紫黄村の殺人

Chapter 1 : ホテル・ラ・グロワール東京 3

エグゼグティブ・スィートからの景色が夜景になっていくなか、白蝋館の思い出を語る会はずっとお喋りに興じていた。と牧の引退についてだったり、最近メイさんが手掛けた深夜帯のドラマがちょっと攻めた内容だったので一部で炎上している件だったり、島さんによる志緒さんの近況だったり、と牧と敬さんによる青糸島の件の振り返りであったり、話題は尽きなかった。

「メイさん、国竹さんたち何時頃来られるんですか?」
「美晴がまず18時にならないと仕事が終わらないのよ」
「レストランでしたっけ」
「そう。敬の知り合いの知り合いみたいな人の店なんだけど、幸い繁盛してて」

その都合もあって本日のディナーは19時からとなっており、さらに夜勤明けである松波さんは一旦メイさんの家に帰って仮眠を取り、国竹さんを迎えに行ってディナーに間に合わせる予定らしい。

なので一行は18時50分くらいに階下にあるレストランへとやって来た。このラ・グロワールで一番格が高いレストランはフレンチなのだが、それだと牧が食ってる間から腹を鳴らしてしまうかも、と考えたメイさんはアラカルトが充実しているビストロにしてくれた。

そこへようやく国竹さんと松波さんが到着、白蝋館に到着してからずっと側にいてくれた国竹さんとの再会には思わず涙を流し、感極まった国竹さんと抱き合った。彼女とは白蝋館のエントランスの前で分かれて以来だった。

だがその白蝋館スタッフコンビと久々の再会なのはメイさんを除いた全員も同じであり、涙の再会であるふたりの後ろから現れた松波さんを見るなり、全員が「誰!?」と叫んだ。個室でよかった。

松波さん、この1年弱ですっかり別人のようになっていた。

「えっ……国竹さん、これほんとに松波さん?」
ちゃん、お久しぶりです」
「おおおお久しぶりです、まままま松波さんが笑顔」
「皆さんも大変ご無沙汰しています」

白蝋館で働いていた頃の松波さんと言えば、凶悪な人相と笑顔の欠片もない接客という、客をビビらせるホテルマンだった。それが優しげな笑顔に感情のこもった声でにっこり微笑むので、全員挨拶がしどろもどろ。人間ここまで変わることがあるんだろうか。

「一体なにがあったの隼人……
「美晴とメイさんとの暮らし、敬さんに紹介して頂いた職場、全部が」
「夏頃にはもうこんなだったんですよ」

松波さんは実家が老舗ホテルだったのだが、同じ業界で働くことを目指したものの、肝心の家族とうまくいかず、敬さんが修行の名目で引き取って白蝋館に置いていた。と牧は内心「菊島さんと梅野さんと働いてたからあんな凶悪な顔になってたんじゃないのか」と思った。

するとメイさんに促された国竹さんと松波さんは深々とお辞儀をした。

「あの、先に私事でごめんなさい、私たち、結婚することになりました」
「これも皆さんのおかげです。本当にありがとうございます」

はまた感涙、ふたりを長く知る敬さんも感無量の様子だ。なので乾杯は再会とふたりの結婚を祝い、と牧の引退も労って行われた。

「じゃあ、いよいよメイさんの家は出るんですね?」
「でもまだ結婚を決めただけで、具体的なことは何も決まってなくて……
「だからっていつまでも居座らなくていいのよ、さっさと出ていきなさいよ」
「て言いながらふたりが出ていったら寂しいって愚痴るんでしょ」
「はあ……白蝋館の頃の紳ちゃんはピュアで可愛かったわね……
「なんですかその紳ちゃんて」
「子供の頃そう呼ばれてたでしょ」
「いいえ」
「あんたほんと可愛くないわ……

しかしメイさんは頬が桃色で、嬉しそうに目尻が下がっている。敬さんと柴さんは松波さんを捕まえて語り合っているし、国竹さんは島さんから志緒さんの近況を聞いてまた目を真っ赤にしている。それを眺めていた牧は、アラカルトを遠慮なくオーダーしながら、少しだけ心が揺れた。

たまたま白蝋館で居合わせただけのこの「仲間」を改めて好きだな、と思ってしまったのだが、同時にこの仲間を失いたくない、ずっとこのままでいてほしいという、執着を感じたからだ。ポジティブな感情の延長のはずだが、どういうわけか肌触りが良くない。

だってそうだろ、たぶん国竹さんと松波さんは家庭を持つからこんな集まりには顔を出しにくくなるし、柴さんも彼女との時間を優先するようになるかもしれないし、いつまでも皆とこうして楽しんでいたいけど、オレとは順序で言えば全員を見送らなきゃいけない。それはちょっと、キツい気がする。

今からそんな遠い話に気を取られてどうするんだ、とすぐに思い直すのだが、先程感じた「執着」はそういう心の揺れを引き起こす原因なのではと思えた。

敬さんに学生生活の支援をしてもらうのはの思いつきがきっかけに過ぎないのだが、話はどんどん大きくなり、夏川敬という人が自分たちの人生に絡みつき始めている。それがいつしか自分でも引き剥がせない「執着」にならなければいいのだが。

もしそんな執着を生んでしまったら、南雲志緒や青井実のようになってしまわないだろうか。

南雲志緒と青井実に怒りは微塵も感じないけれど、彼女たちの選んだ選択には今でも虫酸が走る。その原因を作った被害者たち、彼女らを救えなかった周囲の人々の後悔、そして今でも彼女らを引き止める確実な術が思いつきそうにもない自分。それら全てに嫌悪感がある。

学生の間の面倒を見てもらえるのは助かるし、敬さんも好きだけれど、今以上にこの仲間を大事に思ってしまったら、この嫌悪感は強くなるばかりで消えることがないような気がして――

合流した国竹さんと松波さんもたち同様部屋を取ってもらっているので、眠くなるまではエグゼグティブ・スィートでお喋りの予定。なのでレストランで長居する必要がない一行は、食事が終わるとすぐにプレミアムラウンジに戻ってきた。

ラウンジにはプレミアムクラス専用のフロントとコンシェルジュがあり、敬さんはそこでルームサービスの手配をしていた。時間にしてまだ20時過ぎといったところなので、大人たちはガバガバ酒を飲むだろうし、アルコール未解禁のふたりはまた腹が減ったと言い出すかもしれない。

なので敬さんの指示にメイさんが口を挟んでいるのを後ろから眺めていたのだが、さらにその後ろからひび割れた胴間声が聞こえてきた。

「ちょ、ちょっとちょっと君!」
「はい?」
「もしかして海南大の牧君じゃないか!?」

ラグジュアリーなプレミアムクラスに響き渡る野太い声に全員が振り返った。すると絵に書いたような太鼓腹で赤ら顔の男性が牧に向かって人差し指を突き出していた。しかも正しくは「海南大附属の牧」である。振り返った敬さんの表情が曇る。

「ええはい、そうですが……
「こりゃまたこんなところで君に会えるなんて! 一体何してるんだね」
……お世話になった方に招待を受けていまして」

男性がぐいぐい詰め寄ってくるので、牧は上半身を仰け反らせて小声で返していた。すると一歩進み出たが首を伸ばして「附属高校のマネージャーです。失礼ですがどちら様でしょうか」と突っ込んだ。メイさんが遠くで「ワァオ」と弾んだ声を上げている。

「おっ、こりゃ失敬、私は馬場というものですがね、神保大附属の出身なんですわ。まあ〜遠い話ではあるけど、私が高校生の頃、東京の神保、神奈川の海南と言ったらちょっとしたライバルでね。しかも私が高校3年の時にインターハイで当たったんですわ。あれは高校バスケット史上稀に見る激戦でね。以来海南は注目してるんだよ。いや〜こんなところで海南のスター選手に会えるとはね!」

見たところ敬さんよりもかなり年上に見える馬場氏なので、彼が高校生の頃のインターハイと言われても、おそらくメイさんがギリギリ生まれているかいないかという頃だ。の表情も強張る。東京の強豪チームである神保大附属は当然知っているが、歴史に残る激戦だったなんて話、聞いたこともない……

しかし通りすがっただけの私服の牧に一目で気付いたのだから、海南に注目し高校バスケットを好んで観戦しているのは嘘ではなさそうだ。

「この間の大会も惜しかったね。私はここまで来たら勝ってほしいと思っていたんだが」
……ご期待に添えず、申し訳ありません」
「何を言うんだね、名試合だったよ。で、進路はどうなってるんだね」
「B大です」
「なんだいBかい、C大は声をかけてこなかったのかい? Cは私の母校でね!」

それにしても声が大きいし話が長い。さてどう切り上げてもらうかと考えていた牧だったのだが、そこに敬さんが割って入ってきた。

「失礼します。保護者代理の夏川と申しますが……
「おお、これはこれは。こんなところで有名選手に遭遇するとは思ってなくてね!」

お仕事仕様の敬さんがお仕事モードで対応したのだが、名刺を渡してもピンとこないらしい馬場氏は牧の腕を掴んで離さない。まあ別に危害を加えられるわけでもないのだが、この手の輩はどこかで制止しないと要求がエスカレートし始めるので早めに切り上げないと……

「そうだ、どうだねこれから下のレストランで食事でも! 奢ろうじゃないか!」

始まっちゃった。

「いえ、食事は今してきたばかりですので」
「何を言ってるんだい体育会系の若者が! 中華はどうだ? 炒飯なら食べられるだろ」
「いえ、結構です、連れもおりますので」
「連れ? あーじゃあそれも連れてきなさい、奢ってあげるから」

話が通じない。その場にいた全員が白蝋館事件当時の問題児・春林さんを思い出していた。ていうか春林さんと年代も同じ、体型も同じ、顔が赤いのも同じ。蘇るトラウマに幸せな気持ちが濁っていく。

だが見知らぬ初対面の他人と食事をするためにラ・グロワールにやって来たわけじゃない。こうしている時間も惜しいというのに。なので牧はと敬さんに助けてもらいつつ馬場氏にきっぱりと拒否をした。だが、馬場氏は何も聞き入れず、まだ牧の腕を離さない。

なので最終的には、馬場氏の部屋まで同行して、彼のカメラでツーショット写真を撮り、サインをすることになってしまった。サインなんかないっていうのに。馬場氏は部下らしき人物を呼びつけ、牧の腕を掴んだまま引きずっていく。

本人の言う通り、この場ではまだ高校在学中であると牧の保護者の代理である敬さんが同行することが条件なので、仕方なく全員がゾロゾロとついて行き、26階にあるメイさんの部屋と同クラスのグランドスィート・オリエンタルビュー、つまり富士山の見える部屋へとやって来た。

プレミアムクラスの部屋だが、その中では最も安い部屋で、日が暮れて富士山が見えない窓の向こうは特に目立つもののない夜景になっている。その部屋に引き入れられた牧は、テーブルの上に積み上がった札束に面食らい、足を止めた。

「はっはっは、なに、君もプロ選手として大成したらこのくらいすぐに稼げるさ」
「はあ……
「ちょっとばかり大きな商談がまとまってね。ま、これは手付金に過ぎないけども」

牧はそれが大金かどうかより、こんなテーブルの上に積み上げて放置という状態に面食らっただけなのだが、馬場氏がそれに気付くはずもない。彼はボストンバッグの口を大きく開き、中身をベッドの上に散らかしながらカメラを探し、それが見つかるとに手渡した。

コンデジなど扱い慣れないは戸惑ったけれど、まあきれいに写ってなくてもいいか、と数枚シャッターを切り、馬場氏が満足したところで返した。その隙に牧がちらりとベッドを見ると、おおよそ商才に長けたビジネスパーソンとは思えないような乱雑な私物ばかりで、しかも大量のキャンディが混ざっている。というかその個包装のゴミが散らばっている。見なきゃよかった。

するとドアのあたりで「社長」という疲れた声が聞こえてきた。

「遅いぞ、色紙はあったんだろうな」
「はい、ありました」

牧にサインしてもらうための色紙をフロントでもらってこいという馬場氏の命令で部下の女性が取りに行ったらしい。というかホテルのフロントに色紙が置いてあったことの方が驚くが、その女性が部屋に入ってくるなり、牧は口をパカッと開いて「あ」と言いそうになった。

馬場氏の部下は先程ロビーラウンジで金切り声を上げていたあの女性だった。

「さあて、ペンは……おい白鳥、ペンは」
「えっ、ありません」
「色紙だけもらってきたのか、このバカ! ケツを拭くんじゃないんだぞ!」

そして典型的で下品なパワハラ。馬場氏は舌打ちをしながらベッドの上の私物を漁り、サインペンを見つけた。サインをするペンなのでサインペンなのだろうが、色紙へのサインとしてはかなり細字になってしまうペンだ。それも気になるが、アスリートや芸能人が書くようなサインを持たない牧は普通にフルネームを書いた。

「おお、男のくせに随分きれいな字を書くんだな。文武両道、大変結構」
「これでよろしいですか?」
「いやありがとう! でも本当に炒飯はいいのかな? ここの中華は美味いぞ」

傍らに控えているあの金切り声の白鳥という部下が見かねて間に入ってくれたが、馬場氏はしつこく牧の腕を掴んでいて、それを引き剥がすのに時間がかかった。

ようやく廊下に出て馬場氏の部屋のドアを閉めると、メイさんたちが心配そうな顔をして待っていた。

「災難だったわね。ファンなのか嫌がらせなのかわかんないじゃない」
「ドアを開けてたから、ホテルのスタッフの方々に随分怪しまれましたよ……

するとそこに先程白鳥さんに怒鳴られていた男性がやって来た。ということは彼も馬場氏の部下か。彼はコンビニのものと思しきビニール袋を手にしていて、鼻が真っ赤だ。1月の寒空の下をコンビニまで走らされたのかもしれない。

しかしそれに声をかけることなく、一行は真っ直ぐに階上のエグゼグティブ・スィートへと向かった。きっとルームサービスの方が先に届いているだろう。これでもう何も気にすることなく楽しい時間を過ごせる。宿泊するつもりでやってきたけれど、朝が来るまで話し込んでしまうかもしれない。

そういう幸せな期待を胸にエグゼグティブ・スィートに入った一行だったが、その1時間半後にはまた26階の馬場氏の部屋に引き戻された。目の前には警察官。

なんと馬場氏が室内でショック状態で見つかり、牧たちに事情を聞きたいのだそうだ。

「それって容疑者ってことか……?」
「え、あの人死んだの?」

ぼそぼそとそんなことを囁き合っていたと牧の傍らで、敬さんはハァーッと勢いよくため息をつき、そして疲れた顔をしてニヤリと笑った。

「探偵、出番じゃないのか」