どうしてわたしなんかがいいの

8

との「デート」は思いの外早く実現した。おそらく神が想像した以上にはストレスが溜まっていて、公共の場でわんわん泣き出しても優しく受け止めてくれた神の誘いに抗えなかったのだろう。それは神も望むところだ。さあさん、どんどん甘えて下さい。

「急なスケジュールでほんとごめんね」
「大丈夫ですよ。海南と違って、監督が週に1日は休みを取る方針なんです」
「それでも週1日なのね……
「急に休むとだるくなるので、結局ちょっと走ったりしちゃうんですけどね」

連絡先を交換しあった翌週の土曜、ふたりは連れ立ってお台場海浜公園に向かっていた。ひとまず海を見るという約束だったので、近くで砂浜があるところと言ったらここしか思いつかなかった。

「だってほらよく言うじゃん、東京タワー見たことない東京生まれはけっこう多いって……
「ありますよね。オレも実は小田原行ったことないんです」
「小田原城とか行かなかったの?」
「社会科見学とかですか? ごく地元以外では鎌倉多かったんですよ」
「私も23区の外で東京の奥って感じの町に育ったから、実はあんまり都心は詳しくないんだよね」

黒歴史と化しているが、の高校時代の夜遊びも渋谷に終始してしまったので、23区内の繁華街全てを網羅するような知識はないし、なんなら23区北部東部はほとんど足を踏み入れたことがない。就職してからはそれなりに遊び歩いたが、それも自分の使う沿線で立ち寄りやすい場所が多かったし、元彼が混雑を嫌う人だったので、近所で済ませることも多かった。

なので安易に選んだお台場へ向かっているのだが、やはり週末の観光地は人が多い。中間にちょうどいい待ち合わせ場所がなかったので新橋集合、ゆりかもめに乗ったところだ。

「車の方がよかったかなあ」
「えっ、神くん車持ってるの?」
「まさか。カーシェアリングですよ。アパートが買い物不便なとこなので、よく使うんです」
「てかその身長じゃタウンカーは乗りにくいんじゃ……
「だから車欲しいとは思わないです。車より自転車の方が好きで」
「いいよね自転車……湘南にいた頃はチャリ生活だったからさ……
「なんか踏みましたねオレ」

そしてまたふたりは旧知の友人のように笑った。

神は思う。それぞれにとってはただの日常でしかなかったけれど、あの早朝にすれ違うだけの1年間のような、シンプルな日々が性に合ってるんだよな、オレもさんも。だから余計にあの頃が心に刺さって抜けないし、オレはさんに惹かれるし、さんもオレの誘いを断らなかった。

神は、と再会してから根拠のない自信が強くなるばかりだった。あの「食事会」くらいしかお互いのことをじっくり知る機会もなかったし、今もほとんど雑談だ。けれどあの早朝にすれ違うだけの1年間には根拠のない自信に繋がるいくつものピースがあった。

積極的に恋人を作りたがらない神に、大学に入ってからの友人や先輩たちは恐る恐る「ゲイなの?」と聞いてきた。違うと答えると「恋愛興味ない人?」と聞き直される。それも違う。正直入学から3ヶ月ほどは失恋のショックで恋愛どころではなかった。が、それが徐々に癒えてきてからも、周囲の女の子たちに興味がわかなかった。

まさかに再会できるとは思ってもみなかったし、1年目の夏頃の神は「自分は年上好みなのでは」と思い始め、そういう感覚があるのかどうか気になって仕方なかった。色々試してみたりもした。が、どうやら年上だから惹かれる、あるいは同年代に惹かれない、というわけではなさそうだった。

そうして残暑の夜にを忘れられない自分に気付いた。

元から一度熱中するとずっと同じことをやっている性格ではあった。バスケットがいい例だ。ほんの子供の時にバスケットって面白い、シュートが入った時は最高に楽しいと知って以来、夢中なままだ。もそれに似ていると思う。

いくつものピースはパズルのようにぴったり嵌まり、神にとっては「大好きなもの」として固定された気がしている。丸1年のいない日々を過ごしたけれど、気持ちは薄れなかった。あの日、両手を繋ぎながら「好きです」と言いたかった時の気持ちとまったく同じだ。

自信には根拠がないけれど、自分の気持ちも含め、全てのことが「年齢が10歳離れていても自分たちは相性がいい」という結果を指し示している気がした。きっと上手くやれる。オレとさんは付き合ったらきっといいカップルになれる。

なので神は逸る気持ちはあっても、焦ってはいなかった。連絡先も交換したし、は誘いに応じたし、今日をしくじらなければ2度目はある。2度目があれば3度目4度目は約束されたも同然。

あの日神の告白を聞くまいと遮ったように、は神の気持ちを瞬時に「年が離れてるからダメ」と思うだろう。未来のある若者は未来のある若者同士で未来がある若者のうちに誰もが羨むような恋愛を謳歌しなければならない。そんな思い込みから抜け出せずに、何も考えずに神を拒絶するだろう。

その下らない洗脳を解かねば。オレがどんな恋をするかを決めるのはオレだ。

「そういえばさん、例のチョコレート会の時、寿司好きだって言ってましたよね」
「チョコレート会ってなんかかわいいね。うん、お寿司好きだよ」
「今日のお昼、お寿司にしませんか」

の頬がふっくらと緩み、優しげな笑顔になる。自転車生活はホームシックを呼んでしまうNGワードだったけれど、チョコレート会は大丈夫らしい。神もにっこりと微笑む。

ほら、あの夜の思い出はオレたちにとって幸せな記憶なんだよ。

初回の「デート」は混雑していて寛げないビーチをそそくさと歩き、行き当たりばったりの寿司ランチは予算オーバー、午後になると気温がずいぶん上がったのでカフェに入ろうとしたのだがカウンターは大行列、しかしそんな思い通りにいかないのが面白くて、ふたりはずっと笑っていた。

本人にその気がなくても、デートの誘いに応じたものとして、神は段階を踏んで確実にを落とす気になっていた。さんは元からオレを対象外の子供だと思ってるから、あんまり自分を偽ってかっこつけてるようなところが少ない。オレは性格的に裏表がない……というか使い分けるのは面倒だし、表情も乏しいから誰の前でもそれほど変わらない。でもデートは楽しかった。さんいっぱい笑ってた。彼女も楽しかったはずだ。

たった1度のデートだけど、オレとさんは絶対相性がいい。神はまた根拠の薄い確信を得ていた。

なので日が暮れ始めたところで潔く切り上げ、を自宅の最寄り駅まで送ってデートを終えた。は目がとろりとしていて、それは神にうっとりしたわけではなくて、ほどよくリラックス出来てほどよく疲れたので急激に眠気が襲ってきた――そんな感じだった。

さんたぶん今日は風呂も入らずにベッドに倒れて明日の昼頃まで起きないかもしれない……という神の予想は的中、翌日の昼になってからメッセージが来た。久々に爆睡したことと礼を綴っていたが、それを待ち構えていた神は当たり障りのない会話を続けつつ、次の約束を取り付けた。

早く帰れそうな日、ありますか? 昨日どこも混んでたし、今度は平日にご飯とか行きませんか。前から気になってたお店があるんですけど、ひとりだとちょっと入りづらくて。

は何も考えていない速さで「いいよー!」と返してきた。神はつい笑う。

は意識していないかもしれないが、こういうことの繰り返しが「年齢差」や「他人の目」という呪いの効果を打ち消すと神は思っていた。焦らずにとの距離を縮めることで、気付いた時には「良識に反する」と思い込んでいた10歳年下の自分との恋愛に抵抗がないことを知るはずだ。

いざとなったらは伝家の宝刀である「年下なんか興味ない」を抜き放ち、「友達としか思っていない」と切りかかってくるだろう。でもそれは絶対に建前であるはずだ。神はそう信じていた。

人はオレの年齢や恋愛経験を理由に「思い込み」だと言うはずだ。大人の女性の色香に惑わされて、正常な判断が出来なくなっていると。それが本当に真剣な恋なのかどうかはもう数年待ってから決めてもいいはずだ。早まったことして貴重な若い時の時間を無駄にするのはよくない。絶対あとで後悔するから善意で忠告してあげてるんだよ、ありがたく従いなさい。賢い君なら分かるはず――なんて。

逆だよ。年が離れているならなおさら急がないと。

もしが将来は結婚して子供が欲しいと考えていたとする。30歳という節目に余計にそれを意識して、家族を持つことへの欲求が高まるかもしれない。それで焦って判断を誤ってろくでもない男と結婚されても困る。それを阻止するには早めに付き合い、改めて将来のことを一緒に考える必要がある。

神は至って真面目にそう考えていた。

そのためにはふたりがどう生きていけばいいのか、それを阻むものとは何なのか、メリットは、デメリットは、考えられる問題、それは悲観するためのシミュレーションではなく、全て乗り越えてクリアしていくシミュレーションだ。想像が出来るなら困難は乗り越えられる。

牧に言われたように、付き合ってみたら一緒にはいられないと気付くかもしれない。それはそれで結果だ。それを確かめるためにも付き合ってみなければ。

少なくとも神の中には燃え盛る恋心があったけれど、まだそれを表に出すような段階ではない。お友達から、ってやつだ。なので神は努めて「友達と過ごしている時の自分」を意識しつつ、なおかつ「家族といる時の自分」も隠さずにと接した。への恋心を抜いた状態のごく自然な自分だ。

本当は全てさらけ出してしまいたい。大好きだと伝えて、抱き締めて、キスして。それをに隠さずにいられるようになりたい。だから焦らずに、一歩ずつ。急いては事を仕損じるから、急ぎたいと思うなら時には回り道も選ぶ。闇雲に走れば必ずいつか正解にたどり着くなんていうのは幻想だ。

部活で忙しいのは変わらなかったけれど、1年間への失恋を引きずって肩を落としていた神は気力が充実して、いつになく頭の回転も早く、それにともなってフィジカル・メンタル両方のコンディションが安定し、なんだか楽しくなってきた。湘南時代の同様、ハイになって来たらしい。

だが、と神が違うのは、その「ハイ」に自覚があることだ。神は自分の状態が「ノッている」ことをわかっていた。調整がピタリと合って試合の時に最高のコンディションということがある。そんな時は自分でも驚くほどのプレイが出来る。それに似ていた。

その「ハイ」を最大限に活かすためには、とにかく集中することだ。己の「ハイ」を利用しろ。

気付けば神は子離れが上手くいっていない親を不安にさせないよう立ち振舞えるようになり、友達とも適度な距離を保てるようになり、との時間を確実に確保するために集中することでその他の部分がスムーズに回り始めた。「ハイ」は加速する。

それに、と過ごす時間はとにかく楽しかった。デートはいつも笑っている。

神が見る限り、それはも同じらしかった。気を遣って当たり障りのない会話をしているようには見えないし、自分でもそんな気遣いをする必要はなかった。とはまさに「気が合う」関係であり、おそらくにとっては「恋愛未満」を意識しなくていい相手のはずだ。

この頃のふたりは、もしかしたら「1番親しかった時期」だったのかもしれない。神の中には恋心があっても、まるで苦楽を共にした長い付き合いの親友のように、あるいは家族のように、何でも話せて、けれど考えることがひどく食い違うこともない、そういう関係だった。

「えっ、じゃあもし上手くいったらプロ選手になれるかも、ってこと?」
「オレはまだそんな段階じゃないですけどね。学生の間に日本代表になる人もいるし」
「そんなことしてたら勉強してる暇ないんじゃないの……
「どっちもいますよ、疎かにしてる人も、ちゃんとやってる人も」

神がまだ10代だというせいもあるが、ふたりとも「まずは酒」が苦手なタイプだったので、食事が中心の店で会うことが多かった。この日もふたりはが気になっていたというトルコ料理の店に来ている。そこで将来の話になってしまい、神は少々想定外ながらプロはどうしても夢だと言ってみた。

自分が国の精鋭になれるほどの選手かどうかはわからない。だがバスケットを始めて以来、高い目標に向かって自分を鍛え上げることに飽いたことがない。それは今のところ神を裏切ることもなく、今の自分を作ったのは運や才能ではなく、全て努力の結果だと言えた。

ただその「努力だけ」がどこまで通用するのか、ということは神も模索しながらの日々だ。今のところはそれなりにチームに貢献できる選手だと思っているが、中学高校大学と学生競技としての世界が狭く凝縮されていくに従い、「生まれ持った素質」というものの強大さを感じることも多くなってきた。

特に外国人の血を引く選手を目の当たりにすると、その皮膚の下にある筋肉が同じものとは思えないこともあった。人が全て均一に同じであるなんてことは絵空事だと実感したし、その中で戦っていくのには努力だけで満足せずに多角的なアプローチが必要なんじゃないか……ということは大学に入ってからずっと試行錯誤していた。

なのでプロ選手は今も夢であり、目標だ。しかし同時に儚い夢想かもしれないということは、意識していた。信じればいつか夢は叶うかもしれないが、叶わなかった時のことを誰かが保証してくれるわけではない。バスケットに関わる仕事にありつけるかどうかもわからない。

夢を諦めるな、自分を信じて突き進め。神はその言葉自体は心で信じていた。夢を諦める理由はないし、自分を信じることは目標の成否を左右する重要なファクターだ。だが、と「友達デート」を重ねるようになって以来、神は「夢が夢でしかなかった時」に備えたい気持ちが出てきた。

それはこれまで全力でサポートしてくれた両親のためでもある。努力なら得意中の得意。神の努力は、夢と、夢が覚めた時の両方に向かうようになっていた。どっちも追い求めたい。どちらも諦めない。

「まあその、博打みたいな夢だってのは自覚があるんですけどね」
「夢を追いかけてる人が美しくて手放しで称賛されるのにも賞味期限があるもんね……
「みんな夢を諦めるなって言うの好きだけど、結果が出てない大人には冷たいですよね」

するとはテーブルに肘を突いて目を逸らし、口元に拳を押し当てた。

さん?」
「湘南にいた頃、私がちょうどそういう感じだった」
さんが? そんなこと……
「神くんを応援してるのが気持ちよくて。若者に寛容で謙虚な大人っていう、自分に酔ってた」

はまだ目を逸したまま椅子の背にもたれ、腕を組んだ。

「だって私、神くんの試合なんか1度も見たことない。テレビでもバスケの試合なんて見たこともない。実際に神くんが勝っても負けても、そこには何の思いもなかったと思う。毎朝走り込みを欠かさない高校生に声をかけてるだけで応援してる気になってたけど」

が湘南でハイになっていたことは詳しく聞いていない。それに、神にとってはの毎朝の挨拶や、インターハイで優勝できなかった時にかけてもらった言葉こそが何より響いた。例えそれがの中で純粋な気持ちでなかったのだとしても、今でもインターハイで優勝出来なかったことは「遠い未来に必ず自分を救ってくれる」と信じている。

その言葉がある限り、どんな未来も怖くないと思える。の言葉は希望だった。

それに、少しずつではあるが、湘南にいた頃、東京で生活をしている現在、話を聞けば聞くほど今のが疲弊してることがわかるので、余計に湘南での生活を自虐的に感じてしまっているのかもしれない……と神は考える。だって……

「でもさん、今もしオレの試合とか見たら応援してくれるでしょ」
「そりゃ……まあね。神くんのいるチームを応援しちゃうよね」
さんの中でどうなってても、オレにとっては応援に変わりないですよ」
「そういうもん?」
「そういうもんです。今でも嬉しいです」

は納得いかないようだったが、神はにっこりと笑って見せながらバクラヴァというお菓子を口に運んだ。とても甘いが、頬のあたりに照れが見えるを見ていると口の中の甘さが気持ちも蕩かしていく。恋が甘いって本当なんだな。

……なんかさあ、神くんてさ、人たらしだよね」
「よく言われます」
「なんでそれで彼女いないの」
「人たらしっていうのがただのイメージで、実情と異なるからです」

またわざとらしくにっこりと笑ってみせる。は恥ずかしそうに目をそらす。普段表情に乏しいので、ここぞという時の笑顔が他の人より効果が高い、というのは子供の頃から自覚している神の得意技だ。親戚の大人や学校の先生にはとても良く効いた。はどうだろう。

「てかまた今日も余計に出してもらっちゃってすみません」
「それは気にしないで。私が気になってた店だし、神くん学生なんだから」

急に支払いの話に切り替えたので、はいくぶんホッとしたように手を振った。確かに今日はが気になっていてひとりでは入りづらいというトルコ料理の店で、ふたりともトルコ料理は未経験なのでコースにした。神は当然予算オーバー。なのでその分はが負担している。完全に奢ってしまうとそれは友人関係ではないのでは、と神が言うので、あくまでも予算超過分だけ。

だが、恐らくこうした「大人が足りない分を支払ってあげる」という行為がを安心させ、親元を離れて学生生活を送る真面目なバスケット少年への粋な計らいという、自身が嫌悪した湘南時代と同じ快感を彼女にもたらすだろう。その分だけ、彼女は油断し、心を開く。

しかしあくまで神の目的はと恋愛関係になること。遠慮はしない。

「でも最近、さんがなんか年下みたいに見えるときがありますよ」
「どうせおっちょこちょいですよ。神くんには常に見下ろされてるしね」

はまた恥ずかしそうに口を尖らせてそっぽを向く。ほらほら、そういうところ。

「あはは、もう少し待ってくださいね。社会人になったら今度はオレが奢りますから」

の目が一瞬泳ぐ。それはどれだけ早くてもあと2~3年はかかることだ。自分たちは数年後もこうして友人関係でいるんだろうか……と考えているのが手に取るようにわかる。神にとってはまだ「未来が見える2~3年」だが、にとってはまだ、一寸先は闇であろうことも。

だが、ふたりでいる時はを考え込ませない方がいい。ふたりでいるときには全てを忘れて楽しみ、自宅に帰ってからこれでいいんだろうか……と悶々とすればいい。そしてやっぱりやめた方がいいのではと思いながら再会すると、楽しいのでそれを忘れる。

というか神が散々悩んだ結果、この「の感覚を麻痺させる」戦法しか手がなかったのだ。精神的な既成事実だ。どれだけが年齢を言い訳にしたところで、ふたりの時間はいつも楽しい。これをに何度も刷り込むしかない。

は毎回戸惑う。マンションまで送ってもらい、別れるたびに戸惑い、「また連絡しますね」と手を振る神に一瞬傷付いた顔をする。それでも数日置いて神が食事に誘うと、断った試しがない。というか断ったことがない。必ずは来る。ふたりの時間は、楽しいので。