どうしてわたしなんかがいいの

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先輩の言葉に勇気づけられた神は、気持ちを新たにして毎朝に挨拶をする。

最近ではわざとらしく足を止めず、その場で足踏みをしてごく自然に、いかにもお馴染みさんですという仕草や言葉で挨拶と雑談をして通り過ぎる。お姉さんも同じ。だから自分もそういう毎日でいい。

ギフトカードで何かを買って、その報告がてら……というアイデアは悪くなかったのだが、何を買うのがベストなのかのんびり考え事をしている暇がなかった。正直夏休み後半はめちゃくちゃ忙しい。国体の準備、合宿とインターハイで時間の取りにくい課題。付き合いもある。

そう、お姉さんのことは気になるが、神も神でお姉さんとの1分にも満たない時間以外は高校生、友達付き合いもあるし、それらを全部拒絶してしまうわけにも行かず、友達十数人のグループで花火を見に行った時はまた凹んだ。お姉さんと見たかった。

そしてお姉さんに出会ってから実に5ヶ月、神はようやく「もしお姉さんに彼氏とか旦那がいたらどうしよう」という不安にブチ当たった。確か左手の薬指に指輪はしていなかった気がするけど、だからって絶対結婚してないとも限らないし、彼氏、いるんじゃないのかな、あんなに可愛いんだし……

だがその件で凹んでいる時間もなかった。国体代表チームは過去の実績と経験から海南が中心になっており、そういう事情で神はここでも4番を付けている。練習以外にもやらねばならないこと考えねばならないことが多すぎて目が回りそうだった。

なので気付けば国体は目の前、お姉さんに「今度は国体に出るんですよ、よかったら見に来ませんか」などと言えるタイミングを完全に逃し、国体が終わったら終ったですぐに中間テストで、やっと脳内に余裕が出た頃にはすっかり秋になっていた。

こんなことしてたらあっという間に引退になって、朝に走り込みをする理由がなくなる……と若干焦り始めていたある日のこと。いつものようにお姉さんを目指して走っていた神は、珍しいものを目にした。お姉さんがなんだか小柄なおじいちゃんと喋っている。

ちょっと待て、おじいちゃんがいたらオレは挨拶だけでスルーしなきゃならないじゃないか。おじいちゃんは一日中時間があるんだから、朝のほんの数秒くらいオレに譲ってよ。

しかしお姉さんと談笑しているおじいちゃんは動く気配がなく、神は今日のお姉さんとの時間を諦めた。子供みたいに駄々をこねたくはないし、おじいちゃんとの会話に割り込んでお姉さんに悪く思われでもしたら。ダメな時はダメ、退くのも勇気。

と、神は挨拶だけでスルーしようと速度を落としたのだが、神に気付いたお姉さんはパッと笑顔になって駆けより、なんと腕を掴んできた。どうした一体!?

「ほらほら、この子がこの間話した海南大附属のキャプテン!」
「おっ、そうだそうだ、見たよ君!」
「えっ、ええ……

何が起こっているのかわからない神は挨拶をするのも忘れ、左腕に添えられているお姉さんの手に全神経が集中、走っているときより心臓がドキドキしてきた。てかこのおじいちゃんは何者。

「あのね、おじいちゃん春の予選、見に行ったんだって。お孫さんがバスケやってるんですよね」
「まあ~うちのは『ぺーぺー』だけどねえ」
「それですっかり海南のファンになっちゃったんだって」
「やっぱり全国大会に出るようなチームの試合は見応えがあるね! いい試合だったよ!」
「え、あ、ありがとうございます」

なんだかよくわからないが神はペコペコと頭を下げた。まあこういう人は珍しくない。

「にしてもまだ17~8くらいだろうに、でっかいねえ!」
「190センチあるそうですよ」
「190! 何食ったらそんなにでっかくなれるんだか!」

おじいちゃんは神を間近に見ようと一歩踏み出し、そしてぐいっと体を反らした。その瞬間、

「あいたっ!」

そう言ったきり、おじいちゃんは動かなくなった。まさか……

「えっ、あれ……? どうしました?」
「もしかしてぎっくり……
「かも、しんない~」

おじいちゃんは体を反らした姿勢のまま、泣きそうな声を上げた。慌てたのは神とお姉さんである。こんな路上でぎっくり腰とかどうしたらいいんだ。

「痛いですか?」
「ちょっとでも動かしたら痛くなりそうで怖くて動かせない」
「えええ、じゃあどうしたらいいんですか」
「今調べます」

お姉さんが情けない声を上げているおじいちゃんの肩を支えているので、神は素早く対処の方法を調べる。しかし簡単に見つかる情報は全て室内での対処で、路上で立ったままぎっくりいってしまった場合の方法はすぐには見つからなそうだ。

やがておじいちゃんは姿勢の維持がつらくなってきた、と体を戻そうとした。しかしゆっくり戻す途中で激痛が襲ってきたらしく、悲鳴を上げて地面に倒れた。秋に差し掛かり朝晩はだいぶ涼しくなってきたけれど、おじいちゃんは脂汗をかいている。相当痛むようだ。

「ぎっくり腰ってよくあるかもしれないですけど、救急車、呼んだ方がよくないですか」
「そうだね、素人が下手にいじるのもよくない。他に方法もないし」
「何か頭の下に入れられるものありませんか。ちょっと痛そう」
「OK、探してくる」
「じゃ僕は救急に連絡してみます」

119番に通報して指示を仰いだところ、出動してくれると言うので神はおじいちゃんの痛みに合わせて体を支えながらお姉さんと一緒に待った。救急車は10分とかからずに到着、おじいちゃんは痛みに喘ぎながら搬送されていった。

あとに残されたふたりは走り去る救急車を見送りながら、ハーッと大きく息を吐いた。気持ちが焦ったからか、なんだか朝から疲れた。

まったくおじいちゃんのせいで今日は散々だな。疲れるし、お姉さんとろくに話も出来ないまま帰らなきゃいけない。まあお姉さんと腕組んだみたいになったのはラッキーだったけど、意識してるのなんてオレだけだろうし……と神がいじけていると、お姉さんがまた背中に触れてきた。

「ごめんね朝っぱらから、びっくりしちゃって君のこと忘れてた。邪魔しちゃってほんとにごめん」
「いえ、そんな、当然のことをしたまでで」
「まったく、どこまで優等生なの。自分が恥ずかしくなってくる」
「いやあの、そんな大袈裟なことですか……

こんな状況で「部活に遅れるのでオレは関わりません」と言って走り去れる人はなかなかいないと思うけど。神は下っ腹のあたりがムズムズして居心地が悪かった。目の前でぎっくりやってしまったおじいちゃんを助けることは優等生過ぎてダメなんだろうか。

だがお姉さんは携帯を取り出すと上半身を寄せてきた。つい身を引いてしまう。

「あのさ、念のために、君の名前、名字だけでいいから教えてくれる?」
「えっ? あっ、はい、神と言います」
「じんくん? 字はなんて書くの? おお、神ね。海南の3年生の神くんね」

お姉さんはそれを携帯にメモすると、さも面白そうに目を丸くして肩をすくめた。

「可笑しいね、毎朝挨拶するようになって何ヶ月も経つのに、名前も知らなかった」
……そうですね」
「ていうかさっきのおじいちゃんの名前も知らないんだけどね! やっぱり挨拶するだけだから」

神は頬のあたりが温かくなっていくのを感じていた。体の中に満ちるお姉さんへの恋心が喜びと切なさで暴れまわっている。名字とは言え、彼女の声で名を呼ばれることがこんなに幸せだなんて。

そして神は姿勢を正すと、息を大きく吸い込み、言った。

「お姉さんは、なんていうんですか、名前」

お姉さんはまた目を丸くしてアハハと笑う。

「だよね~! ごめん、遅れまして、と言います」

そして、これあげるね、と言いながら手帳型携帯ケースのポケットから名刺を取り出した。

お姉さんはなにやらおじいちゃんがどうのと言っていたが耳には入らなかった。白地にブルーのロゴマーク、そして細身の明朝体で名が記してあった。

――、さん。さん。

大好きな人の名前をようやく知ることが出来た。神の心はその感激でいっぱいになっていた。だが、次の瞬間には凄まじい衝撃が神を襲う。さんの名前の上には「営業所長」の文字。

………………所長!?

お姉さん20代半ばくらいかと思ってたけど、もしかして異常に若く見える40代とかなんだろうか。

名刺をもらって以来、神はその「営業所長」という四文字におののいていた。あんな大きな倉庫がある会社の営業所の所長さんだったら、そこそこ偉い人だよな……? そんな人が結婚してないとか彼氏もいないとかあるのかな、ていうか、そういう社会的に「ちゃんと」した人が高校生と付き合うとか天地がひっくり返ってもありえないんじゃないの。

おじいちゃんぎっくり事件の翌日も神は何食わぬ顔でお姉さん改めさんに挨拶をしたが、つい左手の薬指が気になって見てしまいそうになるし、なんだか以前と同じように顔を見られなくなってしまった。先輩の言うようにまだまだこれから、なんてのは幻想なんじゃないか。

が、その翌日、神は職員室に呼び出されて仰天した。

ぎっくりいってしまった海南ファンのおじいちゃん、亀田さんを救助したとして、神が表彰されるのだという。しかも神が救助を手伝ってくれたと学校に報告してきたのはなんとさん。放課後の職員室でそれを聞かされた神は焦りで目が泳いでいた。褒められてる気がしない。

さん突拍子もないっていうか、何が出てくるかわからないおもちゃ箱みたいな人だな……

それはそれで恋心がくすぐられるが、ひとまず全校生徒の前で「バスケ部のキャプテンが立派な行いをしました!」などと騒がれるのは本当に困る。なので担任に「どうかここまでの話にしてください」と手を合わせ、地元紙の取材でも来ないかと浮ついていたらしい不満げな顔の校長から表彰状を受け取るだけで済ませてもらった。

だが、おじいちゃんぎっくり事件はまだ終わらない。

どこまでも自分にストイックで謙虚な神が「困ってる人を助けるのは当然」と称賛を受け取らなかった――ということを聞きつけたぎっくりおじいちゃんこと亀田さんは大感激、ゆっくり腰を直しているので自分は行かれないがという言伝とともに、息子さんが代理で菓子折りを持ってさんを訪ねてきたらしい。なので――

「部活めちゃくちゃ忙しいってことはわかってるから、神くんの都合でほんの10分くらいでも」

さんは箒を手ににこにこと「亀田さんがくれたお菓子を一緒に食べませんか」と誘ってきた。場所は営業所。聞けば営業所は所長のさんひとりしかいないので、休みの日でも開けられるし、早朝でも夜でもいいよ、という。さんは「おじいちゃん奮発してすっごい高いチョコくれたよ」と楽しそうだ。確かにこの辺りの最寄り駅には高級チョコレート店がある。

が、神はもうそれどころじゃない。

完全に予想外だけど、これ、デート!

夜でもいいとかさん何を言い出すんだ。ちょっと待って、夜の事務所でふたりっきりでチョコとかオレは牧さんみたいないかがわしい男子じゃないのに変な妄想ばっかり浮かんできちゃうから!

しかしいつまでも黙ってはいられない。神は手をぎゅっと握りしめ、腹に力を入れる。

さんは、予定、ないんですか」
「今のところ。実は仕事もそれほど忙しくないの。だから本当に神くんの都合で」
「オレも、基本夜はなにもないです。テスト終わったし」
「そうだよね~。週末も明るいうちは部活だもんね」

夜にふたりきりという邪な妄想を掻き立てられるシチュエーションは困るのだが、かといって神も暇ではない。国体でもベスト4で終わってしまったので、残る最後の大会にかける今年の3年生の意気込みは熱い。今日は1日練習はお休み、なんて言う日は基本的にない。神も練習を休みたいわけではない。

「夜でもいいですか」
「もちろん。お家の人にはちゃんと言ってきてね」
「はい。友達とご飯食べてくるとか、言っておきます」
「ちゃんと言わなくて大丈夫? てかチョコしかないけど」
「大丈夫です」

表彰の件は言わざるを得なかったけれど、神の親はちょっと感激屋なところがあるので長く引っ張りたくなかった。それにこのことを報告すればさんとどういう関係なのかを話さなければならなくなる。そうしたら両親も菓子折り持ってさんに突撃してしまうかもしれない。

そして、うちの子がお世話になって! と言うに決まってる。

年は離れてるけど、おそらくさんはオレのことを「ギリギリ友達」くらいの感覚で捉えてくれているはずだ。なのに親が突撃して「うちの子」と言った瞬間、話は親とさんという「大人同士」の関係がベースになり、オレは格下げをされて「子供」で「蚊帳の外」になる。

日本では、バック・トゥ・ザ・フューチャーのマーティとドクみたいな、高校生と大人の友人関係なんてものは、あんまり歓迎されない。しかも性別が違えば余計に「いかがわしい関係」を疑われて、大人の方が責められる。本当に友人だったらどうするんだよ。

いやわかってるよ、「大人になってからやれ」って言うんだよ、誰でも。

だけどもうオレはほとんど大人のはずだ。18歳だの20歳だの、なんだか知らない大人たちの都合でオレたちは大人と子供の間を行ったり来たり、何がダメで何がいいのか、勝手に決めては押し付けてくる。日付が変わった瞬間に「自覚」とやらを持ってないとおかしいって言われて、戸惑うオレたちのことなんかお構いなし、オレはたださんが好きなだけなのに。

18歳で大人なら誰を好きになろうが勝手だろ。あと2年もすれば親が承諾しなくても結婚出来るし、それはオレが大人になって「自分で決める権利」を手に入れるからだ。だからさんが本当は何歳でもどんな仕事をしていても、オレが好きになることは誰にも文句が言えないはずだ。

さんが「それは迷惑」と言わない限り、オレはさんが好きだ。

それは誰にも邪魔させない。

「でも部活の後じゃお腹減るよね~」
「チョコも頂きますけど、なんか買ってきてもいいですか」
「そっか、OKわかった、それは私が用意してあげるよ!」
「えっでも」
「今さら遠慮しない! よし、一緒にご飯食べようか!」

神はやっと頬が緩んだ。さん、これオレのこと弟みたいに思ってるんだろうな。おねーちゃんがご飯買っておいてあげるからね、みたいな。まさかその弟の腹ん中が自分への恋心でいっぱいになってるなんてこと、これっぽっちも思ってないだろうな。

神くん好き嫌いない? なんて呑気なことを聞いてくるさんに神はにっこりと笑顔を作って返事をする。ていうかさん何か作ってきてよ。オレさんの手作りの料理がいいな。

さん、さん、さん。

さん、大好き。