どうしてわたしなんかがいいの

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神を断ち切らねばと真剣に考えていただったが、直後に神が風邪を引き、「そのくらいのことでわざわざ実家に頼りたくないけど、ひとりで風邪は初めてでどうしたらいいかわからない」とヘルプを寄越したので見捨てるわけにもいかず、とうとうは神のアパートにまで行ってしまった。

体の大きな神には狭そうなワンルームのアパート、築年数が浅そうできれいな部屋だったが、居心地が悪いことこの上ない。は支援物資を届けたらさっさと帰ろうと思っていたのだが、激しく咳き込む神が背中が痛いと呻き声を上げたので、ついさすってやった。

帰り道、また自販機のボタンをグリグリやる。

一週間ほどして完治した神は今度はのマンションの下までやって来て、お世話になりました、と何やらお礼のお菓子を持ってきた。そして面と向かって来週ご飯行きませんかと言う。

顔を見てしまったら突き放せる自信がないからLINEで済ませよう、とは思っていたが、台無し。その上にこにこしながら「ご飯と一緒に映画も見に行きませんか」と言う。雑談の種にちょうどいいからって映画の話なんかするんじゃなかった。見たいものがあるなんて言わなきゃよかった。

しかも映画の帰りにはまた景色のいいところに誘導される始末。てかここどこよ。どうやってこういうとこ見つけてくんのよ。しかも平日だからか人がいないじゃん。

精神的な疲労が激しいので、はちょっと投げやりになっていた。私がこんな風にストレス感じる羽目になってるのはこの子のせいだよね……

さん? 具合悪いですか」
「いや、なんかカップルが来るところみたいだなと。神くんこういうとこ好きだよね」
さんはこういう夜景きれいなとことか苦手ですか?」
「いっ、いや苦手ってわけじゃないけど、なんていうか、デートみたいじゃん」
「あはは、ほんとですね」

ちくしょう、マジで動じないなこの子は……! ほんとですね、じゃないから!

……てか神くん最近ちょっと強引だよね?」

神のことは悪く思ったことがない。努力家で、真面目で、誠実。そして今まさに彼はの態度が変わっても動じずに落ち着いている、そういう胆力のあるところもすごいなと思ってきた。だがとうとうイラッと来たは言ってしまった。どうにも神のペースで翻弄されっぱなしだ。

しかし神はやっぱり動じない。海沿いの通り、並んで寄りかかっていた柵に頬杖をついている。

「そうかもしれません」
「で、でしょ。最初の頃は――
「ちょっと強引なくらいじゃないと、ダメかなと思ったので」
「えっ、はい? どういう――
さん、オレさんのこと好きなんですよね」

自分のペースを取り戻せないで狼狽えているに、まったく動じてない神は落ち着いた声でそう言った。は思考が止まり、浮かせていた手も固まり、息も出来ない。

「でもそれさん気付いてますよね。湘南で別れの挨拶をしたときから、知ってましたよね。オレ、あの時も今も、さんが好きなんです。だからちょっと強引にしてるんです」

全身が冷たくなっていたは無理矢理体を動かし、浮かせていた手を柵に突っ張った。

「バカなこと、言わないで」
さん酷い。オレが誰かを好きになることはバカなことなんですか」
「年、考えてよ、私、もうおばさん」
「そんな風に見えませんけど」
「見えなくても、そうなの。30なの。神くんは、学生」
「だから?」

ぐっと顔を寄せる神は真剣な、しかし少しだけ悲しそうな目をしていた。は柵に突っ張っている手に力を込める。こうでもしないと震えてきてしまう。どうにかしてこの場をおさめなければ。神くんにちゃんと言い聞かせなければ。

「年齢なんて関係ない、とか、思ってるんだろうけど、社会って、そういうものじゃ、ないの」
「社会? オレとさんの問題ですよね」
「だけど、私たちは、社会の中に生きてるの。そこには、モラルや――
「オレがあなたを愛してることはモラルに反するんですか?」
「んえっ、あ、愛!?」

ただでさえ余裕がないは神の淡々とした声に素っ頓狂な悲鳴を上げた。愛ってなんだっけ!?

さん、オレが嫌いですか?」
「そ、そういう問題じゃ」
「ですよねえ、ここ数ヶ月、楽しかったですよね」
「だからそれとは」
「こんな10も年下の男なんか男として見られない、ですか?」
「そっ、そうだね、やっぱり10年は大きいでしょ、いくら楽しくても――

は必死だった。なんとかしてこの子の真剣な眼差しを消してしまわなければ。なので神の誘導尋問にも気付かずにペラペラと喋っていた。すると神は素早くを抱き寄せて、また顔を近付けてきた。は思わず飛び上がる。

「ちょ、待って、やめ」
……10歳も年下の子供なんか、男だと思えない、ですか?」
「お願い、神くん、やめて」
「本当にそうなら、さんなんでこんなに狼狽えてるんですか」
「お願い、もう、やめて……

俯いてか細い声を上げるばかりのを解放した神はしかし、両手での右手をそっと包み込み、目線が近くなるようかがみ込んでいる。

さん、ずっと、湘南にいた頃から、大好きです。さんが何歳でも、オレはさんのこと世界で一番可愛い女性だって思ってるし、人間的にも素晴らしい人だと思ってるし、一緒にいて楽しいし、きっといいパートナーになれると思ってます。そう思いませんか」

返事の出来ないに神はさらに顔を近付ける。

「さっきさん『社会』って言いましたよね。オレはもう社会的には大人です。自分の意志と判断で責任を持って生きていく権利があります。まあ親の金で学生やってる身分ではありますけど、一緒にいて楽しい女性を好きになって、付き合いたいなと思うことは、非常識なことですか? 同年代の学生の女性に同じ感情を抱いても構わないのに、さんではダメな理由ってなんですか?」

そして神は殊更に声を潜め、低い声で付け加えた。

さん、本当にオレが対象外なら、そう言って下さい」

一体どれだけ黙ったまま震えていただろうか。は神に手を取られたまま恐怖と羞恥とでパニックになりかけていた。顔が痺れて上手く息が出来ない。本当は神を受け入れたいのか、それとも拒絶したいのかもよく分からなくなってきた。

そしてなぜか元彼のことを思い出した。

例の元彼と知り合ったのは、結婚式だった。にとっては仕事のいろはを仕込んでくれた先輩の、元彼にとっては学生時代の先輩の結婚式だった。最近では珍しい盛大で大規模な挙式披露宴だったのだが、その二次会の片隅で気楽な知り合いがいなくてポツンとしていた同士だった。

その時、元彼のことを「いいな」とは思わなかった。大人しそうな、真面目そうな人だなと思っただけで、魅力は感じなかった。だが、妙に気が合うというか、会話に躓くようなことがなくて、二次会がお開きになる頃、元彼の方が「よかったら今度食事に行きませんか」と誘ってきた。その時の彼の表情や声があからさまに緊張していたので、そこではじめて「可愛い人だな」と好感を持った。

なのではその誘いを受け、4回目のデートで付き合うことになった。22歳、高校時代の友達と集まると恋愛やセックスの話題が頻繁に出てくるようになっていたので、苦痛を感じていた頃のことだった。これで自分も人並になれる、と心底嬉しかったのを覚えている。

でも私、いつ元彼のこと好きになったんだろう。

元彼と付き合っていた3年間、のんびり屋さんの彼とはほとんど喧嘩をしなかった。穏やかでほのぼのとした付き合いだった。なのでこれはこのまま結婚するんだろうなと考えてしまったわけなのだが、彼のことを胸を焦がすほど想ったとか、激しい愛情を感じたとか、そんな記憶がないことに気付いた。

だから、どうしていいのかわからない。神の強い感情をどう扱えば正しいのか、知らない。

ていうか私、元彼に「好き」とか「愛してる」とか、言ってもらったこと、あったっけ?

ちょっと待って、私、元彼が私のどこが好きなのかとか、なんで付き合いたいと思ったのかとか、聞いた記憶がないんだけど。あいつ、なんで私と付き合ってたんだろう。3年の間にはキスもしたしセックスもしたけど、なんかそれよりも今告ってきてる神くんの方が情熱的な感じがする。どういうことよ。

いや、だから私もあいつのこと愛してなかったし、あいつも私のこと愛してなかった。そういうことだったのかな。私、3年間彼氏と過ごしたと思ってたけど、実は恋愛してなかったってこと?

それに比べたら、この神くんの真剣な目は、すごく「恋愛」な感じがするけど……

するけど問題はそこじゃないんだよ!

……対象外、だよ」
「ほんとに?」
「じゅ、10歳も年下なんて、無理、まだ学生で、収入もなくて」
「じゃあオレがさんみたいに高卒で働いてたらいいの?」
「えっ、いや、その」

神はスナイパーのようにの隙を突いてくる。伊達に正確無比なシューターとして活躍してない。

「だったらオレ大学辞めて働こうかな。それならいいんですよね」
「ちょ、そういうことじゃ、バカなこと言わないで」

は繋いだままの手を抜き取り、両手のひらを神に向けて押し出した。

「神くん、わかってない。成人同士なら何だって自由って思ってるかもしれないけど、私たちが生きてる社会は、君が思ってる以上に怖いところで、異質な人間を認めないし、仲間に入れないし、侮辱するし、攻撃してくるの。それは気にしなければいいとかいう問題でもなくて、その中で暮らしていくっていうことは、本当に実害を伴うものなの。しかも女の方が年上なんて、無理なの」

は大きく息を吸い込み、震える手のひらをさらに押し出した。

「年の差があるだけじゃない、世代がこれだけ違うということは、色んなところですれ違いを生んで、しなくてもいい喧嘩をする羽目になる。神くんは今、私のことが好きだと思い込んでるし、付き合っても3ヶ月くらいは楽しいのかもしれないけど、飽きる。いつか必ず飽きて別れたくなる。神くんはいいかもしれない。まだ20代が全部残ってる。20代全部使える。だから失敗しても大丈夫。でも私は違うの」

正論だと思った。完璧な正論。だが、神はまた手を取って包み込み、顔を寄せてきた。

さん、何が怖いの。何がそんなにさんを怖がらせてるの?」

はまた黙る。何かを怖がっている自覚がなかったからだ。

「そういう話、あんまりしてなかったけど、湘南にいる頃はあんなに楽しそうだったさんをそこまで怯えさせてるのは何? 社会とか実害とかジェネレーションギャップとか、さんはそれを言い訳にしてオレを諭そうとしてないですか? まだまだガキのオレの目を、覚まさせてやらなきゃっていう」

その通りなのでは返事の代わりにスンッと鼻を鳴らした。あれっ、これ伝わってるのか?

「だけどそんなどこかの誰かの受け売りみたいなもの、オレは納得できない。そりゃ、さんがオレとばっかり遊んでないで合コン行くとか、婚活するとか、そういうのやってるなら自然と諦められるけど、さん最近、仕事以外でオレと実家以外に何か予定ありました?」

改めて言葉にされると恐怖にも似た不安が胸を圧迫してくる。確かにここ数ヶ月は神とばかり遊んでいて、それ以外では実家や義父の店くらいしか行っていない。神との予定がない時は配信ドラマを見ながらのんびり過ごしていた。それが1番安らいだから。

「それとも、自然な出会いを待ってたりする? どこかで偶然運命の人と出会って恋に落ちて結婚、みたいな。それって時間かかりません?」

元彼との出会いはまさにこの「偶然自然」なものだった。たまたま行った結婚式でたまたま似た境遇の者同士、目が合った。ひと目見てすぐに「あ、この人も居心地悪いけど帰れないんだな」とわかった。私はそれを求めているんだろうか。は目の前にある神のぱっちりとした目を見つめながらも、認識がぼんやりしてきた。

合コンも婚活も正直気乗りがしなかった。意欲がない。結婚により家族を持つということには憧れや願望を持っているけれど、不意にそれを思い出すたび、そんな夢は諦めなければいけないと囁く声が聞こえてきた。湘南での生活を失ったとき、ポジティブな未来を夢見る心まで失っていたのかもしれない。

だからといって、神の言う「自然な出会い」なんてものが、都合よく転がってくるものだろうか。

私は何に怯え、何を求め、何を疑って、何に焦がれているんだろう。

よく分からなくなってしまったの手を神はまたギュッと握りしめる。

「だったら、それまでの繋ぎで付き合ってくれませんか。絶対後悔させないですよ」
…………なんでそんなに自信があるの」
「この数ヶ月、ふたりで過ごした時間ですよ」

の呆れ声にもまるで怯まない神はにっこりと目を細め、低い声で囁く。

「それにオレはもう、2年以上あなたのことが好きなんです。今さら諦めません」

そして包み込んでいた手を持ち上げ、指先に触れるだけのキスをした。その感触にはぐらりと視界が傾き、目眩に膝が折れる。柵に体をぶつけた彼女の体を神はそっと支える。

「ご、ごめん、ちょっと、膝が」
「そんなにショックでしたか、すみません」
「えっ、いやその、そういうわけじゃ、私がいい年してみっともないだけ」

柵にすがりついたの肩をそっと神の腕が抱く。潮の匂いが混ざる風はしかし、湘南のそれより不快な匂いがした。湘南の記憶と神の腕の暖かさがの視界を歪ませる。

……苦痛に年齢は関係ないですよ。子供の頃は、大人になったら転んでも痛くないのかと思ってたけど、全然痛いじゃないですか。我慢することを覚えてしまうだけで、痛みは同じだから」

そして神は返事もせずに真っ暗な海を見つめているを後ろからゆったりと抱き締め、彼女のこめかみにそっと唇を寄せた。

「恋も、同じじゃないですか。人を好きだと思う気持ちに、年齢は関係ない」

また目眩がしないように、は目を閉じた。

子供の頃、大人になり始めた頃、自分ではすっかり大人だと思っている今、そしてこれから先の未来、将来、真っ暗で先が見えないほんの1年も2年も。そのどこで痛みを感じても、恋に胸をときめかせても、本当に同じなんだろうか。それは同じ「もの」なんだろうか。