青糸島の殺人

4

「じゃーん! どう?」
「おお、かわ……て、それ水着なのか?」

食事を終えたと牧は一度コテージに帰り、早速水着に着替えたのだが、バスルームから現れたは一見水着には見えないものを着ていた。背中が少し開いているが、正面から見ると普通の服と変わらない水着で、ボトムも体の線を出さないショートパンツだ。

「ビキニとかも着てみたいなって思ったけど、慣れてないからちょっと恥ずかしくて」
「いやその、それも、かわいいよ、すごく」
「ありがとう。大人っぽいのは、もう少し大人になってからでいいかなって」

少し照れつつ、愛おしそうに見つめてくれる牧にそっと抱きついたは声を潜める。

「それに、紳一とふたりのときは水着なんか、いらないしね」

なんて下らない嫉妬をしたのかという後悔とへの思いが溢れ、牧はそのまま何度もキスをした。プールなんかどうでもいいから、このままベッドに飛び込みたくなる。しかし敬さんと約束をしてしまったし、やっぱり運動したいのでプールやめますと連絡をするのも恥ずかしすぎる。

……今更だけど、ふたりで来れてよかったな。こんなの久しぶりだ」
「期末が終わってからずっと必死だったもんね」
、大好きだよ」
「私も大好き。3日間もふたりっきりなんて、幸せすぎる」

名残惜しそうにキスをしていたふたりだったが、夜はまだ長い。オレンジ色の明かりの灯る小道を急ぎ、プールへ向かった。ディナーのときにも少し聞こえていたけれど、プールとバーは軽やかなレゲエミュージックが流れており、南国リゾート感がたっぷりだ。

「おっ、来たな! ちゃん、ずいぶん可愛い水着にしたなあ」
「セクシーなの期待してました?」
「まさか。オレが期待してたのは紳一くんのブーメランビキニ。何よそのハーフパンツは」
「敬さんこそ、なんですかその腹筋。白蝋館からまだ半年ですよ」

バーカウンターで待っていた敬さんはやはりハーフパンツの水着だったけれど、前を全開にしたシャツの中には薄っすら割れた腹筋とほどよく盛り上がった胸筋があった。確か半年前はこんな筋肉を隠しているような体型ではなかったはずだ。

「頑張っただろ。マジック・マイクのマシュー・マコノヒーみたいになりたいんだよな」
「えっ、誰」
「なんだよ見たことないのか。かっこいいぞ」

そんなことを話していると、敬さんの後ろを通り過ぎようとしていた女性が思わず吹き出した。見れば例の子供ふたりを連れていたお母さんらしき女性だ。スタンダードな三角ビキニとロングパレオ姿で口元を押さえていた。長く垂らした髪が肩や背中に張り付いて、やけに艶っぽい。

「ごめんなさい、つい。若い女の子にマジック・マイクはちょっとね……なんて思ったら彼氏がムキムキなんだもの。お兄さんたちすごく鍛えてるのね~! 何かスポーツでもやってるの?」

女性はまだちょっと口元が笑っているが、気さくに話しかけてきた。つるりとした頬に濃いめ薔薇色の口紅が眩しい。敬さんが自分はジム通いで、牧をバスケット選手だと紹介した。

「なるほど、背も高いものね。こちらは初めてですか?」
「あー、ええと、オーナーなんですよ、私。夏川と申します」
「まあ! そうだったんですか。青井の親類の笹原と申します」
「伺っています。いかがですか、アルテア・ブルーは」

大人同士の世間話が始まってしまった。しかしそれを無視して立ち去っていいものかどうかわからないと牧は、ちらちらとプールの方を見ていた。どうやら宿泊客が全員揃っているらしい。と言っても、プールに入っているのはこの笹原さんの娘だと思われる女の子だけ。他の客はそれぞれデッキチェアやバーカウンターで寛いでいる。

例の男女ふたり組はやっぱりパソコンにかじりついているし、この笹原さんの連れていた男の子はプールサイドに座って足を浸しているが、やっぱり猫背でスマホばかり見ている。

「え!? 高校生!? 私てっきり学生さんかと……
「そうなんですよ、まだ高校3年生のくせに若々しさがなくて」
「敬さん……

またイジられた牧が敬さんに詰め寄ると、笹原さんはけたけたと甲高い声で笑った。

「ねえ、もしよかったら一緒にプールで遊びませんか。娘がひとりいるんですけど」
「あっちの男の子はお子さんじゃないんですか?」
「あの子は元夫の甥っ子なの。ちょっと学校行かれなくて……

逆に息苦しいのではと思えるほどの猫背には頷いた。だが、離婚した夫の甥っ子という、血縁でもなければ預かる義理もなさそうな男の子なんてもの、普通は旅行に連れて来るものなのだろうか、と内心首を傾げた。白蝋館の時も嫌というほど思ったけれど、大人の世界は「普通」がよくわからない。

だが、せっかく水着になってきたのだし、プールに入らないのももったいない。と牧は笹原さんの誘いを受けることにした。すると笹原さんは娘を「すみれ」と紹介し、自分のことは名前で呼んでほしいと「紅子」と名乗った。急にお姉ちゃんとでっかいお兄ちゃんを紹介されたすみれは全く動じず、すぐにの手を取って顔を近づけた。

ちゃん、JBS知ってる?」
「えっ、なに?」
「じゃあUT-10は? Gプロジェクトなら知ってる?」
「え、えーと、ごめん、それは」
「すみれ、ちゃん困ってるでしょ。やめなさい」
「caps4も知らないの!? 嘘でしょ!」

申し訳なさそうな紅子さんによると、すみれちゃんは今ポップスターに夢中で、ならその話が出来ると思ったらしい。部活で忙しくて芸能事情にとことん疎いは苦笑いだ。

だが、がお気に入りのポップスターを全く知らないということが理解出来ると、パッと手を離してビニール製のボールを掲げた。そしてニヤリと笑うと、「すみれとママとちゃん対、紳一くんね」と言った。なかなかどうして肝の座った少女らしい。

「3対1は厳しくないか」
「大丈夫だよ、すみれちゃん。このお兄ちゃん、日本で1番のバスケ選手だから」
「えー、嘘だー」

すみれは冗談だと思ったようで笑っているが、それを真に受けた牧はちょっと照れた。プールサイドの敬さんが酒を吹き出しそうになっている。というかは茶化したつもりはなく、声も表情も本気なので紅子さんが「えっ? えっ?」とキョロキョロしていた。チームとしては2番目かもしれないが、や海南の部員にとって牧は間違いなく日本一のプレイヤーだった。

というわけで牧は女子3人チームにボールを投げられては軽く打ち返し、あるいはすみれの球なら取れない振りもしてやり、グラス片手の敬さんに「ちょっとあざといんじゃないか」と突っ込まれていた。

だが、興奮したすみれはやがて金切り声を上げるようになり、敬さんが慌てて引き上げさせた。今のところアルテア・ブルーはアクティビティホテルではなく、上質な寛ぎを提供する場である。レゲエに華麗なステップを踏むリトルレディにはカクテルグラスのパフェでクールダウンしていただく。

「すみません~! 私ひとりしかいないもので、退屈してたみたいで」
「いやいや、構いませんよ。紳一くんもお疲れ」
「意外と疲れますねこれ……
「てかふたりともそこ並んで。メイに写真送るから」

スマホを取り出して構える敬さんに、まだ髪から雫を滴らせているふたりはピースサインをして見せる。というか確かメイさんは家に籠って執筆中だったはずで、そんなもの送っていいんだろうかと思うが、敬さんがニヤニヤしているので、わざとなんだろう。案の定、すぐにビデオ通話がかかってきた。

「ちょっと、私がひとり寂しくホン書いてるっていうのに、なんなのよ」
「メイさんも来ればよかったのに」
ちゃん、いつからそんな嫌味を言うようになったの!」
「てかひとりって、国竹さんと松波さんと一緒じゃないですか」
「ふたりともデートでいないわよ! てか何よ紳一くんその筋肉、パンツにお金挟みたいじゃないの!」
「どういう怒り方ですか。それに久しぶりの一言目がそれってどうなんですか」

は電話で何度も話しているが、牧はメイさんとは実に白蝋館で別れて以来。数ヶ月ぶりの再会の一言目が「パンツにお金挟みたい」だったので牧は真顔で応戦中。なのでは一歩下がると紅子さんに小さく声をかけた。

「甥っ子さんはいいんですか、あのままで」
「悪い子じゃないんだけど……あの年頃って難しいでしょう。何考えてるのか分からなくて」
「こういうところに旅行に来るのは大丈夫なんですか?」
「それもどうなのかしら……反応が薄いのよ、いつも」

紅子さんは甥っ子にそっと「蒼太」と声をかけ、一緒にパフェでも食べないかと誘ってみたが、無表情のまま首を振られてしまった。そしてなんなとなく目が合ってしまったも手を降ってみたが、無反応。ぷい、とスマホの方に向き直ると、さらに背を丸めた。

「ごめんね、あの子いつもあんな感じで」
「おいくつなんですか」
「15歳、中3」
……えっ、受験じゃないんですか?」
「義務教育は終わるし、ホームスクールがいいっていうんだけど、日本じゃちょっとね」

ちょっとね、どころか日本では高校卒業に必要な単位は自宅では習得できない。自宅学習の末に高卒認定試験というならわかるが……は蒼太の湾曲した背中に少し胃の不快感を覚えた。引きこもりだけど旅行に来るのは大丈夫、でも楽しむつもりはないようだし、どういう感覚なんだろう。特にこの3年間は運動部のマネージャーとして多忙を極めてきたので、蒼太の背中がやけに不気味に感じた。

「すみれはね~、中学生になったらオーディション番組に出て、候補生になるの」
「候補生?」
「でもグループで活動するのは18歳まで。大人になったらソロでアメリカに行く」
「ソロ?」

牧がメイさんと喋っているので敬さんがすみれの相手をしていたが、ちんぷんかんぷんのようだ。きっとこんな困り果てて冷や汗をかいたような表情の敬さんは珍しいに違いない。と紅子さんがつい笑うと、の視界の端に振り返る蒼太が見えた。背中を丸めたまま首だけひねり、半開きの唇を歪めていた。思わずは怖気が走った。あの子、ちょっと気持ち悪いな……

すると敬さんの携帯を手にしたまま牧がやって来て、ふたりが映るように肩を抱いてきた。「きゃはっ」と言いながらニヤニヤ顔の紅子さんが避けていく。

「でもどう、楽しんでる? いいところでしょう、海もきれいだし」
「はい。なんだか時間が止まったみたいで」
「あなたたちのことは信頼してるけど、イチャイチャしすぎには気をつけなさいよ」
「メイさん!」
「大丈夫です。さっきも死んだように昼寝してたので」
「それはそれで面白くないわよ! 少しくらい羽目外しなさいよティーンエイジャーのくせに!」
「さっきからどっちなんですか」
「私もそっち行きたい~!」

メイさんは仕事場と思しきデスクチェアの背もたれに倒れて呻いた。よれよれのTシャツにメガネ、髪をひっつめたメイさんはなんだかちょっと新鮮だ。牧はほとんどと頬をくっつけるようにして携帯を覗き込む。

「メイさん、オレ12月で引退なんです。年明け、なんか奢ってください」
「まっ、紳一くんもそういうことが言えるようになったの。いいわよ、行きましょ!」
「メイさん、私、国竹さんたちとも会いたい」
「もちろんよ、島くんたちも引っ張り出して今度は絶対安全なところでご飯食べましょ」

牧だけでなく、にとっても海南大附属での3年間は遠からず終わろうとしている。この3年間に残してきたはずのものが霧のように消えていってしまうような、薄っすらとした不安感は彼女も感じていた。それを学校とは全く関係のない未来の楽しみで忘れることが出来たら。

そんなメイさんとの約束の間にはまだ国体や冬の選抜が残っている。いい結果を土産話に出来るよう頑張ると言ってふたりは通話を切った。そうしてやっとすみれから解放された敬さんのところに戻ろうとしたときのことである。敬さんが「カタギに見えない」と言っていた3人組の近くを通り過ぎようとしたは、何かに足を取られそうになってたたらを踏み、素早く差し出された牧の腕にしがみついた。

「大丈夫か」
「ご、ごめん、なんか、つまずいたみたいで……
……何もないぞ」

そもそもプールサイド、10代の女の子が蹴躓くような段差などはなく、石が転がっているなんてこともなかった。それを牧が訝しんでいると、3つ並んだデッキチェアの向こうから「まったく高い金払って子供の遊び場じゃ割に合わないよ」という男性の声が聞こえてきた。デッキチェアの背もたれで声の主は見えないけれど、確か3人組は男性ひとりに女性ふたりだったはずだ。その男性だろうか。

「紳一……
「いいから行こう。歩けるか」
「平気」

を支えながら歩く牧が振り返ると、デッキチェアの向こうから白っぽい女性の足がにゅっと伸びて、爪先に引っ掛けたシルバーのサンダルがゆらゆらと揺れていた。

すると今度はふたりの正面あたりから「やだやだ、いい年した大人がみっともない」という女性の声が聞こえてきた。顔を上げると、例のパソコンにかじりつきっぱなしの人物で、ハーフパンツにブラトップとアロハシャツ、雑なまとめ髪でしかめっ面をしていた。

「お嬢さん大丈夫? 今足を引っ掛けられたでしょう」
「そ、そうなんですか? 私見えてなくて」
「怪我してたらちゃんと言うんだよ。子供じゃあるまいし、傷害だよ」

デッキチェアの向こうから甘ったるい女性の声で「どこに証拠があるんですか~」という声が聞こえてきたので、アロハの女性は「今日び監視カメラがないとでも思ってんのかね。それにあたしが目撃者だっつーの」と毒づき返し、ふたりをバーカウンターまで促した。

「なんだ、どうした」
「あなた保護者? この子そこで足を引っ掛けられて転びそうになってましたよ」
……大丈夫か」
「で、でも、転ばなかったです。紳一が手を伸ばしてくれたから」

敬さんが一瞬で怖い顔になり、は白蝋館で見て以来のその表情に少したじろいだ。転びそうにはなったけど、実際怪我はしていないし、あまり事を荒立てたくはないんだけど……

「もし後で痛んだりしたらちゃんと言えよ。紳一くん、君も遠慮するな」
「わかりました」
「他の客に迷惑が~とか気にしなくていいんですよ。こういうことは」
……お気遣い感謝しますが、今のところ言いがかりになりますので」
「まあそう、だけど」

アロハの女性は納得行かないようだったが、お仕事用の声色を使った敬さんの迫力に肩をすくめた。

「万が一の時はご協力頂けると助かります。私、オーナーの夏川と申します」
「っえー! オーナーさんなんですかあ!?」

敬さんはわざとらしく大きな声で自己紹介し、アロハの女性もまた大声を出した。デッキチェアの向こうからは何も聞こえなかったけれど、一番手前の背もたれからひとつ、顔が覗いた。カタギに見えない風体の3人組の中では一番地味で、耳にやたらと大きなピアスをぶら下げている以外はごくごく一般的な女性に見える。上目遣いで敬さんを見ていたが、やがて首を引っ込めてしまった。

それを見ていた牧が顔を戻すと、アロハの女性が敬さんに名刺を差し出していた。

「すみません、こんなところなので名刺は携帯しておらず」
「そりゃ当たり前です。あたしは仕事なので」
……なるほど、ライターさんでいらっしゃる」

と牧にはその敬さんの声に若干の警戒色が伺えたけれど、アロハの女性はにこにこしながら胸に手を添え、ちょっと首を傾げた。

「ご安心ください、あたし、ネガティブなことを書くのは嫌いなんです。その代わり、どんな寂れたつまんない宿でも魅力的に書く自信がありますよ。いや、このホテルがそうだって言ってるわけじゃないですからね。ここはいいホテルです。今日は客に恵まれなかっただけ」

言いながらニカッと笑う彼女は、腰に手を当てて挑むような目付きをした。

「旅行情報サイト『にじたび』の編集兼ライター、橙山さくらって言います。よろしく!」