青糸島の殺人

6

深夜1時。紅子さんは涙目で平謝りをしていたが、蒼太を強く叱るようなことはせず、未遂に終わったこととして何とか収めてもらえないかと敬さんに懇願した。深夜の本館ロビーでは青井さんと敬さんが難しい顔で腕組みをしている。

当の蒼太少年は既にコテージに返され、いるのは紅子さんだけ。だが紅子さんは敬さんに対して必死に謝罪を繰り返していて、と牧に対してはあまり視線を向けようとしない。

……私も離婚したけど、蒼太の親も何年か前に離婚してるんです。詳しくは聞いてないけど、母親が単身出ていっちゃったみたいで、大人の女性の愛情に飢えてるんだと、思うんです。特に中学生になってからは学校がうまくいかなくなって、休みの日に私が預かることも多くなったんだけど、今までは一度もこんなことなかったんですよ。本人も女の子に興味はないって……

紅子さんは冷静なようでたっぷり狼狽えており、一応身内である青井さんが詳しい話を聞こうと離れたので、敬さんがふたりを促して外に出た。明かりの落ちたプールは真っ暗で、薄っすらとバーカウンターが見えるだけ、その向こうにあるはずの海は波の音しか聞こえず、視力を失ったかと思うほどの暗闇があるだけだった。

「本当に覗かれただけなのか?」
「たぶん。私たちリビングにいたんですけど、顔が見えたんです」
「オレは背を向けてたから気付かなかったんですけど」
……ちゃん、服は着てたのか?」

暖かな潮風だったけれど、時折強く吹く風には自分の体を抱き締める。

「裸では、なかった。でも、脱ぎかけて、ました」
……しようと、していた?」
……はい」
「すまない、それだけわかれば。彼はそれを見たくて首を伸ばしていたんだろうからね」

本館の中では身振り手振りで何やら話している紅子さんに対し、青井さんがまだ厳しい顔で腕を組んでいる。紅子さんは何とか大人同士だけで和解出来ないかと必死な様子だが、敬さんにその気はないようだし、蒼太がお兄さんお姉さんカップルの何を見たくて庭に潜んでいたかは明白だ。

しかし、紅子さんの言うように、状況的には未遂に近い。いつからそこに潜んでいたのかもわからないし、すみれを寝かしつけた紅子さんはゆっくり風呂に入っていて、蒼太はその隙にコテージを抜け出したと思われるが、それが具体的にいつなのかはわからないという。なので、例えば本当に蒼太がホテルの敷地内を散歩していて、たまたまと牧のコテージの庭に顔を出してしまった……という可能性はゼロではないのである。明日にでも出て行けと言うには少々根拠に乏しい。

なので敬さんが困った顔をしているのは、ひとえにオーナー権限で疑惑の段階の客を追い出していいものかどうかと悩んでいるからであろう。事実はキャミソールの肩ストラップが外れていただけの状態であり、腕や膝下くらいしか露わにはなっていなかった。

「私も別に、今すぐ出て行けとは、思ってないんですけど」
「全コテージが誰でも覗けるようになってるから、防ぎようがないですしね」
「まさか覗いてくる人がいるなんて思わなかったから、カーテンも閉めてなくて」

と牧は驚いたものの、犯人があの猫背の蒼太だったことで妙な諦めの気持ちが出てきてしまい、これ以上揉め事にしたくないと考えていた。スーベニア組ではないけれど、ゆっくり心を休めたくてここに来たのに、ちっとも休まらないじゃないか。

「君らが冷静な対応をしてくれて助かるよ」
「いえその、なんか、子供だからなのか、悪意みたいなものを感じなくて」
「悪意?」
「捕まえた時に、そんな感じがしたんです」

牧も潮風に前髪を翻しながら腕を組んだ。

「もちろん覗きなんて許されることじゃないんですけど、覗きだって自覚もなくて、カップルはふたりになると本当に何かやってるのか確かめてやろう、みたいな、15歳にしてはものすごく幼い感じがしたんです。もし彼がすみれちゃんと同い年だったらこんなに問題にならないじゃないですか」

も一緒に頷いた。学校がうまくいかない同情すべき子……とも思わないのだが、出来れば紅子さんに蒼太から目を離さずにいてもらい、以後がこの島から出ていくまでは極力コテージから出さないようにしてもらえれば。

「ただ問題は、コテージは中からならいつでも出られる造りだってことで」
……しょうがない、オレが出るしかないか」
「出るって、やっぱり紅子さんたちに出ていってもらうんですか?」

片手で頭を掻きむしっていた敬さんはため息とともにニヤリと唇を歪めた。

「いんや、蒼太を直接ビビらせる。効果があるかどうかは、賭けだけどな」

その後、紅子さんは敬さんの提案を受け入れ、蒼太を敬さんのコテージに連れてきた。敬さんは紅子さんを追い返し、思い切り「怖い大人」を演じて蒼太を「ビビらせ」たらしい。たちがコテージに帰ってから30分ほどで敬さんから連絡が来て「効果あったっぽい」と報せてきた。

なので蒼太も紅子さんの待つコテージに帰り、連絡を受けた青井さんも謝罪しつつ、無事に深夜シフトを終えられると安堵していたそうだ。珍しく満室のアルテア・ブルーは1日トラブルが絶えなかったけれど、ようやく静かな夜を迎えられる。

「あの子、すごく子供っぽかった、よね?」
「だから効いたのかもな。反抗心のある15歳だったら効かなかったかも」
「そもそも反抗心があったら紅子さんと旅行なんて来なかっただろうし」

カーテンを全てきっちりと閉めたコテージの中、ふたりはベッドに並んで横たわっていた。たっぷり昼寝をしたおかげで眠気は来ないが、ロマンチックな気分は全て吹き飛んでしまった。というか風が強くなってきたのか、時折唸るような音が聞こえてくる。

「大人になりたくな~いみたいなこと言ってたけど、子供ももうやだね……
「他の客の滞在期間がどれくらいなのか分からないけど、出来るだけ籠もるか……
「それもいいかもしれないね」
「敬さんやさくらさんにはまたイジられるだろうけどな」

そもそもふたりも青糸島には2泊3日の予定。明後日の午後にはこの島を出ていく。丸1日をふたりきりで過ごせるのは明日しかない。敬さんとはディナーなどで一緒に過ごせるのだし、白蝋館のときのように他の客と交流を持つ必要もない。

「あーもう、一気に現実に引き戻された感じ。明後日には家に帰るし、その3日後にはもう部活だし、よく考えたら私その日で引退だし、そしたら受験! もうずっとここにいたい……

足をばたつかせたは勢いよく寝返りを打つと、牧の腕に絡みついた。

「ずっとこのままでいたい……紳一と、ふたりで、ずっと」

大人でも子供でもなく、大人ってやだね、子供はもっとやだね、と全てを拒絶出来る今のまま、ただ無心でお互いのことだけを愛していられたら。牧も寝返りを打ってを抱きかかえた。

「大丈夫、ずっと一緒だよ」
「そうかなあ。急に海外に行くとか言い出しそうだもん」
「いやまあその、そういうチャンスがあれば、そうかもしれないけど」
「はあ~せめて英語もっと勉強するか~」
「全然前向き」
「しょうがないでしょ、紳一のこと、好きすぎるんだから」

息がかかるほどの距離、は首を伸ばしてそっとキスをする。

……オレも、同じ。のこと、好きすぎて、困ってる」
「なんでよ。困ることなんかないでしょ」
「いや、すごく困る。もう我慢、出来ないから――

風の音にかき消されて、もう波の音も聞こえない。プルメリアを彫り込んだベッド、真っ白なシーツはふたりを包み込んで衣擦れの音を立てるばかり。

大人でもなく子供でもない中途半端な自分たち、過去はかき消え未来は見えなくて、ただお互いの存在だけが確かなものに感じた。唇の感触、混ざり合う汗、耳にくすぐったい吐息、痛むほど繋がれた手。ひとつになった体に愛しさが溢れて、止まらなかった。

結局たっぷりと運動してしまったふたりは、ぐっすりと眠り込んでいた。というかやっと眠りに落ちたのは明け方だったので、寝息も聞こえないほど熟睡していた。なのでコテージのドアが乱暴に叩かれる音が聞こえてきた時、ふたりは驚いて目を覚まし、牧はベッドから転がり落ちた。

ドアを叩く音の間に敬さんの声が聞こえるので、牧が慌ててドアを開ける。

「ああよかった、携帯出ないから」
「えっ、あ、そうでしたか……? すみません、寝入ってて」
……紳一くん、また厄介なことになったかもしれない」
「えっ、厄介って……
「先に話しておくな。まずこれ」

言いながら敬さんは腕を上げて人差し指を立てた。それに合わせて牧が顔を上げると、どんよりした曇り空が強風に蠢いていた。潮騒の音も昨日より激しく聞こえる。

「まだ全然遠いけど台風発生」
「マジですか……
……それから、青井さんが部屋から出てこないんだ」
……えっ?」
「さっき墨田さんとみどりさんが連絡くれてね。青井さんが起きてこないらしい」

敬さんは牧たちと一緒の時はすぐにふざける人物だが、その分、冗談なのか本気なのかはすぐにわかる。敬さんは真剣な顔をしていた。悪ふざけで朝っぱらからふたりをからかいに来たわけではなさそうだ。強い風は夏の暖かさをしていたけれど、上半身裸の牧の背中をひやりとさせた。遠くに過ぎ去ったはずの白蝋館の記憶が溢れ出し、あの雪の冷たさと暗さを思い出させた。

「もちろん事件が起こったって決まったわけじゃない。だけどもし青井さんが急病で倒れていても、この天候じゃすぐに救助出来ない可能性がある。台風もどうなるかわからない。……紳一くん、本当に申し訳ないんだけど、ちゃんと一緒にオレを助けてほしい」

しっかりと頷く牧から視線を逸らした敬さんは、少し俯いて声を落とした。

「いい大人が申し訳ない。でも……今ここでオレが信用できるのは君らしかいないんだ」
「敬さん……それはオレたちも同じです」
「支配人が責任を果たせないとなると、オーナーのオレが前に出るしかないし」
「オレたちに出来ることなら何でも言ってください。一緒にいて離れないようにしましょう」
「本当にすまん」

その時の敬さんの寂しそうな笑顔に牧はなぜか心が締め付けられた。なんで敬さんはこんな顔をするんだろう。敬さんは余裕たっぷりの大人で、なんでも出来て、そういう人じゃなかったんだろうか。

すると牧の後ろから慌てて身支度をしたがやって来た。上半身裸でも出てこられる牧と違い、パンツ1枚で寝ていたは焦ってバスルームに逃げ込んでいた。

「敬さんおはようございま……す、すごい風ですね」
「おはよう。今ざっと紳一くんに話しておいたから、彼に聞いてくれ」
「は、はい、わかりました」
……あとちゃん、今日はTシャツか何か着てきなさい」
「えっ……あっ、は、はい、ごめんなさい!」
「す、すみません……!」

今日着るつもりだったサマードレスを被ってきただったが、その露わになった胸元はキスマークだらけ。これが平時なら敬さんはさも楽しそうにニヤニヤしてふたりをからかったのだろうが、先に本館に行っているとだけ言うと、笑顔も見せずに立ち去ってしまった。

ひとまずコテージの中に戻ったふたりは、顔を洗って着替える。ほんの3~4時間しか眠っていないが、敬さんの表情は一切の眠気を吹き飛ばした。あんな顔、白蝋館でもほとんど見なかった。

「何があったの」
「ええと、まずこの風が、台風」
「えっ……大丈夫なのそれ」
「それから、青井さんが部屋から出てこないって。でもこの天候じゃ救助も呼べないし」
「青井さん? 墨田さんじゃなくて?」
「そうらしい。墨田さんとみどりさんがまず敬さんに報せてきたみたいで」

青井さんは見たところ30代後半くらいだ。日々の仕事で鍛えられていて若々しく見えたとしても、40代前半くらいが限界といった年代に見える。なのではそれが急病とはピンと来なかったらしい。確かに年代だけなら墨田さんはもうおじいちゃんの域で、それが部屋から出てこないなら急病を真っ先に疑うのだが……。牧も敬さんの顔を見ていなかったらそう思ったに違いない。

……でも、菊島さんなんか敬さんより年上に見えたけど全っ然、頼りなかったし、言うほど一生懸命働いてた感じもしなかったけど、青井さんは朝から晩まで駆けずり回ってたしね……

あの菊島さんと比較してしまうのも乱暴だ。牧はついフッと吹き出し、肘まで袖のあるオーバーサイズのTシャツを着たを抱き寄せた。

「台風も含めて、のんびりリゾートってわけにいかなくなっちゃったな」
「んも~、敬さん、疫病神なんじゃないの」
「あはは、オレもそう思う」

そして、努めて深刻にならないよう、敬さんの言葉を伝える。

「そうだね……白蝋館の時はメイさんや島さん柴さん、国竹さんたちもいたけど……
「オレがお前を守ってやるぜ、とか言いたいところだけど」
「紳一がいつも私を大事に思ってくれてるのは知ってるから、大丈夫」

は牧の胸に頬を擦り寄せ、目を閉じた。

「ふたりでいれば大丈夫。敬さんはしょうがないから仲間に入れてあげる。そんな感じ」
……そうだな」

つい気落ちした声を出してしまった牧だったが、は顔を上げると優しく微笑んでいた。

「紳一も弱音吐いたっていいんだよ。私も紳一のこと大事にしたい」
……ありがとう」
「昨日……やっぱり紳一のことこんなに大好きなんだって、改めて、思ったから」

そして一転、ニヤリと唇を歪めると、Tシャツの襟首を指で引っ張った。

「でもちょっとキスマークは多すぎるかな。ドレス着られなくなっちゃったじゃん」

牧は両手で顔を覆って「ごめん」を繰り返した。