どうしてわたしなんかがいいの

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言ってみればそれは「宗一郎と付き合うという現実を受け入れる」という覚悟だったわけだが、初めての夜から約3ヶ月、は疲労に音を上げてビタミン剤を買ってきた。

ああだこうだ言い合いはしたけれど、以来宗一郎はしょっちゅうの部屋にやってきては泊まっていくようになった。そしてなかなか寝かせてくれない。

いやわかってたつもりだったけど……スポーツやってる学生……わかってたつもりだったんだけど……

宗一郎のことなのでが本当に不調であれば無理強いはしないし、基本が拒否の姿勢を見せれば納得してくれる。が、あんまり嬉しそうなので強く言えなくなってきてしまった。

どうやら宗一郎はが初めての相手だったようだが、避妊に関してはしっかり知識があり、経験者として指導してやらねばならないことはなかった。行為に関してもの意に沿うように努めてくれるし、が照れて涙目になってしまうほど愛の言葉を囁いてくる。

だからさ……そんなの、気持ちよくなっちゃうじゃん、こっちだって。

なかなか自分にしか見えない亡霊から逃げ切れないでいるだが、そういうわけでふたりは順調、というかだいぶ盛り上がっている。は何かというと自分の正直な気持ちを否定したがるけれど、疲れがたまるほど夜な夜な愛し合っている。

それに、今になって思い返してみると、元彼はかなり性的欲求が希薄な男性であったのかもしれない。は元彼がひとりしかおらず、かといって「今付き合ってる10歳年下の彼氏がサカっててさ~」などと気軽に話せる友人もおらず、つい比較してしまうのだが、そういう意味でも彼はに興味がなかったように思えてきた。てかなんで付き合ってたんだろあいつ……

だが、それが彼にとっての恋愛というかたちだったのかもしれない、と思った。宗一郎はまさにイチャイチャラブラブ、たっぷり時間をかけて愛し合い、終わったら一緒にシャワーを浴びて、ゆっくりと話してからぐっすりと眠る。元彼はごくたまに求めてきては必要なことだけやって終わり、すぐに寝てしまう。それがあいつにとっての彼女との関わり方だったのかもしれない。

疲れはするが、それと比べれば宗一郎との日々は幸せだと感じる余裕も出てきた。

ぎゅっと手を繋いで絡み合い、大好きとか愛してるとか言いながら、キスもたっぷり、宗一郎は何度もを可愛いと囁き、お互いの全身を余すところなく愛撫してはまた絡み合う。

しかもは宗一郎とのセックスで初めて絶頂を覚えた。そんな感覚が現実に起こるとは思っていなかったので、一瞬何が起こったのかわからなかった。というかそもそも元彼とのセックスを気持ちいいと感じたことがなかった。心の気持ちよさはあったけれど、しばらくは痛みの方が強かったし、正直楽しくはなかった。楽しむものだとも思っていなかった。

ここにいたり、は例の「本社で肩身狭い同盟」の江崎さんが酔うと言い出す「セックスは挿入が全てじゃない」という言葉に心から納得していた。あれはこういう意味だったんだな……

まあしかし、それはそれとして疲れる。20歳の大学生は体力と性欲と食欲を持て余しているかもしれないが、は特に体を鍛えてもいないし日常的に運動もしないし、宗一郎と付き合っていたって仕事は変わらずに疲れる。

どれだけ宗一郎との関係がいいものであったとしても、今の仕事についてる限り、私に幸せは来ないんじゃないだろうか。はまたいつもの癖でネガティブに考えていた。宗一郎には悪いが、を一番幸せにしてくれたのはあの湘南の一年である。

かと思えば宗一郎は至極真面目に将来を考えているようで、それも不安を加速させた。彼は色々とシミュレーションを繰り返しているとは言うけれど、それと実践が全く同じように運ぶとは限らないのだし、私が既婚子持ちになりたいがために結婚てのもどうなんだろう……

「わかってたつもりだったけど、改めてめんどくさいね
「だって結婚てそういうことじゃなくない?」
「理由なんて人それぞれだと思うけどなあ。金目当てってこともあるじゃん」

そういえば「本社で肩身狭い同盟」の森永さんは高収入が絶対条件だったな……は思い出す。自分より低い年収は論外、同レベルは相続できる親の資産によりけり認めないこともないが、とにかく収入が高ければ高いほど結婚相手として魅力を感じる、らしい。

だけど森永さん結婚してないしなあ。そういう相手がいても、たぶん収入以外の点で結局合格にならないんだろうし、相手も自分の収入目当ての森永さんと結婚したいと思うのかどうか。

宗一郎に腕枕をしてもらいながら、はそっとため息をつく。なんだか宗一郎とはろくに喧嘩もしない穏やかな日々が続いていて、あれだけ恐れていた「世間」は今のところ自分たちを攻撃してきそうにもない。宗一郎も無事に20歳になったし、平和な日々が逆に怖いような状況だった。

「でも別に結婚はがしたい時にすればいいよ。40でも50でも60でも」
「あんまりこだわってないわけね」
「オレはね。結婚しててもしてなくてもと一緒にいられれば別に」
「その前にお互いの親がねえ……
「うちは平気だと思うけど」
「えっ、話したの!?」
「いや細かいことは。彼女出来たってのは言ったけど、そこまで」
「じゃなんでわかるの」
「うちも母親の方が年上だし」
「は!?」

初耳だったはがばりと体を起こした。

「まあ6歳差だからオレたちよりは近いけど、でもオレが生まれる前の時代だからなあ」

そういえば……は自分の父親のことを思い出す。父親は子供の頃を海外で過ごした帰国子女だった。それだけで母は結婚を反対されたのである。祖父母は考え方や生活習慣が合わないのではと案じるがゆえの反対だったそうだが、なぜか親戚連中がわらわらと湧いて出て来て「ちゃんとした日本人と結婚しろ」と迫ってきたのだそうな。

結局祖父母の心配通り、生活面での「普通」が合わず、の両親は10年経たずに離婚した。するとまた親戚連中が方々から「せっかく忠告してやったのに、あんな外人みたいな男と結婚するから」と言ってくるので、に聞かせたくなかった祖父母と母は付き合いを絶った。

それを思うと、宗一郎の両親ももしかしたら茨の道を歩んできた可能性がある。確かにそれなら年上の彼女でも反対しないのかもしれないが、しかし10歳差だし結婚と付き合うのとはまた別だしせめて宗一郎が20代後半になるまで待てとか言い出したりする可能性はなきにしも

、ひとりで考え込むのやめなよ」
「無理。一寸先は闇」
「ちょっと、明るい未来が待ってるのに闇ってなに」
「闇だよ闇。見えないもん」
「それはが明かりを灯そうとしないだけだろ」
「またそれか」

だが一応、母親にだけは「年下の彼氏」が出来たことは報告してある。それについては特に反応はなく、彼氏との時間を優先したいだろうが、たまには祖父母のところに顔を出してやってくれと言うだけだった。言われるまでもなく、週末に宗一郎が部活の間は祖父母の家に帰っている。

そして最近では祖母に教わった料理を宗一郎に教えている。年が変わり寒風吹きすさぶ頃、風邪を引いたの面倒を見たがった宗一郎だったが、に「具合悪いんだから出来もしない料理食べさせるのやめて、おいしいの買ってきて」と言われたのが悔しかったらしく、練習中。

宗一郎って、そういう素直な人なんだけどなあ。これで同年代なら堂々と胸張っておじいちゃんとおばあちゃんに紹介出来るのになあ。宗一郎ならたぶん気に入ると思うんだよなあ。私が思ったみたいに、宗一郎ってどこから見ても「いい子」だから。

だが、と宗一郎が奇跡的に再会を果たしてから1年と2ヶ月、付き合い始めても9ヶ月の頃、の祖父が亡くなった。ほんの数日入院しただけで眠るように亡くなったきれいな最期だった。

「ネクタイ曲がってない?」
「大丈夫。そっか、制服以来久しぶりだもんね、ネクタイ」
「いつもジャージだったから、あんまり真面目に締めてなかったけどね」

6月の朝、宗一郎はのマンションで着慣れない喪服で鏡の前をウロウロしていた。身長が身長なもので、20歳になったお祝いに両親から喪服を贈られた宗一郎はしばらく不貞腐れていたが、早々に出番が来てしまった。というか、宗一郎も来ないかと言い出したのは、の母親だったそうだ。

「てかいいの、親戚めんどくさいんじゃなかった?」
「だから親しい人もいないし、母親が結婚する時の話だからみんな死んでるんじゃない?」
……悲しく、ないの」
「そりゃ悲しいよ。私、ごく近い身内が亡くなったの初めてだし」

同様に喪服のを宗一郎はそっと抱き寄せる。宗一郎は通夜告別式自体が初めてであり、人の死というものを目の当たりにしたのも初めて。は仕事で参列の経験はあるが、生きていた頃を知る人の死はほぼ初めてに等しかった。

連絡を受けて病院に駆けつけ、静かに眠る祖父の顔を見た時は一瞬で涙が溢れ、喉が詰まり、激しい苦痛に襲われた。けれど家族が死ぬというのは大変に忙しいもので、準備のために一旦自宅に帰って宗一郎と話し、優しく気遣ってくれる彼の腕の中で眠ったら悲しみが少し遠のいた気がした。

今日は宗一郎が運転する車で実家に戻り、だけ告別式の翌日まで実家で過ごす予定だ。社の規定では祖父母の忌引は2日だが、もう3日ばかり有給をねじ込んできた。人ひとり亡くなって2日で何もかもが片付くわけないじゃん。家のことを誰かに丸投げ出来る人が考えたとしか思えない規定だよなあ。

「そりゃ、また棺の中のおじいちゃんを見たら悲しくて泣きたくなると思うけど、うちのおじいちゃんとおばあちゃんて仲良くてね、夫婦っていうか、きょうだいみたいだったり、親友みたいだったり、たまに親子みたいな時もあって、パートナーっていうか、いいコンビだなって感じだったんだよね。私が知ってるここ20数年のふたりはすごく平穏に暮らしてた。だから……そういう晩年でよかったね、って言ってあげたい気がしてて。お疲れ様、今度はおばあちゃんを空から守ってねって、そう、思っ……

声が揺れた瞬間、宗一郎はをぎゅっと抱き締め、背中をゆっくりとさする。

「こんな言い方ごめん、宗一郎がいてくれてよかった。ひとりだったらもっと苦しかった」
「謝るなよ。それでが少しでも楽になるなら、オレも一緒にいられてよかったよ」
「こんなときだけごめん」
「いいから、泣きたい時は泣きなよ。家族が亡くなったのにそんなこと我慢しない」

祖父とは仲良しというほどではなかった。子供の頃から一緒に暮らしていたせいもあるが、祖父は半分祖父で半分父親だった。それなりに鬱陶しく感じたことはある。それに、どちらかと言えば祖母の方が気が合った。けれど喪失の苦痛は想像以上で、それだけに宗一郎という存在の得難さを痛感した。

そしてまた思う。この人は、どうしてわたしなんかがいいのだろう。

宗一郎はとふたりで彼女の実家に戻り、通夜に出席、その後借りていた車を返しがてら自宅に戻り、翌日の朝は電車で直接葬祭場に向かう予定になっていた。が言うように参列者は少ないようだし、の支えとなってほしくて母親に誘われたのだろう。

そういうわけで初めましての挨拶が喪服になってしまったわけだが、の母親と義父は年齢や「今何をしているのか」以前にその身長にポカンと口を開けていた。さらに得てして体の大きな男性というのは幼く見えないものでもあり、ふたりは宗一郎が学生かもしれないなんていうことは思いつきもしなかったようだ。

むしろ人手がないからよかったら手助けしてもらえないか、と手を合わせてきた。宗一郎がちらりと周囲を見回すと、親類と思しき参列者もみんな高齢。は何かというと自分を年寄り扱いしたがるが、こんな中にいてはてんで若者だ。

そういうわけで宗一郎は通夜には参列せず、斎場のスタッフと家の間を往復するサポートに徹していた。稀に「君はどこの子だったっけ?」と聞かれることもあったけれど、「さんの……」と言えば全員が「ちゃんもそんな年になったんだね。子供はまだなの?」と夫と勘違いしてきた。

そりゃあわざわざ口に出して「まだ大学生だけど三十路のさんの恋人です」と言えば、どんな反応が返ってくるかわかったものじゃない。けれどそのほとんどが高齢の参列者たちも宗一郎を学生と疑いもせず、勝手に夫と認識し、そして残されたおばあちゃんをよろしくねと頭を下げてきた。

だが、の祖母だけはそうもいかなかった。彼女はの母親よりも母親の役割を担ってきた人であり、連れ合いを亡くしたばかりという状況も手伝って、法要が終わったあとに疲れた彼女を通夜振る舞いの席まで支えて歩いていた宗一郎は「もしかして、ずいぶんお若いんじゃないの」と聞かれた。

……はい、さんより、かなり年下です」
……学生さん?」

通夜振る舞いの部屋は小さく、高齢者ばかりの参列者はそのほとんどが焼香のみで帰宅してしまったので、静かだった。宗一郎は返事をせず、黙って頷いた。の祖母もゆっくりと頷く。

「今日はありがとうございました。ご覧の通り、人手がないので助かりました」
「いいえ。お役に立ててよかったです」
……あなたみたいな方なら、同世代のお嬢さんのお友達がたくさんいるでしょう?」

宗一郎はまた頷き、パイプ椅子にぐったりともたれかかる彼女の傍らに跪いた。

「同じことを、さんにも散々言われました」
「こんな言い方はなんだけど、あの子はもう30ですよ」
……僕では、ご不満がありますか?」

こんな時に取り繕っても仕方がない。宗一郎は正直にそう尋ねた。

「私はこの通り古い人間だから、にもそろそろ身を固めてほしいと思ってます。本人も以前お付き合いしていた人とは結婚するつもりでいたらしいし、願望はあると思う。あなたとお付き合いしている時間が、それを邪魔することになるなら、身を引いて頂きたいの」

夫を亡くして落ち込んでいる時だというのに、のおばあちゃんは強い人だな。宗一郎はつい感心し、また、正直に気持ちをぶつけてくれたことを嬉しく思った。自分との関係は社交辞令を挟めば丸く収まるものではない。

「僕は、結婚も考えています」
「でもまだ学生さんなんでしょう?」
「それもあと1年半ほどです。卒業して収入を得られるようになれば、すぐにでも、と思ってます」
はそれを了承してるの?」
「いいえ。反対や世間体を恐れています」

の祖母は顔をそらして細くため息をつき、手にしていたハンカチで口元を拭った。

があなたとの結婚を望まないなら、それには従って下さい」
「そのつもりです」
「でももし、が頷いたら、あなたはとその子供を命がけで守れますか」
「お約束します」

祖母の目は当然冷たく、目の前で跪いている学生のことをこれっぽっちも信用していない。宗一郎は床についた膝に両手を置き、背筋を伸ばした。もしかしてこれはの祖父に言わなければならないことだったのかもしれない。そしてまた、今しか伝えられないことかもしれない。

「ついこの間まで子供だった学生の気の迷いだと思われるでしょうが、僕にとってさんは、一番苦しかった時に心から(いたわ)ってくださった人です。今でもその時にさんにかけて頂いた言葉を支えにして生きています。その感謝を忘れたことはありません」

遠い夏の日にの言葉は宗一郎の心を救った。その記憶がある限り、を敬愛し続けるだろうと思った。彼女が何歳でもそんなことはどうでもいい。ただという魂のそばにいたかったから。

には詳しく話してはいないが、中学と高校、合わせて3人の女の子と付き合った。彼女たちとは仲良しだったし、付き合っている間は楽しかったけれど、腹の底から突き上げるような恋慕の情を感じたのはだけだ。それと比べると、3人の彼女たちのことは、結局最後まで好きになれなかったのではと思えてくる。実際、最初の彼女とはキスもしなかった。何度か手を繋いだだけで終わった。

最近、自分のことは感情的にミニマリストなのではと思い始めていた。

あれもこれも、両手に持ちきれないほどの雑多なものを抱え込むより、全身を焦がすような愛情を傾けられるものがあればいい。それはバスケットやや、それらと過ごす日々であり、もはやそういうものたちを失う方が怖かった。

「だからお約束します。の幸せな日々のために全力を尽くします」
……いつかもこんな年寄りになるのよ」
「それは僕も同じです。それには可愛いおばあちゃんになりますよ」

やっとの祖母は少し表情を緩め、少し屈んで声を潜めた。

「そりゃそうでしょう、私の孫だもの」

そう言って彼女はウィンクをした。その頬は笑うに似ている気がした。

翌日、告別式を終えたの祖父は少ない親族に見送られて荼毘に付された。式次第から出棺、お骨上げまでを初めて目の当たりにした宗一郎はに寄り添いつつ、改めて思った。

は自分の心の全てだ。あの夏の日にボロボロに傷付いていた心はに癒やされ、温められ、命を取り戻した。その時から宗一郎の心は全てに預けてある。ずっとそこに置いておいてほしいと思った。こんな風にいつか、骨になるまで。