青糸島の殺人

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それでもまだ白蝋館の時は牧と敬さんと柴さんが被害者の遺体に駆け寄り、間近でその様子を確かめていた。頭部にひどい外傷があり、中身が露出して雪原を血の海にしてしまうほどの出血があった。その遺体に手で触れなかったのは牧が怪我に気付き、事故ではなく事件だったら素人が触れない方がいいのではと言ったからだ。事実白蝋館のケースでは被害者は鈍器で前頭部を何度も殴られて殺害された。

その経験が重大な思い込みを生んでしまったのではないか。

文字や会話の内容による思い込みと先入観、島さんの勘違いを目の当たりにしたの言葉に、牧は「この不可解な事件にも、もしかしたら思い込みや先入観があるんだろうか」と考えた。

そしてまずは第一の事件を思い出す。島さんは青井さんを男性だと思っていた。けれど自分たちは実際に青井さんと接しているし、その遺体も確認しているからそこは間違いようがない……と思ったところで思考にブレーキがかかった。

オレたち、青井さんの遺体はちゃんと確かめてない。

それは床の上に広がる血液と思しき大量の液体であり、青井さんの腹を赤黒く染めていた様子であり、遺体の傍らに転がるナイフであり、ピクリとも動かない顔面蒼白の青井さん――という状況の全てが「警察も救急も呼べない今、素人は触るべきではない」という冷静な判断だったはずなのだが……

そんな疑惑の風が牧の心に吹いたが最後、杉森藍、桑島紫苑との遺体の違い、ふたりにだけ打たれていた千草の印、全ての建物が施錠されていてどこにも入れないはずの中の犯行、事件を複雑怪奇に見せていた要素が青井さんという人物に向かいはじめた。

乗り気ではなかったけれど、ひとりにもなりたくない山吹さんを含めた4号棟の5人は、昼食が終わると全員でコテージを出た。風は弱まる気配がなく、空は未だにいつ雨が降ってきてもおかしくない色をしていた。そして今も青井さんの遺体があるはずの部屋の、裏に回った。

「鍵、開いてます」

牧の低い声に敬さんがウッと喉をつまらせ、建物の壁に手をついて長くため息を吐いた。

指紋をつけないよう、がスマホで鍵の開いているサッシを押し開ける。カーテンは遮像、曇り空の日中では余計にその向こうを見せることはない。全員が血の海だと思い込んだ室内の惨状は見えない。はまたスマホを差し込んでカーテンを持ち上げてみた。そこに青井さんはいなかった。

「どうしてだよ……なんでこんなこと……なんでだよ青井さん……
「敬さんが言ってた香水と、墨田さんが言ってたお酒、血の匂いを誤魔化すためだったんですね」
「それじゃこれ、作り物の血液ってことですか?」
……テレビのお仕事でそういう知識があったのかも」

呻く敬さんの背を撫でていたと山吹さんが頷き合う。その後ろで牧は一気に老け込んで見える墨田さんの腕を掴んでいた。墨田さんはこうして誰かが手を触れると冷静さを取り戻す。

「青井さんなら、島の北側にも潜伏出来ますね?」
「おそらく。それにホテルのどこでもマスターキーで入れます」
「千草のことも知ってた可能性は」
「もちろんです。青い飾り紐で縁結びってのを客寄せにしたいって、考えてたんですから」
「男性とは言えかなり痩せてる桑島さんなら、持ち上げたり出来ると思いますか」
「思います。あたしたち、毎日肉体労働してるみたいなもんだったので」

牧は何度も頷き、目がちらちらと揺れている墨田さんの肩を強く掴んだ。

「墨田さん、青井さん探しましょう。思い当たる場所とか、ありませんか」
「わ、わかりませんが、ホテル内でなければ、集落跡か、避難所か」
……墨田さん、青井さんを助けに行きましょう」
「は、はい、はい、ありがとう、ございます……!」

山吹さんは当然乗り気ではないのでコテージに残ってもらい、、牧、敬さん、墨田さんの4人で青井さんの捜索に出ることになった。その間3号棟には報せず、もし明るいうちの捜索で手がかりも掴めないようなら、改めて全員集合、無理に深追いはしない、という行程だ。

バスルームで動きやすい服に着替えていたは、ふと思いついて牧を呼んだ。青井さんの異変があって以来ふたりきりになることが出来ず、眠るときでも足元に敬さんがいたので、まともに話も出来なかった。牧がバスルームに入ってくると、はそのまま引き寄せて強く抱き締めた。

「どうした、怖いか」
「ううん、エネルギー充填。全然ふたりになれなかったから」
「ほんとだよな。こんなに連泊してるのに2日目から居候が増えたし」

が不安がっている様子でもないので、牧もぎゅっと抱き返してやり、つまらなそうにため息をつく。確か離島のリゾートホテルで2泊3日、ふたりきりでイチャイチャし放題だったはずなのに、また殺人事件。島から出られても事情聴取で滞在は延び、夏休み終了。

「あのね、私さ、この旅行で、もっともっと紳一とお互いを理解し合いたいなって思ってたんだよね。普段はどうしても部活のことが中心になるから、それを離れたお互いのことって、まだ知らないことが多いのかもって思ってたから。なのにふたりで話す時間も取れないなんて」

牧にそこまでのつもりはなかったけれど、悪くない提案だと思った。そんな風に2泊3日を過ごし、もっともっとのことを好きになって、その想いを全身で感じて、また新たに始まる戦いの日々のための英気を養えればどんなによかったか。

……こんな悲しいこと、早く終わらせたい」
「すぐに終わるよ。迎えも来る。気付いたら神奈川に帰ってる」

牧は言いながらのこめかみに唇を寄せ、声を潜めた。

「帰ってからでもいい、、もっと一緒にいて、たくさん話そう」

白蝋館も、青糸島も、もうこんな悲しいことはたくさんだ。

まずはコテージの1号棟と2号棟を確認した。1号棟は元々紅子さんたちが使っていたので、鍵を敬さんが預かっていて、中に入ってみたが異常はなし。誰かが潜伏していた痕跡などは見当たらない。2号棟はどこも施錠されたままで確認できないけれど、リビングに面した窓のカーテンに隙間があり、覗ける範囲では桑島さんが何らかの形でコテージを出たままになっているように見えた。

次に念のため厨房、閉じたままだったバーカウンター、本館にくっついている倉庫を改める。特に異変はない。本館ラウンジも同様。スタッフの部屋はみどりさんの部屋のみ空いている状態だが、その鍵はみどりさんが持っているので除外。杉森藍の遺体が安置されている墨田さんの部屋も鍵は本人が持っているのでスルー。

「事務所が確認出来ないな。セーフティボックスって本当に青井さんしか開けられないんですか」
「あたしが開けても使い方がわからんもんで……事務所にも用がないし、はい」
「事務所の中はどんな感じなんですか」
「事務机とか、パソコンとか、倉庫に置けない値の張るものとか……

なので半分くらいは物置であり、デスクと金庫、無線機、防災用品の棚等々、ホテルの景観を損ないそうなものがあれこれ詰め込まれているらしい。墨田さんは普段ほとんど出入りをしないので、そもそも記憶があやふやで、ソファーがあるかなど青井さんが潜伏出来そうな状態かどうかは怪しいという。しかしトイレなどの都合もあり、事務所でずっと潜伏しているのは少々リスクが高そうだ。

とすると、この荒天下でホテルの敷地内に隠れ潜むのは難しいように思える。なのでさっさと事務所を諦めた一行は、静かに本館を出ると、物資運搬用のバンに乗って港に向かった。

「予報では夕方頃に落ち着くって言ってたけど……まだ風が強いな」
「波はかなり落ち着いたように見えるけど、夜に接岸て難しいのかな」

雨は降っていないが、相変わらずの曇天に風が吹き荒れており、バンを降りたと牧はまたため息をついた。もしかしたら今日中に島を出られるかも、などと心のどこかで期待してしまっていたのだが、素人目には難しそうに見える。

そんな強い風に背を押されながら、一行は墨田さんの案内で南側の中心地であった青井の集落に向かった。集落といっても昭和40年代にはまだ多くの青井の一族が暮らしていた場所であり、や牧が想像するほどに古い町並みではなかった。郵便局、商店、クリーニング店と思しき看板、あるいはスナックまで、ただ寂れて人がいないだけの、置いてけぼりにされた町だった。

どれも今にも倒壊しそうな建物ばかりで、いくら潜伏の必要があるといっても、この強風の中では隠れ場所に向かないような気がする。せめてその形が残っていて雨風を凌げそうな建物は結局郵便局跡しかなく、それを覗いてみたけれど、やはり潜伏の痕跡はなかった。

ホテルから充分離れているので、それぞれ声を出して青井さんに呼びかけてもみたのだが、反応はなし。青井の集落はただ強い風に晒されているだけだった。

歩きでも行けるというので、一行はそのまま南側の千草集落にも足を伸ばしてみた。こちらも昭和時代らしい民家が並んでいたが、入り口あたりの家が倒壊していて先に進めなかった。

「いくらなんでも、潜伏には厳しいなこれじゃ」
「北側もこんな感じですか?」
「まあそうですね、北の千草には行かないんですが、似たようなもんだと思いますよ」

何しろこの台風接近による大荒れの天気が集落跡での潜伏を難しくしている。そこではちょっと手を挙げて、遠慮がちに言ってみた。

「あの、青井さん、既に自分で……ってことは」
「まあ……なくはないよな」
「昨日までの海なら飛び込めばまず助からないですよね」

が、ふと横を見ると墨田さんがまた泣きそうな顔をしていたので、3人は慌てて明るい声を出した。

「で、でもわからないですよ、逃げたいと思ったからあんな偽装をしたのかも」
「きっと嵐がおさまるのを待ってるんですよ」
「あっ、そうだ! 避難所とかどうなんですか? 安全だし、色々揃ってますよね!」

の提案に頷いてくれたので、一行は代わる代わる墨田さんの背を押したり撫でたりしつつ、港まで戻り、改めてバンで避難所に向かった。敬さんの指示でホテルへの道より先に舗装が直された道路は真新しく、崖もしっかり補強されている。

そしてホテルよりかなり高い位置にある平地に避難所は建てられていた。

「避難所っていうけど、普通のおうちみたいですね」
「実際そうだよ。避難所だからってわざと居心地悪くする理由がないだろ」
……敬さんてそういうところ面白い人ですよね」
「えっ、それどういう意味?」

しかしちょっとニヤついた牧はそれには答えず、静かに避難所の建物に近付いていった。見たところは住宅街の中の公民館のような雰囲気。窓がいくつも並んだ平屋で、平地にへばりつくようにして建っている。建物の周囲にはコンクリート製らしい物置がひとつだけ。

「ちゃんと専門家に調査してもらって、地震でも台風でも大丈夫なところに作ったんだよ」
「で、中も快適なようになってるんですね」
「専用の避難所だからね。最低でも2週間は籠もれるようにしてあるよ」
「なので倉庫内の備蓄は常に確認してました」

風が強いせいで、4人の話し声はおそらく避難所内まで届かないだろう。その唐突さは申し訳ない気もしたが、敬さんは避難所の入り口の引き戸に手をかけると、一気に開けた。

「青井さん、いるか!」

その瞬間、避難所のロビーに当たるフロアの真ん中で、黒いトップスの人物が膝を立てて威嚇するように玄関の方を向いた。間違いなく支配人の青井さんだった。

「青井さん、あんた、なんでこんなこと」
「なぜ私が死んでないとわかった」
「まあ、それは運が悪かったね。名探偵がいたんだよ」

牧はバツが悪そうだが、反論はしなかった。墨田さんはまた泣きそうな顔だし、敬さんはポケットに手を突っ込んでだらりと傾いているが、青井さんは今にも飛びかかってきそうな気迫と緊張を緩めず、下から4人を睨んでいる。

それを見ていたは、やっぱりこの人はかっこいいと表現するのが似合うなと思っていた。ざっくりとかき上げられたショートボブ、幾筋かの後れ毛がよりそれを際立たせ、飾り気のない黒のTシャツにグレーのワークパンツ、編み上げのブーツも彼女の姿によく似合っていた。

「青井さん、この島を蘇らせたい、それをライフワークにしたいと言ったのは君だろ」
……事情が変わった」
「あのふたりを殺すことがか? 人を殺して全てを台無しにする事情って一体なんなんだ」
「それを話す必要はない」
「そうかな。オレは君を信頼して出資をした立場なんだけど」
「私はもうすぐ死ぬ。ホテルはその後で勝手にやってくれ」
「おいおい、無責任だな。人死にの出たホテルをどうしろっていうんだよ」
「青井さん後生ですから、そんなこと言わんでください……!」

半泣きの墨田さんの声に敬さんが視線を外した瞬間、青井さんは傍らのリュックの影から例のサバイバルナイフを掴んで突き出した。手は震えていない。視線も敬さんから外すことなく、呼吸も乱れていない。あの誠実そのものといった接客をしていた人とは思えなくて、の喉が鳴った。

「杉森さんと桑島さんを殺して、それで自分も死ぬつもりだったっていうのか」
「それがどうした」
「だから、理由が知りたいんだよ。君が元テレビ業界の人だったのは聞いたよ」
……言いたくない」
「それが一番困るんだけどな。みんな君とスーベニアのふたりに接点が見当たらないって言うし」

青井さんに動揺は見えず、青糸島ではげんなりしてばかりだった敬さんの丁寧で優しく、しかし確実に激怒している静かな声にも全く怯んでいなかった。なのでつい、はそっと手を挙げた。

「あの、青井さん、どうせ死ぬつもりなら全部話してくれませんか。私たちは今回の事件には何の関わりもない、ただ巻き込まれただけの第三者です。ここで過ごすことを楽しみにしてきました。初日、すごく快適でした。だけど青井さんのせいで台無しです。その上、一体この事件がなんだったのかも分からずに取り残されると、たぶん一生つらいです。私、青井さんからそんな苦痛を受けるようなこと、してないはずです。せめてなぜこんな事件を起こしてしまったのかくらい、教えてください」

青井さんはきっと勢いだけでこんな事件を起こしてしまったのではない、本当に自分の人生を捨てる覚悟の上で杉森藍と桑島紫苑を殺した――はそう感じた。なのでいきなりオーナーたちが現れたことには驚いても、他の感情はない。だから挑発的な言い方をしても逆上しないはずだ。

それが正しかったのかどうか、青井さんは唇だけを少し曲げて笑う。

「君みたいなお嬢さんに話しても、わからないよ」
「だから聞いてるんです。勝手に想像するしかないのは嫌です」
「話したところで、理解出来るようなことじゃない」
「私も理解しようなんて思ってません。人を殺そうと思う気持ちなんか理解するつもりもないです」

青井さんを興奮させ怒らせるつもりのないの声は落ち着いていて静かだった。かといって青井さんの神経を逆撫でしないよう心にもない優しげな嘘を並べているわけでもない。たち以上にクリアな思考の中にいるであろう青井さんに嘘は通じない。

青井さんに真実と本音を語らせたいなら、こっちも嘘をつくのは卑怯だ。

「それに、この島で事件に巻き込まれた当事者として、青井さんの気持ちを勝手に代弁したがる人たちに嘘をばら撒かれるのも嫌です。青井さんが真実を隠したまま死ねば、必ずこの島に関わる何もかもは都合よく誰かの作り話に塗り替えられる。それも嫌です」

青井さんはまた少し笑い、首を傾げた。

さんだったね。いいよ、君ひとりになら話そうか」
「いいえ。私たち全員に話してください」
……なぜ」
「私と紳一はひとつです。敬さんはあなたの後始末をせざるをえない人だし、墨田さんはあなたが去っていくこの島を引き受けてくれる人です。聞く権利があります。青井さんは、話す責任があるはずです」

の淀みない言葉に青井さんは眉をしかめたが、やがてゆっくりと立ち上がってナイフをチラつかせた。そしてまた下から睨み上げるようにして牧を見た。

さんの彼氏、動くなよ。君も素早いだろうけど、投げたナイフより早くは走れないだろ」

なんとかこの場で青井さんを確保できないものかと緊張していた牧は、それがバレていたと知って身をすくめた。自分史上最速のスピードで走っても、その瞬間に向かってナイフを投げられたら終わりだ。青井さんが女性だと思って甘く見ていたのかもしれない。

「わかった。さんの誠実な勇気に免じて話してやる。本当は男になんか話したくないけどな」

背を反らした青井さんは少し目を剥き、ナイフを真っ直ぐに突きつけた。

「杉森藍と桑島紫苑、あのふたりは私の妻を死に追いやったんだ」

の中の正直な子供は、「またか」と思った。

また誰かの復讐なのか、そう思った。