青糸島の殺人

3

「なんだよ、いい若者が昼寝って。ほんとに準優勝症候群は重症だな」
「だってここ、普段の日常が何もないんだもん」
「海は見慣れてるはずなのに、ビーチも全然違って見えて」

ぐっすり昼寝をし、気が付いたら日が傾き始めていたので、は寝ぼけ眼の牧をビーチに連れ出した。聞いていた通りの美しい夕日を眺め、写真を撮ったり、他に人が誰もいなかったので波に足を浸しながらキスしたり、それを撮影したり削除したりして来た。

そんなことをしていたらだいぶ元気が出てきたので、敬さんに連絡を入れてみたらバーで飲んでいるという。顔を出してみると、他の宿泊客らもバーやプールで楽しんでいて、コテージでぐうぐう寝ていたのはふたりだけだったようだ。

当然のように敬さんは「あのねえ、いくらなんでも到着するなり数時間は頑張り過ぎじゃないの」とイジって来たが、真顔の牧に「まだ若いので数時間くらい余裕です」と返されて呻いていた。

敬さんが入り浸っているバーはダイニングテラスやプールと同じ場所にあり、カウンター席が6つと、プールサイドに向けたデッキチェアが8席。今日、たちと一緒にチェックインした3人組がそのデッキチェアで寛いでおり、通路を挟んだダイニングでは男女二人組の女性の方がまたパソコンに向かっていて、同席している男性はやけに体を縮めていた。

そんな人々と海を眺めつつ、はノンアルコールカクテルを傾けていた。見たところは敬さんのようなチャラチャラした印象が皆無の、地味で表情の乏しい高齢の男性といった感じのスタッフ――墨田さんだったが、可愛らしいピンク色のカクテルを作ってくれた。ダイス状にカットされたフルーツにシロップとシトラス系のソーダを注いだもので、グラスに添えられた花がやけに色っぽい。

一方の牧はノンアルコールビールを飲んでいた。敬さんに勧められたものだが、祝い事や正月になると父親に飲まされるそうで、「だから美味いのは知ってる」と少し困った顔をしていた。

「どうせ大学行ったら嫌でも飲まされるんだし、学生がそういうことすると世の中は喜ぶからな」
「そういうのはあんまり興味ないんですけどね……
「敬さんこそ学生の時にそういうこといっぱいしたんじゃないんですか」
「と思うだろ。オレが学生の頃なんて世の中まだバブル気分、遊んでたと思うだろ」

遠慮なく頷くふたりだったが、グラスをカウンターに置いた敬さんはゆるりと首を振った。

「実際は遊んでる暇、なかったんだよな。学生の間にもう仕事始めてたから」
「その頃に相続したんですか?」
「いや、それはもっとあと。オレは高校ん時に荒れてたから制裁と、自分でもやりたかったから」

この敬さんに限らず、白蝋館で共に過ごした「仲間」は少なくなかったけれど、基本的には全員、たまたまホテルで一緒になっただけの観光や静養の利用客同士。雪で閉じ込められていたけれど、お互いの詳しいプロフィールやら過去やらはほとんど知らないままだ。かといって、今わざわざ紹介し合う理由もなくて、その気まずさを感じたのか、敬さんはそこで言葉を切り、話題を変えた。

「ふたりも進学だよな? 同じところに行くの?」
……というわけにもいかなくて」
「あらら、今までずっと一緒だったから、寂しくなっちゃうんじゃないの」
「紳一がアパート借りる予定だって言うから、一緒に住みたいな~なんて」
「そう上手く行くかな?」
「ですよね~無理っぽ……敬さん! 敬さん家って豪邸ですか!?」
……何を言いたいのか察しはつくけど」

敬さんが旅行に必要なものは何でも買ってやると言うので、は水着だけでなく、滞在中に着られそうなサマードレスを遠慮なく購入。このあとにディナーも控えていることだし、早速着てきた。その薄紫のドレスの裾を踊らせて身を乗り出したに、敬さんと牧は苦笑い。

「だってほら、今国竹さんと松波さんがメイさんのところで居候してるって」
「だからって、そこまで敬さんに頼るのは図々しくないか」
「うーん、オレ家にいないことも多いから、別に迷惑とかはないんだけど」
「えっ、いいんですか!?」
「ただそうなるとちゃんはオジサンと同居ってことになる。親御さんはなんて言うかな」

その敬さんが全額負担してくれると聞いて快く旅行に送り出してくれた親の顔を思い返すと、あながちダメでもないかもしれない……は思うのだが、牧と敬さんは守らねばならない一線というものがある、と腕組みで頷いている。このふたり、見た目はなんだかチャラチャラして見えるのだが、実際はだいぶ硬い。も違う意味で苦笑いだ。

だが、その硬い敬さんの財布の紐は緩い。牧には詳しく説明していないが、はこの旅行支度で既にかなりの額を負担してもらっている。それでも敬さん的には「そんなもんでいいの」という程度のようで、財布の紐の緩さに自覚のない敬さんはにこにこしながら首を傾げた。

「親御さんの許可を取れるなら、うちのマンションでどう? 都内なら大丈夫だろ」
「ほんとですか!?」
「け、敬さん……

テンションが上ってほとんど叫び声の、牧は狼狽えていたが、敬さんはカウンターに肘を突いてまだにこにこしている。一日中飲んでいるんだろうに、そのほろ酔いの目は優しく、まるで愛おしいものを見ているようにきらめいた。

「君たちは大事な友達なんだよ、別に大したことじゃない。それに、こうやって旅行に連れ出したり、部屋は貸してやれても、君らの準優勝症候群は治してやれないんだ。いくら金を持ってたって、出来ないことはある。それだけのことだよ」

3人はまた何も言わずに白蝋館の夜を思い出していた。敬さんの金で何でも実現できるなら、あんな悲劇は起こらなかった。日々の仕事にインターハイに、それぞれが日常での疲れを抱えて青糸島にやってきたはずだったけれど、どうしても拭いきれない白蝋館の悲しみの最後の精算のような気がしてきた。

波の音が繰り返し耳を撫でていく。空はゆっくりと暮れ、ビーチ、ダイニング、バーとプールに火が灯る。気付けばカウンターの中にいたはずの墨田さんが手早く火を付けていっては、凄まじい速度で歩き去っていく。

……こういう景色を見てると、日常の色んなことが……頑張ってること、つらくても我慢してること、悲しいこと、そういうものが、もしかしてすごく無駄で無意味なことなんじゃないかって、そんな気が、たまに、するんですよね」

肩を抱き寄せてくれる牧に寄りかかったの手を、敬さんも撫でる。

「本当は人間て、こういう自然の中で、食べて寝てまた起きるだけの生き物なんじゃないかなって……

厨房らしき場所から出てきた青井さんがディナーになりますと頭を下げる。アルテア・ブルーには風に揺らめく炎、夏の空は静かに暮れ始め、海は黒くその姿を闇の中に隠していた。は顔を上げると、辺りを確認することもなく牧にそっとキスした。敬さんも、何も言わなかった。

「敬さぁん……
「だから美味いって言っただろ」
「敬さん……
「紳一くん、白蝋館じゃないんだからメインディッシュはおかわり自由じゃないです」

敬さん自慢のアルテア・ブルーのディナーはを涙目にするほど美味で、しかし一般的な量のコース料理だったので、牧はどう考えても足りていない。

「足りなかったらあとで頼みな。バーで食べることも出来るよ。予めみどりさんに言っておくと早い」
「あら、何かご入用ですか?」
「おっ、噂をすれば。この子こんな体だろ、これじゃ足りなくてね」
「あら、気が利きませんで…! 今メニューをお持ちしますね」
「す、すみません」

ちょうどパンのおかわりを持って回っていた料理上手だというみどりさんは、確かに敬さんの言うように「港に住んで数十年の主婦」という雰囲気の人だ。きついパーマヘアをポニーテールにしていて、眉毛がかなり濃い目に強調されている。

「22時まででしたらメニューにあるものは何でもご用意できます。いつでもお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます、あの、こっちもとても美味しかったです」
「まあまあ、恐れ入ります。この辺りの海の幸を使っていますから、とっても新鮮なんですよ」

こわごわ言ってみた牧だったが、みどりさんは感激したようで、胸の前で手を組んで何度も頭を下げた。そして恐縮した牧に「お食事のご用意は22時までですけど、お夜食がご入用ならお弁当もご用意できますよ」と囁いて去っていった。

「な? 普通のお姉さんだろ。料理がめちゃくちゃ上手いっていうだけの」
……言われてみれば、ここは敬さんのホテルでしたね。基本的にはみんな悪い人じゃない」
「えっ、ちょ、紳一くん急にそういうこと言うのやめてくれる? 泣きそう」

メニューを見ればディナーとは打って変わって家庭的な料理がずらりと並んでいる。コースは基本的にシーフードばかりだったが、肉料理も各種取り揃えてある。みどりさんがメモとペンを置いていってくれたので、牧は遠慮なく書き込んでいく。どうせ敬さんの金だし、おそらく敬さんが滞在中に飲む酒代よりは遥かに少ないはずだ。

ちゃんはいいのか。夜中にお腹減ってもコンビニはないぞ」
「うーん、そう言われると……
「今夜は運動しなきゃいけないんだから、ちゃんと食っとけよ」
「敬さん、敬さんのことは大好きだけど、そろそろセクハラですよ」
「ごめんなさい……真顔のちゃんに言われると刺さる……

しかし今夜は運動するつもりの牧はあえて突っ込まず、メニューを眺めながらついダイニングを見渡した。今夜は5つのコテージが満室、なのでダイニングテーブルも全て埋まっている。

今日の連絡船で一緒にやってきたグループが2組。ひとつはやたらと派手な服装の3人組で、敬さんのように食事より酒といった雰囲気。もう1組はやたらと身を縮めて怯えているような男性と、口いっぱいに料理を頬張っている女性の組み合わせ。

その他には小学生くらいの女の子と、中学生くらいの男の子を連れた女性の3人が1組。親子だろうか。だが男の子の方はこちらもひどい猫背に長い前髪で、食事をしながら傍らに置いたスマホを操作している。小学生くらいの女の子とお母さんの方はそれを咎めるでもなく、楽しそうに食事をしている。

雪で仕方なく白蝋館に迷い込んだ時、既に館内には手のつけられない泥酔グループや話の通じない大柄なおじさんがいて、牧は正直に何かあったらと思うと気が気ではなかったのだが、幸いと言おうか、今回は圧倒的に女性が多く、男性と言っても、宿泊客の中ならひとりは子供だし、もうひとりはひ弱そうな痩身で、かすかな安堵感が腹に広がっていく。なので全然食い足りない。

「まあまあ、こんなにいっぱい! それじゃおいしいのをご用意しますからね」
「すみませんね、みどりさん。今夜は忙しいでしょう」
「いえいえ、たまにはこんな日もなきゃ。あたしも墨田さんもじっとしてられない()()ですから」

みどりさんは本人の言うように、メモを受け取るとダッシュで厨房に消えた。こんな少人数でホテル運営など大丈夫なのかと心配だっただが、あの墨田さんとみどりさんのフットワークでは、1組2組の客ではむしろ足りないのかもしれない。

敬さんは今度はデザートを持ってきた墨田さんを捕まえ、酒のおかわりをオーダーする。

「墨田さん、この子たちが少人数で大変なんじゃないのって心配してるよ」
「そうですか、どうも、今日は満室なんで、確かにいつもよりは忙しいですが」
「人手が足りなかったらいつでも言ってください」
「足りんてことはないんです、はい。暇よりはよっぽどいいですから」
「あの……お疲れにならないんですか」
「はい、本土で仕事してたときの方がよっぽど大変でしたんで……今はちょうどいいです」

今度はが恐る恐る聞いてみたけれど、墨田さんは真顔のまま、特に大変でもないという表情を崩さなかった。そんな墨田さんの制服のシャツから伸びている腕は、とても70代とは思えないほど逞しく、手も大きく、隣の牧の腕とさほど変わらなかった。

「なんか……みなさん逞しいですね。私も鍛えられてる方だと思ってたけど」
「都市部で疲れたとか衰えたとかいう愚痴はよく聞くけど、こっちの方がよっぽど動いてるよな」

敬さんによれば、スタッフは3人しかいないが、これでも24時間シフトなのだという。は墨田さんの後ろ姿を見送りつつ、週に2日休んでいる自分の父親の方がくたびれて見えるなと思っていた。

「みどりさんが息子の船で出勤してくるのがまだ夜中で、それと交代で青井さんが休む。そうこうしてると墨田さんが起きてくる。みどりさんは普段なら連絡船で退勤、墨田さんが早めに休んで……ていう繰り返しらしい。青井さんと墨田さんはショートスリーパーみたいだな」

さっきバーで墨田さんを突っついて聞き出したところによると、そういう繰り返しで運営しつつ、どうしてもまだ予約のない日が発生するので、それを休日に充てて本土に買い出しに出かけたりしているそうだ。残念ながらビーチしか遊ぶところもなければバーベキューなどのサービスもなく、アルテア・ブルーはコテージ最大人数で満室になったことがない。

「オレは出来ればファミリー層よりは大人が静かに休めるホテルでいてほしいんだけど、青井さんがどう考えるかな。メイの伝手で撮影なんかにも使われてるらしいけど、実際島内全域空き地状態だし、全体を使って拡張したいみたいなんだよね」

敬さんにとっては疲れを癒やす隠れ宿なので当然それを望むわけだが、そりゃあ商売でものを考える青井さんが拡張を望むのは仕方ない。現状のコテージはリーズナブルとは言えない宿だし、土地が余っているならもう少し価格帯を下げた部屋も用意したいのが本音だろう。島にはビーチも山もあるのだし、それらを活かしてこの島を発展させたいと思うのでは。

「確かに、インターハイのことで気が抜けてなかったら、ちょっと物足りない気はします」
「だよなあ。だったらテーマパークとかの方が行きたくなるよな、10代なんだし」
「あとはアウトドアとか、体を動かすようなアクティビティでもあれば」
「今プールしかないしな~!」

と牧に忌憚のないご意見を述べられた敬さんは苦笑いで髪を掻きむしった。青糸島は美しいし、アルテア・ブルーもラグジュアリーなホテルだが、たちにとっては正直いつまでも滞在していたいような場所ではなかった。せめてもう少しスペシャルなイベントがほしい。

すると敬さんはひょいと顔を上げての方に顔を突き出した。

「てかそうだよ、プール。ちゃん水着買ったんだろ」
「あの、すみませんでした、滞在費だけでなく、支度まで」
「紳一くんはほんとに堅物だな。ちゃんいっぱい買ってたぞ」
「えへへへへ」
「そんなに買ったのかよ……
「だって敬さんが金のことは気にするなって言うから」

ここに来てが水着を3着買ってもらったと知った牧は、追加オーダーのステーキ丼とペスカトーレを食べつつ肩を落とした。この追加オーダーも全部敬さんの金なのだが、彼女の水着を他の男に買わせたというのは不思議に居心地が悪い。

そんな風に感じる程度には敬さんは他人であり、牧から見ても魅力のある人物だからなのだが、つまるところそれが「嫉妬」だと思うと気恥ずかしくて黙ってしまう。そしてその嫉妬を無意味なものにしたくて追加オーダーをかきこむ。の水着は敬さんにとってははした金、自分もこうやって追加オーダーをすればイーブンだ。そういうことにしよう。

だいたい、なんで敬さんなんかに嫉妬してんだよオレは。敬さんは大人、ってかおじさんだろ。そりゃ大金持ちだし外見だってかっこいい感じだし、頼れるし、喋ってても面白いし、気前もいいし――

自分の嫉妬心を否定しようとして余計に凹むことを考えていた牧だったが、そこではたと手を止めた。

敬さん、そんな誰もがお近付きになりたいような人なのに、普段から大勢の人に囲まれて仕事をしているんだろうに、どうして独身なんだろう。年は親子でも大丈夫なくらい離れてるのに、まさかがクラッと来たりしないよなってつい心配してしまうような人なのに……

言ってもまだ高校3年生である牧には、欠点のない大人に見える敬さんが独り身であることは少し不思議だった。生まれつき裕福な人のようだし、いくらでも女の人が寄ってきそうなのにな……

けれどどうしても敬さんと楽しそうに喋っているを見ていると、心がそわそわしてしまう。

バカだな、こんな嫉妬、本当に無意味だ。今夜はふたりでコテージに泊まるのに。

そんな嫉妬ごと、を抱きたいと思った。