どうしてわたしなんかがいいの

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さん最近元気そうだね。年初の頃なんか毎日死にそうな顔してたのに」
「そ、そうですか、やっと本社に慣れてきたからじゃないですかね」
「あれ? 付き合ってる人いるんだっけ?」
「いえ、いないですよ」

本社内でも数少ない親しい同僚数人は、こそこそと身を寄せ合うようにしてランチをすることが多い。今日も本社から少し離れた古い喫茶店のボックス席で身を寄せ合っていたのだが、の隣に座っていた人事の江崎さんはおしぼりで手を拭きつつ、ちょこんと首を傾げた。

だが、向かいに座っていたマーケティングの森永さんと総務の小池さんも江崎さんに向かって頷く。は途端に恥ずかしくなり、別に何も……と連呼しながらおしぼりで顔を隠した。

そして「別に何もない」は真っ赤な嘘、が元気そうに見えるのは神のせいだ。

しかし例によって以外の3名は大卒で本社入社の人材であり全員年上、本社のノリにいまいちついていかれない者同士親しくしているけれど、あまりプライベートなことを詳しく話したい相手ではなかった。ましてや、最近10歳年下の大学生と仲が良くて、なんて言えるわけがない。

この「本社で肩身狭い同盟」はが本社勤務になった年の秋になんとなく結成された。割とパリピである社長が全社上げてのレクリエーションの機会を設けた時に、混ざりたくなくて隅でコソコソしていたのがこの4人。なので気楽な関係だが、特に江崎さんは小学生の男の子のお母さんなので、とてもじゃないが言えそうにない。

すると唯一の男性である小池さんが眉間にシワを寄せる。

「でも確か、彼氏いないからって理由で湘南に行かされたんだよね?」
「ええと、正確には別れた直後だったので、身軽でしょ、と」
「子持ちとしてはそういう人が行ってくれるのは助かるけど、本人は困るよね」

課が違うがも現在は総務なので、小池さんは他のふたりよりについての噂話を多く把握している。小池さんも幼稚園児の女の子のお父さんである。

「でも湘南、楽しかったので」
「にしては悪い噂ばっかり流れてきてなかった?」
「パートとアルバイトと、かけもちの営業さんたちがルーズな人たちばっかりだったから」
「あたしそういうの絶っ対無理」

森永さんが顔をしかめて吐き出すように言うので、はつい笑った。この肩身狭い同盟は揃いも揃ってみんなちょっと頭が固い。なので肩身が狭くなりがち。

「でもさあ、いくら楽しくても彼氏いないからって飛ばされて、実家とかそれまでの付き合いから微妙な距離が出来て、それでその人の人生曲がっちゃう可能性だってあるじゃん? しかもちゃん営業所事務だっただけなのに。戻ってこられてよかったよね」

森永さんに他意はない。正直な人なので、恋人がいないという理由で転勤させられたが可哀想だ! と思ったので言ったに過ぎない。が、顔では笑いつつ、の胸にはチクリと棘が刺さる。戻ってこられない方がよかった。

その場は「湘南か中野の二択だったので」と言えば簡単に収まったが、その日の帰り道、はまた途中にある自販機の前で立ち止まった。

神くんアレどーすんの、マジで。

春に奇跡的な再会をしてから3ヶ月、気付けば神とはしょっちゅう食事に行ったり近所の観光地に行ったりしている。内容は別にいかがわしいこともなく、毎回適当な場所で待ち合わせて出かけ、食事をしたり遊んだりして帰ってくるだけなのだが、傍目にはただのカップルである。

その上、一昨年の段階では「未成年の高校生」だった神は大人になり、完全成人も目の前、本人にもその自覚があるのか、以前よりしっかりと自分の意見を言ってくる。

さらに言えば、は読みが甘かったようで、神は未だにに対して知り合いや友達以上の好意を感じているらしく、それを匂わせてくるようになった。マズい。とてもマズい。

だがその「マズい」は、結局どう頑張っても10歳という年齢差が縮まらないという現実があるにも関わらず、が彼に対して日増しに強い親しみを感じてしまっているからである。

神とは気が合う。ただ食事をしていても、遊んでいても、ささやかなモラルや価値観がとても近い。それが心地よいのがまずひとつ。10歳も年が離れているのに話が噛み合わないということもなく、も神も、わざわざ年代的に共通しない話を持ち出して相手をからかったりしない。

それが意味ありげな目で見つめてくるので、はもう何度も神を「ギリでも10代の大学生」だということを忘れそうになっては、慌てて気持ちを締め出していた。可能なら自分の方がはるかに大人なのだという態度を見せ、わかってもらおうと努力はしている。

なのに神と時間を過ごす楽しさに抗えない。ふたりで食事をしている時が1番リラックス出来るし、基本的には何でも話せるし、学生と社会人という環境の違いがあるのに共感してしまうことが多かった。

というか完全成人目前の神は高校時代よりはるかに逞しくなり、誠実で、信頼出来る人物になっていた。まだ学生も途中で知識が足りないということはある。経験も乏しい。けれど、30の堰を越えようとしているの周りには、30歳でも40歳でも、20歳の学生程度の知識や経験しか持ち合わせていないという人が存在していたのである。

ちょうど先日も神が「幸い自分はまだ葬式に出たことがない」と言い出した。その流れで一般的な参列の作法についての話になったのだが、もそれには充分な知識がなく、地元営業所時代に仕事関係で参列したことはあるが、葬儀を出す側になったことはなかった。幸い家族は誰も欠けていない。

その翌日、あまり親しく出来ていない同僚にぽつりとそんな話題を出してみたところ、38歳のその人は「自分も葬式に出たことがないし葬式を出したこともない」と言い出した。核家族育ち、祖父はいないが他界したのは自分が生まれる前、今のところその他の家族は全員存命。だから就職してすぐに喪服を買ったけれど、数年に1回着てみてサイズが合わなくなっていたら作り直すばかりで、16年間1度も出番がないのだという。経験値だけで括るなら、この人は神くんと同じようなものなのか、とは不思議な感覚を覚えた。

そんな風に神を「年の離れた子供」だと思おうとしては、「充分な大人」と変わらない場合があるということを思い知る日々だった。

だが、肩身狭い同盟に神の話が出来ないのにはもうひとつ理由があって、例の森永さんが「結婚相手は経済力が第一」という人で、その延長で年下は絶対無理と言って憚らない人だったからだ。年下でも凄まじい金持ちだったらどうするの、と聞く江崎さんには「経済力の次に大事なのが社会的信用だから無理」だと言い放った。

確かにその基準で言えば神は充分に子供だ。そもそも学生だし、スポーツ選手だが国の精鋭に選ばれる程ではない。親の金で学生生活を送りながら毎日バスケットで汗を流しているだけの人物だ。

神は中途半端すぎる。はまた自販機のスポーツドリンクのボタンに指を押し付け、自分の中のモヤモヤをぶつけるようにぐりぐりと押し込む。中途半端過ぎて自分の気持ちがちっともまとまらない。

しかしモヤモヤしているのも疲れる。神と食事をしたり遊んだりするのは、楽しくてリフレッシュ出来るからだ。会社と自宅の往復で配信ドラマくらいしか楽しみもない、実家に帰るくらいしか心が休まることもないの日々にあって、神との時間はくっきりと鮮やかな輝きを放つものだった。

このところは頭のモヤモヤが重くなってくると、それを放置するようになっていた。自分でどうにもできない問題ならどうにかしなくてもいいのだ。考えても仕方ないことは考えない。脳に負担を増やすだけ。こうやって帰宅途中の自販機に向かって買わないスポドリのボタンをグリグリやる変な人になる必要はない。

そう、私と神くんは湘南という共通の思い出がある友人同士。ちょっと堅い性格で真面目で、そのせいでちょっと世の中の「ノリ」に疲れることがあるから、ふたりでのんびりご飯食べたりしてるだけの、いい友達。それでいいじゃん。それだけなんだから、いいじゃん。

と、は目の前の現実から逃げていたのだが――

「そりゃ、いますよ。古臭い女性観に縛られたくないって子も。でもそうじゃない子もいますし、それは男でも同じだと思うので、本人の意向に寄り添った方がいいと思ってます。てかそういう話したことなかったですけど、さんはあるんですか、そういうの」

は内心冷や汗をかきながら、「あんまりないかな……」とへらへら笑いながら答えていた。性懲りもなく神と出かけただったのだが、たまたま履いていた靴のヒールが根本からボッキリ折れてしまい、仕方なく神の腕に捕まって歩いていた。それがいわゆる「エスコート」の形になったので、そこから話が二転三転してジェンダー観の話になってしまった。

だがはそれどころじゃない。腕を貸してもらえるのはありがたいが、これじゃ言い訳のしようもないカップルじゃないか。でも今日びカップルと言ったら恋人繋ぎの方が多くないか。エスコートならカップルじゃなくたってやるよな? そうだそうだ、カップルじゃないわこれ。

と、は自己暗示のように脳内でぐるぐると考えを巡らせていたのだが、何のつもりか喋るたびに神がやたらと顔を近付けてくるので、思考がすぐ途切れる。

「でもさんて、どっちでもないって感じしますね」
「え、そう……かな?」
「オレが極端な人に縁があるだけなのかもしれないですけど」
「極端?」
……性別を意識せず社会的に自立したいっていう人、古風な女性観のままでいたいっていう人」

言いながら神はの掴まっている手に手を重ねてきた。の全身がビクリと震える。恐る恐る見てみれば、ものすごく年下の「男の子」の手の中に自分の手が完全に隠れてしまっている。その「男の子」の手は骨ばっていて、力強くて、まるで大人の男性の手のようで――

どうしようこれ、付き合ってないのに、こんな風に、この子、大学生なのに、私、30なのに。

「湘南の頃のさんてすごく自然体で、そんな風に社会の中で自分はどういうキャラクターなのかってことを強く押し出さなくても活き活きと生活出来てる人って感じがしたんですよね。その頃オレの周囲には自分は女なんだって強く主張してくる子が結構いて、そういうさんの自然体な感じはいいなあと思いましたよ。オレもそうなりたいなって」

神の手のひらの温度がゆっくりと手の甲に浸透してくる。その不安の中で、の心には湘南の潮風が吹く。だいぶハイになっていたけれど、神の言う「自然体」の自分には覚えがある。あの頃は人の顔色に警戒する必要もなく、冷たい冬に生きる木に生命力を感じ、毎日の暮らしの中にやりがいを見つけ、生きることを楽しんでいた気がする。

そっか、神くんて、あの湘南での幸せな暮らしの象徴なんだ……

毎朝早起きをして、すっきりとした気持ちで自転車出勤、そして自然に触れながら掃除をし、立派な高校生と挨拶をする。そういうクリーンでピュアな日々に神は欠かせなかった。

そういうの湘南での生活への未練が神を断ち切れずにいる。その上、神の方もに対して好意を持っていることを隠そうともしない。そういう状況に抗わねばならないことは痛いほど分かっているが、それに逆らえるだけの気力を保てない。

また感情の波に押し流されそうになっていたは、スッと息を吸い込んで思考を切り替える。

待って待って、落ち着いて。私は三十路、神くんは10代。神くんには親御さんがいる。私にも祖父母と、母と、義父がいる。私には仕事がある。神くんには未来がある。愛し合っていれば年齢なんか関係ないさ、なんて作り話の中だけの話。

神くんはこう見えてすごく考えが浅くて幼いんだ、きっと。自分の周りにいる女の子たちの、10代の私みたいな勘違いした女の子のセックスアピールを鬱陶しく感じるあまり、私みたいな、もうそういう魅力が枯れきった女の方がナチュラルだなんて思ってる。

でもそれが勘違いだよ。もしかしたら年が離れていることを難攻不落の城のように感じて、攻略し甲斐のあるチャレンジだと思ってるかもしれないけど、そういうのは攻略した途端に興味を失うの。攻略してるのが楽しいだけ。勝負の世界で生きる時間が長いせいで、混同してるんだ、たぶん。

冷静になって、私。この年で10代の子と付き合って、すぐに振られて、そんな恥ずかしいことある?

ていうか神くんのためにも大人の私が断ち切ってあげるべきなのに、ああもう、情けない。

さん? 足痛いですか?」
「えっ、あ、ごめん、平気。私そんな自然体だったかなあ。自覚ないけど」

あんな「ひと手間中毒の湘南ハイ」が自然体でたまるか。私は湘南の風に酔っ払ってたの。

「ていうか神くんはどうなの、そこんところ。私なんか真似したっていいことないよ」

はニヤリと笑って神を見上げた。10も年上の女を見習いたいなんて思ってるその浅はかな考えを払拭させてやらねば。自分で思うより彼の中には「ギラついた10代」が眠っているはずだ。それを引き出し、私みたいな三十路とは生きる世界が違うんだってこと、思い知らせてやらないと。

まだの手に手を重ねていた神は、足を止めての背を押した。いつの間にかずいぶん景色のいい場所に連れてこられていて、ひと気がなく殺風景な場所ながら、夜の東京湾が眺められる。してやられたはしかし、何でもないという顔をして柵に寄りかかり、手すりの上で腕を組んだ。

神くん、ダメだよこういうの。君はまだ10代の学生なんだよ。私みたいなおばさん――

「オレは、ジェンダーとか以前に、人の可能性を殺す概念が嫌いなんです。性別、年齢、学歴、経験、生まれ持った体。そういうものが足枷になって、人ひとりの中に眠る可能性はいつも潰されてる。誰だって何かに挑戦して努力する自由があると思うんです。そういうものを邪魔する思い込みが嫌なんです」

は息をするのも忘れ、遠くに揺らめく水面の光を凝視していた。

「オレの先輩に、あの海南バスケ部に初心者で入ってきた人がいました。すごく小柄な人で、もちろん試合には出られません。だけど彼は辞めませんでした。練習もサボらなかった。そうして3年生の予選、突然試合に出場しました。彼にとっては初めての試合で、当然主力選手のような活躍は出来ません。だけど対戦相手の調子を狂わせ、シュートも決め、全国大会で優勝争いをするような海南のチームで、初心者から始めてたった3年で、そういう功績を残すまでになったんです」

神も手すりに腕を置いて組み、水面を見つめている。

「みんな彼に勇気づけられました。あの先輩が『自分は初心者だから無理』とか『自分は体が小さいから不可能』と決めつけていたら、こんな結果にはならなかった。それを間近に見てきたので、そういう意味では『男とはこうあるべき』みたいな考え方は自分を縛り成長の足枷にするだけだと思います」

そして冷や汗をかきながら上手く息も出来ないの方へ顔を寄せ、少しだけ声を潜める。

「でもそうだなあ、やっぱりちょっと女の子に頼られたいみたいなのも、ありますよ。こうやって助けてあげたり、慰めてあげたりして、頼れる男だって思われたいみたいなのはあります。でも反面、疲れた時はちょっと甘えさせてほしいなとも思います。その程度のことなんですけどね」

は神を諭してやらねばと思っていたのだが、何かを言う前に全て封じられてしまい、肌が震えるほど激しい動悸に気が遠くなってきた。人の可能性を殺す概念……? いやそりゃ理屈はわかるけど、私たちが10歳も年が離れてることは、可能性とは関係なくない……

てか今の何……それって私に言ってるの……? 私に頼られたい、でも疲れたら甘えたいって言ってる……? 神くんがそういう関係になりたい相手って、どうしても私なの……? いや待ってその前に私もう「女の子」じゃなくない……

「同じ、学校に、そういう子、いないの」
「うーん、いないかなあ。学校が同じなだけで、ぴったり来る人がいれば苦労しないですよね」

神は笑いながらそんなことを言っているが、は笑うに笑えない。というか気付けば神がすぐそばに立っていて、今にも腕が触れそうだった。どうしようこれ、どうやってダメだよって伝えればいいんだろう、神くんを傷付けないで、友達のままで。

――友達のまま? それはなんか……卑怯じゃない?

でも、じゃあもう友達やめましょう、会うのもやめましょうって言うの? 二度と会わないの?

動悸と冷や汗で目眩がしてきたはしかし、すぐ近くで神の声が聞こえたので驚いて顔を上げた。どれだけ親しい友達でもこんな至近距離で話さないよ、というほど神は顔を寄せ、ゆったりと微笑んでいた。は思わず上半身を引いて離れた。

「そういえば、こういう話もしてなかったですね。さんて、どんな男がタイプなんですか?」

もう二度と会えなくても、神くんのためを思えば自分から言わなければいけないのに――