どうしてわたしなんかがいいの

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あれだけ号泣していた森永さんはしかし、本質的にドライな性格の人なので、泣くだけ泣いたらスッキリしたらしく、その後は普通にランチを食べて普通に別れた。

なのでは江崎さんを飲みに誘った。家で酒が欠かせないほど飲むわけではないが飲めないわけではないし、話したいから奢ると言ったら江崎さんは大喜びで着いてきた。いわく夏休みの間に子供だけ先に引っ越しと転校が済んでいるから、今月の平日はひとりなの! と嬉しそうだ。

「夫さんと上手くいってなかったんでしたっけ……?」
「そんなこともなかったんだけど、こういうのって落とし穴って言うのかなあ」

苦笑いの江崎さんによると、彼女の夫は2年ほど前に友達に誘われてSNSを始めたのだそうな。

「てかSNSやってるってことを私が知ったのですら半年前だったから、まあそういう夫婦ではあったんだけど……そこで思想にハマっちゃって。SNSの中だけでそういうのを見てるだけならよかったんだけど、聞いてもいないのに語り始めたり、講演会とか通うようになっちゃって」

も本日二度目の苦笑いだ。それはそれは……

「なのに私は興味を示さないし、彼の主張に賛同しないっていうのが受け入れられなかったみたいで、子供の前で私に怒鳴るようになっちゃってさ。かといって嘘ついて夫の話に合わせたところで、本人がますます調子に乗って演説が増えるだけだし、これは早めに決断した方がいいと思って」

江崎さんの実家も埼玉で、実家には両親と独身の兄がいて、息子は母方のジジババが孫に甘いことをよく知っているので、離婚と転居ということには戸惑いつつも、ちょっとニヤニヤしていたという。江崎さんも落ち込んだ様子は見えない。実家に帰ったら友達とバーで飲むなんて出来なくなるから今のうちに飲んどこ、とピッチが早い。

「むしろちゃんがどうしたの。私の離婚話なんか聞いても参考にならんでしょ」
「いえその……最近祖父が亡くなったりとか、考えさせられることが多くて」
「でも……これから結婚するかもしれない人に離婚の話は気が乗らないんだよね」
「ええとそうじゃなくて、すいませんあの、これ誰にも言ったことないんですけど」
「えっ、なによ、なんか秘密抱えてたの」

つられてもグラスの中身を飲み干すと、一気に言った。彼氏が10歳年下なんです。

「へえ~! すごいねえ、どこで知り合ったの」
「えっ、どこ、えと、湘南にいる頃なんですけど」
「うーん、それじゃ結婚は厳しいか~? でも私が子供の頃学生結婚する人多かった気がするけどなあ」
「いやあの、それがですね」
「てかそんな若いんじゃ性欲有り余ってんじゃないの。妊娠しないように気をつけなよ~」
「ちょっ、まっ、江崎さん!!!」
「なによ」

の脳内では完全なる真顔で冷ややかな目をした宗一郎が「ほら見ろ」「だから言ったのに」と言っていて、目が回りそうだった。江崎さんなんでそんな平気な顔してワイン爆飲みしてんすか。

「え~? 別にすげえ年下だってうちの夫みたいなのよりよっぽどマシだって」
「でも、付き合うことになった時、ギリギリ10代だったんですよ」
ちゃんが無理矢理付き合わせてんの? 違うよね? じゃいいじゃん」
「まだ学生で……卒業したら結婚したいとか言い出してて……
「ちょっと状況見えないけど、そっか、それで私が離婚とか言い出したから怖くなっちゃったのね」

すっかりピンク色に染まった江崎さんの頬がふっくりと緩み、は頷いた。

「今日も27歳の子が結婚決まったから退社したいって言い出してて、前は私もそういう結婚をするんだと思いこんでて、そこから湘南に行って、戻ったら本社で、10代の子に付き合ってくれって言われて、なんかすごく具体的に結婚とか将来のこととか考えてて、よく、わからなくなって……

江崎さんはワインを飲み干しながら、ンフフフと笑う。彼女の唇の端にほんの一滴溜まったワインの赤がやけに色っぽくて、確かそろそろ40代にさしかかる江崎さんだが、こりゃ再婚は遠くないな……はぼんやり思った。

ちゃんは真面目だからな~」
「そういう問題ですか?」
「そだよ。羽目を外すのも下手そうだし、ちゃんとしなきゃっていつも思ってるでしょ」
「それはまあ、そうですけど……
「結婚に限らず、やってみてダメだったらやめればいいじゃん。離婚だってそういうことだよ」

江崎さんの言う「逃げの戦法」はだって知らないわけじゃない。アドバイスとしてはありふれている。だからなんでもチャンレンジしてみるべきだ、というポジティブな考え方ということになっているが、はそれには少し疑問だった。

やってみてダメでやめてしまった、そのあとが怖いんじゃん。ダメでした、挑戦する前に戻ります、ってわけにいかないじゃん。時間は巻き戻らないんだもん。それが怖いからみんな変化を恐れるし、安全な道しか歩きたくないんでしょ。

「離婚、怖くなかったんですか」
「正直、あの目を爛々とさせて演説してる夫と暮らしてる方が怖かった」
「新しい生活も、不安とかないんですか」
「もし将来的に夫が我に返って復縁を迫ったりしてこないかっていうのが一番不安かな!」

離婚予定の夫はその豹変を実家でも持て余されており、義理の家族から「あの子は昔から夢中になるとのめり込むけど、ある日突然飽きることがあるから気を付けて」と念を押されてきた……と江崎さんはまたンフフフと笑う。

「義理の家族はそれで済んだからよかったけど、一番面倒だったのは夫の友達だったな。別に私とは親しくないのに電話かけてきて考え直せって何度も言われたんだよね。意味分かんないでしょ。でもあの人たちには、夫を理解してあげられない心の狭い妻だったらしくて、私。しかもみんな最後に同じこと言うんだよね、後悔するぞって。脅しじゃんね。忠告してやったつもりなんだろうけど」

夫だけでなく彼の友人たちまでこれでは、気が休まる暇がない。それも離婚の決め手だったと江崎さんは吐き捨てた。そして空になってしまったワイングラスを掲げ、ニカッと笑った。

「私の人生は私だけのもの。ちゃんの人生もちゃんだけのもの」

のグラスに江崎さんのグラスがチリンとぶつかる。

……どうしても、怖くて」
「そうだね、特に女はね。これが男なら何も迷わなくても許されるんだけどね」
「すごくいい子なんですけど、どこかで疑う気持ちもあって」
「それ、普通じゃない? 年下じゃなくたってそんなもんだと思うけど」
「付き合うだけならともかく、結婚なんて……

だが、江崎さんの声を聞いているとあれだけしつこく心にこびりついていた不安が薄らいだ気がしていた。宗一郎がどれだけ訴えてもの意識の中から消えることのなかった、自分だけに見える亡霊、その影が遠のいていく。

それは新たな道を歩み始めようとしている江崎さんが晴れやかな笑顔だったから、かもしれない。

怖く、ないんだろうか。失敗しても、平気なんだろうか。そう思えてくる。

江崎さんはまたグラスの中身を飲み干すと、テーブルに肘を突いて人差し指をくるりと回した。

「だからあ、相手、若いんでしょ? てことは親も若い。あっやべこれ失敗したなと思ったら、上手く立ち回って大金ぶん取ってやんな。そんでまたいい男見つけな!」

酔った江崎さんのその言葉に、は声を上げて笑った。祖父が亡くなって以来、楽しくて笑ったのはこれが初めてかもしれなかった。心を尽くしてそばにいてくれた宗一郎には感謝しているが、「遊んでる」時間はこんなにも心を軽くしてくれるのだと改めて思った。

特別な言葉なんかいらない。保証なんか誰にも出来ない。だけどこんな風に「まあ、いいか!」と思える気持ちの余裕、心の軽さ、そういうものが本当の勇気なのではないか――

江崎さんの言葉に気持ちが楽になったは、祖母の様子を見に行った帰りに母のところにも顔を出した。義父のデリとペットサロンは相変わらず盛況しており、ほんの3週間帰らなかった間にアルバイトが増えていた。

この週末は宗一郎が試合続きで暇がないので、心も落ち着いている。はデリのイートインテラスの片隅で母と義父と向かい合い、先日の通夜告別式の時に連れてきた彼はまだ学生なのだと白状した。ふたりは驚いてはいたが、忙しくて宗一郎を観察している暇がなくて記憶が怪しい、と苦笑いだった。

……怒らないの」
「あんたが学生に無理矢理関係を迫ってるとかなら怒るけど……
「そういう意味じゃ大人同士だしなあ。親が怒るようなことでも……
「それが……それが結婚でも?」

固まる親ふたり、テラスに風が吹き込み、ペットサロンから出てきた犬がワフッと吠えた。

「今、すぐに?」
「時期はまだなんとも。ただ、そういう年の差だから、彼が、早く結婚しようか、って」
「プロポーズされたのか」
「というほどでも。ただ本人がかなり具体的に事を考えてて」
「ええとその、向こうの親御さんは何か言ってるのか」
「なんか親御さんもお母さんの方が年上らしくて、詳しい話は聞いてないけど」

母親が黙ってしまったので義父が当たり障りのない質問をしてくれるが、確かにまだ状況は曖昧なままだ。それ以前に宗一郎が学生のうちは結婚どころの話ではないし、も心を決めたわけではなかった。ただふたりに話してみたかっただけだ。こんな「ケース」をどう思う?

「特殊な関係に酔ってるってわけじゃないだろうし、色んなリスクはわかってるんだよな?」
「考えられる限りのことは。最初はそれを理由にずっと拒絶してたから」
「だけど絆された?」
「まあ、それでいいと思う。元々気が合う人だったし、あんまり熱心だったから」

出会いからのことを思い返しつつ、はゆったりと息を吐いて背を丸めた。

「おかしな話だけど、私別にあの人と結婚したいとか、今も思ってなくて、お義父さんの言うリスクを考えると怖いことばっかり考えちゃって、安全な道じゃないなってのはずっと思ってる。だけど、不思議なことに、宗一郎と一緒に暮らすということには、なんの不安も、なくて」

それは江崎さんと飲んだ帰り道に感じたことだ。宗一郎とは言いたいことを言い合い、怒っても怒られても遺恨が残らない関係で、いつしか年上だとか年下だとかいう感覚も薄れ、の日常の大部分を占める人になっていた。それには不安も恐れも感じない。

「喧嘩とか、しないのか」
「するよ。でも、しても気にならないというか……
「確かにそんな感じだったな。だからそこまで年の差があるなんて気付かなかったんだろうなあ」

すると沈黙したままだった母親が顔を上げ、静かに深呼吸をした。

「私も一度失敗してるから偉そうなことは言えないけど、大雑把に言って、気が合うならそれに越したことはないと思うのよ。毎日の生活のことだから、歳を重ねるごとにどんどんプラスになっていくなんてものを求めちゃうと、そりゃあ破綻すると思うし、マイナスにならなければそれでいいと思う」

幼い頃の話だったし、母と実の父が離婚した原因については詳しく聞いていない。ただが中学や高校の頃に、祖父母から「普通に暮らすということの、『普通』が私たちとかけ離れていた」と聞かされた。自分の育った環境はごく「普通」だと感じて生きてきたにとって、そんな祖父母や母が「かけ離れていた」と感じるなら、自分にとっても「普通」が合わない人なのではと思った。

「だけどね、あなたを授かったことだけは、いいことだったの。それは覚えておいてね」

は黙って頷き、ゆるりと笑った。母親は離婚の際に何度も他人から「結婚に失敗した」「あんな男と結婚しなければまともな人生を送れたのに」という言葉をぶつけられていた。それを耳にして育つ羽目になったを案じた母と祖父母は親類縁者と付き合いを絶ったわけだが、幸いはそこに関しては心に傷を負うことなく大人になれた。

自分が母親の失敗の産物であると思ってほしくない。それは失敗なんかではなく、「いいこと」だったのだから。母親と祖父母はそれを心にを育て上げた。その愛情は成功し、というひとりの人間が出来上がったと考えていいだろう。

私が恐れている「やってみてダメだったから、やめた、そのあとのこと」。そういえば、私自身がそれだったんだよね。やってみてダメだったあとに残ったもの、それが私。おじいちゃんとおばあちゃんとお母さんに育ててもらった私。

私、「普通」に生きてるよ。

江崎さんと話し、母親と義父と話して気持ちが柔らかくなっていたは、義父の店からのんびり歩き、のんびり電車に乗り、しかし食事を作るのが面倒だったので、何か買って帰ろうと思い立った。以前なら義父の店の商品をもらっていたけれど、幸か不幸か義父の店は繁盛していて午後ナカには昼の仕込みで用意した商品がほとんど売り切れていた。

最寄り駅のテイクアウト商品は正直飽きてるし、乗り換えのついでにデパ地下で食べたいものだけ買って帰ろうかな。デパ地下なんて久しぶりだ。ていうかデパ地下をひとりでウロウロ出来るようになったのって、何歳くらいだったんだろう。覚えてない。

宗一郎がいると質より量、ガッツリ系になりがちだから、たまには渋かったり見栄え優先な惣菜もいいかもしれないな。湘南ハイだった頃に好きだった体に優しい感じのも悪くない。

――などと考えて歩いていたは、見えない壁に激突したかのように足を止めた。

「あれ、久しぶりだな」
「お、おお、久しぶり」

なんと、元彼だった。

パッと見た感じはほとんど変化がないように見える。ただ別れた頃に比べると細くなった……というより少し顔が痩けたようにも感じる。もう少し頬がふっくらしてて、大人しそうな男の子って感じだったけど、ちょっと疲れてるんかな。

「元気そうだな。まだオムニアにいんの?」
「おかげさまで。いるよ、今本社だけど」
「本社!? 営業所の事務員から本社なんてどんな手を使ったんだよ」
「失礼な。ただの人手不足。中野と転勤の二択で」
「中野って例の死人が出るレベルで凶悪な中野?」

はつい笑った。本社では出来ない話だったし、地元の営業所にいる頃のノリそのものだったからだ。湘南に転勤するまでは、こんな会話が「普通」だった。

すると元彼も表情を緩めて、ちょっと笑いながら肩を落とした。

「あの時さ、別れて正解だったよ、お前。オレと結婚出来なくて運が良かった」
「はあ?」
「マジであの直後にバアさんが倒れて、その一ヶ月後に母親も倒れて、その一年後に祖父さんが死んだ」

会いたくもなかったけど数年ぶりの再会で何を言い出すんだお前は、と一瞬で腹が立っただったが、苦笑いの元彼に息を呑んだ。

「まだあるぞ。ただでさえ母親とバアさんの治療費で逼迫してんのに、甘やかしてくれる女がふたりも倒れた父親が近所のスナックに入り浸り始めて家計を圧迫、退院出来たけど本調子じゃない母親が泣いて嫌がったけど本調子じゃないバアさんが独居無理で同居、親父は一応働いてるけど、ちょっと目を離すとすぐに飲みに行くからオレがひとりでなんとか全部面倒見てる感じ」

大惨事だ。そしてそんな状態で新婚だったら、と思うともっと恐ろしい。

……顔、疲れてるよ」
「そりゃ疲れるよ。実際、この数年1日も休んでない」
「体、大丈夫なの」
「今のところは。まあオレがダメになったらうちがいよいよ全滅するだけだから」
「そんな全滅とか……

だが、彼らには助けの手もなく明日をも知れず、その日一日を過ごしていくしかないんだろう。こんな生活嫌だと喚いたところで病人ふたりが一瞬で完治することはなく、父親の悪癖がなくなることもなく、元彼がキレて行方不明にでもならない限り、何も変わらないのだ。

「無理しないでよって言いたいところだけど……
「無理が出来る状態でもないしな。だからお前、九死に一生を得たと思っていいんだからな」
……後悔、した?」
「いや、してない。お前と結婚してたら問題がもっと増えただけだろ」
「まあ、そうだね」

不思議と悲惨な状況にある元彼を不憫に思う気持ちはなかった。かといって運良く難を逃れたとも思えなかった。ただこの元彼とは運命が重なり合わなかったんだな、と思った。運命論者というほどではないけれど、「そういう風になるって決まってたんだな」と思えた。

「てかあの頃やたらと結婚したがってたよな。結婚したのか?」
「えーと、してないけど、まあそういう話はある」
「そっか、よかったな。今度はうまくやれよ」
……そっちもね」
「ははは、結婚なんか無理だって。オレはひとりになりたい」
「そういう意味でも、だよ」

週末だが遊びに来たわけじゃない、頼まれごとを口実にひとりになる時間を作りに来たという元彼は名残を惜しむこともなく、「じゃあな、元気でな」と言うと、さっさと去っていった。

デパ地下のお惣菜を見て回りつつ、はぼんやりと考えていた。

みんな色々あるなあ。このデパ地下にいる人たちだって、みんな何でもない顔してショーケースを見てるけど、どんな事情を抱えてるかわからないよなあ。私を見て、10歳年下の男と付き合ってる30の女だなって思う人なんか、そりゃいるわけないよね。

色々ある。みんな色々ある。お母さんも、おばあちゃんも、お義父さんも、江崎さんも、元彼も。

あるんだよ。