どうしてわたしなんかがいいの

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冷静になって考えたけど、やっぱり君とはお付き合い出来ません。私には私の人生があるし、そこに10代の男の子と恋愛をするという選択肢はなかった。この先もう二度と男性に縁がなかったとしても、それが私の選択です。今まで本当にありがとう。バスケット頑張ってね。

はその下書きを日に何度も読み返してはため息をついていた。神に告白を受けた翌朝にスラスラと一気に書いたものなのだが、送信出来ないまま4日も過ぎてしまった。

今日も一日送信出来なかったと後悔しては自販機のボタンをグリグリやり、自宅に戻ってからは送信する勇気が出ないことと向き合えなくて充電ケーブルを挿したまま触りもしなかった。

一体自分にとって何が最適解なのかもよくわからなくなっていた。神をきっぱり拒絶出来れば満足なのか、世間が明日からエイジフリー社会になればいいのか、それはどちらも違う気がした。強いて言えば自分が神と同年代まで若返る、あるいは神が自分と同年代まで一気に年を取る、くらいだろうか。そんなことが現実に起こるのなら彼の申し出を受け入れてもいいんじゃないか。その程度でしか納得出来ない気がした。そんな夢みたいなことが起こらない限り、これは無理だ。

けれど、神の言うようにこの数ヶ月のふたりの時間は楽しかった。それを捨てる勇気が出ない。

そして、神の言葉には妙な説得力があって、未だに上手い返し方が見つからなかった。送信できないままとうとう1週間、神からは食事の誘いが来ている。は床に這いつくばって呻いた。

神くんの「告白」には隙がなかった。何を言っても逃げ道を塞がれる。一言一句記憶しているわけではないけれど、神くんの言い分は彼の意思としては破綻もなく、やけにスラスラと出てきた。あれはおそらく、この2年半の間にあの子が悩んだ結果なんだろう。

あの子は私がぼんやりしていたこの2年半の間に、年齢差のある恋というものについて考え抜いている。途轍もなく長い時間をかけて悩み、少なくとも彼の中では矛盾しない結論に達していて、今いきなり戸惑い始めた私には抵抗する手段が乏しい。

それにあの子は頭がよく、人並み外れた胆力もあって、しかも、努力の末に自分の望んだ結末を手に入れるというプロセスに慣れてる。目的を果たすためのプロセスの組み立て方、モチベーションを維持するメンタル作り、そういうことを私なんかより熟知している。

社会のモラルなんてものは時間とともにどんどん変わっていき、変われない人だけが取り残されていくのが常だ。そんな中でがさも常識人ですという顔をして「年が離れすぎている」とふんぞり返ったところで、恋愛に年齢なんて関係ないのが当たり前かもしれない神の世代には、遠い時代の現実味のない倫理観になってしまうのかもしれない。

そんなところにも「年の差」は影を落とすわけだが、神はそれをまるで気にしていないし、自分の気持ちを決めきれないのはだけ。今すぐ送信ボタンを押せば2秒でこのモヤモヤを終わらせることが出来るし、明日からは三十路に突入した彼氏なし女として生きていける。

だってそれが相応しいでしょう。20代を3年もバカ男に浪費し、湘南では快適ライフ中毒を起こし、気付いたら30歳、何かといえば枕詞のように自分のことを「ババア」と言わねばならないし、29歳以下の人々を羨まねばならないし、雑談では体が衰えた話をしなければならない、そういう存在になってしまったのだから。

それが10代の男の子に「愛してる」って言われるって、おかしいでしょ!

そもそも19の男の子が愛って何なのかわかるわけ? いや、私もよくわかんないけど。19の男の子ってもっとチャラチャラしてて、特定の彼女よりいつでもヤれる女が何人もいた方がいいんじゃないの? いや神くんはそもそもそういうの苦手なんだろうけど。

――ってダメじゃんそれじゃ! なんで自分でも逃げ道塞いでんだ!

大きく息を吐きながら寝返りをうち、天井を見上げる。全身の皮膚、肌がイライラしている。傍らの携帯が鳴り、ちらりと目をやれば神が食事の誘いの返事の催促をしている。

まあね、確かに楽しかったからね、ふたりでご飯食べて色んなこと話すの。神くんそれよくわかってるから、遠慮しないんだよな。私が暇なのも知ってるし、あの子はなんだか学校とプライベートのオンオフが上手で、友達の話もしてくれるけど、付き合いの深さは浅めにコントロールしてるみたいだし、私がどれだけ「神くん血迷ってる」と思っても、実際の神くんはものすごく冷静に私を口説いている。

そんなとき、よく「のぼせあがってる」なんていう表現を使うけれど、神くんはまったくのぼせていなくて、そんな状態になってるのはむしろ私の方。神くんの攻撃に晒されると焦ってしまって頭がパニックになって、何も考えられなくなっちゃう。

通知を確認する。神は以前から自宅の近くにある古い洋食レストランに行ってみたいと言っていた。その誘いらしい。ついは「神くんそのまま自宅に連れ込もうとか考えてないよな」と思ってしまっては、また寝返りをうってため息をつく。

神くんがそんなことしない人だって、知ってるのに。そういうの嫌いだって、知ってるのに。

送信出来ない下書き、誘いに応じて出かけても神は調子に乗ったりはしないだろう。が戸惑い迷っていることをよくわかっているので、さあ何度でも試してみて下さいとでも言うだろう。もそれがわかるので、苦しい胸を上下させたまま、そっと通知をタップした。

「来てくれると思ってました」
「どういう意味で?」
「オレが勝ち誇った顔で『本当はオレのこと好きなくせに』とか言わないって、知ってるから」

は遠慮なくため息をついて、面白くなさそうな顔を隠しもしないまま歩き出す。東京の片隅の長閑な街は駅から細い道が続いていて、古びた店が軒を連ねている。安価なアパートは多いし都心へは乗り換えなく行かれるしで、学生や独身の会社員なんかが多く住んでいる町という雰囲気だ。

さん、手繋いでいい?」
「君はさ、そういうの同年代の女の子にもやってきたの?」
「自分からやったことはないかな。やられる方なら」
「腹立つな」
「特に高1の冬辺りから目立つようになりましたからね、そりゃモテます」
「だから女の子なんてよりどりみどりなんじゃないの、普通」
「オレは好きになった人と恋愛したいんです。取り巻きに構う時間があったら練習したいし」
……まあ、そう、だろうね」
さんオレのことよく知ってるくせに、往生際悪いですよ」

そして返事をしないの手を勝手に取り、恋人繋ぎにした上に引き寄せて歩く。どこからどう見ても彼女の方がちょっと不機嫌などこにでもいるようなカップルでしかない。

「ああそうだ、だけど、オレも収入がないからってさんに多く出してもらうのは違うと思うんです。そこはちゃんとけじめつけないと。だから今後はちょっと安い店でお願いしますね。付き合ってても付き合ってなくても、そういうところはフェアにいきましょう」

けじめつけないとと言いながら、神は繋いだ手をもっと引き寄せ、屈んで顔まで寄せてきた。思わず体を引いて逃げたは繋いでいない方の手で神の頬を押し返した。

「どこがフェア」
「フェアだと思いますよ。さんがグダグダ悩んでてもオレは待ってる」
「待っ……てなくない?」
「だから言ってるでしょ、そんなに嫌ならさっさとそう言って下さい」
「そっ、そう、だけど」

そしてこの日もきっぱりと決別出来るわけがなく、その上わざわざ自宅前まで送ってきてくれた神は去り際にぎゅっと抱きついてから去っていった。誰かに抱擁されるなど実に5年ぶり、は全身鳥肌。それはたくさんの感情を持て余した、このモヤモヤした状況への拒絶反応という気もした。

そんなはっきりしない日々が何日も続き、その間にも神とは主に平日の夜に食事という理由で会っていた。告白以来神は景色の良いところにを誘い込むことをやめたが、その代わり許可も取らないスキンシップが増えていた。もちろんはその度にかわしたり止めるように言うのだが、その場では止めても時間が経てばまた繰り返す。

さん、オレは待てますけど、さんは時間だけが過ぎていくの、困るんじゃないですか?」

神と再会してから5ヶ月が経とうとしていた。神の言うようにはその間、プライベートな時間の殆どを家族と神と過ごしてきた。何なら一時期は家族よりも神の方が多かったかもしれない。

神は相変わらずの余裕で、普段通り待ち合わせをしても全く変わらない顔をしてやって来る。聞けばバスケットの方も順調で、やはり国の精鋭になるほどではないにせよ、チームの中では替えのきかない存在になってきているとのこと。ご両親との距離感や付き合い方もやっと落ち着き、忙しいけれど充実した学生生活というものを満喫しているようだ。

正直なところ、そんな神の「学生生活」にはちょっとした嫉妬があった。18歳、高校3年生のときは確かにもう学習意欲をなくしていた。勉強は実生活でなんの役にも立たなかったし、実際就職してからも学校で学んだことが役立った試しはなかった。けれど、「学生」という身分にだけは憧れがあった。

にとって神は、30女を追いかけ回していることを除けば「リア充」で、そんな身分で二十歳前後を過ごしてみたかったという羨望があった。つまり、が神を受け入れられないのには、自分だったらこんな不毛な恋なんかせずに学生生活を謳歌するのに、という憤りに似た感情があったのかもしれない。せっかくリア充なのに、人生にたった4年しかない貴重な現役大学生の時間を30女に使うなんてバカじゃないの。

「まあ、さんというフィルターを通して見ればそうなるのかもしれないですけど」

年下の男の子と思って気遣う気持ちを失くしたは、回転寿司のテーブル席でたっぷりオブラートに包んで思っていることを言ってみたのだが、神は目を泳がせることもなく肩をすくめてみせただけだった。安いところでお願いしますと言っていたくせに、皿が20枚以上積み上がっている。

「ていうかさんは例の『夜遊び』に後悔があるからそんなこと思うんでしょ」
「えっ、どういう……
「高校生の時の夜遊びがうまくいってたら学生生活なんか羨んだりしないと思いますよ」

はしばらくぶりにスンと鼻を鳴らした。どういう意味だそれ。

さんが派手な服で夜遊びして、そこで理想の男と大恋愛でもして、友達とも素晴らしい思い出しかなくて、そういうことやりきってから社会人になってたら、黒歴史じゃなくて自信になってたと思いますよ。期待したような恋愛や思い出もないまま過ぎてしまった時間に、ずっと嫉妬してるだけ」

その言葉をじっくり反芻したは、ついモヤモヤしていることも忘れて首を傾げた。

「神くんて……心理学部とかなんだっけ?」
「あはは、違いますよ。バスケと同じだからです」
「同じ?」
「練習はいつも変わらずにやってるのに、勝てば自信になるし負ければ後悔ばかりがつきまとう」

いつでも作り物じみた笑顔の神もしばらくぶりに少し影のある表情で口元を歪めた。

「まったく同じ練習をしていても、試合に勝てば良い努力をしたと思えて自分が誇らしく感じたりもします。だけど負ければ自分は一体何をやっていたのかと腹立たしく感じることもある。原因と結果は必ずしもリンクしないし、結果次第で原因は良くも悪くも思える。それは嫌というほど経験があります」

それは自分が抱いている嫉妬心とは別物なのでは、と思えて仕方ないは、また首を傾げた。

……それがわかってて、バスケを続けられる理由って、なに?」
……昔は、勝ちたいからだと思ってました」
「違うの?」
「今は、挑み続けたいんじゃないかと、思います」

束の間神の表情は緩み、いつかが湘南で目にしていた頃の彼に戻ったように見えた。

「前にも話しましたよね、可能性に挑み、努力する自由。オレが求めているのはたぶん、それです」
…………私のことも、それと混同してない?」
「してませんよ。さんはそういうオレの気持ちを支えてくれる存在なので」
「私、何もしてなくない?」
「今はね」

神はまた元の余裕たっぷりの笑顔に戻ると、テーブルの上に揃えてあったの手を取って囁いた。

「インターハイで優勝できなかったこと、それが『遠い未来に、必ず君を救ってくれる』と言ってくれたさんの言葉が、いつもオレの支えなんです。このさんの言葉があるからオレは何度負けても挑み続けたいという気持ちに正直でいられる」

正直、その言葉の記憶は薄かった。会話の中で自然と言ってしまっただけの言葉であり、予め考えてあったわけではなかった。なので正確にどう言ったのかもよく覚えていないし、その時の神がどんな表情をしていたとか、他にどんな言葉を交わしたのかも、ぼんやりしていて思い出せない。

が覚えているのは、努力家の男子高校生を労うのにはどんなプレゼントがいいだろうかとパソコンを眺めていた楽しい時間だ。蒸し暑い夏の夜にエアコンもつけずに窓を開けて扇風機を回し、コーディアルシロップのソーダ割りを傾けながら眺めるモニタの輝きなら覚えている。

「結果を手に入れることももちろん大事です。負けちゃったけど努力したことが素晴らしいよね、とは思いません。結果が手に入らなければ挑戦は失敗です。だけどさんの言葉はもう一度挑戦するぞという気持ちを強くしてくれるから。大袈裟に言えばオレの生き方を助けてくれる道標です」

今でも神はが言葉とともに送ったギフトカードで買ったステンレスボトルを愛用している。黒のボディに白いツバメのマーク、湘南でのふたりを表す数少ないアイコン。

……さんはちっとも信用してないけど、オレが惚れてるのはさんのそういうところであって、その他のことはどうでもいいんですよ。彼女がほしいとか恋愛したいとかじゃなくて、さんのパートナーになりたい、それだけ」

また神の「覚悟」に心をガクガクと揺さぶられた。間違っていないように聞こえる。10代ながらに自分の生き方と真摯に向き合う神宗一郎というひとりの人間の決意に聞こえる。

手を離した神はレーンからエンガワの皿を取り、ワサビを絞り出して口に運ぶ。

「子供の頃、ワサビもエンガワも美味しくなかったけど、それがもうよくわからない」

そうだね、私もいつからワサビを美味しく感じるようになったのか、もうよく覚えてないよ。たぶん高校生の間だった気がするけど、最初にワサビを美味しいって思ったのが何歳のいつだったのか、それはもう覚えていない。

「でも、ワサビとエンガワが不味かった頃にはもう戻れない」

柔らかく微笑む神のまつげがきらりと光ったように見えた。微かな微笑みの唇がやけに赤く見える。

の胸の奥が軋む。その軋みは遠い日々に感じた疼きに似ていて――

その日を境には「仕事が忙しい」を理由に神との付き合いを絶った。神からは度々食事の誘いなどが来ていたけれど、彼には分かりづらいであろうビジネス用語を多用した返事で断り、仕事と実家以外の時間を部屋にこもって過ごした。

1日、2日、3日……最初の5日間くらいは緊張して仕方なかった。神からメッセージが届く度に胸は痛み、軋み、頭を重く感じた。けれど1週間を過ぎた頃から徐々に楽になり、このまま自然にフェイドアウト出来るのではと期待できた。

ところが、神と会わなくなって2度目の日曜、実家から戻ったは、キッチンで祖母の惣菜を冷蔵庫に入れようとしていたところで、いきなり泣き出した。

私、おじいちゃんとおばあちゃんと、お母さんがいなくなったら、ひとりになる。

神と一緒にいるときは忘れていた恐れを突然思い出し、は冷蔵庫に手をついてズルズルと座り込んだ。春に神と再会してから数ヶ月、恐怖は別に消えてなくなったわけじゃなかった。が忘れていただけ。そして一度はそんなものだろうと覚悟した取り残されるしかない人生。

神との楽しい時間がいつしか覚悟をまた恐怖に変えた。

神の声が脳裏に蘇る。

さん、何が怖いの。何がそんなに妃南子さんを怖がらせてるの?

見上げた冷蔵庫はまるで超えられない高い壁のように見えた。

怖いよ、全部怖い。あの日、3年も付き合った彼氏と結婚出来ないと知ったあの日から、何もかもが怖い。だって、だって私、今頃結婚して子供産んでたはずなんだもん。そうなるんだろうなって思ってたんだもん。でもならなかったんだもん。未来が見えないんだもん!