急に恐怖感に襲われて泣いたはしかし、2日後に生理が来たことで「これがPMSってやつか……」と腕組みで納得した。例の「本社で肩身狭い同盟」のひとり、人事の江崎さんがずっとPMSに悩まされていると聞いていたので、たぶん私もそれだったんだなと腑に落ちた。
ので、生理中でぼんやりはしていても、あの妙な恐怖から解放されたはふわふわした足取りで自宅に帰ろうとしていた。木曜日、祖母の惣菜は水曜には尽きるので、木曜と金曜は自分で作るか買ってくるか外で食べてくるかしかない。
正直面倒くさい。神と会っていた頃は彼との食事の都合により祖母の惣菜は尽きることがなかったし、生理のときでも今ほど食事が億劫ではなかった気がする。今はもう腹は空腹を感じるのに、脳が食事の手間を拒否している気がした。
一応最寄り駅にはコンビニや牛丼チェーンやお弁当屋さんなんかがあるので、そこで買ってくればいいだけなのだが、何を食べたいのかわからないくらい、全て面倒くさかった。早く帰ってシャワーでさっぱりして、早く寝たい。やらなきゃいけないことはあるけど、そういうの全部生理終わってからやるから、今は何もしたくない。
仕事に出ている以上、日中はいくぶん頭が緊張しているのかどうか、昼の食事はそれほど億劫ではなかった。今日もきちんと食べている。だからまあ、食べなくてもいいか。明日も朝と昼だけ食べられれば次の日は土曜、祖母の優しい食事にありつける。ダイエットになっていいかもしれない。
食事を放棄しても問題なさそうな「根拠」がまとまってきたは気が楽になってきて、そよそよと頬を撫でる晩夏の風を目一杯吸い込んだ。別にいいじゃん、一食くらい食べなくたって死にゃしないよ。食費も浮いて一石二鳥じゃんね。よしよし、さっさと寝よう!
「さん!」
ずいぶん気が楽になってきていたというのに、背後から呼び止められたはガクリと膝を折った。そして一瞬みぞおちのあたりが冷たくなる。ちょっと待って神くん、まさかストーカー化しちゃったんじゃないでしょうね……
だが神はジャージ姿にスポーツバッグを斜めがけにし、いかにも練習帰りですという格好。そして片手に大きめの紙袋を持っていた。目の焦点が合っていないとかいうことはなさそうだ。
「ひ、久しぶり……どうしたの、急に」
「宅配ボックス使おうかと思ってたんですけど、ちょうどよかった。これ」
神は手にしていた紙袋を差し出す。特に変わった様子もなく、いつもの彼という気がする。
「さん忙しいと食事とか雑になるでしょ。だから差し入れです。少しでいいから食べてくださいね。食事を抜くなら疲れてないときにしないとダメですよ。疲れた体には栄養が必要なんですから」
は呆気にとられて口をちょっと開けたまま神を見上げていた。すると神はの手を持ち上げて紙袋を持たせ、さらに屈んで顔の前で手をササッと振った。
「さん大丈夫ですか。帰ったらちょっと食べて風呂入ってさっさと寝てくださいね」
そしてすぐに体を起こすと普段通りに優しく微笑む。
「じゃ、また!」
「え、あ、うん、あり、がとう、ごめん、わざわざ」
「いえいえ。これから友達ん家行くとこなので。猫飼い出したっていうんで、遊びに」
「お、おお、にゃんこ。いいね、猫」
「じゃまた連絡しますねー!」
神は言いながら踵を返して走り去ってしまった。
えーと。これは、一体。
は紙袋を片手にとぼとぼとマンションに向かい、自宅に戻った。テーブルに紙袋の中身を出してみると、和惣菜のパックが3つとカップスープ、カットフルーツ、そして焼きプリンが入っていた。
なんか、今私にちょうどいいラインナップなんだけど、なんであの子わかったんだ? てか私、忙しくて疲れると食事するの面倒くさいって……言ったかな。覚えてない。もしかしたらそんなような話、したかもしれない。なんかここ数ヶ月いっぱい話したから、何話したかなんて全部覚えてないよ。
カットフルーツのパックを開き、添えられていたピックでパインを突き刺して食べてみた。酸味と甘味にちょっとだけ頬が痺れたけれど、さわやかな果汁が全身に染み込んでいくような錯覚を覚えた。そっか、ご飯めんどくさかったら、こういうのでいいんだ。忘れてた。
神くん、急に私が距離を置いても、気にしてないのかな。もしかしてストーカーになっちゃったのかと一瞬怖くなったけど、なんか違うみたいだし。てかちゃんと友達付き合い、あったんだな。
パインの香りがするため息、は意味もなくニヤリと笑った。
ほんとにバカだなあの子は。どうしても諦めないんだな。諦めるって機能がついてないんだよな。
バカめ、これで私が絆されると思ったら大間違いだ。
「忙しいの終わったんですか?」
「一応ね。差し入れありがとう。疲れてたから助かったよ」
さらに一週間後、はしれっと神の誘いに応じていた。生理も終わって気力が戻ってきたし、神に翻弄されているだけの自分が嫌になってきたし、神と出かけなくなって予算に余裕があるから気も大きくなっていた。完全ワリカンがルールだが、自分だけ高いものを食うのは問題ないので。
というわけでは「学生にはちょっとハードル高いかな~?」というレベルの店を指定、案の定神は部活終わりの腹を20パーセント程度しか満たせないような料理を注文しただけだった。
そうだこの手があったか、ということに気付いたのは2日前。神くんと会わなくなったから今月は余裕あるなあ、と思ったところで閃いた。これよ! 収入格差! これだけは親の金で学生やってる身分ではどうにもならない深い溝! 高い壁!
愚かな少年よ、私はそんな簡単に絆されるほどヌルい大人じゃない。だからそろそろ諦め――
「さん、色々策を講じてオレを諦めさせようとしてるんですね」
「ホワッ!?」
口の中にあったアヒージョのマッシュルームが飛び出そうになったは間の抜けた声を上げた。神は頬杖をついて優しく微笑んでいる……というか若干ニヤついている。湘南で毎朝挨拶を交わしていた頃には見られなかった表情で、はフルーツティーを流し込む。
神くんてたまにこういう黒い顔するんだよな……
「仕事が忙しかったのも嘘でしょ。連絡を断てばオレが諦めると思って」
「そ、それは」
「高い店に行けばオレの気持ちが萎えると思いました?」
「ま、まあね……」
「オレがそんなメンタル弱いと思ってました?」
「思ってないです……」
充実していた気力が萎えただが、神はやけに楽しそうだ。
「あのねさん、さんは自分のこと何枚もうわ手の大人だと思ってると思うんですけど、湘南にいる頃からさんは突拍子もないことをするし言うし、ちょっと抜けたところもあるし、何も考えずに行動しちゃうようなところもあるし、そういうとこ、めちゃくちゃ可愛いんですけど、全部バレてるので、オレは諦めるとかいう以前の話で」
神の頬はいつしかほんのりピンク色に染まっていた。
逆効果!!!
後悔先に立たず、は背中を丸めて神の3倍近い支払いを済ませると、トボトボと店を出た。爽やかな秋風が吹くようになった道の上、いよいよ打つ手がなくなったは隣で幸せそうな顔の神をちらりと見ると、ため息を付きながら足を止めた。
「神くん」
「はい」
「時間ある?」
「ありますよ」
「じゃ、ちょっとこれ、付き合って」
は目の前にあったバス停を指差す。終点は夜景の美しさで有名な公園、神は「わかりました」と返事をしつつまたニヤリ顔だ。
ふたり並んでバスに揺られている間、は喋りもせずに窓に流れていく景色を見ていた。地味な町の地味な家に生まれ、地味な子供時代を送り、地味な大人になり、地味でも平凡でも、その分平穏な人生を送るものだとばかり思っていたのに、一体どういうことだろうか。
中野営業所に行くくらいなら引っ越す方がマシだと思っただけなのに、私の人生は湘南行きを決めたあの時から何もかもが予想外の連続で、それに振り回され続けてる。いい加減疲れた。
だけど、いい思い出の方が多い神くんに対して「君のことは好きになれない、君とは恋愛出来ない」とどうしても言えなかった。言えなかったし、これだけ熱心に想いを寄せてくれる男の子を「振る女」になりたくなかった。私はもう充分傷付いてきたし、悪意もないのに悪い人になりたくない。
だから、神くんに私を振ってほしい。
私を嫌いになってほしい。
あんな何も考えてない言葉のひとつやふたつ、心の支えなんかにしないでほしい。
わたしなんかやめて、もっと相応しい人を選んで。
それにはもう、これしか手がない。
「神くん、わかった、付き合おう」
すっかり暗くなった公園からは東京湾の夜景が見える。はその片隅で神の手を取って言った。
「……諦めたんですか?」
「ある意味では」
「ちゃんと考えたんですか?」
「そこそこ」
神はあまり納得していない様子だ。仕方あるまい、は無表情、声も低い。
「今さら隠してもしょうがないから言うけど、やっぱり私には神くんの気持ちは幻想だと思う。私の言葉を支えにしてくれてるのは嬉しいけど、そういう感謝みたいな気持ちと恋愛を混同してるだけだと思う。きっぱり拒絶出来ない私が悪いんだってことはわかってるけど、もうこれしかない、実際に付き合ってみて、現実を知ってもらうしかない。そうしたら目が覚めるよ」
つまらない私のつまらない人生、さらに輪をかけてつまらない毎日。そこにキラキラ輝く恋愛なんかない。例え神の気持ちがキラキラ輝いていたとしても、そんな日々に持ち込んだが最期、あっという間にひび割れてくすんで色を失う。
「神くんにはそういう経験がないでしょ。だから現実を経験させてあげる」
「さんにしては強気ですね」
「当たり前でしょ。この歳で10代の子と付き合うなんて、覚悟もなく出来ない」
「一応聞きますけど、付き合うっていうのは」
「ま、まあ、良識の範囲内でね」
「ほんとに覚悟出来てるんですか?」
「そっちこそ。10代のときに30女と付き合った黒歴史を一生背負う覚悟は出来てるの?」
夜の公園はどこもかしこもカップルだらけだ。その中を縫うようにランナーが駆け抜けていき、遠くで小型犬が吠える。その片隅では強く抱き締められて息を呑んだ。痛いくらいの力だった。肩に神の指が食い込み、体が押し潰されそうだ。
「ちょ、痛――」
「、愛してる」
「は!?」
重苦しい神の声にはつい甲高い声を出した。ちょっと待てさっきまでの余裕は――
「神くん痛――」
「宗一郎」
「は?」
「神くんて何」
「え、ああ、そ、宗一郎、痛い」
「、その覚悟、後悔しても遅いからね」
「なん――」
宗一郎の腕が緩んだと思った瞬間、唇を塞がれたはまた息を呑んだ。強く乱暴に求めてしまいたいのを我慢しているような宗一郎の唇、キスなんてものの感触をすっかり忘れていたは全身がぞくりと痺れた。どうしたことか、元カレとのファーストキスは少し違和感があったのに、宗一郎の唇は自分の唇にしっくりと馴染み、心地よさを感じた。
「、好き、大好き」
言いながら宗一郎は何度もキスを繰り返した。息も荒く、の頬を包む手は少し震えていた。そしてなぜか、その手は絶え間なくを求める唇とは逆に冷たかった。
「……宗一郎、怖かったの?」
「……さっきまでね」
東京で再会してからの宗一郎は10代ながらに落ち着き払っていて、いつでも余裕たっぷりという表情を崩したことがなかった。見上げた彼の目は揺れていて、はその双眸を覗き込んだ。私のことを翻弄するばかりの小憎らしいこの人の中にも、恐怖というものがあったのか。
「今度こそ、完全に拒絶されると、思ったから」
「そうしたら、どうしたの」
「そこの海に飛び込みたくなるくらい、悲しかったと思うよ」
潤んだ瞳はやがてゆっくりと細められ、は思わず宗一郎の頬を撫でた。
この人に嫌われたい。この人の心から消えたい。その気持ちは消えていない。
だってまだ分からないんだもん。全然分かんないよ。
「……どうしてわたしなんかがいいの」
宗一郎は表情を崩して笑顔になると、額を擦り付けた。
「あなたは、オレの全てだから」