継ぎには指名されなかったけれど、法的には四きょうだいが全ての資産を受け継ぐしかない状態であり、真珠さんには何の権利もない。
「遺言書とか、そういうのもなかったんですかね」
「金剛さんまだ63だからな〜。一般的に死を意識する年代ではないよな、昔と違って」
「こっちの事業も残ってますよね」
「それはシキちゃんが手助けしてるみたいよ。かなり片付けることになりそうって話だけど」
「シキさん忙しい時期なのに大変ですね。入学したら挨拶に行った方がいいのかな……」
とは言うものの、が進学予定のA大学理事の式村志津夫さんは本家筋とはあまり血縁がなく、村に住んでいたら役場の職員さんたちのように本家に怯えていた程度の家なのだという。だが志津夫さんの父親が大石さんのような移住者で、彼の判断により早々に都会に出され、なおかつ息子が逆玉だと判明した時点で一家全員彼を頼って紫黄村を出てしまったらしい。
「それにしては協力的ですよね」
「それはたぶん、シキちゃんは紫黄村のことを観光客程度にしか知らないからだと思う」
「一応は故郷と思って手を尽くしてる、ってことなんですかね」
「てかそれは今に始まったことじゃなくて、例の絹田さんに病院紹介したりもしてたみたいだし」
「そっか、絹田さん、癌だったんですよね。お子さん東京にいるのかな」
「ああそうそう、そうみたいだよ。でもシキちゃんは病院に行ったかどうかも聞いてないらしくて」
敬さんとの声を聞きながら、炭酸水を飲んでいた牧の脳内に、雫がひとつ、音を立てて落ちた。
「敬さん、それって絹田さん、癌の治療、するつもりだったってことですよね?」
「だろうね。子供がいる東京で治療受けたいから紹介してほしいって話だったらしいよ」
周囲の音が遠ざかり、また脳内に雫がひとつ、またひとつ。
この感覚は確か、そうだ、青糸島で感じたことがある。
「どうした紳一」
「紳一? 大丈夫?」
いつでも確信なんかなかった。けれど頭の中に落ちた雫は波紋を広げ、記憶が渦巻く。もう元には戻せない。
「それ、おかしくないですか?」
牧の真剣な表情に敬さんは「、白いご飯持ってきて」と言ったが、は牧のすぐ隣に移動すると彼の手を取り、「敬さんが持ってくればいいでしょ」と取り合わなかった。
「紳一、どういうこと?」
「金剛さんの件て、つまり馬場さんのときと同じだよな?」
「馬場さんて……あの角砂糖の? そうだっけ……」
「そう。薬を断つことで発作を起こして死ぬ可能性が高くなるという、確率を上げる犯行」
と敬さんは今気付いたという顔で頷いた。方法に差異はあるが、いつその仕掛けが発動するかわからない殺害方法だったことは確かに共通点だ。どちらも多くの人物が近くにいる状態で発動したものの、馬場氏は助かり、金剛氏は助からなかった。ただそれだけの違いだ。
「絹田さんは癌で悲観してて、どうせ死ぬなら金剛氏に復讐を出来ないか……という動機で薬のすり替えをしたのかと思ってた。でも警察に怪しまれてしまってパニックになって、それで包丁を持ち出したんだと思ってた。だけど、おかしくないか、治療する気があったなら、自白しながら自殺する必要はなかったじゃないか」
と敬さんが頷きながら止まる。そうなの?
「だって金剛さんの殺害は成功したんだよ。再婚は白紙、本家はおそらく四きょうだいが解体してしまう、志津夫さんは病院を紹介してくれたし、退職金をしっかりもらってお子さんのところに行けばよかった。なんであんな大騒ぎをして自殺をする必要があったんだ」
牧も脳内の波紋に思考を委ねていく。生き長らえるつもりがあったのなら、絹田さんの自殺は理屈に合わない。
「そうだ、だとしたら、薬のすり替えなんて方法を選んだのもおかしい。癌で悲観して金剛さんを殺そうと思ったのなら、残り時間がわからない以上、一発で殺せる方法でなければ意味がない。もし絹田さんが薬のすり替えという手段を選んだのなら、そこには『事件後に薬を戻す』という行動と、『しらを切り通してさっさと村を出て病院に行く』という行動がセットでないと、辻褄が合わない」
と敬さんは混乱してきたようで、空に指を差して首を傾げている。
「敬さん、絹田さんが実行犯だっていう明確な証拠、出てないんですよね?」
「あ、ああ、そう、とにかく薬のすり替えに関しては証拠が何も」
「なのに絹田さんはあんな死に方をした。なぜですか?」
「いやオレに言われても……犯行がバレるかもってパニックになった、とか?」
「バレてもいいじゃないですか」
「はあ?」
ここに島さんがいたら大変な騒ぎになっていただろうが、敬さんは酒も入っているし、反応が鈍い。
「絹田さんの本懐が金剛氏の殺害だけなのであれば、別に逮捕されたっていいじゃないですか」
「でも紳一、絹田さん『裁きを受けるつもりはない』って」
「ひとつ考えられるのは子供に迷惑がかかるとかそんな理由だと思うけど、結局バレてるじゃないか」
「……そっか。証拠が出てもいないのに、急に絹田さんは取り乱した」
「絹田さんの行動は治療予定があったと考えると綻びが多い。しっくりこない」
思考の中の波紋がその違和感をどんどん広げていく。亡き夫のための復讐だと自白した絹田さん、裁きを受けるつもりはないと投身自殺をしたが、動機だけを残してあとは何も残さず、死を覚悟して犯行を決意したと思われていたけれど、治療する予定があったという。
「……そう、白鳥さんもそうだった。敬愛する先輩に不倫を知られたくなくて我慢し続けて、馬場さんさえ死ねば全ての秘密が守られると思ってしまった。彼女の本当の意味での目的は馬場さんの殺害ではなく、自分の不倫の事実を知る存在を消してしまうことだった。だからみんな思ったじゃないですか、だったら辞めればいいのに、殺すのはリスクが高すぎないか、って。でも白鳥さんには馬場さんを殺して永遠に黙らせるしか方法がなかった。だから……もしかしてオレたちはまだ絹田さんの本当の目的をわかってないのかもしれない」
白蝋館も青糸島も、どちらもその目的は「復讐のターゲットを殺害すること」が目的だった。自分の大事な人を奪った人物がなんの罰も受けず自由に生きていることが許せなくて、殺した。だが、白鳥さんは少々事情が違った。退職してしまうのは簡単だが、それをやってしまうと馬場氏は先輩に秘密をバラしただろう。辞めなくても白鳥さんが気に入らないことをしたらバラしてしまったかもしれない。
絹田さんの目的は金剛氏の殺害、彼の息の根を止めることだけだったのだろうか、それとも……
「というかシキさんは警察に事情を聞かれてないんじゃないですか?」
「そりゃそうだろうね。金剛氏とは全く接点がなかったそうだし」
「だったら警察はこのことを、絹田さんがシキさんに病院紹介してもらったことを知らないわけですよね」
「まあ、そうだな、真珠さんも容疑者から外れたんだろうし」
「てかあの刑事さん、オレたちも怪しんでたけど、どこまでが容疑者だったんだろう」
金剛氏が毒を盛られたと騒いだ結果、あの婚約パーティーに出席した全員が事情聴取を受けることになったわけだが、薬のすり替えが判明した時点で、屋敷に侵入できない遠方の親戚や、役場の人間など村の住民は候補から外れたはずだ。そもそも、ごく身近な人物しか金剛氏が薬をビンに詰め替えていることなど知らなかった。
「診療所の先生は? 村の中では金剛さんと接する機会が多かったよね?」
「だとしたら薬がすり替えられてるなんて自己申告する必要はなかったよな」
「あ、そうか。あとはとてもじゃないけどあの家には誰も……」
すると思考するのを諦めた様子の敬さんがビールの缶を持った手を掲げた。
「そしたらあとは子供たちしかいないじゃん」
「そうなんですけど……」
「どうなのよ、君らの方が彼らと一緒にいた時間が長いんだから」
「いやまあ確かに、金剛さんには困ってた様子でしたけど、皆さんシキさんみたいに村から出て長――」
言葉を切った牧はの手をきつく握りしめ、なにもない空間を凝視していた。
「紳一?」
「どうした、何か気付いたのか」
「あの……いえ……可能性というか……」
白蝋館で証明してみせた牧の瞬間記憶は、バスケットの試合で培われたものだ。コートの中という限られたスペースの中にひしめく9人の人間が今どこで何をしていて何をしようとしているか。それを正確に把握し、その上で先を読み、かつ試合を自分のペースに巻き込む。牧はその高い技術で戦い続けてきた。
やがてその瞬間記憶は長期記憶としても残しておけるようになり、今後の糧にしたい内容の試合であれば、細かなところまで正確に思い出せるようになっていた。それはボードゲームのプレイヤーが過去の対局を記憶しているのと同じで、ひとつひとつが繋がった線の上に折り重なる記憶の層だった。
牧の中で記憶は繋がっている。人の行いはどこかで途切れたりはしない。何もかもが繋がっている。
「正しいかどうか、わからないんですけど、引っかかることがあります」
「犯人の目星がついたのか?」
「いいえ。ただ、矛盾してることが、あるので」
一転、牧は肩を落として長く息を吐いた。
「敬さん、絹田さんのお子さんに、アポ取れないですか」
こういうときの夏川敬……というか彼の「少数精鋭の秘書チーム」は恐ろしい力を発揮する。は将来的にそこに混ざる予定なわけだが、ともかく事件関係者の調査を既に行っていたこともあり、志津夫さんを通じて翌日にはアポが取れた。
絹田さんの子供は現在川崎に住んでおり、子供が小さいから外で会いたいと連絡が来た。なので牧はと敬さんと3人で翌日の夜に川崎市のファミリーレストランまで出かけていった。
絹田さんの子供は瑠璃さんと同い年で、式村の分校を出たのち、野球をやりたくて東京の祖父母の家に引っ越し、現在は結婚して一児の父となっていた。金剛氏同様、絹田さんは既に荼毘に付され、現在は彼の家に遺骨が安置してあるそうだ。
式村の人間でも警察の人間でもない牧たちに不信感が丸出しだった息子さんだったが、幸い夏川グループと取引のある会社にお勤めだった。敬さんの名刺を持つ手がちょっと震えていた。
なので話はスムーズに始まり、絹田さん親子がどういう事情で式村に移り住み、本家で使用人として勤めることになったのかという経緯や、癌治療をどう考えていたのかなどを聞かせてもらうことが出来た。なんと息子さん、絹田さんが病院を志津夫さんに紹介してもらったことや、東京で治療を受けるつもりだったことを知らなかった。警察はやはりこのことを把握できていないのでは。
ただ、息子さんは琥珀さんらと同様、早くに村を出てしまって離れた場所で暮らしてきたせいか、母親が亡くなったことは悲しいけれど現実感がなく、今でも母親が村にいて月に一度くらいしか連絡を取らない関係なのではないかと錯覚しがちだと言って肩を落としていた。
なので彼も、もし母親が金剛氏を殺害した犯人なのだとしても、動機は父親の復讐以外には全く心当たりがないし、癌を治療して生き延びるつもりがあったのなら、なぜ今このタイミングだったのか、さっぱり分からないと首を傾げていた。なんなら母親一人くらい養えないことはないし、子供が幼いので、健康を取り戻せるなら同居しても良かったのにと妻も言っていた、と息子さんは零した。
そして改めて絹田舞花という人物についてを聞かせてもらい、一行は川崎を後にした。
春の夜は日が沈むと途端に風が冷え、日中の温かさに薄着をしていた肌に寒さを感じさせる。敬さんにマンションの前まで送ってもらったふたりは、そこから部屋までの短い距離も手を繋いで帰った。もう忘れていいはずの事件が蘇って目まぐるしく渦巻くので、気持ちが落ち着かない。
「紳一、わかったの、犯人」
「たぶん」
「……それって、琥珀さん?」
「まだわからない。だからもう少し考えを整理したい。ごめん」
その夜、と牧は初めて自分の部屋でひとりで眠った。
はひとりで部屋に入っていく牧を見送ると、自分の部屋に入ってベッドに身を投げだした。紫黄村から戻って以来忘れていた、あの不快な感覚が蘇ってきたからだ。
これはきっと、琥珀さんを助けたいという私の欲求がまた暴れ出して、もしかしたら紳一の告発によって琥珀さんが父親殺しの犯人にされてしまうかもしれないから、彼を守りたいと思っている気がする。父親が死んでも悲しむことが出来ない琥珀さんを哀れに思って、紳一を妨害したいと思っているんじゃないか。
自分の心の奥を覗き込んだは、静かに涙を流した。
気持ち悪いなあ、私。あんなに最高な大好きな彼氏がいるのに、他の人に惹かれて、もしかしたら犯罪を犯しているのかもしれないのに、その人を守りたいって思っちゃうなんて。
ほんの1年前は、そういう理解を超えた感情自体が気持ち悪かったのに。なんで大人ってあんなおかしな行動を取るんだろう、理屈に合わないことをしちゃうんだろうって、あんな大人にはなりたくないって、思ってたのにな。これが大人になるってこと? 私もそういう気持ち悪い大人になるの? そんなわけないよね?
もし琥珀さんが無実で、私に向かって「牧くんと別れて僕と付き合ってほしい」って言い出したら、私、どうなるんだろう。どう思うんだろう。それを紳一が知ったら、紳一はどう思うんだろう。私を怒る? 琥珀さんを怒る? それともすぐに別れるって言い出すかな。
いや、なんでそんなこと考えてんの私。やめなよそんな気持ち悪いこと考えるの。
紳一の頭がいっぱいになっちゃったから、今日はキスしてない。それが寂しくて、今すぐ紳一の部屋に行ってハグとキスをしたいって思ってるくらい、紳一のこと好きなのに。
高1の秋、夏休みを乗り切った10人でよくファストフードとか、ご飯とか行ってた。私はマネージャーだったけどみんな仲間だって言ってくれて、お互いのこといっぱい話して、すごく楽しかった。だけど、10人も男子がいたけど、あの時から紳一だけが特別だった。
少しずつ少しずつ紳一のことをいいなって思うようになって、隣に座る度に胸のあたりがキュンてなって、こそこそと内緒話をするたびにキスしたいって思って、あの大きな手に触れられたいって思って。話せば話すほど紳一の大きな心とか、優しさとか、バスケットへの情熱とか、そういうものにも惹かれて、この人と一緒に頂点を目指したいと思った。ずっと隣を歩いていたいと思った。
その時の気持ちを思い出すだけで、やっぱり胸はキュッと痛むほどにときめく。
初めて紳一とキスした時、まるでどこかに遠く置き忘れていた大事なものを取り戻したような気がした。
あのとき私たちの心は繋がってしまったんだと思う。きっと紳一も同じ感覚を感じてたと思う。
それは今でも揺るぎない幸福。明日に繋がっていく希望で、失ってしまったら私はきっと壊れる。
そう、私は琥珀さんを失っても壊れない。琥珀さんの中に私の幸福は存在しないから。
でも紳一を失うことは自分を失うことと同じ。
だから私も紳一と一緒に行こう。そして真実を見つけてこよう。
この不愉快な私の中の悪魔と決別するために。