青糸島の殺人

15

「ああ、こいつレズなのか。そう思ったんじゃないか? それはどうなんだろうな。私は妻――黄島葵が女だったから愛したわけじゃない。あんたらの言う愛ってやつは半分くらい性欲だろうけど、私は葵という人間を愛していた。愛って言葉も安っぽいくらいにな」

それよりも牧は緊張が続くので思考があらぬ方向へ逃げ出しそうになっていて、「それじゃ奥さんは氏名が『あおいあおい』になっちゃうじゃないか」などと下らないことを考えていた。だが、葵さんは結婚という形では青井姓になれないと思い返し、また緊張が強くなってきた。

……アルテア・ブルーは、そこから取ったのか」
「そう。アルテアはタチアオイ、失った妻の名をそのまま」
「この島を、妻だと思っていたんじゃないのか」
「もちろんそう思ってた。彼女が愛したこの美しい島で生きていこうと思ってた」

声が一瞬優しげになったけれど、青井さんの獲物を狙うような眼差しはそのまま。牧をはじめ誰も青井さんに飛びかかろうなんてことは考えていなかったのだが、両者の間には目に見えない深い溝があるような錯覚を起こす。彼女の体にはもちろん、心にも手が届かない。

「この島に杉森藍と桑島紫苑がいて、オーナーがいて、そして嵐が近付いていると知った時、私は私の残りの人生全てと引き換えにあいつらを処刑しようと決めたんだ。
確かに桑島は人を見る目はあったんだろう。葵は才能溢れるアーティストだった。大人しくて人見知りな性格だったけど、特殊メイクの専門家になりたくて長いこと留学してた。そこから戻って所属したのがスーベニアだった。私もその頃に葵と出会い、いつか映画を撮りたいという夢が同じで意気投合した。そうは言ってもきっと自分たちに大きな作品なんか作れないに違いない、そうしたら低予算のホラーを撮ろう、葵の特殊メイクを活かしたホラー映画を作ろう。それが私たちの夢だった。
葵は本当に才能豊かな芸術家で、繊細さと大胆さとを兼ね備え、職業人としても一流、そんな人だった。それが面白くなかったんだろうな、あの桑島紫苑は。才能ある女を嗅ぎつける能力はあっても自分には何の才能もなく、部下の技術と妻のコネと他人の手柄を横取りしてリーダー面をしてるだけの、お山の大将。杉森藍も同じだよ。何の才能もなく、センスもなく、努力もせず、あの女はメイクアップ・アーティストを名乗ってるけど、自分を飾り立てることしか興味がない。
それが葵の高い技術と評価に嫉妬してしまうのはまあ、仕方ない。あいつらは凡人、葵はそうじゃない。だけどそんな下らない嫉妬で精神的に追い詰められて、自ら死を選んでしまうほどの嫌がらせを受ける義理はないんだよ。桑島紫苑と杉森藍の子供じみた嫌がらせの数々、これだけはあんたらにひとつひとつ聞かせてやりたいくらいだよ。パワハラの一言で片付けられたけれど、そんな言葉で済むような内容じゃなかった。ひとつひとつが全て犯罪だった。
だけど……葵という人は、そんなことで夢を放棄してはならない、努力を重ねていればきっと道は開けるはずだと信じてた。桑島と杉森はきっと何か誤解をしているに違いない、自分が真面目に仕事に取り組んでいれば、いつか誤解も解けるってね。葵は私にとっては完璧な人だったけれど、そこだけは葵が間違ってた。葵がそうやってポジティブに生きようとすればするほど、あいつらの嫉妬は強くなり、パワハラも止まらなくなり、気付いた時には葵は身も心もボロボロになっていた」

そして、妻の体調を気にかけながらも多忙な仕事に穴を開けられない青井さんは、数日間留守にした。その間に葵は死を選んでしまった。――と、話がそこに至り、青井さんは憤怒の表情になった。

「お察しの通り、私たちの『結婚』は自称でしかない。この島で、青い紐で手を繋ぎ、浜で一生支え合っていくことを誓っただけの、伴侶であり、盟友であり、ソウルメイト。ただそれだけ。その結果、留守中に葵を失った私はどうなったと思う。仕事から戻ったら葵はもう骨になっていて、線香を上げることも許されず、未だに葵がどこに眠っているのかすら知らない。葵の親は娘の死で初めて同性のパートナーがいたことを知ったらしいけど、『娘が変態で自殺したなんて知られたくない』という理由で私を締め出し、葵がパワハラの被害者だってことも黙殺したんだ」

白蝋館の記憶が鮮明に蘇ってしまっているは、南雲志緒が本当はもう3人殺したいと考えていたことを思い出した。彼女もまた恋人の死の原因を作った人々を許せず、それを殺害することで自分が解放されたいと思ってしまった。それならもしかして――

「青井さん、本当は死ぬつもりなんかなくて、島を出てまだ復讐を……
「白蝋館の犯人と一緒にしないでくれるかな。葵は姪っ子を可愛がってた。その祖父母は殺せない」
……白蝋館のこと、知ってたんですね」
「そりゃそうだよ。オーナーの個人的な事業のホテルという意味では身内みたいなものだし」

白蝋館の一件は敬さんの徹底した後始末のおかげで、世の野次馬的好奇心をかき立てるような情報が漏れなかった事件だった。事件当時一緒に閉じ込められていた宿泊客の中に保護者不在の高校生が紛れ込んでいたなんてことも、一切漏れなかった。だが青井さんは南雲志緒のことをよく知っているようだ。

「それは秋名さんを恨んでくれ。大切な人を亡くしたという共通点があるとはいえ、犯人の話を私にしちゃったんだから。オーナーが蒼太に説教してる間、結局あの覗き野郎が無罪放免になると思ったら腹立たしくてビーチで深呼吸してたんだけど……その頃から空はさらに荒れはじめて、最新の天気予報は台風発生を予測していた。これは島に閉じ込められるかもしれないと思って、すぐに白蝋館のことが頭をよぎったよ。墨田さんとみどりさんはオーナーがいれば勝手なことはしない。ドアをこじ開けて私が惨殺死体のふりをしていれば、白蝋館の経験があるオーナーは部屋の中まで踏み込まずに現状保存を優先するはずだ。そしてこの嵐は私に味方するはずだ」

メイさんとふたり、結果的に青井さんの「計画」を後押ししてしまった形になるので、敬さんはポケットに手を突っ込んだまま、がっくりと頭を落とした。青井さんの読み通り、証拠品になるかもしれないものが散らばる部屋へ踏み込まない方がいいと判断し、すぐにその場を出てしまった。その時点では裏側の窓は施錠されていたし、「思い込みの密室」は青井さんの狙い通り機能してしまった。

「想像以上にすぐ部屋を出てくれて助かりましたよ。死体のふりも楽じゃない」
……あの血糊は、葵さんに教わったんですか?」
「そう。材料は片栗粉とか水飴。バカみたいだろ。それをブチ撒ければ完成」

片栗粉なら厨房にも倉庫にもたっぷりある。あとは匂いの問題さえ誤魔化せればいいので、着色も食用色素や塗料など、島にあるもので充分作れる。もしかしたら至近距離まで近付けば、青井さんの死が偽装だということはすぐに気付ける状態だったのかもしれない。だが、白蝋館での経験が邪魔をした。

……杉森さんだけ、どうやって呼び出したんですか?」
「簡単な話だよ。宿泊者名簿から調べて電話をかけ、橙山さくらの名を騙って『黄島葵の件を知ってる。話したいから早朝のプールで待ってる』と言ったら、すぐに信じた。橙山さくらはただの旅レポブロガーでジャーナリストでも何でもないっていうのに、葵の件をあることないこと吹聴されるとでも思ったんだろうな。あの杉森藍は何しろ自分が世界で一番可愛くて大切っていう人間だし」

そうして早朝にコテージを出てしまった杉森藍は、プールサイドまでやって来ると、後ろから殴られて昏倒した。殴られたと言っても、打撲にしかならなかったのだろう。場所は後頭部、出血がなかったので無傷の死体に見えていた。

「そう、人を殺すのは初めてだったから、力加減がわからなかった。意識は失ってるけど、死んだかどうかもよくわからなかった。だからプールに沈めて、15分くらい踏んづけてた。そのあとに千草の印をつけたんだけど、あれは結局どっちで死んだんだろうな。殴った方か、沈めた方か。千草の印をつけたのは侮辱の意味もあるけど、いかにも見立てっぽい演出をすることであんたたちを混乱させたかったからだよ。特に桑島や橙山さくらにはよく効いたみたいだったな。
だけど桑島の時はまた手間取るわけにもいかない。やつがコテージにひとりだったのは助かったよ。こっちにはマスターキーがあるし、あいつは泥酔してたし、あとでのんびり侵入して首を絞め、ダイニングまで運んで吊るし、首を切っておけば確実に死ぬ。
全部終わった時はホッとしたよ。これで目的は全て達成した。オーナーがいたことも、台風が発生したことも、橙山さくらがいたことも、紅子の甥が君らを覗いたことも、全て全て私の計画を少しずつ助けてくれた。本当に運が良かった。これで心置きなく死ねるよ」

ここに来ては少し焦り始めていた。ちゃんと話を聞きたいと思っていたけれど、聞き終わってしまった。まさかあのナイフで今度こそ本当に自分の腹を刺してしまうのではないだろうな。しかし誰かが迂闊に動こうものならナイフが飛んできてしまうかもしれない。

青井さんもそれを承知しているので、表情は緩やかだ。

「これでいいか、さん。まったく誰が名探偵なのやら、もっと早く死んでいればよかった」
……なぜ、先送り、したんですか」
「そこは情けない話だよ。海に飛び込むつもりだったんだけど、さすがにあの荒れ狂う波にビビっちゃってね。でもここから近い東側の湾はこんな天気でも荒れにくいし、高さもまあまあ、本当は葵が愛した美しい海に沈みたかったけど、しょうがない。そろそろ失礼するよ」

青井さんはナイフを構えたままじりじりと後退る。何も言えないままそれを見つめていた4人だったが、青井さんが突然身を翻して駆け出した瞬間、墨田さんが追いすがり、牧は振り返って外に飛び出した。牧の読み通り、青井さんは避難所の別の出口から外に出ると、東の湾と思われる方向に向かって猛ダッシュしていた。しかも早い。

「紳一、待って!」
「紳一くん、ダメだ!」

と敬さんが同時に声を上げたが、その時にはもう青井さんも牧も遠くに去っていた。牧はともかく、青井さんの速度が異様に早い。そこへ裏口から出てきた墨田さんが真っ青な顔で走ってきた。

「オーナー、さん、我々じゃ追いつきません、別の方向から行きましょう」
「青井さんなんであんな早いの」
「そりゃ毎日駆けずり回ってますしね……

そして青井さんは残りの人生全てをかけて走っている。青井さんの魂だったと言ってもいい「妻」を死に追いやった杉森藍と桑島紫苑を葬るという目的を達成してしまった今、彼女に残された最後の自由が自らの死だ。その覚悟が牧にもすぐ追いつけないほどの速度を可能にしているのかもしれなかった。

青井さんを追う牧とは別のルートから東の湾に向かったたちだったが、何しろ敬さんが遅かった。白蝋館から数ヶ月、牧の胸筋に触発されて鍛えはしたものの、ここ数日は飲んだくれていただけなので、急激な運動に体がついていかない。

その点ではやはり島を熟知している墨田さんが素早く、牧と離れてしまったもなんとか食らいついているが、徐々に敬さんが遅れはじめた。なので、やっと牧と青井さんの姿を確認できた時には、ふたりは崖の突端で言い合いをしていた。ゼイゼイ息を切らしている敬さんが「2時間サスペンスじゃねえんだぞ」と呻いているが、青井さんは説得に応じるような精神状態ではなさそうだ。

慌てて海を覗き込んだ墨田さんはに駆け寄ると、両肩を掴む。

「北の千草が近いので、あたしはなんとかそこから船を出してみます」
「でも墨田さん、波は、風が」
「今確認しました。もうかなり落ち着いてるので、何とかなると思います。青井さんを死なせたくない」

青井さんの偽装遺体を発見して以来、怯えたり落ち込んだりするばかりだった墨田さんだが、その両手には力が戻り、真剣な目をしていた。は何度も頷く。

さんは何とか青井さんが飛び込まないよう、紳一くんを助けてください」
「墨田さんも無茶なことをしないでくださいね。自分は充分生きたから、なんて絶対に思わないで」
……わかりました。お約束します」

そうして墨田さんが走り去ると、は少しずつ牧に近付いていく。もう青井さんの手にはナイフはなく、肩で息をしていて、あれだけ落ち着いていた声も上ずっていた。

「お前らに、誰かを愛しただけで異常者にされる気持ちがわかるか! お前らは誰かに心をときめかせただけで美しいだの素晴らしいだの……ひとりの人間がひとりの人間を愛し、敬い、そして共に手を取り合っただけで気持ち悪いと言われるんだぞ。自分は理解があるとか言い出すやつでも、結局最後に聞いてくるのは『どうやってセックスしてるの?』『セックスの時はどっちが男役なの?』そんなことばかりだ。異常者にされるのも、ポルノの題材にされるのも、もううんざりなんだよ。
私には、私たちには、何も証がない。私たちが同じ夢を追いかけ、信頼しあい、互いを慈しんできた時間はなかったことにされた。誰よりも彼女を理解し、称え、尽くしてきた私には葵の家族になる権利がないんだ。性別が女だから! 娘を変態と呼んで蔑んだ親にはその権利があるのに!
私たちが共に過ごしてきた時間は、日々は、作り話よりも薄っぺらい存在になる。それが耐えられないんだよ! 葵と私の全てが否定され、踏みにじられ、他人に消されていくんだ!」

いきなり聞こえてきた青井さんの悲鳴のような声に、は胸の痛みを覚えた。それは南雲志緒の時よりもさらに「自分には青井さんの気持ちを少しも理解することが出来ない」というもどかしさと、そんなことを理由に彼女が死のうとしていることを止められない無力感からくる悲しみの痛みだった。

だが、が背後にいることに気付いているのかいないのか、牧も大声を出した。

「もちろんわからない、だからこそ殺人なんて手段に出たことを非難してるんです!」

の感じた怒りに近いことを、牧も考えていたらしい。わからないからこそ、こんな取り返しのつかない方法を選択されてしまったことが悔しい。本当に解決を望むなら、一番選択してはならない手段だったはずだ。事態は何も好転しない。

「杉森さんと桑島さんが何をしたのかオレたちは知らない。葵さんと青井さんの苦しみもわからない。だけど苦しいならこんな手段を選ぶべきじゃなかった! それに……自分のこれまでの日々が全て無意味なものになって、何も残らないように感じてしまうのは、わかります。オレも10年以上追い求めた夢が掴めなかった。信じていれば、努力を怠らなければ、夢を掴むための意欲を失わなければ絶対に手に入ると思っていた夢は幻だった! それを認められなくて、夢への執着を手放せないのもわかる! だけどどれだけ願ったって過去は覆らないんですよ! そのくらいまだ高校生のオレだってわかることなのに!」

牧の声にの胸は余計に痛んだ。準優勝症候群などとふざけてみたけれど、インターハイの優勝が手に入らなかったことは本当に取り返しのつかない過去であり、何を持ってしても補えない喪失には違いなかった。言葉では前に向かって進むなどと言えても、長く追い求めていた夢が突然消えた心の虚無が簡単に癒えるはずもなく、それが今青井さんに同調して溢れ出している気がした。

「あなたの境遇には憤りも感じます。証が残らない過去への執着もわかる。でもあなたの選んだ手段は間違ってる。あなたは杉森さんと桑島さんを殺して全て清算したと思ってるだろうけど、オレたちに憎しみや苦しみを与え、あなたと同じ苦しみと憎しみを持つ人をたくさん作り出し、そのきっかけである葵さんの人生を永遠に貶めたんだ。この事件を知った人々はあなたたちのような人々を恐れ、ますますあなたたちを憎むようになる。葵さんの過去の全てが犯罪の種にされて、無関係な人々をまた苦しめる。葵さんの仇を取りたいのなら、葵さんのためだって言うなら、彼女の悲劇を悲劇だけで終わらせるような手段を取るべきじゃなかった。葵さんを1番傷つけたのはあなただ!」

牧の叫び声を聞きながら、は頬に伝う涙を手の甲で拭っていた。牧の言う通り、こうなってしまった以上、被害者の親族や親しい人々、あるいはこの事件の関係者は青井さんの選択ではなく、青井さんと葵さんのパーソナリティを憎み、嫌悪し、同じものを持つ人を攻撃する根拠に使うだろう。

皮肉にもそれはかつてこの島が千草という集落を作ったことに似ている。青井さんは、自分たちを謂れなき理由で苦しめてきた杉森藍と桑島紫苑へ制裁と辱めの意味を込めて千草の印を打ったのだろうが、彼女がやったことは憎しみの連鎖を繋げただけ。この島で行われた迫害と同じになってしまった。

なぜこんな悲しいことが起こる。なぜ青井さんは殺人という手段しか選べなかったのか。どうして私たちは南雲志緒と青井実を救えなかったんだ。なぜいつも真実は取り返しがつかないのか。いつも気付いた時には手遅れじゃないか。はそれを苦痛に感じるあまり、泣いていた。

そして涙に滲む視界に、一瞬目をそらした。その時だった。

「だったらなおさら私は死ぬべきだ!!!」
「やめろ!!!」

ほんの一瞬目を離したの視界が晴れた時、青井さんは崖に向かって駆け出し、そして何のためらいもなく飛び込んだ。風に攫われるの悲鳴、敬さんの叫び声。

そしての悲鳴の中、牧も飛び込んだ。

「嘘、やだ、紳一やだ、やだーーー!!!」