どうしてわたしなんかがいいの

3

神が恋心らしきものを自覚してから数週間後。その間も毎日のように挨拶を交わしていたし、なんなら以後も何度かお姉さんは神にペットボトルを奢ってくれたが、だからといってそれ以上に親しくなることもなく、お姉さんが海南バスケ部の事情に詳しくなっていくだけだった。

ところが、神の3年主将としての初の公式戦が迫っていたある日、どうにかしてお姉さん試合観に来てくれないかななどと思いながら走っていた神は、いつものようにお姉さんがいないので自販の前で足を止めてキョロキョロしていた。晴れてるのに掃除しないのか?

するとお姉さんは脚立によじ登り、箒を事務所の庇に突っ込んだ姿勢でプルプルしていた。

「あのー、おはようございます、大丈夫ですか……?」
「ああっ、いいところに! ごめん、助けて!」
「えっ、はい、どうしたんですか」
「ツバメの巣が!」
「ツバメ?」

脚立の脇に回り込んで見てみると、お姉さんが逆さに持っている箒の柄は鳥の巣らしきものにあてがわれていた。でも状況がよくわからない。

「この間からここにツバメが巣を作ってるんだけど、今日見たら崩れそうになってるの」
「それで支えてるんですか。卵とかヒナがいるんですか」
「ううん、まだ作ってる途中みたいで」

それなら崩れるに任せておいた方がツバメの都合で直せるのでは……と思った神だったが、お姉さんがプルプルし続けているのは忍びない。神なら脚立によじ登らなくても箒が届くので、ひとまずそれを代わる。ついでにプルプルし続けていたお姉さんが脚立を降りるのに手を貸してしまった。一瞬だったが手が触れ合ってしまい、神はまたドキドキしてきた。

「ごめん、ありがとう、今補強出来るものを持ってくるから待ってて」

お姉さんは手が触れ合ってしまったことなど気にする様子もなく、急いで事務所の中からガムテープを持ってきて千切っている。

「外壁だから何も刺さらないと思うし、これを重ね張りすれば少しは違うかなって」
「庇の下だから雨もあんまり当たらなそうだし、いけるかもしれませんね」
「届く?」
「脚立に乗れば」
「うっわ余裕。ねえ、身長いくつくらいあるの?」
「オレですか、190です」
「そんなになるの! そんなに背が高い人始めて見たかもしれない。いやマジで腕長いね……

お姉さんはガムテープを千切っては神に手渡し、神は箒の柄で作りかけの巣を支えながらガムテープを貼り、巣を下から支えられるように整えた。巣自体には粘着面をくっつけていないし、あとは巣を作っているツバメがうまく補強し直してくれれば落ちることはなさそうだ。

意外となんとかなるもんだな、と思いながら神が脚立を降りると、またお姉さんがペットボトルを差し出していた。さらに今日はお菓子も差し出してくる。

「なんかお礼しなきゃと思ったけど君手ぶらだし、まだ走るだろうし、こんなものしかなくてごめん」
「いえ、大丈夫ですよ。むしろ何回もすみません」
「そんなこ……いや何言ってんの私、お小遣いにしようか!」
「は!? ダメですって! やめてください」
「でもお金ならポケット入るし軽いし、もらっても困らないでしょ」
「ダメです困ります」

お姉さんはいい思いつきと思ったのか、やけに楽しそうだ。が、いくらなんでもそれはマズい。というかただでさえ年下の高校生なんか無理だよなと思ってしまうのに、お小遣いとかほんとやめて。お姉さん気遣いの人なのかもしれないけど、ちょっと天然な所あるんだな。

その場はなんとか逃げ切った神だったが、大人なはずのお姉さんがまるで友達のように感じられて、ますます彼女を可愛いと思った。一瞬触れてしまった手は思った通りに柔らかくて、するりとした質感が今も手のひらに残っている。

それにしても部活の事情とか身長とかそんな情報ばかりがお姉さんに伝わるだけで、肝心なことが何ひとつわからないままだ。名前すらわからない。

けれど神は何も考えずに「おねーさん名前なんていうんですか~! オレ宗一郎って言うんすけどおー」などと言える性格でもなく、そうした互いの自己紹介に繋がるような会話にも持ち込めないでいた。というか県予選に突入してのんびりお喋りしている時間もなかった。

ツバメの巣が完成し、どうやら卵があるみたいだ……なんていう会話があったり、また脚立でプルプルしていたので声をかけたら今度は蜘蛛の巣に届かないというので手伝ったり、しょっちゅう自販でドリンクを買ってくれるだけでは飽き足らずに食べ物をくれるようになったり……なんていうことはあった。だが相変わらずお互いのことは何も知らないまま。

そうこうしているうちに夏に突入、神はお姉さんどころではなくなり、インターハイに向かって毎日限界まで練習をしていた。県予選くらいならと思っていたが、さすがにお姉さんをインターハイの試合に誘うわけにもいかず、半袖から覗く腕や、つま先の夏ネイルにドキドキするだけの日々が続いていた。

結果として自身が主将を務める3年の夏、インターハイはベスト4で沈み、日本一の称号は手に入れられなかった。お姉さんにはインターハイの開催日程を教えていない。けれど合宿含め突然現れなくなった神がお盆を過ぎて戻れば、夏の大会が終わったんだな、ということはわかるはずだ。

聞かれたらどうしよう。去年より順位を落として帰ってきたなんて、かっこ悪すぎる。言いたくない。

もし優勝出来たら、それを報告しながら今度こそ名前を聞こうと思っていた。いつものノリでお姉さんは褒めちぎってくれるだろう。何かお祝いをしたいと言い出すかもしれない。そうしたら冗談に聞こえてもいいように、1回でいいからデートして下さいって言いたかった。

お礼になるものがないからお金にしようか! なんてことを咄嗟に言い出すような人なので、もしかしたら何も考えずにOKしてくれるかもしれない。お姉さんちょっと抜けてるところあるっぽいし。そんなところも可愛いんだけど。

でもそれももう叶わない真夏の夢だ。

別にデートって言っても、お姉さんが本気にしてくれるわけもないし、万が一OKしてくれたとしても、ご飯食べに行くくらいで充分だったんだけどな。ふたりで手を繋いで海沿いを歩くとか、そんな贅沢は望んでなかったんだけど。姉と弟みたいに思ってくれてもいいから、1回だけ。

ふたつの夢に敗れた神はしかし、いつものように速度を落として箒を持つお姉さんの背後に歩み寄る。

「おはよう、ございます」
「あ、おはよう~! 久しぶりだね」

振り返ったお姉さんは優しい笑顔だった。それに心をくすぐられた神が何も言えないでいると、お姉さんも何も言わずに、何やら差し出してきた。神はぽかんとしつつ、何も考えないでそれを受け取った。見ればカードサイズの封筒。飾り気もなく、メッセージもなく、封もしていない。

ついそのまま開くと、オンラインショップのギフトカードが出てきた。

「え」
「待って、それはお願いだから受け取って」
「でも……
「実際大した金額じゃない。後で見てみて、何万とかそういうんじゃないから」

お姉さんは手のひらを突き出して神を遮り、咳払いをして続ける。

「それは、お小遣いとか、お祝いとか、そういうんじゃないの。本当に君のことすごいなって、ずっと思ってて、こんな風に努力を続けられる君にあやかって、私もひたむきに努力が出来るようになりたいな、なんて思ったりしてて、だから、大袈裟に聞こえるかもしれないけど、感謝の気持ちなの」

神はなんだか頬や耳が痺れているような感覚を覚えた。お姉さん、言ってる意味が、わかんないよ……

「きっと大変な舞台で、私なんかには想像もつかない厳しい戦いをしてきたんだと思うし、それを労いたいだけなの。でも重いものは渡したくないし、クッキー1枚じゃもう私の気が済まなくて。恐縮させてごめんなさい。だけどどうか受け取ってもらえないかな。好きなことに使ってくれたら嬉しい」

神はぼんやりしてきた頭を下げ、力なく礼を言った。

「こんな、労ってもらえるような、結果じゃ、なかったんですけど」
「そんなこと関係ないよ」
「優勝しましたって、言いたかったんですけど」

つい本音が漏れ出た神にお姉さんは距離を縮め、ちょっと怖いくらいに真剣な目で見上げてきた。

「それはそれで、大事な結果。遠い未来に、必ず君を救ってくれる。だから大丈夫」

うまく気持ちを言葉に出来なかった。お姉さんの言葉に感じたことを、言葉に変換して返せなかった。だけどお姉さんはそれもわかっているようで、暑いから気を付けてね、と送り出してくれた。神は礼を繰り返して走り出し、すぐに道を曲がると足を止めた。

カードサイズの封筒を掴んでいる両手が震えている。

あの人が好きだ。

あの人が一体どんな人だったとしても、この気持ちはもう隠せない。

お姉さん、オレ、あなたが好きです。今すぐ戻って抱きしめたいくらい、好きです。

神は目が潤んでいるのを感じていた。夏の暑さに興奮した頭は冷静さを欠いていて、処理しきれない感情がコントロールを失って涙となり、瞳に滲んだような気がした。

夏の朝日に熱されて燃え上がってしまった恋心はしかし、どうがんばっても今以上に発展が望めなくて神は一気に気持ちが落ちた。部活の方は早くも国体を目指して気持ちをリセット出来ていたけれど、お姉さんに関しては絶望的だ。

夏休みの終わり頃、春に卒業していった先輩が遊びに来た――のではなくて部室に置き忘れたものを取りに来たいと思いつつ忙しくて4ヶ月もかかった、としょんぼりしながらやって来た。後輩たちは歓迎したが、何しろちょっと有名で優秀な選手なので近寄りがたい。

……牧さん、ちょっと白くなりました?」
「だろうな……海全然行けてないんだよ……
「もしかしてストレス溜まってます?」
「お前こそ」

先代の主将と現役の主将は後輩たちが遠巻きにチラチラと見守る中、揃ってため息をついた。4ヶ月ぶりの再会だが、お互い顔がどことなく疲れている。先輩の牧は高校時代毎日のように楽しんでいた波乗りが出来なくなってしまい、日焼けが抜けてきたので余計に疲れて見える。

「インターハイはすみませんでした」
「オレに謝るようなことか。オレだって結局優勝はしてない」
「まさか牧さんが新人戦であんな早々と沈むとは思ってませんでした」
「そっちは傷が新しいんだからイジるな。リーグ戦始まるっていうのに」
「なのに海にも行かれなかったら、そりゃストレス溜まりますよね」

苦笑いの先輩に神もちょっと笑ってみせた。だが、牧はその苦笑いをニヤリと歪めた。

「お前がそんな疲れた顔してるのは珍しいな。主将、しんどいか?」
「国体の選抜メンバー見たら去年の牧さんの気持ちがわかりすぎて」
「去年めんどくさかったやつは全員残ってるからな……
「それなのに鉄拳制裁担当が全員卒業しちゃいましたからね」

そう、迫る国体が去年に引き続き選抜チームなので余計に神は疲れている。能力的な問題ではなく、選手たちの性格的な問題で。すると牧は今度は見たこともない優しげな笑顔になった。

「オレはもう海南の選手じゃないんだから、いいんだぞ、愚痴ってくれても」
「え、いやその……
「国体だけじゃなくて冬もあるんだから、あんまり抱え込まない方がいい」

頼もしい先輩の言葉に神はつい膝を折った。ちらりと横を見ると、主将と元主将がしゃがみ込んで膝を抱えているので、後輩たちはじわじわと距離を取っている。これならまあ、聞こえることはあるまい。

「バスケ関係ないんですけど、いいんですか」
「なんだよ珍しいな。オレでいいなら言ってみろよ」
「オレ、毎朝、走ってるんですけど……

愚痴っていい、という言葉に甘えて神はお姉さんのことを全部ブチ撒けた。というか他人にお姉さんのことを話したのはこれが初めてで、自分で思うより心に深く溜め込んでいたらしく、ろくに息継ぎもせずに吐き出した。言っただけでちょっと楽になったような気がしたが、今度は恥ずかしくなってきた。こんな偉大な先輩にこんな話……

だが牧はうんうんと深く頷いて、優しげな笑顔だ。ええ……牧さん笑わないの……

「お前の言うように、誠実な人だな、そのお姉さん。きっと何か裏があるとかじゃなくて、本気で毎日淡々と努力してるお前を見て何か勇気づけられることがあったんだろうな。ギフトカードはもうそれでしかお前に伝える方法がなかったからだと思うよ」

でも……、って言われる。瞬間的に神はそう感じて体が冷たくなった。

牧さんはオレなんかより遥かに立派な主将で、本人はげんなりしてたけど、去年の国体、代表チームの先頭に牧さんがいるということが既に神奈川の格を押し上げてた。バスケの技量が優れてるだけじゃなくて、人間的にも大きな人だった。問題児ばかりの代表チーム、それでも牧さんが中心だった。

「でも……

ほら、牧さんだって言うに決まってる。「でも」って。

牧さん、主将だった時には見たこともないような優しい笑顔だけど、きっと内心では下らないって思ってるはずだ。インターハイは順位を落として、国体も控えてるっていうのに、名前も知らない人を好きになっちゃったんですけどとか悩んでる後輩に落胆してる。

そんなことしてる場合か、って言うかな。お姉さんは男として見てないと思うって言うかな。もうこれ以上は発展させようがないと思うって言うかな。それとも、なるようにしかならんとか投げやりなことを言って話を終わらせるかな。

つい身構えた神、牧はその肩に手を置いて、ちょっと眉を下げた。

「まだまだこれからじゃないか。ギフトカードで何か買って、報告するついでに名前聞けよ」
「えっ……
「まだ悩む段階じゃなくないか? お互いのこと何も知らないのに」
「だけど……社会人で……オレ高校生だし……

牧の言葉が信じられなくて、神は膝に置いていた手をだらりと床に落とした。すると牧は今度はちょっとはにかんで頬を指で掻いた。なんだよ今日は初めて見る牧さんだらけで目が回る……

「それがその……オレも高2の終わりに、ちょっと社会人と付き合ってたことがあるんだ」
……牧さん高校生に見えなかったですからね」
「一言多いんだよお前は。オレはほんの2ヶ月くらいで別れたけど、その時向こうは26歳だったかな」
「どうやって知り合ったんですか」
「ナンパ」
「うええ」
「うええってなんだよ。オレがナンパされたの。酔っ払ってた元カノに」
「うええええ」
「お前いかがわしい想像しかしてないだろ」

懐かしいしかめっ面の牧にこめかみをぐりぐりやられた神の脳内では宇宙が渦巻いていた。いかがわしい想像しか出来ないし、本人がどれだけプラトニックだったと言い張ったところで実際いかがわしかったに決まってる。そうに決まってる。異論は認めない。

「まあでも、高校生だって言ってもしばらく信じなかったからなあ……
「なんで付き合うことになったんですか」
「向こうが彼氏と別れて仕事で上手くいってなくて、それを慰めてるうちに」
「ベタベタですね……
「でも結局、年とか社会人とか学生とか関係なく、考え方が合わなくて別れた」

膝に肘を突いた牧は頬杖で少しため息をついた。あまりいい思い出ではないのかもしれない。

「ほんのちょっとした日常のアリかナシか。それが違うだけで一緒にいるのは苦しい。でも体だけの関係とか絶対無理、っていうところだけは一致してて、すぐに別れた。本当に2ヶ月。だから好きだったっていうほどでもないし、むしろ勢いで付き合ってしまったっていうことの方が、今は苦い記憶だな」

いかがわしい想像しか出来なかったけれど、神は目の前が少し晴れたような気がした。年上の社会人のお姉さんを好きになるなんて誰にも話せない秘密の恋だと思っていたけれど、もしかしてそういうのってオレが知らないだけで、世の中にはありふれてることなんだろうか。

だとしたら何でみんな隠すんだ? 女の方が年上のカップルって、実際何が問題なんだ? 男なら何十歳差でも女がどれだけ若くても誰も何も言わないのに、それが逆になると途端にいけないことみたいに思われてコソコソしなきゃいけないのって、何か正当な理由があるのか?

ていうかたぶん、いや絶対高2の牧さんが26歳のお姉さんと手を繋いで歩いてても牧さんの方が年上に見えるから。むしろ今牧さんが1歳年下の女子高生と手を繋いでたら怪しまれるから。

「お姉さん自身を好きだと思えるなら、他のことはどうでもいいと思うけどな、オレは」

オレも、そう思う。神はまたちょっと目が潤んでいるような気がした。牧さんかっこいい。

「そりゃまあ、お姉さんが年下は嫌だという可能性はあるけど、諦めるのはそれを確かめてからでも遅くないだろ。というかそれを確かめもしないでダメかもしれないって悩んでる時間の方がもったいない。海南の主将が勝ちを取りに行こうとしないなんて、そっちの方が問題だ」

なんだか海南らしい考え方だな。神はそう思ったらすっかり気持ちが楽になった。恐れている暇があるなら挑戦する。飛び込んだ先に見える景色が天国か地獄かはそれまでの努力次第。それが海南流だったはずなのに。主将なのに情けない。

「そのお姉さんの、どういうところがいいんだよ」

いたずらっぽい牧のニヤリ顔に、神もニヤリを返す。

「なんかもう、全部」

だって他には何も知らないから。