どうしてわたしなんかがいいの

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春、出会いと別れの季節、本社と中野以外だったらどこでもいいからまた異動にならないかなと思っていただったが、あえなく本社残留。ただし聞こえるように陰口を叩いてくる数名が中野と新営業所に飛ばされたので、昨年よりは労働環境が良くなっていた。

依然の勤める株式会社オムニアは成長を続けており、神奈川だけでなく、最近では千葉埼玉への進出にも力を入れている。なので優秀であることを示すと安定した本社から忙しい営業所に飛ばされるという状況になっていて、はひとりほくそ笑んでいた。ざまあ。

この頃になるとようやく普通に話の出来る同僚が見つかり、それはほんの数人で部署違いの人もいたけれど、は昨年の秋頃よりは平穏な日々を送っていた。

かといってすっかり気が楽になったかと言えばそんなこともなく、せめて酒に溺れていないのが救いという程度の生活が続いていた。本社勤務になってから少々収入が増えたのだが、そのせいで湘南時代に興味があった分野の専門書や入門キットを買うだけ買っては手も付けずに放置、相変わらず帰宅後は配信でドラマを見て、祖母や義父の料理を食べて寝るだけの毎日を送っている。

無気力が過ぎて湘南を思い出すことも少なくなり、むしろあの日々を思い出してしまうと過去の自分に嫉妬してしまうので、考えないようにしていた。あれは幻覚。全て幻。あの営業所、倉庫に置いてある洗剤類が混ざって幻覚作用のあるガスかなんかが発生していたに違いない。

4月のある日、は中途半端にぬるい気温の曇り空の下、駅のカフェでコーヒーを飲んでいた。湘南時代後期はハーブティーや中国茶に宗旨変えしていたが、東京に戻ってすっかりコーヒーとよりを戻した。カフェインがないと生きていけない。

土曜の午前中、普段通勤客でごった返している乗換駅のカフェは空席も目立つ。年明け頃に母親の再婚相手が早期退職をし、何を思ったか古民家を改装してペットサロンとカフェとデリがひとつになった店をオープンしたので、週末になるとはその店や実家で過ごすことが多くなった。今日ものんびり顔を出して、ペットサロンやデリを手伝い、バイト代の代わりに惣菜をもらって帰る。

去年は気持ちが落ち込むあまり週末はぐったりと寝て過ごしてばかりだったのだが、やっと週末でも朝起きて夜眠れるようになってきた。なので明日は午前中に掃除や洗濯を済ませ、その後で今度は祖父母の待つ実家へ行く。このところ母親が毎日のようにデリの商品を届けているので、祖母はめっきり料理をしなくなったが、が来る時だけは慣れた味の食事を振る舞ってくれる。最近はその「実家の味」を覚えようと祖母にへばりついている。

幸いなことに祖父母は元気で、深刻な病や大きな怪我もせずにきたが、それでも揃って80代、それに改めて気付いたは祖母の素朴なおかずの習得に執心している。かといって「おばあちゃんが死ぬ前に覚えたい」なんていう素振りも見せたくはないので、最近和食が口に合うのだと言い訳している。

その繰り返しの中で、はぼんやりと「母が死ぬまでこれを一生続けていくのかもしれないな」と思うようになっていた。ひとりで暮らしながら働き、週末は家族を手伝い、日曜の夜にはまた自分の部屋に帰る。だけど結婚や子供は望めそうにないから、私は孤独死。我が家は断絶。

断絶って武家じゃあるまいし、と自虐に口元を歪めたは、すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干し、カフェを出た。別に義父の店を手伝うのが楽しいわけではないのだが、妙に繁盛しているので気が紛れる。ペットサロンで預かっている子たちと接すれば少し癒やされる。

そうやって魂を繋ぎ止めながら、少しずつ命を削り取りながら生きていくんだろうなあ……。ぼんやりとそんなことを考えながら改札に向かっていたの背中に聞き覚えのある声が聞こえてきたのはその時だった。

さん!」

金曜の夜に友人の家に泊まった神はしかし、友人がしきりと酒を勧めてくるので寝て誤魔化し、深酒に夜更かしで爆睡している友人を置いてさっさと逃げてきた。成人だろうが未成年だろうが、強い酒を飲んで酔っ払うのがかっこいいと思っているようなのは苦手だった。臭いし。

今日の練習は午後からだが、友人の家が汚かったので一旦自宅に戻ってシャワーを浴びてから出直したかった。なので神は自宅から少し離れた駅を早足で歩いていた。

が、通りすがりにカフェの中にを見つけた時の驚きと言ったら、その場でくらりと目眩を起こし、駅舎の壁に手をついてよろけるほどだった。

もう二度と会えないと思っていた、今でも湘南のあの営業所にいるのだとばかり思っていたが目の前に現れたので、思わず泣きそうになった。彼女はカフェを出るところだったようで、飲み終えたコーヒーのカップやペーパーナプキンを丁寧に分別して捨てていた。

そしてカフェから出てきた彼女を追いかけ、その背中に声をかけた。

「嘘でしょ……神くん……?」
「はい、お久しぶりです。こんなところで会えるなんて、お元気でしたか」

再会に感激していた神は少々上ずった声でそう言い、呆然と自分を見上げているに抱きつかんばかりの勢いで頭を下げた。は一年前よりちょっと地味になっただろうか、しかし相変わらず可愛らしくて、神はまた心臓がドキドキしてきた。薄化粧で何も塗ってない爪のさんもなんだか妙に色っぽい。というか湘南で会っていた頃より大人っぽくて、色気が増した気がする。

――とまあ再会するなりそんなことを考えていた神だったのだが、その目の前ではウッと喉を詰まらせると、両手で口元を押さえて泣き出してしまった。

「え!? ちょ、さん、どうしたんですか、大丈夫ですか」
「ご、ごめ……ごめなさ……

慌てた神はの肩を抱き寄せ、そのまま人目につかない柱の陰に彼女を押し込んだ。は苦しそうに眉を寄せながら涙をこぼしていて、震える手で斜めがけにしたバッグからミニタオルを取り出して顔に押し当てた。手だけでなく、肩も震えている。

さん、あの、急に声かけてごめんなさい、何かあったんですか」
「違、違うの、ごめんなさい、待って」
「はい、大丈夫ですよ、落ち着くまでここにいますから」
「ごめんね……!」

神はを安心させようと声をかけていたのだが、そうするとは余計に泣く。正直それをどうしたらいいのかわからなくて、彼はついの背中を撫でた。またが嗚咽を漏らす。なので今度は肩や頭を撫でた。

そんなことを数分はやっていただろうか。はその間静かに泣き続け、そしてようやく顔を上げた。涙で目と鼻と頬が真っ赤だ。手もまだ少し震えている。

「ほんとにごめんなさい、いきなり泣いたりして」
「気にしないで下さい。もう平気ですか。水、買ってきましょうか」
「神くん、相変わらずだね」

顔は笑っているが、の目からまたツーッと涙が溢れる。

さん、お時間ありますか」
「え、うん」
「ちょっと外、出ましょう。どこに行くんでも座って落ち着いてからの方がいいです」

神に背中を押されたは黙ってヨロヨロと歩き出し、駅前広場の片隅にあるベンチにどさりと崩れ落ちた。神は自販機で水を買ってくるとに差し出し、向き合うようにして隣に腰掛けた。

「少しずつでいいので、水分補給してください。楽になるまで立ち上がっちゃダメですよ」

黙って頷くは神に言われた通りに水をゆっくり口に含み、痙攣している胸に逆らわないように少しずつ飲み込む。その間も思い出したように涙がこぼれ落ちる。それを見ていた神はの膝に置いてあったミニタオルを取り、しずくが溢れるたびにそっと当てがった。

「神くん、元気だった?」
「はい。バスケ頑張ってます」
「まだ毎朝走ってるの」
「はい。毎朝じゃないけど、時間がある時は走ってます」
「実家、帰ってる?」
「はい。たまにですけど、海が見たくなるので」

は一言言うたびに涙を流し、神が答えては流し、そして水を飲み、そうやって結局15分ほど泣き続けた。ミニタオルはすっかり濡れてしまい、神はリュックの中から取り出したポケットティッシュでまたの涙を拭き取った。

ようやく涙が止まったは深呼吸をすると、体をふたつに折り曲げて謝る。そして礼を言う。

「本当にごめんなさい。それから、ありがとう」
「いいんですよ、気にしないで下さい。さん、すごく疲れてたんじゃないですか」

は改めて目の前にいる神を見上げて感嘆のため息をついた。きっかり1年ぶりの再会のはずだが、神はすっかり少年っぽさが薄れ、少しだけ頬の肉が落ち、逆に肩や胸は以前よりしっかりして、大人の男性然としていた。たった1年でこんなに変わるものなのね……

なので以前より「相手は子供」という意識がなくなってしまったは、ひょいと頷いた。

「最後に神くんと会った何日か後に辞令が出て、私もあの春を最後に引っ越したの」
「東京に戻ったんですか?」
「そう。今は本社勤務。会社のはじっこの部署だけど、主任になっちゃって」
「すごいじゃないですか。移動になってすぐ肩書があるなんて」
「でも本当に誰でも出来るような仕事なの。一緒に働いてる人も部下って感じじゃないし」

すっかり大人っぽくなったとはいえ、神があの頃と変わらない淡々とした声と真顔なので、はやっと少し頬が緩んだ。主任と言っても本当に名ばかりだ。デスクを並べる同僚たちは勤続年数で言えば後輩だが、全員大卒で営業所経験のない本社族だ。それも居心地が悪くてストレスの原因だった。なのでそれを正直に話す。チームで自分だけが部外者な感じ。

「それに、神くんと毎朝会ってた頃、あの頃は毎日が穏やかで優しくて、なんのストレスもなかった。充実してるってほどでもなかったけど、今みたいに心が死にそうになることなんか一度もなくて、なんだろう、ホームシックみたいになってた。別にあの町は私の故郷じゃないんだけど」

そんな幸せな日々の象徴が神だった。それが心が死んでいくばかりの日々に突然現れたので、の理性は一瞬でコントロールを失い、機能しなくなっていた感情が暴れだしてストレスを押し流さんと涙を放出した……そんな感じだった。

「だからほんとごめん、こんな奇跡みたいな再会なのに泣いたりして」
「いいえ、吐き出してくれてよかったです。溜め込むの、よくないですよ」
「神くんはどう、学生生活。もう慣れた?」
「あー、まあ、そうですね、なんとかやってます」
「そんなに順調でもなかった?」

ほど溜め込んでいたわけではなかったけれど、神も正直に頷いた。前途洋々のはずの学生生活は思わぬところに落とし穴がぽっかりと口を開けていることが多くて、煩わしさを感じる時がある。高校時代の方が毎日はシンプルで無駄がなかった。今は無駄ばかりのような気がする。

「実は、親との付き合い方が難しくなってきちゃって」
「まさか」
「今まで両親に頼りっきりで生きてきたのが裏目に出ました。ちょっと過干渉というか、しつこくて」

あるいは神が「いい子」そのものだったせいか、急に息子の24時間を把握出来なくなった両親は心配するあまり電話をかけてくる回数が増え、それに付き合っていられない神が無視せざるをえないこともあり、そうするとまさか何かあったのでは、もしや親に言えないことをしているのでは、と余計に思い詰めるようになった。

「子離れ失敗したって感じですね。もう1年経つけど、まだ慣れないみたいです」
「神くんが悪いことするわけないのにね」
「自分ではそうしたいんですけど、それもちょっと」
「学生が羽目を外すってもう古い話かと思ってたんだけど……
「彼女いないので断れないことも多くて。今も友達の家から逃げてきたところです」

基本無表情の神が恥ずかしそうに笑ったので、もやっと気が緩んで笑った。

「私から見ると神くんて『すごい人』なんだけど、そういうのって誰でも同じだね」
「すごくなんかないですよ。みんなの『当たり前』に倣う気になれなくて」
「それは神くんの周囲の方がだらしないだけだよ。それでこそ学生って思ってるのかもしれないけど」

神は照れ笑いながら、そういえば、と腕を組む。自分とさんには特に共通点はないと思っていたけれど、こんな風にちょっと日常に対して潔癖なところがあるかもしれない。さんも毎日営業所の前を掃除していたし、神も友人の汚部屋がしんどくなってきている。

人はそれを真面目すぎるとか固いとか言いたがるけど、それを他人に押し付けて強要しているわけではないのだから勝手だろ、と思う。何でも自分を基準にして他者を異常扱いするのやめろ。

……と思考が飛躍したところで神は我に返った。そういえばオレ、この人のことめちゃくちゃ好きだった。1年ぶりの再会だけど、なんかそれ全然なくなってない。ハグしたいし、キスしたいし、それ以上のことだってしたい。てかさっきさんが言ってたよな。

これ、奇跡の再会じゃないか。運命!

さんはどこか行くところだったんですか?」
「大した用じゃないんだけど、最近週末は実家に顔出したりすることが多くて」

実家で病みついているご家族がいたりしたらどうしようか……と考えていた神だが、そういうことではなさそうだ。心身ともに疲れているので週末になると家族のところに避難している、という感じだろうか。いける。神は妙な確信を得て携帯を取り出した。

たかが1年前なのだが、高校生の時はに対する何もかもに勇気がいった。こんなガキは相手にしてもらえない、特別な関係になんてなれるわけがない。だというのに、今は何の怖さも感じなかった。もう自分たちは「大人同士」なのだから、自分で決めていいのだ。

少し息を吸い込む。2秒考える。やっぱり今でもさんが好きだ。それは変わらない。

さん、空いてる日があったら、湘南の海を見に行きませんか」

言いながら神はそっと携帯を差し出す。だから連絡先交換しませんか、というジェスチャーだ。

「実家が嫌なわけじゃないんですけど、そういうのとは関係なく慣れた町とか海を見たくなることがあるんです。さんもあれ以来戻ってないなら、久しぶりに行ってみませんか」

の中に神を「すごく年の離れた子供」という意識が強く残っていたら拒絶されてしまう可能性は充分あった。けれど神はこの奇跡の再会に賭けた。

素敵な女性がひとり、穏やかな日々から切り離されて心を痛め、たかが1年、毎朝挨拶をしていただけの通りすがりの高校生だった自分を見るなり号泣してしまうくらいに傷付いていたことは、正直許し難かった。結果神の知る限りは3年間恋人がなく、孤独な日々を生きていたらしい。

だったらオレがさんを愛せばいいと思う。オレはあなたのことが大好きだし、1年前に振られたと思った日の夜は普通に枕に顔を押し付けて泣いたし。

そしてオレは海南大附属バスケ部の元主将。勝ちは掴み取りに行くもの、挑戦からは逃げない。

がどう受け取るかはわからなかったけれど、神にとってこれはデートの申し込みだった。そう言わないだけ。ここで一歩踏み込まなかったら、会えてよかった元気でね、で終わってしまう。少し強引なくらいじゃないと何も進まない。

あの日諦めた恋はまだ終わっていなかった。終わったと思っていたけれど、自分の心の中には細く息をしながら生き永らえていたし、こうしてチャンスは巡ってきた。手を伸ばさない方がバカだ。

するとは難しそうな表情をして、しかしバッグの中に手を差し入れた。連絡先はいけるか。

「湘南の海は少し、怖い気がする。ここから帰りたくないって思っちゃいそうで。だけど……
……だけど?」
「だけどいいのかな、海は見に行きたい。潮風に吹かれたい」

バッグの中から取り出された手帳型のスマホケースに神は内心快哉を叫んだ。はまだ迷っているのかもしれないけれど、これは例えるなら友達同士でちょっと気晴らしに出かけるような、そんな誘いだと思ってもらって構わない。オレだっていきなり襲いかかるようなつもりはない。

神は少し上半身を屈めてに顔を寄せる。

「じゃあ、連絡先交換しましょうか。湘南じゃなくても、海はいいですよね」

嬉しくて嬉しくて、今にもニヤニヤと頬を緩めてしまいそうだったけれど、神は頷くの後れ毛にまた静かに息を吸い込み、腹に力を入れる。

「オレも東京に来て1年経つんですけど、ほとんど出歩いてないんですよね」
「そんな時間もなかったんじゃないの」
「それはまあ、付き合いとかもあったので。なんか面白いとことかあったら教えてください」
「えっ、ええと、そうだなあ、神くんて何が好きなの」

さん、と言いかけた神は慌てて咳払いをし、肩をすくめた。

「結局バスケってなっちゃうんですよね」
「神くんてものすごい努力家だと思ってたけど、実はバスケバカ?」
「そうですよ、知らなかったんですか?」
「知ってたかもしれない」

4月の生ぬるい曇り空の下、ふたりは笑い合った。

まるでもうずっとそんな風に友人だったかのように。