どうしてわたしなんかがいいの

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高校バスケット界隈では、「神奈川といえば海南大附属」……というのがここ20年ばかりの常識になっていた。だけでなく全国でもトップレベル、全国大会でも上位を争う常連であり、以降大学や日本代表やプロの世界にも出身者がいるようなチームだった。

そんな海南大附属バスケット部のこの年の部長でありキャプテンであり主将――まあ要するにリーダーにあたるのが、毎日早朝から走り込みやシュート練習を欠かさない神宗一郎だった。海南では珍しいスカウトでも特待生でもない、神奈川高校バスケットの最高峰に憧れて一般受験で入ってきた叩き上げの主将である。とりあえずここ20年の間では初めてのケースだった。

その上今でも一番練習をするのが主将、という後輩たちにとってはちょっとめんどくさい存在でもあった。リーダーが練習の鬼なので一瞬たりとも気が抜けない。先輩としてはいい人なんだけどそこだけちょっとしんどい。

とはいえ神はそんな背後の囁き声には無頓着で、良く言えば素直で細かいことを気にしない、悪く言えば極端に我が道を行く性格をしていた。それでも団体競技であるバスケットでは自身の活躍よりもチームの勝利を目指すタイプなので、「その他大勢」出身の主将でも仲間たちからは信頼されていた。

本人は「同時にいくつものことが出来るような器用な性格してないから必死だよ」と言うのだが、まあその驕り高ぶらない姿勢が現在の彼を作ったと言っていいかもしれない。ひたすら自分を鍛え上げることに飽きず、結果が出てもそれを怠るようなこともなく、目指すは高校日本一。

なので部活と勉強で目一杯なのだが、3年生に進級してからちょっと面倒なことが起こった。

神の早朝トレーニングは今に始まったことではなく、何なら中学の朝練から数えても6年目になるのだが、今学期から同じクラスになった運動部所属の女子が一緒に走ろうと声をかけてくるようになった。初めて同じクラスになった子だったし、競技が違うので話したこともなかったのだが、家が近いのだという。それも知らなかった。

最初のうちは断る理由もないので「いいよ」と言っていたのだが、彼女が時間通りに集合場所に現れたのは最初の2日だけ。3日目には5分待っても来ないので連絡をして先に走りに出た。5分ほどすると「うちまで来て」とメッセージが届いた。神は首を傾げて足を止めた。なんで?

もう走ってるよ、と返したのだが、迎えに来て、という。なんで? 理由を尋ねても「いいじゃん」とか「迎えに来てほしいから」などという返事ばかりが帰ってきて、埒が明かない。だが迎えに行くとシュート練習の時間が減る。神はそれを正直に伝えて断り、ランニングに戻った。

彼女は結局大あくびをしながらHR直前になって教室に現れ、やけに距離を縮めて「今朝はごめんね」と囁いてきた。彼女が離れて自分の席につくと、隣の席の女子が低い声で「神、あの子気を付けた方がいいよ」と言ってきた。

なんで?

意味がわからない神は翌日も朝の自主練に出るのだが、その途中でまた「迎えに来て」が来た。さすがに不審に思った神は練習したいと断った。その日、彼女は欠席をした。

さらに翌日、「迎えに来て」は来なかったけれど、今度は普段のランニングコースの途中に本人が待っていた。意味がわからないので不気味に感じてきた神だったが、構わずに走り始める。さすがに彼女の方も運動部3年目なので遅れずについてくる。だが、コンビニに寄ろうだの、自分の家に寄っていかないかだの、やたらと練習以外のことを誘ってくる。

とうとう神は「迷惑だな」と思った。彼女の不可解な言動が迷惑と感じるまでに1週間近くかかったわけだが、そういうわけで神は翌日からランニングコースを変更した。彼女は教室では何も言わず、何度も「明日はどこを走るの」とメッセージを寄越してきたが、毎回「その時の気分で変えてるからわからない」と返し、「決まったら教えて」と返信が来たのでそのまま放置した。

別に決まったコースなんかないよ。あの子と一緒に走ったコースだけ避けて、あとは気分次第で好きな方に曲がったりしてるから、自分でもよくわかってない。別に走るルートが大事なわけじゃないし、目標時間内に走り終えて、さっさとシュート練習に行きたいだけだから。

それでも神は不気味な女子に対してそれ以上思うところはなかった。というよりそんな不可解なことに頭を悩ませている暇がない。何しろ今年は自分が主将となってチームを引っ張っていかねばならないし、去年も成し遂げられなかった日本一を掴まねばならない。

そう思うとつい走る速度が上がる。春の早朝はまだ肌寒く、適度な速度で走っているくらいなら長袖でもいいくらいの気温だが、気持ちの高揚とともに汗が滴る。

海南に憧れ一般受験で入ってきたに過ぎない自分が主将になれただけでも、誇らしい気持ちで胸が膨らむのを感じる。昨年末に先代から主将を受け継いだ時は、ケーキを用意してまで祝ってくれた家族の前で少し泣いてしまった。というか親が泣いていたのでもらい泣きした。

将来なんの役に立つか立たないかもわからない競技生活を両親は本当によく助けてくれた。それを思えばますます速度が上がるし、テンションが上って汗も吹き出す。そうやって心を砕いて応援してくれる人のためにも、もっと頑張ろう。そう思いながら走っていた。すると、

「おはよう! 頑張ってね!」

前方に箒を持った女性がいるな、と気付いた途端、彼女はにこやかな笑顔でそう声をかけてきた。神は思わず速度を落とし、頭を下げて挨拶と礼を返した。また走り出しながらちらりと見ると、何やら大きな倉庫がくっついた会社のようだ。

こんな朝早くから出勤してきて掃除させられてるのかな、大人って大変だな。神はそう思いながら淡々と走っていく。海南の主将の座を手に入れたからには、自分にはまだ大学の4年間が残っている。さらにプロになれたら言うことはないが、その分さっきの女性のような「社会人」は遠く感じる。

ていうかあの人、まだ全然「お姉さん」て感じで、なんなら年も言うほど変わらないような気がする。それなのにこんな早朝から掃除させられるとか、パワハラってやつなんだろうか。なのに笑顔で「頑張ってね」って言ってくれるなんて、親切で優しい人だなあ。可愛いし。

薄気味悪い女子から逃げてたまたま選んだルートだったけれど、優しくて可愛いお姉さんに応援してもらえたのはラッキーだった。大人のお姉さんなのだろうが、既に身長が190に到達している神から見ると、同級生の女の子もあのお姉さんも自分より小さな女性という点で変わりなく感じた。

でも、大人のお姉さんなら気味の悪いメッセージとか待ち伏せはないんじゃないかな。迎えに来てくれって繰り返すばかりの謎女子に比べたら、年上でもああいうお姉さんの方がいい気がする。可愛いし。汗が滴る頬が余計に熱くなった。

明日もあの通りを行ってみようかな、またお姉さんに会えるかもしれないし――

素敵なお姉さんに会えるかも、という浮ついた心を抱えて走っていた神は、お姉さんのいた通りに入ったところで土曜日だったことを思い出して肩を落とした。いやほらこれだからオレら学生は……

もちろん翌日も日曜なのでお姉さんはいない。

だが、こんなことですぐに気持ちが萎えるようなら、その他大勢から主将にまで上り詰めないのである。どうせ毎日走っているのだし、お姉さんがあの大きな倉庫の会社に勤めている人なら、そして相変わらずパワハラで掃除させられているのなら、いつか出会えるはずだ。

毎日不定だったはずの神のランニングコースは確定し、出来るだけ同じ時間になるように調節して走るようになった。するとものの3日目でお姉さんと遭遇。やっぱり箒で会社の前を掃いていて、「おはよう! 頑張って!」と言ってくれた。

頬がじんわりと熱い。お姉さんは早朝でも元気いっぱい、光り輝いているように見えた。というか頬や額が本当に光っている。神はまた頭を下げて挨拶をし、礼を言って走り去る。

神は毎日同じコースを走るようになったのだが、お姉さんは基本晴れていれば同じくらいの時間帯に掃除をしている。当然週末は会えないので、上手くいけば週に5回は会える。しかしすれ違って挨拶をするだけなので、1週間で1分も会っていない。

さらに、ゴールデンウィークでお姉さんに全く会えない頃になってようやく神は足を止め、大きな倉庫の会社は何なのだろうと近寄ってみた。大きな看板や表札はなかったのだが、事務所のような一角のドアに「株式会社オムニア」と書いてあった。わからん。

なんの会社なのか、倉庫にも何も書いていない。事務所も小さく、お姉さんがいつも掃除をしているのは倉庫の前と、歩道、そして倉庫の前にずらりと並んだ自販の周辺。早朝でも走るなら半袖の方が快適になってきた5月、神は自販でスポドリを買い、その場で勢いよく流し込んだ。

これだ!

ゴールデンウィークも終わり、迫る県予選に練習が激化している頃、相変わらず淡々と練習に励んでいる神はある朝、いつものように箒を手にしたお姉さんを目指して走る速度を緩めた。今日のお姉さんは艶やかな黒髪に真っ白なシャツ、膝丈のプリーツスカート。OK、可愛い。

「おはよう! 暖かくなってきたね!」

タイミングよくそんなことを言ってくれるお姉さんが余計に可愛い。神は足を止めた。

「おはようございます。あの、ここの自販、使わせてもらえませんか」
「えっ、もちろんどうぞ。うちの会社専用ってわけじゃないから、いつでも使って」
「ありがとうございます」

ここの自販を使うのは初めてじゃなかったけれど、別に嘘はついていないし。神はポケットから用意しておいた小銭を取り出す。お姉さんの視線を感じるのでなんだか右半身が熱い。だが、神が小銭を入れようとした瞬間、硬貨の差し込み口をお姉さんが手で塞いでしまった。

「えっ!?」
「待って! 買ってあげる!」
「えっ、え!?」
「いいのいいの、遠慮しないで、毎日欠かさず真面目に自主練してるの、偉いよね」

神は予想外の展開に心臓がドキドキしてきて咄嗟に答えられなかった。お姉さん、オレのことそんな風に見ててくれたのか。というかお姉さん手がきれい、柔らかそう。爪は優しい色で、しかも小さい。

「何の競技やってるの? すごく背が高いからバスケとかバレーかな」
「ば、バスケ、です」
「やっぱり! はいどうぞ、好きなの選んで」

ついお姉さんを凝視してしまっていた神は慌ててスポドリのボタンを押す。するとお姉さんはサッとしゃがんでペットボトルを取り出し、手渡してくれた。ちょっと待った、お姉さんなんでそんなサービスしてくれんの……

「学校近いの?」
「あ、はい、海南大附属です」
「ごめん、つい聞いちゃったけど、私去年引っ越してきたばっかりだから、言われてもわからなかった」

朗らかに笑うお姉さんの歯ですらかわいい。そこで我に返った神はペットボトルを手に頭を下げた。

「こんな、すみません、でもありがたく頂きます」
「気にしないで。私ほぼ毎日掃除してるんだけど、君ほど礼儀正しく挨拶してくれる人、いないの」
「え、そうなん、ですか……
「しかもまだ高校生、だよね?」
「はい」
「本当に偉いな~っていつも思ってたの。なのにペットボトル1本じゃ合わないけど」
「そんなこと」

さっきから返事しか出来てない。お姉さんがちゃんと会話に仕立ててくれているのだが、神は焦りが強くなってきて、ペットボトルのキャップをひねり取ると、勢いよく流し込む。いや別に今会話の途中で飲まなくたっていいだろ、何やってんだよオレは。

「ねえ、もしかしてその、君のええと、海南て学校、バスケット、強いの?」
「えーと、はい、強いです。去年、インターハイで準優勝でした」
「え!? そんなに!?」

完全にテンパっている神だったが、お姉さんはさすがに余裕だ。ペットボトルのキャップを空けたり閉めたりしている神を奇異な目で見ることもなく、神がそんなチームの一員であることに余程驚いているらしかった。感心したようにため息をつくお姉さんが腕組みをすると胸元が強調されてしまい、神は慌てて目をそらした。

「私が高校生の時なんかすっごい態度悪かったし、周りもそんな子ばっかりだったし、一体君みたいな子になるのってどういうことなんだろうって考えてたんだけど、もしかして部活で挨拶とかそういうの、厳しく指導されたりするの?」

神は監督の顔を思い浮かべて気持ちを鎮める。監督監督、監督の鼻の下、監督の指毛。

「自分では意識してないんですけど、それも、あると思います。僕は中学の時も部活が厳しくて」
「そういうの嫌になったりしないの? 大人に従うのやだって思わない?」
「今はもう、あんまり。練習の邪魔になるだけなので」

お姉さんはまた感嘆のため息。ただ挨拶してお礼を言っただけなのに、ここまで褒められるとちょっと居心地が悪い。お姉さんとはもっと喋っていたいが、自分からあれこれ話を振れるとは思えなかったし、正直限界だった。神はペットボトルをぎゅっと掴むとまた頭を下げた。

「これ、ごちそうさまでした。お邪魔してすみません」
「こちらこそ足を止めさせちゃってごめんなさい。バスケ、頑張ってね。応援してます」
「あ、ありがとうございます。もうすぐ予選なので、頑張ります」

こんなガキにも敬語を使ってくれるなんて、お姉さんこそ礼儀正しい人だ。ちょっと感激してしまった神は頬が緩み、言いながら少し笑顔になった。だが、名残惜しいが去らねば。大丈夫、明日も会える。

するとお姉さんもにっこりと目を細め、一歩下がりながら言った。

「こんなに努力してるんだもん、大丈夫。きっと勝てるよ!」
「はい!」
「またね!」

手を振るお姉さんを振り切り、神は走り出す。

お姉さんめちゃくちゃいい人だ。

優しいし、可愛いし、オレなんかよりもずっと礼儀正しいし、こんな通りすがりのランナーなのに応援してるなんて言ってくれる、誠実な人だ。

噂によると、例の謎女子はオレと付き合うつもりでいたらしい。

意味がわからない。付き合いたいなんて1回も言われてない。あの子がオレに向けて投げてきたメッセージの殆どは「迎えに来て」だ。付き合いたいと思っている人が一生懸命練習している最中に迎えに来てほしい心理って、どういうことなの? 未だによく分からないし、たぶん一生分からないし、分からなくてもいい。謎は謎のままがいいこともある。

だけどお姉さんのことはもっと知りたいと思った。

お姉さん去年引っ越してきたって言ってた。どこから引っ越してきたの? 名前は? 何の仕事してる人なの? ここって何の会社なの。

…………お姉さん、年下の男とか、嫌いかな。

脳内の1番正直な気持ちが言葉になって浮かぶと、神は思わず足を止めて掴んでいたペットボトルを頬に当てた。冷たいペットボトルが熱い頬を冷やす。

オレ、あの人のこと、好きなのかもしれない。

だってお姉さんはすごく素敵な人だ。もっとたくさん喋っていたかった。もっとそばにいたい。

そういうのって、恋、だよな。

ああいう大人の女の人を好きになるって、ダメなんだろうか。

別に人を好きになるのに年とか、関係なくない? お姉さんが大人だから好きなんじゃなくて、お姉さんが素敵な人だから惹かれてるだけなんだし、それってオレが高校生でもどうしようもないじゃん。

お姉さん、高校生のオレじゃ、ダメかな――