どうしてわたしなんかがいいの

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「あっ、あ、やば、いきそ」
「は、あっ……そ、いちろっ……
「あっ、い、イク、あー……っ」

だいぶお腹が出てきたを気遣った体位で絶頂に達した宗一郎は、ゆっくりと布団に倒れ込み、温かく汗ばんだ妻の体を後ろから抱き締めて深く息を吐いた。

祖母の希望通り夕食に焼肉を食べた神家だったが、頑固な2才児は今日はおばあちゃんと寝るのだと決意したらしく、風呂を終えてパジャマになると枕を抱えて祖母の寝ている部屋に入っていってしまった。そういうわけで祖母も早々に休んでいる。久々に夫婦ふたりきり。

「おばあちゃんがいると、こういう時助かるね」
「返す言葉もありません」
「部屋がこれだけ離れてると音が響く心配もないし」
「ごめんちょっとテンション上がった」
「今回はちょっとつわりキツかったし、なかなか出来なかったからね」
「浮気なんかしてないよ」
「わかってます」

結婚前は例の「日常の中の普通」がとても近かったふたりだが、特に子供が生まれてからの宗一郎は少々潔癖が強くなり、(さが)としての可能性よりも、家族以外の人間の体というものに緩く嫌悪感を感じるようになったらしい。そういうわけで物理的に浮気の出来ない体になってしまった。

とはいえ宗一郎は今でもを愛している……というか敬愛しているのは変わらず、知り合って10年、結婚して5年が経つが、そこそこ重症の愛妻家でもある。しかもまだ20代、30代も半ばで性欲の高じてきた妻と合わせてレスの影も見えない夫婦だ。

それに東京本社時代のあの不安定な精神状態が不思議なほどは快活さを取り戻し、色んな意味で愚痴が出がちな宗一郎よりも日々を楽しんでいる。やはり湘南は彼女を幸せにするらしい。

なので付き合っていた頃よりもよっぽど仲がいい。宗一郎の愚痴はともかく、東京本社時代のような喧嘩もなく、意味もなく不安に苛まれたりもしない。にしか見えない亡霊はもう過去のものだ。

「ねえねえ、例の話、考えてくれた?」
「例の……パソコン教室の話?」
「そう」
「今そういうこと聞くのずるくない?」
「だから聞いてるのに」

は笑いながら首をひねって宗一郎のまぶたにキスをする。

が自宅の一角で開いている英語教室は、日本語育ちでネイティブ発音という先生のアビリティが人気で教室は常に満員。アメリカ英語の発音だが、の教室で学んだ子のLとRが聞き取りやすいらしいと評判である。

だが、あくまでもはアメリカで子供時代を過ごした父から刷り込まれた発音を持っているだけで、「英語の勉強」を教えられるというわけではない。そもそも勉強は嫌いだったし、現在は移住コーディネーターとして地元の歴史や地形、住宅建築については学ぶものの、学校の成績に直結する学問としての英語は責任が持てない。

しかしその評判をセサミストリート的なお教室だけで終わらせるのは、どうにももったいない。というわけでが考え出したのが小中学生向けのパソコン教室である。幼児の教室は早い時間に終わってしまうので部屋も空く。夕方などにパソコンの基本やインターネットの知識を教える教室ならどうだろう、なんなら将来的にはシニア向けのスマホ授業なんかもいいかもしれない。

「宗一郎だって最近休日出勤増えてるし、宗一郎が家にいる時間までやったりしないから」
「それはわかってるんだけど……

常に他人が入り込む家、ということが引っかかっている宗一郎だが、本音はまた別のところにあり、なんとなれば現在の英語教室の生徒に2名ばかりシングルファーザーの子がいるのである。しかもふたりとも亀田のおじいちゃんの紹介という関係上、何度か教室関係なく預かったことがある。もちろん向こうも亀田のおじいちゃんを挟んでいる手前、タダで預け放題ではないことを理解していて、本当に困ったときだけの託児所代わりだったわけだが、宗一郎はと同年代、あるいは年上の大人の男性というだけでちょっと面白くないのである。

また運の悪いことにどちらもスレンダーなスーツで、礼儀正しく、困った時はお互い様ですと言うに全幅の信頼を寄せており、基本毎日作業着で仕事に出かけていく宗一郎はそれがもうなんともモヤモヤしてしまうのである。要は嫉妬。

パソコン教室なんか始めたらまたそういう男とが知り合いになるのではないか、自分が不在の日中にそいつらが訪ねてきたりしたら……と思うと、心から頷いてやれないでいる。

「私がそういう人と浮気すると思ってんの?」
「そういうわけじゃ……

腹を支えながら寝返りをうつと、は宗一郎の首に手をかけてぐいっと引き寄せた。まだ少し頬が赤くて興奮の残る夫は、かつてに散々説教してきた手前、嫉妬してしまう自分にバツが悪そうだ。なんで妊娠中の方が浮気を疑われなきゃいかんのだ、とは思うが堪える。

「ねえ~パソコン教室なら英語教室ほど小さい子じゃないから大丈夫だって~。あのふたりだってもう年長さんだから教室も来年まで、小学校にはちゃんと学童保育あるって話だから、預かるなんてことはないって。ね? そんなに心配しないで、もうすぐこの子とも会えるんだから」

付き合うことになってからは7年が経つ。はふたりきりの時は甘えた声を出せるようになっていた。今も顔を近付けて囁き声を出し、夫の唇にちょんちょん、と小さくキスを繰り返す。

「ね、いいでしょ、ダメだったらやめればいいんだから」
「浮気、しない……?」
「するわけないでしょ、こんな……素敵な旦那様がいるのに」

気まずそうだった宗一郎の目がとろりと緩む。は内心「勝った!」とほくそ笑む。がこんな風に甘えた声でおだててくるのはお願いを聞いてほしいからだということは充分わかっているのだが、惚れた弱みで毎回絆される。

……もっかいしたい……
「じゃあ明日おばあちゃん送った帰りにパソコン下見に行こうね」
「わかった。行くからしていい?」
「いいよ、でもゆっくりね」
「えっ、さっき乱暴だった? ごめん」
「ううん、そうじゃないよ、ただ、時間かけて、早く終わらないように――

古いが広いこの家は、夜になると静かだ。越してきたばかりの頃は宗一郎ですら夜中にトイレに立つのは気が進まなかった。だが、3年も立つとすっかりその静けさに馴染み、まるで外の世界から自分たちを守ってくれる静寂のように感じる。

その静けさの中に、衣擦れの音だけが響いていた。

近頃、朝方になるとお腹の子がモゾモゾと動くので、はまだ薄暗いうちに一度目が覚めるようになっていた。この日もそれは例外ではなく、なんなら普段より余計にモゾモゾしているようで、昨夜はちょっとはしゃぎ過ぎたな、とあくびをしながら腹を撫でた。ごめんね、楽しんじゃって。

宗一郎は隣でぐっすりと眠り込んでおり、は音を立てないように布団を抜け出した。ふすまもそっと開けて廊下に出ると、古い雨戸の隙間から白っぽい明かりが差し込んできている。やはり今日も明け方。なのでこの頃はそのまま起きていて、宗一郎を送り出したあとに少し仮眠を取ったり、英語教室が終わってから子供と昼寝をしている。

いつものように一度キッチンまで行き、ダイニングチェアに引っ掛けてあるストールを羽織ると、音を立てないよう慎重に雨戸を開ける。途端にひんやりした朝の空気が流れ込んできて、はその空気を目一杯吸い込む。

白み始めた空に小鳥が羽ばたき、庭木が風にそよいでいる。は雨戸にしっかり捕まって沓脱石の上のサンダルに足を通す。そして庭に進み出ると、また大きく息を吸い込む。

越してきて3年が経つこの家にはすっかり慣れたけれど、未だにこの地が湘南であることには実感がわかない時がある。湘南には幸せな記憶しかなく、夫と出会わせてくれた場所でもあり、いつでもを優しく抱きとめてくれるような場所だった。

湘南の生活が楽しいあまり、かつてのは「もしかしたら私の生きる世界はここにあったのかもしれない」と思い始めていた。そしてこんな風に朝早くから起き出し、冬の木が枯れているわけじゃないことを知った。冬の木は落葉して春に備えているだけで、力強く生きていた。

こんな朝にはそれをいつも思い出す。やはり私の生きる世界はこの湘南の地にあった。

湘南に帰ることはどこかで望んでいたけれど、結婚した直後は宗一郎の所属するチームの本拠地の近くで暮らしていくのだとばかり思っていた。しかし運命はを湘南に運び、あの営業所勤めの日々を思い出させる世界を彼女に与えた。

冬の木は枯れているのだと思っていた。雨や風は腹立たしいものでしかなかった。

女の方が年上のカップルは絶対に失敗すると思っていた。はるか年下の男はいつか必ず裏切ると思っていた。身近な人々の誰ひとりとして自分たちを祝福するわけがないと思っていた。20代で結婚のチャンスをふいにした自分には苦痛のない日常を手に入れる資格はないと思っていた。

毎朝営業所の前を走っていく礼儀正しい男の子が生涯の伴侶になるなど、ありえないと思っていた。

湘南に戻ってすぐに、本社に勤めていた頃の自分はそういう、自身の怯える心が生み出した亡霊にがんじがらめになっていたと実感出来るようになった。この家に住み、宗一郎とふたり、ここで家族になろうと決めたときにはそんな恐怖は残っていなかった。

そして妊娠がわかったときには、漠然とした不安も抱きつつも宗一郎と家族になれることを心から嬉しく思った。まだどこかで「年下の男の子」と感じていた気持ちはすっかり消え失せ、彼のことを誇りに思った。死がふたりを分かつまで一緒に生きていきたいと思った。

、風邪、ひかないようにしろよ」
「あ、ごめん、起こしちゃった?」

が振り返ると、寝癖のついた頭の夫がサンダルをつっかけて庭に出てきた。宗一郎はのストールをつまんでしっかりとくるみ直す。そしての腹をそっと撫でながらあくびをする。

「昨日ちょっと無理させちゃったよな」
「私は平気なんだけど、この子はうるさかったかもしれないね」
「ごめんな、パパはママが大好きなんだよ」

腹を撫でつつすり寄ってくる宗一郎の頭を撫でて、は笑った。

どうしたことだろう、この湘南に越してきてからというもの、気持ちがささくれだったことはなく、怒ることや困ることはあったとしても、家族や身近な人々とは実に穏やかに付き合えている。あれだけ憎々しく思っていた元彼すら、つらい日々が早く終わるようにと願った。

そして思う、こんな穏やかな日々は、ひとりひとりの幸せな毎日が作るのではないか。ひとりひとりの毎日がつらく苦しくあればあるほど、世界は濁り、歪み、崩れていく。人の苦しみを願えば苦痛は増し、人の幸福を願えば苦痛は和らぐ。本当は全て自身で制御出来ることなのかもしれない。

恐れに足踏みをし変化を厭うことは苦痛の中に立ち止まるに等しく、5年前に勇気を持って一歩を踏み出していなければ、この日常は手に入らなかった。見えない亡霊を否定出来ずに宗一郎を拒絶していたら、今もは東京のマンションで鬱々とした日々を送っていただろう。

私をがんじがらめにしていた亡霊なんか最初からいなかったんだよ。私を幸せから遠ざけていたのは私自身、そこから私を連れ出してくれたのは宗一郎、この人だった。

どうしてわたしなんかがいいのと何度思ったか知れない。

だけどあなたは何度突き放しても私を愛することをやめなかった。

その答えはこの先の長い日々に見つけていきたい。この湘南で、この家で。

柔らかな朝の風がふたりを包む。は宗一郎をぎゅっと抱き締めて耳元に囁いた。

「宗一郎、私も愛してる」

私はもう何も恐れない、あなたがいるから、私にもあなたが全てだから。

END