青糸島の殺人

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「最初はあたしの個人ブログがスタートだったんです。学生の頃から旅が好きで、でも海外より国内の小さな宿が好きで、そういうところを回ってはレポを書いてるうちにPVが増えてきて、もう10年前くらいになりますけど、ガイドブックの副本的ウェブサイトを作りたいって出版社に声をかけられましてね」

勢いそのままバーカウンターで飲み始めたたちだったが、この橙山さくらと名乗った女性はとにかくよく喋る。彼女によれば、そうして始まった旅行情報サイト「にじいろ旅ログ」はガイドブックの副本どころか、未だ知られていない個性的な宿や各地のグルメなどの記事が人気で、今回は取材で「アルテア・ブルー」に来ていたそうだ。というわけで……

「そう、部屋に引きこもってるけど、あたしの連れも『にじたび』の子なんです。といっても旅行に関心はないWebディレクターなんですけどね、現場を知らなさすぎるので、編集長に叩き出されたんですよ。会社の金でこんなリゾートホテルに来られるんだから、もう少し楽しめばいいのに、部屋ん中でゲームしてるんですよね~。まったく最近の男子ってあんな子ばっかり。牧くんみたいな元気っ子、まだいたんだなってちょっと感動してる」

老けてると言われたり元気っ子と言われたり、自分ではどんなつもりでいればいいのかよく分からなくなってきた牧は苦笑い。それにしても弾丸トークだ。この勢いでブログを書けば面白いのかもしれないが、耳で聞いているとちょっと疲れる。

「でも普段は正体を明かさないんですよ。今日はちょっと運が悪かった。でもあたし、ああいう傲慢な大人が許せなくて。あたしが学生の頃はあんな大人、見たことなかったですけどね。最近はどこに取材に行っても自分が一番偉いと思ってるような身勝手な利用客ばかりで、せっかくの旅が台無しになることも多い。もちろんそんなことは書かないけど、もう少し譲り合うことって出来ないものですかね」

弾丸トークだが言っていることは至極真っ当な気がする。口を挟めないと牧と敬さんはグラスを手に頷くだけだ。が、問題はそのさくらさんの声がデカすぎるという点で、彼女の苦言は疑惑の3人組に筒抜け。はハラハラしていたけれど、オーナーである敬さんが止めない以上は見守るしかない。

すると案の定料理を運んできた支配人の青井さんがデッキチェアの向こうから呼び止められ、トレイを手にしたままペコペコと頭を下げていた。何かクレームでも聞かされているのだろうか。

それも敬さんが何も言わないので静観していたと牧だったのだが、ハイボールを一気に飲み干したさくらさんが突撃してしまった。腕組みの敬さんが肩を落としてため息をつく。

「あのねえ! 言いたいことがあるならスタッフに当たり散らさないで直接言ったらどうなの」

すると声しか聞こえなかったデッキチェアの向こうから、ゆらりと影が3つ、顔を覗かせた。

「言いたいことなんかないよ。ただこのホテルは静かな時間を過ごせるリゾートホテルのはずなのに、やかましいガキと下品な利用客ばかりなのはどういうことかって聞いただけ。人の紹介で来ただけだし、バカンスで来てるのに騒音を聞き続けなきゃならないなら、帰りたいからね」

そう言ったのは、往年のビジュアル系を思わせる長い髪とシルバーのアクセサリーと黒ずくめの男性だった。ゆったりとしたトップスと足に張り付くような細身のボトムがとてもバカンスに来ているようには見えない。よく見ると長い髪の裾は三段階ほどの濃淡のある紫に染められていた。

その男性にぴったりと寄り添っているのはこれも細身な小柄の女性で、プールサイドにおおよそ不似合いなデコラティブなプリンセスを思わせる服を着ていた。よく見るとティアラのようなカチューシャも挿していて、こちらもバカンス感は微塵も感じられない。

そこへ来ると、先程顔を出して敬さんを見ていたもうひとりの女性は一応リゾートホテルでのバカンスに相応しい様子だ。ピアスは大きいが優しい色合いの水着に上品な柄のパレオがよく似合っている。

それに相対するさくらさんのプルメリア総柄のアロハシャツが潮風になびく。

「何が騒音よ、ここはあんたたち専用の別荘じゃないの。誰もが楽しめる場所。そんなに人の声が嫌なら貸し切りにするべきでしょう。それにオーナーさんが何も言わないんだから、子供が騒ごうが楽しくお喋りをしようが自由のはずでしょ。支配人に嫌味で八つ当たりなんて迷惑な真似はやめて、帰りたいならさっさと帰りなさい。私たちもその方がありがたいんだけど」

の体をそっと抱き寄せながら、牧が「どっちもどっちって気がするけど」と言うと、敬さんはまたため息をつきつつ、苦笑いだ。敬さんだって静養のために来ているのに、オーナーとしての仕事をしなきゃならないのが億劫で仕方ないんだろう。

すると今度は紅子さんが突っ込んできた。敬さんが小声で「もお~」と呻く。

「あの、娘がごめんなさい、普段ひとりの時間が多いから興奮してしまって」
「子供に罪はないでしょ。楽しい夏休みの旅行でテンション上がるのも当たり前!」
「だから~そういうのは~他でやればいいんじゃないの~」
「それにこのホテルがそういうスタンスならパンフレットにでも書いておくべきだろ」
「てかあなたも客でしょ~。なに勝手にホテルの代弁者になってるんですか~」

プリンセス系の女性がやけに間延びした声で口を挟み、まさに牧の「どっちもどっち」な状況になってきた。間に挟まれて困っていた青井さんは隙を見つけると手を挙げて割って入り、まずは親戚の紅子さんを下がらせ、それから双方の間に入った。

「確かに当ホテルはコテージが5つだけという特性を活かし、静かな時間をご提供できる宿として方々でご紹介頂いております。ですので桑島さまのご意見はごもっともですし、その点は支配人として重く受け止めております。しかしながら、当ホテルにはお子様のご利用やプールサイドでのご歓談に関する規定はなく、ご利用いただくお客様の判断にお任せしてしまっているのが現状です。これらの問題は今後の課題としてしっかりと対応させて頂きますので、お許し願えませんでしょうか」

辛そうではあるが、青井さんはそう一気に言うと、体を90度に折り曲げて、桑島と呼ばれたビジュアル系っぽい男性に頭を下げた。そこに来て騒ぎを聞きつけた墨田さんとみどりさんもすっ飛んできて一緒に頭を下げた。それを待っていたのかどうか、とうとう敬さんが重い腰を上げ、まずはさくらさんを宥めると、青井さんの傍らに進み出た。

「そういうわけだから、これで収めてもらえないか。オレも今はただの利用客だし、彼女の言うようにここはどんな人物が集まるかわからない公共の場だし、それは運次第としか言いようがないだろ。どうしても我慢出来ないようならキャンセルしてもらっても構わないよ。これ以上騒がないと約束してくれるならキャンセル料はオレが個人的に持ってもいい。明日の早朝に港から迎えも頼むし、帰りの手配もこっちでやっておく。どうだ、それで手打ちにしないか」

そんな敬さんの後ろ姿を眺めていたと牧は「敬さんめっちゃ金持ちオーラ出てる」「青井さん頑張ったのに全部持って行ったな」と陰口を叩いていた。それでもそんな敬さんのわざとらしい対応に怯んだのか、3人組は「もういい」と吐き捨て、追いすがる青井さんに何やら部屋まで持って来いと言うとたちのコテージとは反対方面に去っていった。一気に空気が緩む。

「いいんですかあ? あんな迷惑な客に屈して」
……まあ、今回はこれで。橙山さんもここまでにしてもらえますね」
「あたしは構いませんよ。行きずりの旅行者なんだし。あなた方が困ると思っただけで」
「それは感謝しております。記事の方も、どうぞお手柔らかに願います」

実のところ事をややこしくしたのはさくらさんなのだが、こちらも敬さんの「オトナの対応」に満足したのか、今度は紅子さんとすみれを交えて楽しそうにお喋りを始めた。それを確認した敬さんはバーカウンターに戻ると青井さんを呼びつけた。

「申し訳なかったね。何も出来なくて」
「とんでもないです、ご助力感謝します。こちらこそ面目ないです、ああいうの、滅多にないもんで」
「そりゃそうだ。またメイが紹介した客ってのが困ったところだよな」
「ええと実際はあの一番地味な感じの方に紹介しただけだったそうです」

青井さんによると、3人組は「Souvenir(スーベニア)」という会社の社員旅行で来ているのだそうで、メイさんからの説明によると3人共メイクアップアーティスト。やはりお仕事関係の知人の様子。

「いえ、メイさんには他にもたくさんお客様をご紹介いただいていますから、それは本当に感謝してるんです。子供客も稀ですし、今日はたまたま、本当に運が悪かったとしか言いようがないんです。出来ればキャンセルなしで楽しんでいって頂きたいのですが……紅子さんたち、まだしばらくいるんですよね」

その紅子さんとすみれは墨田さん特製のデザートでほっと一息ついている。確かにさくらさんの言うように、まだ小学校低学年であるすみれがはしゃいでしまうことに罪はないし、ここがプールであればそれはなおさらだ。一緒に遊んでいた時はと牧も歓声を上げていた。

「でも、ここが大人好みを売りにしたリゾートホテルだってのも事実だし、考えていこうな」
「はい、オーナーの信頼を裏切るような結果になってしまって申し訳ありません」
「おいおい、そんなこと思ってないよ。君ひとりに丸投げしたオレも悪いんだから」
「とんでもないです! ……家族も、喜んでるんです、島がまた生き返るのかも、って」

潮風に前髪を揺らしながら、青井さんの表情が少しだけ緩む。支配人と言えば頼りにならない金切り声の菊島さんしか知らないや牧から見ると、誠実で真面目な人物に思えた。いつかきっと青糸島はリゾートアイランドとしてまた多くの人で賑わうようになるに違いない。そんな明るい未来を作れる人だと思えた。

「実は、まだ父や母を招待出来てないんです。父はこの島で生まれ育ったし、今はまだ当時の集落がたくさん残ってるので、もう少しそれを片付けてからと思っていて。なのでメイさんがたくさんお客様をご紹介くださるのは本当に有り難いのですが……難しいですね」

青井さんは深々と頭を下げると厨房に駆け込んでいった。スーベニア組に何やら持って来いと言われていたし、コテージで大人しく飲んでいてくれるならその方が安全だ。するとデザートを食べ終わったらしいさくらさんがまた顔を突っ込んできた。唇の端にチェリーの軸が引っかかっている。

「でもこのホテル、支配人の人の良さが出てますよね」
「えっ、そうですか」
「小さな宿ほど普段切り盛りしている方の個性が出ます。ここは静かで優しい」

ホテル中を駆けずり回って働いているが、青井さんはまさにそんな印象だ。墨田さんも年齢を感じさせない速度で動き回っているけれど、この青糸島出身のふたりはとにかく凪いだ海のように穏やかな人物に見える。そのふたりがワゴンを押して厨房から出ていくのをたちは目で追った。きっと厨房の中ではみどりさんが急いで料理を作っていたに違いない。

するとさくらさんは今度はにぐいっと顔を寄せ、目を見開いた。

「てか青井さんてちょっとかっこいいよね」
「あっ、わかります。前髪が長めで王子様っぽいっていうか」
「やだちゃん、彼氏の前でそんなこと言っていいの?」

紅子さんも入ってきた。はしかし肩をすくめ、

「紳一は王子様っていうより騎士って感じだし、そっちの方が好きなので」
「あっはっは、ちゃん、いいセンスしてるね!」
「でも……確かに女の子にすごくモテてたのよね~」

青井さんの母方の親戚だという紅子さんは蒼太の方を見ながら、ため息とともにそう呟いた。蒼太も前髪は長いが、猫背と歪んだ姿勢の上目遣いが良い印象は与えない。

そんな話で盛り上がるたちをよそに、牧と敬さんは険しい顔をしている。

「確かにメイがかなり客を引っ張ってきてくれてて、それは助かってるんだよ」
「撮影なんかにも使われてるって言ってませんでした?」
「それもまだごく小規模なものくらいしか対応出来なくて」

敬さんによると、あくまでも青井さんの展望としてはメイさんのコネを活かした映像の撮影に対応できるようになりたいのだそうで、そのためにはもっと客室が必要になるし、何より連絡船より大きな船が接岸できるように港を整備しなければならないのだという。

「墨田さんの出身である島の北側は本当に手つかずで、出来ればそっちも手を入れたいんだけど、そうなるとちょっと事業として大きすぎるから簡単に決断できることでもなくてね。青井さんのイメージしてることはよく分かるんだけど、ここだけの話、ほとんど儲けが出てない状態で」

敬さんの低く潜めた声に、牧も身を乗り出す。コテージの利用料は決して安くないリゾートホテルだが、常勤2名と通勤1名しかスタッフがいなくても手が足りてしまうというのは確かに商売としてはギリギリのラインなのかもしれない。

「白蝋館と規模は変わらないように感じるけど、向こうはスタッフも多いですもんね」
「あっちはあの建物が人を呼んでたからな。そのうち宿泊なしで再開させるようかもしれない」
「それこそ撮影とかですか」
「実はそっちの利用客からぜひ再開してくれって要望がひっきりなしなんだよ」

どんなメンズが好みかという話になって盛り上がっているたちの声を聞きながら、牧と敬さんは静かにため息をついた。自分たちこそ雪に埋もれた悲しい記憶を癒やしに来たというのに、また身勝手な人々の振る舞いにより水を差されてしまった。

夜でも暖かい潮風がふたりのシャツをはためかせ、島に生い茂る木々がざわめいた。

……でも、君らが来てくれてよかった。君とちゃんは、なんでもない日常がどれだけありがたいものなのかってことをオレに再認識させてくれる。年はこんなに離れてるけど、得難い友だよ」

バーも閉まり、ラストオーダーの時間が迫ったのを潮にプールサイドで喋っていた4組は解散、と牧はみどりさんの手料理が詰まったワゴンとともにコテージに戻った。それぞれ水着を洗ってシャワーを浴びると、もう23時になろうかという頃だった。

、足はなんともないか」
「大丈夫だと思う。痛みもないし、赤くなってるとかもないし」
「白蝋館の時が特殊なんだと思ってたけど、どこに行ってもいるんだな、ああいうの」

頭にタオルを引っ掛けた牧がため息をつく。は自分の荷物を検めていた手を止め、腕を組んだ。

「でも紳一も言ってたけど、あの桑島っていう人も、さくらさんも、どっちもどっちだよね」
「オレたちにはそう見えるよな。さくらさんも大人げないのは同じだと思う」
「だけどどっちも少しずつ正しいような気もするし」
「もっと子供の頃は、大人には統一された共通の社会規範みたいなものがあると思ってたんだけど」
「思ってた。なさそうだね、残念ながら」

明日に着る予定のワンピースをハンガーに引っ掛けたは、テーブルの上のフルーツ盛り合わせから桃をひとつ口に入れると、牧の隣に腰を下ろした。優しい色のダウンライトの中で、シーリングファンが静かに回転している。

……でも、インターハイの時に泊まったホテル、いつもと変わらない普通のホテルなのに、冷たくて無機質な感じがしたんだよね。白蝋館が特殊な状況で、敬さんやメイさん、国竹さんたちと過ごした時間の方が普通じゃないのに、あんな事件なんか起こらない『普通』がいいはずなのにね」

1学期を終え、合宿に旅立つ頃になると日々の中で冷たい雪景色を思い出すこともなくなっていた。けれどこうして静かな夜にふたりきりになると、心の奥底にはこびりついて取れない小さな傷がまだまだ残っていることを実感してしまう。

牧はタオルを取るとを抱き寄せて洗いたての髪に指を通す。

「実はあの時、窓から脱出しようとした春林さんを引き上げてた時、大人になりたくないって思ってた。まだ高校生なんだから自分は子供でいていいはずだ、大人の世界に入りたくないって。だけど、そういう風に思うくらい大人の世界が見えるようになって、その意味がわかるようになってしまって、それはもう、子供ではなくなってしまったってことなんだろうなって」

悲しいかな、大人の世界を拒絶したくなった時にはもう大人になり始めている。の唇に親指を滑らせ、その甘い疼きに全身が熱くなることも、子供でないことの証。牧は静かににキスをし、手触りのよいドレスの上から彼女の体に触れていく。

「大丈夫、疲れてない?」
……あれだけ昼寝したから、全然眠くない」
「私も眠くないけど、明日起きられる程度に、しようね」

苦笑いのに牧は額を合わせて囁く。

「無理かもしれない」
「も~……

ふたりは笑い合いながらキスを繰り返す。ソファで寄り添ったまま、少しずつ息が上がっていく。牧はの肩ストラップをずらし、少しずつ乳房にキスをし、服の上から先端を親指で撫でていた。の鼻にかかった吐息がコテージの静寂に吸い込まれて消え――

――誰!?」
「えっ!?」

突然のの声に牧は体を跳ね上げた。

「今、そこに人がいた、こっち見てた」

はだけそうな胸元を掻き合せたは立ち上がって後退り、牧はそのままコテージの庭に当たる外に飛び出た。各コテージにはウッドデッキと芝生敷きの庭があり、それはリビングに面していて、穏やかな光量のガーデンライトが灯っている。

「待て!!!」

それが誰だったとしても、相手が牧では逃げられるわけもない。ふたりのコテージを覗き込んでいた犯人は逃げようとしたようだったが、裸足の牧にあっけなく捕まった。犯人の白く細い腕を片手で掴んだ牧は、やけに疲れた声で言った。

「お前……紅子さんの」
「はな、離せよ、痛い、折れる」

蒼太だった。