青糸島の殺人

16

その時のことを、墨田さんは「どうしてあんな速度で走れたのか、なんであんな重い小舟をひとりで運べたのか、よくわからないんですよね」と言った。

墨田さんの言うように東の湾は波が穏やかだったけれど、風はまだ強かった。崖の近くではなおさら。だが、青井さんを追って崖から飛び降りた牧はまっすぐに落ち、水中で青井さんを捕まえて水面に顔を出した。その間崖の上のは生きた心地がしなかったのだが、牧が顔を出したことと、墨田さんの小舟が近付いているのを確かめると、猛然と走り出した。

そして墨田さんが船を出した北の千草まで辿りつくと、小舟が戻るのを待ち、無事に3人が戻るなり、牧の頬を平手で思い切り殴った。水を飲み咳き込み続けていた青井さんが目を丸くするほど、何の躊躇もなく殴った。静かに波が打ち寄せる砂利浜に乾いた音が響く。

……
「紳一のことは、本当に、本当に大好きだけど、このことは一生許さない!」

やっとのことで追いついた敬さんがむしろ牧を抱き寄せを宥めようとしたが、は敬さんの手を跳ね除けて怒鳴った。

「もしこれで紳一が無事じゃなかったら、私も青井さんを憎まずにはいられなかった。敬さんも、メイさんも、白蝋館でのことも、全部全部恨んで、後悔して、憎みながら生きて行くしかなかった! そういうのダメだって、さっき自分で言ったじゃん!」

は声を上げて泣き出し、牧は小声で「ごめん」と言いながら 強く抱き締めた。

その傍らで敬さんはしゃがみ込み、青井さんを覗き込んだ。青井さんは船上で牧に両手を縛られていて、ぐったりと座り込んでいる。

「青井さんさ、殺せば制裁になると思ってたのか? あのふたりをさ、もう誰もパワハラの加害者だなんて思ってくれないよ。殺されるほどのことはしてないとか言われて、パワハラなんか珍しくないし、みんな我慢してるのにわがままだ、葵さんの死の原因は別にある、ふたりとも実際はとても善人だったとか言い出す人が絶対に出てくる。最悪のパターンじゃねえか!」

そしてのように青井さんの頬をひっぱたいた。

「オレにとってあんたの罪は、オレやメイにちゃんと相談しなかったことだ。その罪はこれでチャラにしてやる。だけど、相談出来る人だと思ってもらえなかったオレらも悪い。それがオレの罪だ。だからあんたとあんたの妻が勝手な憶測で好き勝手に騒がれることがないよう、杉森藍と桑島紫苑がやったことが正当化されないよう全力を尽くす。それがオレの贖罪だ。いいな」

青井さんは返事をしなかった。けれど、波打ち際に蹲り、泣きながら呻き、やがてそれは怒りとも悲しみともつかない叫び声に変わった。は牧をきつく抱き締めて泣いていた。墨田さんも青井さんの背をさすりながら泣いていた。

泣き声が風に舞い踊る青糸島、たちの背後には北の千草の民家が並んでいた。南に比べて損傷の少ない家々には、全て真っ赤な郵便受けと柵が立てられていた。そして風に音を立てる玄関の引き戸の上には、杉森藍と桑島紫苑に付けられていたものと同じ印が薄っすらと残っていた。

牧はそれを見ながら、さらにきつくを抱き締め、目を閉じた。

もう何も見たくなかった。

ホテルまで連行されてきた青井さんは、閉店中のバーカウンターの中に拘束されて閉じ込められた。ホテル内に内側から脱出不可能で使用しない場所がそこしかなかったからだ。すっかり日が暮れて救助がまた一晩先送りされたので、何度かトイレに立たせねばならないが、あとは放置で構わない。

というか青井さんが自身の死を偽装していたのはほんの数分で、自分の部屋のドアが再度密閉されたのを確認すると、すぐに裏側から脱出し、予想に反してほとんどの時間をホテルの敷地内で過ごしていたらしい。基本的には事務所の中にいて、防犯カメラのリアルタイム映像で敷地内を確認しつつ、本館ラウンジでの言い合いなども全部聞いていたそうだ。何しろマスターキーがあるし、避難所に行くことも出来るし、犯行自体は容易だったとのこと。

一応これで犯人確保という状態になったので、敬さんと墨田さんは3号棟へ行って事情説明、籠城中のさくらさんは山吹さんに任せ、と牧は4号棟に戻ってきた。真夏とは思えないほど牧の体が冷えていたので、は浴槽に湯を張り、疲れでぐったりと身を沈める牧の傍らに座り込んだ。

「痛いところとかない?」
「平気。膝から下に擦り傷がいっぱいあるから、ちょっと沁みるけど」

島を熟知している青井さんを追って猛ダッシュした牧は生憎のハーフパンツで、腕と脛やふくらはぎが細かい傷だらけだ。青井さんを追って飛び込んだことをまだ少し怒っていたは湯をすくい、腕にもかけてやる。それも沁みた牧は苦笑いでうめき声を上げた。

そこへ敬さんが戻ってきた。3号棟でみどりさんと紅子さんと紺野さんの相手をして疲れたのだろう、ドアが開きっぱなしのバスルームにヨロヨロと入ってくると、と同じように床に座り込み、浴槽のへりにぐったりともたれかかった。

……みどりさん、大丈夫でしたか」
「みどりさんが一番重症だな。バーの鍵を持ってきたよ。みどりさんが開けちゃいそうだから」

みどりさんが取り乱すのは想定内だが、一方の紅子さんと紺野さんは驚きはしたものの、青井さんが実は生きていて犯人だったということに対しては、安堵したように見えたそうだ。彼女たちにはもう犯人など誰でもよかったのかもしれない。そして自分にこれ以上危険がないことがわかれば、その他のことはどうでもいいのかもしれない。

「敬さん、このホテルも休業しちゃうんですか」
「正直、それは本意じゃない」
「墨田さんやみどりさんのために、ですか?」
「それもあるけど、ここをいつまでも終わらない憎悪の島にしておきたくない」

墨田さんは、昭和の中頃にはもう千草への差別などなかったはずだと記憶していたけれど、それも15歳の見た世界でしかなく、島の北側の千草、墨田から追い出された人々の家には今もその印が残されていた。敬さんもそれを見ていたのだろう。

「そりゃ千草の歴史はきちんと語り継ぐべきだと思うけどさ、それはそれとして、全て壊して、きれいにして、この島を浮かれたカップルが青い紐で縁結びしてキャッキャ出来る場所にしたいんだよ。映え~なスポット作って、プライベートエリアも作って、島中で君らみたいなバカップルとか、青井さんと葵さんみたいなカップルでも好きな時にチュッチュ出来るリゾートにしたい」

しかしそんな敬さんの表情は、もううんざりとでも言いたげだ。腰にタオルを巻いているとはいえ、入浴中なのにと敬さんに囲まれている牧はふと初日のことを思い出して、言ってみた。

「敬さんて、その、恋人とか、結婚とか、しない主義なんですか」
「いんや、そういうわけでも」
「私もそれちょっと不思議だった。みんな敬さんの持ってるものに吸い寄せられそうなのに」
「それはそう。自慢にもならないけど、めちゃくちゃモテる」

まったく自慢には聞こえなかった。人は敬さんの人柄よりも資産に目を輝かせ、彼の家族になることでその資産を使い放題になることを夢見るだろう。まさか仕事に疲れると都市部から離れた私物の宿に逃げ込むような人とも思われていないはずだ。

「でも……オレには家族にかける時間がないんだ。妻になって欲しい女と知り合い、恋愛をし、結婚をし、子育てをし……っていう家庭生活に割ける時間がない。それに、オレは末端まで含めると数百人の生活を預かる立場なんだよ。その人らの家族を含めたらたぶん、数千人の生活の責任を背負ってる。他の人はどうだか知らんけど、オレはそれをいつでも切れる尻尾だとは思ってないし、それを考えると『その人らより優先しなきゃいけない数人』を作ることへの恐怖みたいなものがあるんだよな」

「その人ら」より大事な、家族というほんの数人を作ることが、数千人の明日をどうでもいいものにしてしまうかもしれない。と牧は、敬さんらしい、と思った。フランス生まれ、おぼっちゃん育ちのくせに、この人はそういう情が強すぎる。

「オレさ、高校までは横浜にいたんだよ。毎日車で金持ちのボンボンしか入れないような私立まで送迎してもらって。だけど当時、オレの身近には夏休みにハワイに行ったくらいでセレブ気取りの成金しかいなくてさ。その頃家族の病気を苦にした一家心中っていう悲しいニュースがあって、かなり話題になったんだけど、クラスメイトたちがそれをバカにしてるのを聞いて、どこかキレちゃったんだよな」

折しもその悲しい事件が起こったのはバブル景気の絶頂期。反抗的な時期にあった敬さんは横浜の豪邸を抜け出し、ヤンキーがウロつくような地域に足を踏み入れるようになった。人懐っこく抜け目もない敬さんなので、すぐに下町の空気に馴染み、本人いわく「やわらかくグレていた」らしい。

「オレがボンボンだなんて知らないから、みんな普通に仲良くしてくれて、毎日楽しかった。買い食いして、ナンパして、悪ふざけして。だけどある時、友達のひとりが真っ青な顔をしてたまり場に来て、母親が家で死んでるっていうんだ。そいつは母子家庭で、おっかさんどうやら病気が見つかったらしくて、治療する金はないし、息子に迷惑をかけたくなくて手首切っちゃったらしいんだな。その時の友達の顔が、忘れられない。オレなら助けられたんじゃ……って、どうしてもその後悔が抜けない」

その一件が夏川敬という人間を永遠に変え、彼は夏川家の全てを受け継いで以来、本人が言うところの「もうどこにも行かれない人々」を拾ってきては仕事を与え、なんとなく目をかけてきた。もしかしたらそれが今回の事件の遠因だったのかもしれないが、敬さんはそれを翻すことはないと思われる。

「そんな過去があるから、マジでセレブのお嬢さんはどうも合わないし、一般人だとオレの生きる世界にはたぶんついていかれないと思う。だからこの年まで独り身。60過ぎたら養子を取ろうかなって思ったりもしたんだけど、別に家族がほしいわけじゃないし、蒼太を見てたら余計に気が萎えてきちゃった」

下がりきった眉で苦笑いの敬さんの手に、と牧は手を重ねた。

……今は君らと一緒にいる方がいい。気を使わなくていいし、楽しいからね」
「こんな殺人事件が起こっても?」
「ふふん、名探偵がいるからな」
「それはお断りします」

敬さんはふたりの手に手を重ね、晴れやかな笑顔を見せた。

「ふたりの説教、オレにもガツンと響いた。やっぱりオレはオレのままでいい。ありがとうな」

そんな言葉を残して敬さんは4号棟を出ていった。もうみんなで固まっている必要もないし、どれだけ長引いても明日には島を出られるはずだ。ふたりきりで過ごせる時間は残り少ない。

牧はの頬にそっと触れる。

、ごめん」
……紳一らしくなかったよ、あんなこと」

この夏の空虚な気持ちは全てこの海に置いていきたい。牧はゆっくりと息を吸い込む。

……後ろは振り返らないなんて嘘だ。優勝出来なかったことは今でも悔しい」
……知ってたよ」
が知ってるって知ってた。だから余計にそれを認めたくなかった」

は空虚な心を抱えていると知っていて、しかしそれを甘やかすだけでは海南のマネージャーたる資格もないと思ったし、牧紳一という人を誰よりも信頼していた。折れそうな心に負けたくない、立ち向かっていきたいという人だと知っていたから。

だけど10年以上想い続けた夢は幻と消え、その傷は本人が思うよりも深かった。

……ごめん、あの時、海に飛び込んだ時、どこかでこのまま死んでもいいのかもって思ってた気がする。青井さんを死なせちゃダメだって思いながら、振り返っても証がない、全てを薄っぺらく感じてしまうっていう、彼女の気持ちが、わかるような気がして。その時のことは考えてなかった。殴られるまで、考えてなかったんだ。オレが助からなかったら、にどれだけの傷を残すのかなんてこと。ものすごく後悔してるよ」

頬にまた涙が伝い、は薄紫色のサマードレスを着たまま、牧に覆い被さるようにして湯船に身を沈めた。両腕で牧の頭を抱え込んで撫でながら、涙を流しながら何度もキスをする。

「でも私は、紳一が戻らなくても、誰かを傷つけることで自分の心を慰めようとは、思わなかったと思う。私は志緒さんや青井さんにはなりたくない。絶対になりたくない。もっと違う道を探す。志緒さんや青井さんみたいな人を、これ以上増やしたくない」

例えその道が見つからなくても探し続ける。悲しみでいっぱいになっていたはずの心に、何故だか牧を想う気持ちが湧き上がってきた。の涙が牧の唇にこぼれ落ち、湯に薄紫のドレスが揺らめく。

「紳一、私と、一緒にいて。そばにいて。ずっと好きでいて」
……も」
「約束ね」

牧は手を伸ばし、窓辺に置いてあったアメニティーグッズを束ねていたリボンを抜き取った。藍染ではないけれど、ホテル・アルテア・ブルーのあちこちにあしらわれている深い青色をしている。牧はそれをの手首に結びつける。

「約束の、印」
「海じゃ、ないけど、ね」

リボンの端を受け取ったもまた牧の手首にリボンを結び、しっかりと手を繋ぎ合わせた。海ではなかったけれど、浴槽も浴室も青に染まっている。それが反射している湯もまた青く、ふたりは青に揺れながら目を閉じた。

いつしか風はやみ、夜の闇が島を飲み込み始めた。もう何の音も聞こえない。何も見えない。

全て終わった。