青糸島の殺人

2

連絡船を降りた一行は敬さんの案内でホテルに向かった。徒歩でも遠くないし、迎えなどのサービスはないとのこと。そんなたちを物資の運搬らしきライトバンが追い越していく。

「けっこう緑が深いんですね。もう海が見えなくなっちゃった」
「開発しきれてないのが丸出しだよな。本当はホテルまでの道もきっちり整えたかったんだけど」

敬さんいわく、この島には港がふたつあり、連絡船が着いた港は「南港」と言われていて、島の反対側には「北港」もあるらしい。島の中央に高い山があるので、この青糸島は南北に集落があって、それぞれが漁業や農業を営んでいたそうだ。

「南北は別にどっちでもよかったんだけど、ホテルの支配人が南の集落の子孫なんだよ。なもんでひとまず南半分だけ。でもちゃんとビーチがあるし、出来ればもう少しホテルとして整えて、人が住んで働ける島にしたいなとは考えてるんだけどね……

だけど時間がなくて出来てないんですね、と牧に突っ込まれた敬さんはまた言葉を選べと背中を丸めていた。ホテルに向かう道はところどころ浮き上がったりヒビ割れていたりで、荒廃した無人島の面影が残っているし、両側から生い茂る木々が夏の暑い日差しを遮ってくれるが、それも爽やかなリゾートの演出としてはマイナスに思える。

「でももう少し行くと突然美しいホテルが現れる。その非日常感と、外界から切り離されて喧騒を忘れられる静かさ、そして東に朝日、南に夕日が見えるビーチがあって、それが人気なんだよ」

敬さんは後ろを振り返って両手を広げ、ニヤリと頬を歪める。

「ようこそ、ホテル・アルテア・ブルーへ」

敬さんの向こうには、鬱蒼と生い茂る木々の間に突然現れた青があった。欧州の青い街を思わせるクリーミーな青と、太陽の日差しを反射する目に痛いほどの白、そこに金色の流れるような字体で「Hotel AlthaeaBlue」と書かれていた。

「みんな青色なんですね」
「だって青糸島だし、どっちが先なのか、この南部の集落の人たちは青井さんて言うんだよ」
「それじゃ青一色にしたくなりますね」

さきほど一行を追い抜いていったライトバンの姿は見えない。なるほど、外界から切り離された非日常感か……は頷いた。今の視界にあるのは青と白と緑だけ。早くも現実感を失いそうだ。

するとホテルのエントランスドアが開き、スタッフと思しき人物がふたり顔を覗かせた。

「いらっしゃいませ、ようこそホテル・アルテアブルーへ」
「長らくの道のりをお疲れ様でございます。お待ち申し上げておりました」

たちの他にはグループが2つ、丁寧な出迎えに歓声を上げて中に入っていった。

「もしかして宿泊客はこれだけですか?」
「いや、もう一組、支配人の親戚の子が来てる」

首を傾げた牧にはアルテアブルーのパンフレットを差し出した。ホテル・アルテアブルーは本館と5つのコテージからなるアイランドリゾート、各コテージは最大で5人までの利用が可能だ。なので、敬さんも含めて今夜は満室。

「まあ、これでも多い方らしいんだけどな」
「でも島にそれだけしかいないなんて、ちょっと怖い気がしますね」
「大丈夫だよ、スタッフは他にもいるし、深夜にビーチでイチャイチャしててもバレないぞ」
「敬さんが見てるかもしれないじゃないですか、嫌ですよ」
「なあちゃん、紳一くんどうしたのこれ、なんでこんな辛辣なの」
「準優勝症候群です」

先に入っていったグループがチェックインをしているだろうからと外で喋っていた3人だったが、また別のスタッフが顔を出して敬さんに声をかけたので、やっとホテル内に入った。

このロビーを含む建物が本館のようだが、は中に入るなり「わあ……!」と乾いた歓声を上げた。室内も青と白が美しく、ところどころに観葉植物の緑が配置されている様は外の世界との境界線を曖昧に錯覚させる。だが僻地のリゾートにありがちな雑多な雰囲気はなく、かといって気取った冷たさもなく、まさに自然と調和したホテルといった様子だ。

「いらっしゃいませ様、牧様、お待ちしておりました」
「こちらが支配人の青井さん。メイの昔の知り合いだっていう」
「秋名さんには以前大変お世話になりました」

というか昔の知り合いならたちよりよほど親しい仲なのではと思われるが、支配人の青井さんは深々と頭を下げ、秋名さんと夏川オーナーの特別なご友人をお迎えできて光栄です、などと言い出した。まるでお姫様のような扱いにはちょっと顔が赤い。

「秋名さんには度々お客様をご紹介頂いておりまして、足を向けて眠れません」
……なあもしかして、あっちのグループもそうなんじゃないのか」
「はい、そのようです。最近では撮影に使いたいというお話なんかもあって……

と牧がタブレットによる宿泊者名簿に入力をしている間、小声で話していたふたりだったが、敬さんがラウンジの方に顎をしゃくると、青井さんはさらに声を潜めて頷いた。たちと一緒に青糸島に到着したのは2組、敬さんはそのうちの1組をメイさんの紹介客なのではと考えたようだ。

「敬さん、お知り合いなんですか」
「いんや、だけどカタギにも見えないだろ」
「それは敬さんじゃないですか」
「紳一くん、君の準優勝症候群は重症のようだから、マジでちょっと休みなさいね」

敬さんをイジって楽しんでいる牧の腕に絡まりながら、はちらりとラウンジの方を見てみる。本日新たにチェックインしたのは3組、たちの他には、男女カップルが一組と、男女混合の3人グループが一組。その3人グループの方が確かに敬さんの言うように、一般的な会社勤めには到底見えない派手な雰囲気だった。メイさんの紹介なら、例によってテレビ関係のグループなのかもしれない。

というか男女カップルの方も見たところ恋愛関係や夫婦という雰囲気ではなく、やたらと体を縮こませている男性と、足を広げてノートパソコンを叩いている女性というよく分からない組み合わせだ。

「あの、確かに同意書はお預かりしておりますが、よろしいのですか、その」
「大丈夫、この子たちは色んな意味でもう大人だから」
「敬さん!」
「では、こちらが鍵になります。ごゆっくりお過ごしくださいませ」

一応まだ高校生であるふたりがコテージにふたりきりというのは大丈夫か、と少し戸惑った青井さんだったが、敬さんのニヤニヤ笑い顔を綻ばせると、カードキーを差し出してきた。深い青の糸を編んだストラップがついている。はその鮮やかな青にまた感嘆の声を上げた。

「きれい。本当に青一色なんですね」
「はい。この島はかつてタデアイの栽培が盛んでして、なんでも藍色に染まっているんです」
「そういえば、『アルテア』もなんか植物だったよな?」
「はい、タチアオイです」
「なんだ、青井から取ったのか」

オーナーは一応敬さんだし、ホテルの名を支配人の名から取ると聞くと違和感があるけれど、この青井さんという支配人がそもそもこの青糸島の「南」の集落の子孫という話だったはずだ。土地の名と思えば花になぞらえた美しい名前なのかもしれない。横で聞いていたは何度も頷く。

鼻で笑う敬さんに会釈をすると、青井さんはの方に向き直った。

「お食事はダイニングテラスで18時となっております。併設のバーとビーチのファイアサービスは22時まで、ラウンジとプールも22時に消灯させて頂きます。各コテージのルームサービスはお食事が22時30分ラストオーダー、ドリンクのみ24時まで承っております。朝食は朝8時から10時までの間、お好きな時間にご用意いたしますので、お申し付けくださいませ。大変申し訳ございませんが、モーニングコールは行っておりません。各コテージのベッドサイドにある時計の目覚まし機能をご利用くださいませ。他、施設内の詳細はコテージのリビングにございますパンフレットをご覧ください」

と牧を敬さんが案内すると言うので、青井さんは苦笑いで手を合わせると、ロビーラウンジで寛いでいる他のグループのところにすっ飛んでいった。

……白蝋館の時も思ったんですけど、スタッフ少なくて大変ですね」
「オレは人件費をケチったりしてないぞ」
「そんなこと言ってないじゃないですか」
「あっちのじいさんいるだろ、あの人もこの島の出身なんだよ。隣の女の人はさっきの連絡船の身内」
「じゃあ本当に地元の方が運営されてるんですね」

確かに東京や大阪やそういった大都市からは陸路でまず長い距離を移動せねばならないし、連絡船は1日に1回しか出ないし、そもそもコテージが5つしかないラグジュアリーなリゾートアイランドで宿泊料金は決して安くはない。通常であれば青井さん始め数人のスタッフでも運営が可能なのかもしれない。

「でもホテルの業務を全部あの3人で、というのは、忙しそうですね」
「スタッフがおじいさんとおばさんだけで青井さん大丈夫なんですか」
ちゃん、人は見かけによらないもんだろ」

本館を出た3人は再度緑に囲まれた通路を通ってコテージに向かっていた。外の傷んだ舗装の道と違い、こちらはホテルの敷地内だからなのか、美しい花が咲き乱れ、明るい色の砂を固めたような通路には色石がふんだんに混ざっていて、トロピカルファンタジーの趣だ。

「何しろあのじいさんが馬力のある人でさ。墨田さんて言って、島の北側の一族の人でね。70代だったと思うけど彼が人の3倍くらい働いちゃうんだよな。本人も年齢的に再就職が厳しい本土より、生まれ故郷で働けるのが嬉しいみたいで、あの人がいるからこのホテルはスタッフが少なくてもやっていけるんだよ。なかなかいい人だよ。よかったら話してごらん。愛想はないけど優しいおじいちゃんだから」

そうは言っても気軽に大人の男性に声をかけるなんてハードルが高い。は苦笑いだ。

「それからそのおばさん、みどりさんて言うんだけど、このホテルの素晴らしい食事はあの人なしには成立しないんだ。独学だって言うのにめちゃくちゃ料理上手でね。でも実は彼女は基本的には通いなんだよ。忙しい時だけ泊まり込みで、だから普段は青井さんと墨田さんのふたりでやってる感じかな」

3人でも大変そうだなと思っていたのに、まだ減るか。ホテルの従業員と言ったら白蝋館の国竹さんと松波さんの印象が強いふたりは少しだけ背筋を震わせた。あの若いふたりですら館内を駆けずり回っていたのに、そんなにこのアルテア・ブルーは暇なのか。

「そういえば、白蝋館も食事は美味しかったですよね」
「他は良くなかったみたいな言い方しないでくれるかな。梅さんは腕だけなら一流だからね」
「でも……不思議なことに、あの時食べた豪華な料理、あんまり覚えてないんです」
「志緒さんが犯人だって気付いた時に食べてたのおにぎりの方がなぜか印象が強くて」

まるで異世界に紛れ込んだような小道を行く敬さんは、ちらりと振り返ってニヤリと唇を歪めた。

「そんなもんなんだよな、飯って。美味いものを食べればその時は感激するんだけど、それが続けば記憶は薄れる。だけど、クソ不味いものを食わされた時の怒りはそんな生易しいもんじゃない。料理がちょっと美味かったくらいじゃ人は褒めないけど、ちょっと不味かったら怒り狂う。だからシェフには金をかけるんだよ。梅さんは人間的にはアレだったけど、みどりさんはいい人だよ。しかも小さな港町の主婦だったっていうのに、何を作らせてもうまい。オレはそういう人材が好きなんだよな、どうしても」

思い返すと、白蝋館のスタッフも「難あり訳あり」だったり、個性的な人が多かった。しかもみんな敬さんが拾ってきて白蝋館に放り込んだ人材ばかり。

……普段のお仕事の時も、そういう人と一緒なんですか?」
ちゃんは痛いところ突いてくるね。もちろんそういうわけにはいかないよ」
「だからたまにこうやって現実逃避してるんですね」
「なんだよ、ほんの5ヶ月くらいで随分辛辣になったな、ふたりとも」
「そうかなあ。敬さんが疲れてるんじゃないですか」

敬さんは苦笑いで「そうかもな」と言いつつ、両側を歩いていたふたりを抱き寄せ、しかし白蝋館では見なかったような柔らかな笑顔を見せた。

「疲れてるのは君らもだろ。ちょっとゆっくりしようぜ。ここはいい、波の音しか聞こえないから」

頷くふたりが顔を上げると、南国の花に囲まれたコテージが現れた。赤みのある濃い茶のウッドハウスで、小道からは中の様子が伺えないように配慮された造りになっている。というかは今更ながらにあたりをキョロキョロと見回した。本館から出てどれくらい歩いただろうか、各コテージとは美しい色石の入った小道でつながっているようだが、他のコテージが見当たらない。

「いや? オレのコテージは通り過ぎてきたよ。反対側にもひとつあるし」
「あ、ほんとだ、まだ道がある」
「この道をまっすぐ行けばビーチ。といっても、各コテージからビーチに続く道があるけどね」
「まるで島に自分たちしかいないみたいな……感じになれますね」
「ふふん、怖いかい?」

コテージの玄関で足を止めた敬さんは腕組みでニヤニヤしている。

「オレのコテージは今来た道を戻る途中にあるから、いつでもおいで。いなければバーで酒飲んでダラダラしてると思うよ。そこに来てもいいし、プールもあるし、ビーチに出てもいいし、自由に過ごしてくれ。ま、ふたりでコテージにこもっててもいいけど、ほどほどにな!」

の慌てた声にニヤニヤの敬さんはしかし、そのまま背を向けて去っていった。

「これじゃまるで私たちイチャつくためだけに来たみたいじゃん」
「ま、そんなようなもんだろ」
「そんなことないから! 私は海もプールも敬さんと過ごすのも楽しみにしてきたもん」

コテージの鍵を開けて中に入ると、ふんわりと花の香りが漂う。室内は外壁と同系統の木材と真っ白な壁を基調にした南国スタイル。そして青糸島の名産であった藍色がそこかしこにあしらわれている。コテージはかなり広いが間取りはシンプルで、仕切りのないリビングとベッドルームからは海が見え、バスルームは半露天、ロフトもあり、高い天井にはファンがゆったりと回転していた。

リビングのソファに荷物を降ろしたが高い天井を見上げていると、その後ろからふわりと牧の腕が絡みついてきた。よく日焼けした腕は汗でしっとりしていて、の手のひらが吸い付く。

……オレとの時間は楽しみじゃなかった?」
……そ、それも、楽しみにしてきたよ」
「ほんとに? インターハイでナンパされてただろ」
「あのねえ、私がナンパしてくださいって頼んだわけでもないのに、どういう言いがかりよ」

しかもをナンパしてきたのは会場にいたボランティアスタッフの学生で、マネージャーとしての役割を一生懸命こなしていたに付きまとい、迷惑でしかなかった。は腕を跳ね除けると振り返り、ぼんやりした顔の牧の胸を押してベッドに突き飛ばした。そして彼の膝に跨って首に腕を絡め、顔を寄せる。

「確かに決勝まで進んだ時は、全員勝てるって思ってた。思ってたけど、だけど誰も慢心なんかなかった。コートに入れない1年生ですら、今が1番気を緩めちゃいけないんだって思ってた。私たちが負けたのは、そういう鉄壁の戦闘態勢のせいだったのかもって話、したよね」

監督ですら決勝戦での敗因については「努力と才能と万全の備えのほんの隙間、そこをするりとすり抜けられた」と語るしかなかった。3年生はともかく、1~2年生の中にはいつまでも「なぜ負けたのかわからない」と首を捻っている部員もいたくらいだ。

……でも、自分では落ち込んでる感覚もないんだよな」
「それもわかるよ。ただ紳一は3年間のイメトレが現実にならなかったから、心が空っぽなだけ」
「空っぽ……そうかな」
「大丈夫、また練習に戻って試合が近付けば埋まっていくから」

事実、ふたりはこの旅行から帰って2日で休みが明けるので、「準優勝症候群」なんぞでぼんやりしていられる時間は少ない。特に牧は休みが明けたら今度は国体が待っている。

「キャプテン、今は私しかいないから甘えてくれていいけど、それは帰るまでね」
…………すまん」
「ここにいる間は、私のことだけ考えていれば、いいから」

息を吐いて肩を落とした牧に、はそっとキスを落とす。深い悲しみと向き合わねばならなかった白蝋館から半年、ふたりはもう二度と会うことはないであろう南雲志緒の言葉を心の片隅に置いたまま日々を過ごしていた。今、目の前の現実をただひたすら生きなければならない。

けれど、準優勝で立ち止まってしまったふたりを置いて、目標に向かって邁進していた意欲だけがどこかに走り去っていってしまった。心の中は空っぽ、その空白を持て余したままやってきた青糸島は日常の欠片もなくて、余計に空虚な気持ちになる。

……紳一は、何がしたい?」
……何も、なくてもいいかもな。少し、横に、なりたいかも」

散々を煽っていた牧だったが、そう言うなりベッドにばったりと倒れた。はその隣に横たわり、静かに上下している牧の腹に優しく手を添え、頬にキスをする。

……足跡が、残らなかったような、気がして」
「足跡?」
「インターハイで優勝することは、小学生の頃からの、夢だったから」

牧のその声は低く掠れてはいたけれど、落ち着いていて、少しも揺らいでいなかった。

「その夢までの時間、全部が、幻だったみたいで、10年近くかけた夢だったのに、その日々のどこにも、オレが歩いてきた印が、残っていないような、気がして――

そんな牧の空虚な気持ちをは「空っぽ」と言い、しかしそんな「甘え」はこの旅行中だけだと突き放した。それはが誰よりも牧紳一というプレイヤーを知り抜いていて、信頼し、また愛していたからだ。きっとこの空虚な気持ちは明日の牧紳一というプレイヤーを作るはずだ。

「そんな風に考えてしまう弱い自分は、好きじゃ、ないんだけどな」

ふたりの耳には微かな波の音しか聞こえなかった。ほんのりと漂う花の香り、エアコンでほどよく冷やされた空気、少しざらりとしたシーツはゆっくりと温まっていく。まるで異世界のアルテア・ブルー、その青に包まれて、ふたりは静かに眠りに落ちた。