青糸島の殺人

17

宿泊客たちは思っていたよりも早く島を出られることになった。現地ではなく本土の警察署の方で事情聴取等が行われることになったからだ。青井さんを確保した日の翌早朝にやっと警察やらが到着し、ホテル・アルテア・ブルーはにわかに騒然とし始め、南港で連絡船待ちの宿泊客たちはそんな様子を遠巻きに眺めていた。空はすっかり夏の青に戻り、波も穏やかだ。

結果として杉森藍と桑島紫苑以外は全員無事なのだが、さくらさんだけは本人が「心身ともに衰弱している」と言い張ったため、先に港の診療所に運ばれていった。というわけで、と牧、敬さん、山吹さん、紅子さんファミリー、そして紺野さんが港でぼんやりと船を待っている。

墨田さんとみどりさんはホテルの従業員としての事情説明のために残留。墨田さんとは長く行動を共にしていたたちだが、別れの挨拶はほとんど出来なかった。

そんな中、は紺野さんに声をかけられてその場を離れた。やはり耳たぶが伸びるほどの大きなピアスに、ベージュのタイトなワンピース姿の紺野さんは両手の指を合わせ、ちょっともじもじしていた。よく見るとその指先はネイルカラーが引っ掻いたように剥げている。噛んだのだろうか。

「あの、ごめんなさい、昨日はひどいことを言って」
「いえ、いいんです。実は、こういう事件に巻き込まれたの、初めてじゃなかったので」

紺野さんは目を丸くしていたが、それについて深追いをする気はないようだった。

……実は私、黄島さんへのパワハラ、なんとなく知ってたんです」
「えっ? それは杉森さんと桑島さんの、ですか」
「現場を目撃したことはなかったんだけど、色んなことを考えると、事実だったと思う」

青井さんの言うように、かなり自分本位な人物であったという杉森藍は黄島葵のクリエイティブな才能に嫉妬し、同様にユニークな能力に乏しかった桑島紫苑もそれを見ているうちに劣等感に火がつき、それを感じていたスーベニアのアーティストたちには「社長と杉森がパワハラやってるっぽい」という認識があったらしい。しかし退職した黄島葵が自ら死を選んだことも、そのパートナーが女性で元アシスタントディレクターだったこと、さらにそれが青井実だったなんてことは、誰も知らなかった。

「黄島さんとは親しいわけじゃなかった。彼女、すごく人見知りな感じで他人を寄せ付けないオーラみたいなの、あったし、ひとたび仕事の話になると自分の意見を曲げなくて、気難しい芸術家って感じだったの。だから余計に孤立して、パワハラも加熱しちゃったんだと思うんだけど、でも、それでも黄島さんを精神的に追い詰めたことは、許されていいはずがない。私も無関心だったことに責任を感じてる」

紺野さんの言葉にはまた目頭が熱くなってきた。青井さんが最悪の決断を下す前に、この言葉があったなら、もしかして結末はもう少し違いはしなかっただろうか。スーベニアの人々が全員そういう気持ちでいられたなら、葵さんを失わずに済んだかもしれなかった。

けれど、紺野さんがそういう気持ちを自覚してくれたことは救いだと思った。無関係な人の無責任な無関心は罪ではないけれど、取り返しの付かない「スイッチ」を止めるためには必要なものかもしれないから。紺野さんはまだ少しもじもじしていたけれど、大きく息を吸って背筋を伸ばした。

……あのね、私ね、ちょっと考えてることがあるの」
「はい」
「今の仕事を辞めて、この島で働こうかなって」
「紺野さん……

紺野さんは潮風にピアスを揺らし、照れくさそうに微笑んだ。

「すぐには無理だと思うけど、オーナーさんがこのホテルを続けてくれるなら、そうしたいなって」
「今のお仕事は、いいんですか」
「青井さんが帰ってくるまで、あのホテルを守りたいの。黄島さんを守れなかったから、今度こそ」

青井さんが犯人だと知った時はかなり冷静な反応しか返ってこなかったと聞いていたが、ずっと悩んでいたのかもしれない。今の紺野さんは優しげな笑顔で照れていて、は思わず彼女に抱きついた。紺野さんも遠慮がちに抱き返す。

「そしたらまた来ます。敬さんにねだって紳一と来ます」
「その時は……その時こそもっとゆっくりお話、しましょうね」

一方、が紺野さんと話すために離れると、牧の斜め後ろあたりに蒼太がやって来た。それに気付いた牧が振り返ると、蒼太はリュックを肩に引っ掛けた状態で猫背になっており、ギョロリとした目で見上げている。

「ねえ、お兄さん、聞いてもいい?」
「どうした」

覗き疑惑はあるものの、男子団体競技歴10年以上の牧なので、何も考えずに向き合って少し体を屈めた。それに驚いたのか蒼太は少し後退ったが、ぼそぼそと言う。

「なんであのお姉さんと付き合ってんの?」
…………好きだからだよ」
「あのお姉さんの何がいいの」
「彼女は、人を馬鹿にしたり傷付けたりすることが嫌いで、優しくて、かっこいい人だからだよ」

蒼太はいまいちピンと来なかったようで首を傾げていたが、牧はさらに屈んで続ける。

「誰かを傷付けたりしないこと、優しくいること、誠実でいることは実はとても難しいことなんだよ。意地悪な人間になる方が簡単だし、楽しい。だからあのお姉さんはとても勇気があって、かっこいい人なんだよ。オレはバスケット選手なんだけど、彼女が分けてくれる勇気にいつも助けてもらってる。だから感謝してるし、尊敬もしてる。それに素敵な人だし、一緒にいて楽しいからな」

余計にわけがわからなくなったのか、蒼太は眉間にシワを寄せていたが、牧はその眉間を指で押し返すと、ちょっとふんぞり返る。

「もしこの先、お前に好きな人が出来たら、悪ふざけは絶対にするなよ。真面目に、その人のことを考えて行動するんだ。それだけは覚えておけよ」

蒼太は蚊の鳴くような声で返事をすると、すぐに紅子さんのところに戻っていった。それを見ていた敬さんが軽やかに口笛を吹く。

「どうした。やけにお兄さん風を吹かしてるじゃないか」
……人を想うということを、恥ずかしがって茶化したりする意味はあるんだろうかと、思ったんです」
「茶化してからかいたがる人が多いからな、オレみたいに」
「それはまあ、親しいのでいいですけど、いつまでも誰かを想うということが間違って伝わる気がして」

を想うということ、それは牧にとってステータスや暇つぶしではなかった。白蝋館の朝、南雲志緒の悲痛な想いに触れ、このままに対する気持ちを押し殺していたら、いつか後悔と共に過去に囚われてしまう気がした。への気持ちをそんなものに変えたくなかった。

何かというと牧とをからかう敬さんだが、今度ばかりは深く頷いて優しく微笑んだ。

だがそれを傍らで聞いていた山吹さんは、ふんと鼻を鳴らして腕を組んだ。

「でもわかってるでしょ。あの子に恋人は出来ないし、好きな人に対して誠実な人間にはならない。利己的で、うまくいかないことは全部誰かのせい、そういうやつらは傷付ければいいと考えるような大人にしかならないですよ。周りにそういう大人しかいないんだから。もう中学3年生でしょ、手遅れです」

敬さんに優しく肩を揺さぶられた山吹さんは、心底呆れたようにため息をつく。

「みんなパワハラだの復讐だの殺人だの、なんでそんなに元気なんですか。そんなに体力持て余してて暇もあるなら他にもっと何かの役に立つことでもすればいいのに、エネルギーの無駄ですよ」

思わず吹き出した敬さんの「まったくだな」という声が潮風にかき消える。

真夏の風が吹き上がり、青糸島の緑を揺らす。連絡船の姿が見えると、牧は戻ってきたを抱き寄せた。予定より長い時間をこの島で過ごしたはずなのだが、ふたりきりを楽しめたのはほんの一晩。昨晩は青井さんのトイレ要員でが必要だったために仮眠の繰り返しだったし。高校生の夏休みなのになんてことだ。

ふと振り返れば、夏の太陽に照らされた青糸島の緑が、海の青が、目に痛いほど鮮やかな色彩を放っている。風に揺れる木々はまるで波、ゆったりと揺れる波はまるで風、この島に陰惨な過去があるなど信じられなくなってくる。

だが、島はずっとずっと美しかったのだ。その美しい島を憎しみと死で満たしたのはそれを持ち込んだ人々。青糸島は何が起ころうが、永遠にその美しい姿でここにあるだろう。どんな悲劇より、それを記憶しておこう。牧はそんな思いで目を閉じた。

港に到着した途端、と牧は半泣きのメイさんに出迎えられた。

いわく彼女も青井実と黄島葵については全てを把握しているという程でもなく、黄島葵が亡くなったことも、それが自殺だったことも知っていたけれど、原因が杉森藍と桑島紫苑にあったなんてことは初耳だったそうだ。紺野さんの言うように黄島葵は気難しい芸術家肌で内向的な人物だと認識していて、そのせいで心を病んでしまったのだとばかり思っていた。

そして青井家と繋ぎになる中で、黄島葵が最愛のパートナーに何も言わずに死を選んでしまったのは、実家で男性との結婚を強く迫られたためではなかったのか――という話を耳にしたそうだ。その話をしてくれたのは黄島葵の姉で、実家で首を吊っていた妹の第一発見者だった。

「葵ちゃんは子供の頃から女の子にしか興味なくて、男の人が苦手だったみたいね」
「親御さんにはカミングアウトしてなかったんですか」
「お姉さんしか知らなかったそうよ。だから余計に追い詰められちゃったのかもしれない」

黄島葵の姉は、青井実に杉森藍と桑島紫苑を告発したいと相談されたものの、娘の死とその真実で両親が半ばヒステリーを起こしていたし、自分も妹の死に打ちのめされていたしで、協力できないと断ったらしい。幼い子供を育てている自分には簡単に決断できることじゃなかったけれど、せめてあの時もっと青井実の話を聞いていればこんな事件は起こらなかったのでは――と泣いていたそうだ。

一方、青井家は黄島家とは真逆で、娘は死んだと聞かされていた親は半ば喜んで家を飛び出し、事情聴取のためにこちらに向かっている。が、例の義兄が義妹のパーソナリティを一切許容出来ない人物なのだそうで、連絡役を引き受けているメイさんに向かって何度も怒鳴り散らしていたそうだ。

「あたしに怒鳴ったってどうしようもないじゃない」
……ていうかその人、『青井家』の人じゃないですよね」
「延々『常識』について説教食らったけど、そんなもの持ってたらドラマなんか書けないわよ」

メイさんは言いながら涙を流し、敬さんのようにと牧を引き寄せ、抱き締めた。

「誰かを傷付けるって、本当にひとりだけの問題で終わらないのよね。これだけ多くの人の心を騒がせて歪めて痛めつける。さっき敬に聞いたけど、青井ちゃんは白蝋館の件を知っててあんたたちを利用したんだってね。そう考えると結局、元を辿ると志緒と北峰千紘に行き着いちゃう。そうやっていつまでも終わらないのかと思ったら、悲しくて、つらくて、私も一生その思いからは逃げられなくなっちゃった」

敬さん同様、メイさんとは白蝋館のロビーで別れて以来の再会だった。お互い忙しい身なので再会が遠くなることは解っていたけれど、こんな悲しい状況になるとは思っていなかった。はまた鼻をグズグズ言わせていたし、牧はふたりをまとめて抱き締め、背をさすっていた。

……だからメイさん、オレたちが引退したら、ご飯連れてってください」
「もちろん、もちろんそうしましょ。今から計画して敬にセッティングしてもらって」
「国竹さんと松波さん、結婚考えてるんですよね?」
「あいつら、あたしの家で新婚生活するつもりなのかしら、やんなっちゃう」

ボロボロと涙を流しつつ、メイさんはニヤリと笑った。

「いつもいつも、ターニングポイントは目の前にあるのに、あたしたちはそれをスルーして、あとで必ず『あの時こうしていれば』って言い出すのよ。そんなことばっかり、もううんざり。あたしたち、妙な縁で知り合った変な関係だけど、いっぱい話しましょうね。話して話して、スイッチが入りそうになった時は、それを思い出せる友人でいましょうね」

もボロボロと涙を流しながら、笑顔で頷いた。南雲志緒を、青井実を、スイッチが入ってしまった人々を思いとどまらせることが出来たのはきっと、そんな存在だった。青糸島に憎悪と死を持ち込んだのも人間だが、それを止められるのもまた人間しかいないのだから。

「お嬢さんたち、そろそろ時間だよ。てかオレも混ぜてくれよ」
「わかりました。敬さんはオレが全力で抱き締めてあげます」
「まだ死にたくねえよ。てか紳一くん、準優勝症候群は治ったみたいだな?」

両手にとメイさんでご満悦の敬さんに、牧はふっと吹き出した。

「まだ全然ありますよ。でもそれでいいんです。それがオレの10年の努力の証です。あとに何も残らなかったと思ってたけど、オレの10年が残したものは崖から飛び込みたくなるほどの悔しさと、だったらまた10年戦ってやるっていう新しい夢です」

波にさらわれて消えゆく過去の自分は幻想、心の中のその闘志こそ牧が10年かけて築き上げてきたものに他ならない。敬さんの腕に絡まって涙を払っていたが牧に抱きつく。

「過去を意味のあるものに出来るかどうかは、これからの自分次第です」

しっかりと繋がれた牧との手首には、青いリボンが風に踊っていた。

白蝋館に引き続き敬さんが本気を出したおかげで、嵐に孤立した離島での殺人事件というセンセーショナルな事件の割に、容疑者である青井実も被害者のふたりも余計な報道はされなかった。容疑者と被害者の間に何らかのトラブルがあったと見られ、現在警察が捜査中である、という以上の情報が拡散されることはなかった。

だが、それから数日後に、こともあろうに紅子さんがテレビの取材に応じてしまい、関係者全員がひっくり返った。紅子さんはやけに着飾っていて、口から腹までだけしか写していなかったけれど、緩やかな微笑みすら湛えた口元で「すごく怖かったんですけど、子供を守らなきゃって、必死で」と語った。

しかし紅子さんには詳細な事情は知らせていないし、警察が教えてくれること以上の情報は彼女には届かない。そして彼女の「テレビ出演」を見てしまった関係者たちはかえって口を閉ざし、親しい間柄の人物にも事件のことを話したがらなくなった。

さらに数日経つと、夏休みの行楽客で賑わう観光地で大きな事故が発生、青糸島の報道はそこで終わった。島ではまだ捜査が続いていたし、事情聴取も続いていたけれど、世間の関心はあっけなく離れていった。なのでたち宿泊客はまるで無関係の旅行者のように帰路についた。

のち、青井さんの聴取が終わると、最後まで事情聴取が続いていた墨田さんも解放された。彼は敬さんの支援を受けて港に近い場所に部屋を借り、みどりさんと弁当や惣菜の店を開こうかと考えているらしい。そのみどりさんは渋々自宅で過ごしているそうだが、いつかアルテア・ブルーを再開出来ると信じて墨田さんと待つと敬さんに手紙を寄越した。

そこに紺野さんまで混ざりたいと言い出したのには敬さんも驚いていたが、敬さん自身も青糸島とアルテア・ブルーを見捨てる気はなく、彼女にもその日が来るまで待っていてください、と顔を綻ばせていた。すぐには無理でも、ホテル・アルテア・ブルーはいつの日かまた客人を迎えられることだろう。

一方、牧の「お兄さん風」にあてられたのか、蒼太は二学期が始まると毎日学校に行くようになり、受験したいと言い出して家族を仰天させた。山吹さんは悲観的だが、蒼太本人は高校に行って可愛い彼女がほしいので受験することにしたらしい。

その山吹さんは山吹さんで、さくらさんのお守りで疲労困憊、ただのIT部の技術者なのに現場に放り出されて殺人事件に巻き込まれた……ということにほとほと嫌気が差したようで、全員が自宅に戻ったあたりから敬さんに「求人ありませんか」としょっちゅう電話攻撃をしてくるようになった。

というわけで敬さんはせっかくの夏休みの静養が台無し、春に続きまったく気持ちが休まることなく東京に帰り、そのまま忙殺される日々に戻った。せめてのんびりする時間を取れたのはと牧くらいだろうか。親と学校との間で相談の結果、帰宅後にもう2日ほど休みが取れた。

忙殺されているのがちょっと可哀想なので、ふたりは明日から部活という日の夜、敬さんにビデオ通話をかけてみた。すると初めて見るスーツでオフィスな「完全お仕事モード」の敬さんが現れ、ふたりは息を呑んだ。これは……この人はマジでシャレにならないレベルの世界の住人……

だが口を開けば敬さんで、心配する年若い友人ふたりに愚痴をこぼしつつも、あとのことは何も心配せずに国体に向けて頑張れと言ってくれた。完全お仕事モードの敬さんの「後のことは任せておいて」はなんと心強いことか。

それでも事件関係者としての不安をが口にすると、敬さんはニヤリと唇を歪めて頬杖をついた。

「それも心配いらないよ。今回てんで役立たずだったやつを脅して仕事させたから」
「役立たず……?」

首を傾げたに頷く敬さんの、いっそ嫌味なほどキラキラの腕時計が光る。

「来週あたり、『にじたび』のライターブログを見てごらん」