どうしてわたしなんかがいいの

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いわゆる「世間体」を恐れていただったが、ふたりに共通の知人がいるわけでもなし、付き合うと言っても、それを報告せねばならない人もいないし、ふたりで街を歩くという程度のことならもう数ヶ月も繰り返しているので、殆どの場合においては特に変化がなかった。

それよりもが困ったのは宗一郎だった。

「嘘でしょ、話したの!?」
「話したって言っても一昨年のことだよ。まだが所長やってた頃だけど」
「ってそれあんたまだ高校生のときでしょ」

一応付き合うことになった、その日。宗一郎はの手を離さず、マンションに転がり込んできた。なんとなく居心地が悪いだったが、宗一郎はを膝の間に抱えたまま、一度だけ先輩に相談したことがあると言い出した。

「でもその先輩も高2の時に20代の人と付き合ってたことあるって」
「海南バスケ部の風紀はどうなってんの……
「風紀とかいう問題? 女の方が年上だと全部いかがわしいみたい言い方やめなよ」
「そういう風に考える人が多いんだからしょうがないでしょ」

付き合うと言ってしまった手前、逃げるに逃げられないはそわそわしっぱなしで、自宅にいるのに今すぐ走って逃げ出したかった。そろそろ時間は21時半になろうとしているが、宗一郎は一体いつ帰るつもりなのか。

確かに今日は金曜では翌土曜が休みだが、宗一郎はそもそも部活で平日も週末も関係ないはずである。現在の監督は練習を詰め込む主義ではないと言っていたけれど、宗一郎自身が練習の鬼なはずではなかったのか。というかよく考えたら宗一郎の日常には知らないことのほうが多かった。

もやもやする状況から逃げ出したいあまり、荒療治と思って付き合うと言ってしまったに過ぎないわけだが、ちょっと早まったかもとは早くも後悔し始めていた。しかもこの宗一郎のひっつき具合から察するに、泊まりたいと思っているのではあるまいな……

「それがいいか悪いかは別にして、30女と19歳の男の子が付き合ってますって言われて、へえーそう、で済む人が一体どれだけいると思ってんの。まあ30男に19歳の女の子でも眉をひそめる人は多そうだけど、そっちはお金目当てとかで納得出来ないこともないから」

顔を後ろに向けるとキスされてしまうかもしれないので、は宗一郎の顔の前で人差し指を立て、またくどくどと同じことを繰り返した。

「別にオレ、なんで30歳と付き合ってんの、って聞かれてもオレが好きになったからって答えるけど」
「納得しないだろうなあ……
「してもらう必要ある?」
「なんか言いふらされたりとか……
「だから、共通の知り合いもいないのに、そんな状況になる?」

せめてふたりの共通の知人ということになると、湘南の営業所の前でギックリいってしまった亀田さんくらいしかいないのが現状。ギックリで動けない亀田さんの代わりに高級チョコレートを届けに来た息子さんもしか面識がない。は黙る。

「そうだなあ、例えばオレが友達とかに彼女出来たって報告するとしても、どんな子? って聞いてくるやつが何人いるか。どこで知り合ったどんな女で年齢はいくつか、なんてこと、そもそも聞いてこないと思う。まあ知り合った経緯くらいは聞かれるかもしれないけど、地元で、って答えれば済むし嘘はついてないし、きっとそいつの頭の中には同世代の地元の知り合いの女の子か、なんていう想像が出来上がるだけだよ。勝手な思い込みにまで責任取る必要もない」

反論出来ないので無反応。

はそういうの聞かれるの?」
「根掘り葉掘り聞いてくる人はいるだろうね……
「大人ってなんでそんな面倒くさいの」
「人の幸せは面白くないからね……
「オレそんな人間になりたくない……
「みんな若い頃はそう言うんだよ……

だが、万が一宗一郎と歩いているところを目撃でもされたら、どう答えるのがベストかというシミュレーションはしておかねばなるまい。宗一郎の言うように「詳しいことは話さずとも嘘は言っていない」切り返しを何パターンか用意しておかなければ、咄嗟に何を言ってしまうかわからない。

宗一郎のように「湘南で知り合った人で、最近再会して」くらいの説明で終わってくれれば御の字だが、ざっくりと「何してる人?」と聞かれるのが一番怖い。「仕事は?」とダイレクトに聞いてくれるなら、言いづらそうに「今仕事してなくて……」とでも言えば失礼なことを聞いてしまったと引くか、あるいは無職なんてと罵られるだけで済むと思うが、「何してる人?」は具体的な人物像でなければ返答にならない。「バスケ関係で……」くらいで納得してくれるだろうか。

まあ恐らく親の知るところになる前には、現実を知った宗一郎が飽きるのではないかと思っているが、それよりは宗一郎の親の方が怖い。ただでさえ子離れに失敗気味のようだし、息子が「彼女出来たよ! 30歳会社員!」などと浮かれて言わなければいいのだが。

腹のあたりにある宗一郎の手は、どこか強張っていて迷っているように見える。どこまで勝手に触れていいのかわからないんだろう。彼の過去の恋愛については詳しく聞いていないが、中高ととにかく部活が忙しくてのんびり恋愛している暇はなかった――ということだけは聞いている。何人か付き合った人がいたのだとしても、こんな時に手慣れるほどの経験値は稼げなかったのかもしれない。

さてどうしたものか。良識の範囲内で、という前提はつけたが一応大人同士の恋愛関係である。にどうしても譲れない主義があれこれあるならともかく、元彼とは特に珍しくもない付き合いを3年もしてしまったことは宗一郎も知っている。今いきなりプラトニックな関係を主張したところで説得力は皆無。というかそもそもには結婚して子を持つという願望があったことも宗一郎は知っているはずだ。色々無駄。

かといって余裕の年上ぶって目を細め、「困った子ね、私を抱きたいの?」なんて芝居がかったセリフを言えるわけもないし言いたくもない。ただどうしても、宗一郎に対して「子供」を意識してしまう状態で事に及んでしまうのが怖い気がした。彼を大人の男性と認識してしまうのが怖い。

それに、お互い裸になって見つめ合うなんてことを想像するだけで途轍もない羞恥が襲ってくる。

だって神くんだよ。ジャージ着た高校生の神くんだよ。それとセッ――

「無理!!!」
「えっ何が!?」
「あ、いや、違、ごめん」
「ていうかせっかくふたりでいるのに考え事?」
「ご、ごめん」
「どうしてそうい……あれ、耳赤いよ? もしかしてなんか意識してる?」
「ヘァッ!?」

耳たぶにフッと息を吹きかけられたは慌てるあまり、身を竦めて振り返った。宗一郎は見事なニヤニヤ顔。おかしい。私の方が余裕ないみたいじゃん。待って、この子部活で忙しすぎてリアルな恋愛経験乏しい子なんじゃなかったの。

「そりゃまあ、したいよ、色んなこと。好きなんだし。でもがその気になってないのに無理強いしてもしょうがないだろ。オレのこと子供子供って言うけど、さっきからの方がガチガチに緊張してるじゃん。大丈夫、無理矢理押し倒したりしないよ。嫌われたくないし」

は口元だけ笑ったまま、異次元に放り出されたような目をしていた。えーと……

「あのさあ、ほんとはあんまり覚悟出来てないでしょ」
「そう、なのかなー……?」
「自分の方が人生経験豊富だからオレをコントロール出来ると思ったんじゃないの?」
「そういうわけでは……
…………わかるよ、オレを恋愛や性愛の対象として、見たことないんだろ」

また背中が冷たくなる。正直、ない。

「しょうが、ないじゃん、そんなの、最初からそんな目で、見てる方がおかしいよ」
のそういう真面目なところ好きだよ」

言いながら宗一郎は頬に触れる。途端には頬がカッと熱くなって、その居心地の悪さにそわそわしてきた。なんで急にこの手のひらに反応してしまうようになったんだろう。暖かくて、だけど少しざらついていて、大きなこの手を。

「無理矢理襲ったりしないって言ってるでしょ」
「べ、別に、そんなこと……
「じゃあ今すぐベッド行く?」
「えっ、そ、それは!」
「ほら、無理だろ。そうやって虚勢を張るのやめなよ」
「だって……

優しく頬を撫でてくれる宗一郎の手に手を重ね、は喉を詰まらせた。

「だって、おかしいじゃん、私の方が余裕ないみたいで、神くんのこと、そういう対象だと思ったことなくて、思っちゃいけないって、だけどこんなことになっちゃったし、自分でもどうしたらいいかわかんないのに、神くんめっちゃ余裕だし、こんなの、めちゃくちゃ好きみたいじゃん」

名前で呼ぶことも忘れたが一気にブチ撒けると、宗一郎はまた優しく抱き締めて頭を撫でてくれる。は泣きたくなってきた。何なの、私なんでこんな神くんに甘やかされてんの?

「めちゃくちゃ好きになってよ」
「そんなつもりじゃなかったのに」
、いつもそれだよな。全部そんなつもりじゃなかった」
「なんでそうなるの」
「そりゃが自分の心に正直にならないからだよ」

そんな自覚のなかったははたと止まる。

「本当は色んな願望とか欲求とか持ってるのに、はそういうもの全部無視して、いつも何かに遠慮して自分を偽って誰にも文句を言われない人間を演じてる。にだけ見える亡霊に怯えて、あれもダメこれもダメ、だからいつも『こんなつもりじゃなかったのに』って後で苦しくなるんだよ」

私だけに見える亡霊、それは元彼と別れてからずっとの視界から消えることもなくて――

「だって……だって私、元彼と別れて湘南行ってくれって言われてからずっと、自分の人生がどこに向かってるのかわかんないんだもん、20代の間に結婚して子供産んで奥さんとお母さんになれるって思ってたんだもん、子供の時からそういう大人になるんだって思ってたんだもん、なのに30、30になってんのに、神くんにドキドキしてきちゃって、そんなのどうしたらいいかわかんないじゃん」

は半泣き、宗一郎はそんなの言葉にゆったりと笑顔を見せる。

「オレも小学生の頃は大学で日本代表になってると思ってたよ。その次はNBA選手」
「そっちはまだ可能性あるじゃん」
「可能性の話ならだって同じだろ。30程度で何言ってんの?」
「30程度ってなに!」
「オレも母親が31の時の子だよ」
「そっ、それはその、そういう人も、いるけど」
、そんなに子供欲しいの?」
「えっ、そういうわけ、でも、ないけど」
「だから要するには30までに既婚子持ちっていうステータスが欲しかっただけなんだろ」
「悪かったな!!!」

とうとう爆発しただったが、宗一郎はまだ笑顔だ。というかなんだか嬉しそうだ。

「過去は覆らないけど未来はいくらでも作れるのに」
「そういうポジティブな思考、苦手だもん」
……、もう少し待って」
「何が」
「オレが社会人になったら結婚してあげるから」
「は!?」
「そしたらすぐ子供作ろ」
「まっ、待て!」
「大丈夫、あと2年」
「待ちなさい!!!」
「待つのはだよ」
「待って……マジで待って……あんたほんとになんなの……

付き合い始め初日ということも忘れ、は宗一郎の胸を押し返しながら唸るように声を上げた。宗一郎は依然優しげな笑顔で苛立ちが募る。

「ふざけないで、なんでそう気軽に考えんの?」
「ふざけてないし、気軽になんか考えてないよ。こそ勝手にオレの気持ちを解釈しないで」
「いやどう考えても思いつきでしょ!」
「それはがそういう思いつきでしか生きてこなかったからだろ!」

と視線が合うように少し背を丸めている宗一郎は下っ腹のあたりで手を組み、まだふたりが親しくなかった頃に見せていたような、少し陰りのある目で睨んでいた。は怯む。

はいつもフワフワした実態のないことにばかり気を取られて現実逃避、湘南の楽しかった日々から切り離されたストレスを1年以上も放置、オレから見ると『私は不運だ』って言うだけで何もしない人に見えるよ。オレはそんな曖昧な感覚で生きられない世界で戦ってる。それを思いつきって何? オレはと一緒にいるためにはどうしたらいいのかってことをいつも考えてる。精神論なんかじゃなくて、現実にどう立ち回るのがベターなのかってことをひとつひとつ検証してる」

奇跡的に再会を果たして以降、宗一郎は本気でそれを考えてきた。宗一郎だってが常に怯えている「世間体」というものがわからないわけじゃない。そのために出来ることがあるとすれば、こそこそ隠れて被害者面をすることではないと思った。

現実と向き合い、女性の方がかなり年上という組み合わせによるリスクを想定し、それを回避出来るように、自分と異なる人間を嫌悪し迫害したがる人々から守っていかれるように。はちょっとぼんやりしたところがあるから、自分が努力をしよう、そう思ってきた。

は宗一郎の言葉を聞きながらまた元彼のことを思い出していた。26歳の誕生日が迫る中、当時のは「あいつのんびりしてるから、具体的なこと考えてないだろうな。結婚て結構手間がかかるから、ちゃんと計画していかないと」と思っていた。

そうか、あいつにとって私の言う「今後のこと」は「気軽な思いつき」だったのか。

何勝手に決めてんの? オレの仕事やうちの親の都合とかなんも関係ないわけ?

考えてなかった。がシミュレーションしていたのは結婚して所帯を持ったあとの自分たちの日々のことばかり。20代のうちに子供を産むにはどのくらいの蓄えがあればいいのか、産休は、職場復帰は、ふたり目は、新築一戸建てはいつ頃買うのがベストだろう、子供の教育費と上手く並走させるには。それしか考えていなかった。元彼がそれを望んでいるかどうかすら、聞こうともしなかった。

……でも、あいつはそんな風に先走った私を一瞬で嫌いになり、突き放した。勝手に結婚のことなんか考えてた女なんかいらない、オレはオレが結婚したい時に結婚する。

……いつから、そんなに、真剣に考えてたの」
「春に再会したときから。その時に覚悟したんだよ。このチャンスを逃すのはバカだって」

混乱とは別のところではまた宗一郎のメンタルのタフさに感心していた。本人の言うように、曖昧なフワフワした感覚で生きていかれる場所ではないんだろう、勝負の世界は。

「逆に言うと、それくらい出来ないようじゃ10歳も年上の人を愛する資格はないと思ったんだよ。オレは子供じゃない、大人の女性に釣り合う男なんだってことを証明するには、現実と戦えなきゃ、ダメだって。オレはが好きなだけで、大人のお姉さんに甘やかしてもらいたいわけじゃないから」

組んでいた手をほどき、宗一郎はの両手を緩く握り締める。

「でもは別にそれに応えようとか考えなくていい。それはオレが勝手にやったことだし、にはの考え方があればいい。でも一応付き合うことになったんだし、少しでもドキドキしたりするなら、それは拒絶しないで、受け入れてほしい」

感じるままに、心が求めるままに。

「せめて、キスくらいは慣れてよ」

そっと重ね合わされる唇、はその暖かな感触に目を閉じた。

私は今、ドキドキしている。

高校生の男の子だと思っていた「神くん」は今、その大きな手で私の頬を包み込んで、優しくキスをしている。手だけじゃなくて、長い腕、広い肩、何もかもがもう「男の子」には見えなくて、自分を包み込んでしまいそうなその体に緊張していたし、怖さも感じていた。

それは自分を解き放つことへの恐怖なのかもしれない。

どういうわけか夢中で愛してくれる宗一郎に心惹かれ、ときめき、その体に触れたいと思ってしまうことへの恐怖のような気がした。心を解き放ったら私にしか見えない亡霊が襲いかかってくるかもしれない。それが怖くて。

……?」
「実際に付き合えば、幻滅してくれるだろうと思った。嫌いに、なってくれるはずだって」
「難しいね。嫌いになれそうもないよ」

手を伸ばし、も宗一郎の頬に触れる。子供らしい柔らかな頬はない。

「だったら、もっと好きになって」
……
「私が根負けするまで、私が本気で宗一郎のこと好きになっちゃうまで、愛して」

子供じゃないと言うなら、その体で私を抱いて、本気にさせて。

軽く宗一郎を突き飛ばしたは勢いよく立ち上がると、何も言わずにバスルームに飛び込んだ。頭からシャワーを流し掛け、見えない亡霊に押し潰されそうな恐怖に何度も深呼吸をする。このシャワーで過去のすべてを洗い流して、宗一郎という現実と向き合うために。