青糸島の殺人

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ちゃん、久し振り。お元気ですか。

早いもので、白蝋館の事件から4ヶ月も経ちましたね。メールをするのは久し振りだけど、島くんやメイから部活を頑張っているらしいと聞いていました。なのでインターハイ予選なるものを初めて気にしてチェックしていたのですが、本当に大変な舞台で戦っているんだね。驚きました。

だけど僕は高校生競技という未知の世界にすっかり感心してしまって、ふたりを労いたい気持ちでいっぱいになってしまいました。また、年は親子ほども離れてるけど、君たちとは大変な状況を共に切り抜けた仲間、友人だと思っていて、久々にゆっくり語り合いたいとも思っています。

なので、もしふたりの予定が合うなら、また親御さんのお許しがあれば、僕が関わっている離島のリゾートホテルに招待したいと思うんだけど、どうかな。僕も滞在予定だし、支配人はメイの知人だし、のんびりした時間の流れる美しい島です。

もちろん滞在費用や交通費は僕が全部請け負うので、ご心配なく! お小遣いを使う場所がない島なので、手荷物だけで自宅の前に立っててくれたら迎えをやります。もし水着を新調する予算がなければ、それも遠慮なく言ってほしい。

では、良いお返事を待っています。本戦トーナメント、頑張って!

夏川敬

8月、と牧はぼんやりした顔で新幹線に乗っていた。ふたりの目が半分閉じているのは真夏の青空が眩しいからではなくて、ちょっとばかり燃え尽きてテンションが上がらないからだ。

高校3年間の全てを捧げた最後のインターハイは優勝かなわず、準優勝で帰ってきた。それを儚んで荒んだりはしなかったけれど、ともかく最大の目標がひとまず終わってしまったので気が抜けていた。特に牧は「海南大附属の初優勝に最も近い男」と散々煽られていたので、余計に気が抜けた。

が敬さんからメールを受け取ったのはインターハイ予選が終わった直後で、しかし牧にはしばらく黙っておき、彼の家族にだけ説明をして許可を取り付けていた。何しろ敬さんはそのちょいワル風の風貌からは想像もつかない社会的地位の高さ、そして桁違いの資産家であり、ふたりの親は高校生の子供がふたりだけで旅行に行くという不安よりも「夏川さん」への信頼が勝った。おかねもちつよい。

いや、資産家云々だけでなく、白蝋館の事件に関しても愚痴が多かった割に敬さんの後始末は完璧で、その隙のない対応はふたりの親を安心させるには充分だった。何しろ雪に閉ざされた洋館での殺人事件というセンセーショナルさに反して、その宿泊客の中に保護者不在の高校生が紛れていたことは公にならなかった。問題のある宿泊客もいたが、そこからも漏れず。敬さんの手回しのおかげである。

なのでは新品の水着やドレスやお小遣いで買うにはちょっと高価な日焼け止めなどが入ったバッグだけを手に、牧と新幹線に乗っていた。リゾートアイランド2泊3日の旅にご招待。

「ねえどうしよう、この青糸島では昔から青い糸が縁結びのシンボルなんだって」
「それがなんで『どうしよう』になるんだ」
「ビーチは夕日がめちゃくちゃきれいで、青い飾り紐で手首を繋いで撮ると映えるって」
「それ縁結びと関係あるのか? てかオレたちはもう結ばれてるんじゃないのか」
「そんな熟年夫婦みたいなこと言わないでよ。老けてるって言われたこと気にしてるくせに」

無理矢理テンションを上げようとしていると文句しか出てこない牧は、言葉とは裏腹にべったりとくっついて寄り添っている。密室殺人の起こった洋館で成立したカップルという珍種なふたりだが、そもそもは恋愛感情を押し殺して部活に邁進していたような堅物である。そのせいか関係をオープンにしてからはだいぶ盛り上がったカップルでもある。

それに夏休みに入ってからというもの、合宿にインターハイにと2週間以上を部の中で過ごしていたので、久々のふたりきり。通路の反対側の乗客が顔にタオルを乗せて寝てしまったのでチューし放題。テンションは上がらないけれど、それもきっと時間の問題だ。

は牧の膝に足を乗せ、敬さんが送ってくれたリゾートホテルのパンフレットを開く。

「これも敬さんのホテルなのか。すごいなあの人」
「メイさんが支配人さんを紹介して、敬さんが出資したんだって」
「それ敬さんが泊まりたいから出資したんじゃないのか」
「そんな気がする。仕事で疲れた時に逃げる用のホテルが全国にあるみたい」

牧はとにかくインターハイに向かって集中していたので、今回の旅行に関する準備はが一手に引き受けていた。親の許可が下りたので、その旨を敬さんに連絡すると、なぜかメイさんから電話がかかってきた。いわく、あのホテルやってるのは元は私の知り合いなのよ、という。

「国竹さんたち、元気なのか」
「ウヒッ」
「なんだよ気持ち悪いな」
「国竹さんと松波さん、結婚考えてるんだって」
「おお、よかったじゃないか」
「早く白蝋館が元に戻るといいんだけどなあ」

白蝋館を畳みたくない敬さんだったが、国竹さんと松波さん以外の従業員はそれを待つ気はなく、それぞれ敬さんの斡旋で別の仕事についた。国竹さんと松波さんは敬さんが本当に白蝋館を畳むと言い出すまでは待つ、と言うので、それまでの間の面倒をメイさんが見ている。

「でも今の仕事は敬さんの紹介なんだろ」
「そうみたい。国竹さんはレストラン、松波さんはビジネスホテルだったかな」
「東京にいるんだっけ?」
「だと思う。メイさんちに居候してるはず」
「大人ふたりが居候出来るくらいの家ってことだよな……

詳細は聞いていないが、メイさんの家は普通に豪邸、とは島さんの情報だ。真偽の程はともかく、そんなわけで白蝋館で協力しあっていたメンバーのその後はそこそこ順調だと言える。素人ジャーナリストじみてきた島さんはともかく、柴さんは完全に元の生活に戻っているとか。

「あの時は他にも人がいたけど、その人たちのその後は面白いくらいどうでもいいな」
「島さんも何も言ってこないし、みんな気にしてないんじゃない?」

ふたりは顔を寄せ合ってくつくつと笑う。

あの日、過去に囚われたまま現在を生きることが出来なかった南雲志緒は人をひとり殺害し、と牧にだけ全ての本音を話し終えると「忘れて」と言った。その言葉をふたりは大事に守り、白蝋館で親しくなった人々はともかく、あの雪に閉ざされた日々のことは遠い記憶になりつつある。

まだまだ子供な自分たちより分別があって然るべき大人たちの中には、理解を超えた身勝手を振り回す人も少なくなくて、ふたりは大人――未来というものに少し絶望していた。だが、皮肉にもそんなふたりの心を未来に向けたのは南雲志緒の言葉で、こうして手を取り合う覚悟をしたのも彼女と話した朝のことだった。それももはやぼやけた景色の中に埋もれつつある。

……ねえ、今度はゆっくり、しようね」

は肩にぴったりとくっついている牧の頭に向かって囁く。白蝋館は寒くて冷たくて、そして恐怖が全てを覆い尽くしていた。あんな思いはもうしたくない。パンフレットには客室の写真がたくさん載っている。今度は壁一枚隔てた隣の部屋で事件なんか起こりようがないコテージだ。

牧はその南国風デザインのコテージ写真に指を滑らせ、音もなく笑う。

「こんなコテージでふたりきりで、ゆっくり、ね。、いつからそんなエロい女になったんだ」
「ちょ、私そんなつもりで言ったんじゃ」
「なかった? まったく?」

は仰け反って新幹線の座席の背もたれに後頭部をこすりつけて呻く。

「なかったと、言えば、嘘に、なるけど」
「水着、敬さんに買ってもらったんだろ」
「かわいいやつです。肌はあんまり出ないやつ。ため息つくな!」

額をペチンと叩かれた牧はしかし、ゆったりと息を吐いての手を取り繋ぐ。

日本一をかけた戦いの場に心を置いてきてしまった。全部捧げて、全てを賭けて、そして負けた。心はコートの上に置いてきてしまった。体の中には妙な空洞があるような気がする。それが美しい海に囲まれた美しい島で少しでも取り戻せたら。

それが今の自分を生きるということのはずだから。

「敬さーん!」
ちゃん! 紳一くん!」
「お久しぶりです!」

最寄り駅に手配済みだったタクシーに乗って港に到着したふたりを待っていたのは、数ヶ月ぶりの再会となる敬さんだった。無精髭に長い髪は相変わらず、人相風体からは資産家には見えないのも相変わらずだ。ふたりは思わず駆け寄り、荷物を投げ出して抱きついた。

「おいおい、そんなことされたら泣いちゃうよ。相変わらずいい子だなふたりとも」
「だって、あの時一緒だった人と再会するの、これが初めてなんです」
「まあそうか、そんな暇もなかったもんな。とにかくインターハイお疲れ」

敬さんは嬉しそうに目尻を下げながらふたりの頭を撫で回した。その手にはアクセサリーがたくさんついていて、変わったのは服装くらいか。だがはちょっと首を傾げた。

……敬さん、なんか大きくなった?」
「敏腕マネージャーは目ざといな、この胸筋に触発されて鍛えてるんだよ」
「ちょっ、揉むのやめてください!」

敬さんに胸を揉まれた牧は飛び退き、はけたけたと笑った。本人の言うように、ただスラリとしていただけだった敬さんは、少し大きめに開いたシャツの胸元が以前より膨らんで見える。白蝋館にいる時はだいたい両側に牧と柴さんという筋肉系がいたせいで華奢に見えていたけれど、敬さんや島さんも一般的には背が高めの人物である。なので上半身に筋肉が増えるとより大きく見える。

というか白蝋館に滞在中は帽子を欠かさず、黒を貴重にしたファッションだった敬さんは生成りの柔らかなシャツにハーフパンツという、既にリゾート仕様になっている。アクセサリーが多いのは変わらないが、ゆるくまとめた髪から後れ毛が風になびき、以前より若々しく見える。

「あの、ほんとによかったんですか、こんな全て負担してもらって」
「相変わらず堅いな紳一くん。いいんだよ、オレが金に物言わせて君らを呼び出しただけなんだから」
「かわいい水着買いました!」
「ほら、彼女を見習いな。つまんない独身男の夏休みに付き合ってもらう駄賃だよ」

そう言いながらニヤリと唇を歪めた敬さんはしかし、相変わらずの余裕たっぷりな信頼出来る大人の貫禄を備えていた。あの白蝋館の夜、この敬さんとメイさんがいるだけで恐怖は和らいだ。

「てか腹減ってないか? 連絡船が出るまでもう少しかかるから、何か食っていこう」
「実はもうペコペコで……
「君らいつもそれだったな、懐かしい」

敬さんはふたりを港の目の前にある小料理屋に連れ込み、新鮮な魚介料理を振る舞ってくれた。新幹線に乗ってもいまいちテンションが上がらなかったふたりだが、ようやく気持ちが上向きになってきた。海のそばで生まれ育ったけれど、いつでもこんな豪勢なシーフードを食べているわけではない。

「パンフレット見てたんですけど、なんかすごい高級リゾートなんじゃないんですか」
「というほどでもないよ。まだオープンして数年だからきれいなだけで」
「そういえばパンフレットの端っこにアクティビティ増設予定って」
「そう、元は人がたくさん住んでた島だから、開発にも時間がかかっててね。先にホテルだけ」

よく冷えた日本酒を傾けつつ、敬さんはゆったりと微笑む。これから向かう「青糸島」はかつては千人以上の住民が暮らす島だったのだが、バブル景気の頃に無人島になり、数年前に当時の住民の子孫だというメイさんの知人がホテルを開業したそうだ。

「ここだけの話、土地だのなんだのってのは、タダ同然でさ。打ち捨てられたままの古民家なんかを撤去して片付ける方が高くついたくらいで、本土の過疎地に新たにホテルを建設するのとそれほど変わらなかったんだよ。夏に行きたいようなリゾートっぽい施設は関わったことなかったしね」

だが、普段は忙しい敬さんが青糸島を訪れるのはこれが2度目だそうで、まさに「金だけ出してあとは放置」だったようだ。海鮮丼とアラ汁とミックスフライと魚の煮付けと海藻サラダをひとりで駆逐しようとしている牧の隣で、はちょっと肩をすくめる。

……白蝋館の再開、迷ってるって聞いたんですけど」
「206号室の扱いを決めかねてるんだよ。あんな事件があった部屋、誰も泊まりたくないだろ」

しかし、今回のリゾートホテルと違い、白蝋館は敬さんが自身の身内から受け継いだ、いわば私物。中身をすっかり取り替えてリフォームしてしまえばOK、という代物ではなかった。

「というか206号室を閉鎖しても両隣は気味が悪いだろうし、部屋を取っ払ってラウンジにでもしたところで、いつか心霊現象の噂を立てられるのがオチなんじゃないかとか。お祓いも勧められてるけど迷ってるんだよな。化けて出られるのは困るけど、正直、あいつの魂の安寧を大金かけて祈るのも不本意」

敬さんの正直な言葉にと牧も頷いた。南雲志緒の決断は決して許されることではないが、何しろ被害者は不快な人物で、彼のために祈祷をするくらいなら南雲志緒とその亡き恋人のために祈りたかった。なので白蝋館は夏の繁忙期を閉鎖でスルー、無人のままになっているとのこと。

「まあでも、いつかどうにかするよ。そしたらみんなで集まろうか」
「島さんがタダで招待してくれないかなって言ってましたよ」
「あはは、もちろんそのつもりだよ。またみんなで飲もう」
……そっか、私たちも飲める歳になってるかもしれないんですね」

うまいよ、と日本酒のグラスを掲げる敬さんはしかし、どこか寂しげだった。というかも牧も、敬さんが資産家でたくさんの事業を抱えるビジネスパーソンだということは知っているが、そのプライベートに関しては何も知らない。トゥールーズ生まれで、東京の自宅に空き巣に入った犯人をとっ捕まえて白蝋館で働かせていたということくらいしか知らない。

「じゃあそろそろ行こうか、連絡船は1日1回しか往復しないから、逃したら大変」
「えっ、じゃあ敬さんいつ来たんですか?」
「あー、オレはまあ、その、特別便」

ニヤリと笑う敬さんにと牧はつい苦笑いだ。まったく金の力はえげつない。

桟橋に向かうと、島に届ける物資の積み込みの向こうに3人の男女が見えた。服装やら荷物やらで察するに、たち同様、青糸島のリゾートホテルの利用客かもしれない。

「ていうか島、見えるんですね」
「そう。距離的には遠くない。でも何しろ無人島期間があるから、この船を逃すと大変なんだ」

敬さんが現れた途端、連絡船のスタッフらしき人物は急いでゲートを開き、いつでも乗船できますと案内してくれた。敬さんは何も言わないが、この港では素性を知られているらしい。と牧はそれを後ろからコソコソと笑いつつ、スカイブルーと白のバイカラーになっている連絡船に乗り込んだ。

「まあ、遊ぶところはプールくらいしかないホテルだけど、その分ゆっくり出来るよ」
「敬さんはまた酒浸りですか」
「紳一くんはもうちょっと言葉のセンス学んだ方がいいんじゃないのか。否定はしないけど!」

というか既に日本酒を1合の敬さんはほろ酔い、真顔でツッコミを入れた牧に絡んでいる。はひとり船のへりに近寄って海を覗き込む。

比較的海の近くで育ったけれど、海の青さがまるで異なっていた。

吸い込まれそうな深い青、そして太陽の光に煌めく淡い青、空も青、景色のほとんどが青だ。

真っ白で冷たくて暗くて、不安を煽る風の音しか聞こえなかった白蝋館と違い、この海は生きている気がする。生命が溢れ、命を育み、鮮やかな彩りに輝いている。遊ぶところなどなくても、牧とふたり、きっと夢のような時間を過ごせるに違いない。

暖かで柔らかな潮風に髪を踊らせながら、は目を閉じた。