どうしてわたしなんかがいいの

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「おばあちゃん、何飲む?」
「ファンタ」
「ファンタ!?」
「やだあんた知らないの、ファンタ美味しいのよ」

は潮風を背に、自動販売機の前で素っ頓狂な声を上げた。祖母を連れて海に散歩に来てみたはいいが、水分補給をすっかり忘れていた。なので何か飲ませようと思ったのだが、ファンタとは。というか祖母が炭酸飲料を飲んでいるところを見たことがない。いつからそんなもん飲みだしたんだ。

「前は飲んでなかったでしょ」
「まあそうだけど、飲んでみたら美味しかったから」
「おじいちゃん死んでから自由だよね……
「そうなのよ。私今、なんの責任もないの。人生で今が一番ハッピー」

言いながら祖母は頬にダブルピースをくっつけている。どこで覚えたそんな仕草。

だが記憶を遡ると祖父は騒がしいバラエティ番組の類が嫌いで、晩年は時代劇専門チャンネルばかり見ていた。夫の死後、無責任自由ライフに突入した祖母は節約だとして衛星放送を全て解約していた。そのせいで地上波のバラエティ番組に親しむようになったのかもしれない。

自販にはファンタグレープがある。祖母がそれでいいと言うので、は缶のプルトップを開けて手渡した。祖母は痩せこけた両手で缶を掴むと、ぐいぐいと流し込む。

「そういえばさ、あたしハンバーガー食べたいんだけど」
「お昼に? いいよ、おいしいところ予約しようか。鎌倉ならありそう」
「やだ、そういうのじゃなくて、あたしマクドナルドがいいのよ。てりやきが好きなの」
「おばあちゃん、いつの間にそんなジャンクに……
「だってデリのご飯は薄味で野菜ばっかりで飽きるんだもん」
「だってそういうのが売れるんだもん」
「焼肉でもいいわよ。それならあんたん家で出来るでしょ」
「じゃあお昼はマックにして、夜は焼肉にしようか」
「あら、盆と正月がいっぺんに来たみたいね」

ファンタの缶を半分以上飲み干した祖母はウフフ、と笑いながら浜辺に戻っていく。その後ろをのんびり追いかけながら、は風に翻る髪を押さえて大きく息を吸い込む。まあ確かに義父のデリは数年前から西東京と多摩地方の野菜を積極的に取り入れた惣菜を主力に据えているので、素朴だ。以前は祖母も野菜を使った手作りの食事を信条としていたはずだが、何しろ無責任自由ライフ、うまいもんだけ食えればいいようだ。

幸い祖母は深刻な病も抱えておらず、80代後半に突入しているが元気だ。それは母親も義父も同じで、元彼の惨状を知って以来、家族がそこそこ健康であることには感謝が尽きない。

祖父が亡くなり、江崎さんが退社し、親に宗一郎との年齢差をカミングアウトし、元彼に偶然再会してから5年が過ぎた。の日々はまだ激動の中にあり、もしかして祖母のように「あとは死ぬだけ」みたいな状態になるまで落ち着ける日常は来ないのではと思えてくる。

は今、湘南に暮らしている。宗一郎とは、彼が大学を卒業するのと同時に結婚した。

双方の家族からの反対だとか、そういうものは最小限で済んだ。は元々付き合いが少ないし、宗一郎の方は親の前例があるのと、本人がまず自分が望んでのことであると釘を差しておいたらしく、入籍をして新居を構えるまでに大きな問題はなかった。

あったとすれば、宗一郎の親戚筋に保険関係の仕事をしている人がいたせいで、しつこく商品を勧められたり、を不妊と決めつけて治療のパンフレットを送りつけてきた人がいたくらいだろうか。どちらもが対応するまでもなく、宗一郎が片付けてくれた。

結婚式は双方の両親と祖父母だけを招いて湘南の式場で行い、入籍したこともごくごく親しい人にしか報告しなかった。あるいは宗一郎など、本当に親友と呼べる間柄の数人にしか、結婚したことを話していないという。結婚ということだけに絞れば宗一郎の方が慎重に振る舞う必要があったかもしれない。

その宗一郎は日本代表になることはなかったけれど、プロへの道を手に入れた。なので結婚後、は彼の所属するチームの本拠地から一番近い営業所に転勤を願い出た。数年ぶりの営業所事務だったが、湘南の営業所に比べると実に和やかな働きやすい雰囲気の営業所で、また、自分たちを詳しく知る人のいない環境で過ごした新婚生活はの不安を和らげてくれた。

だが、無情にも宗一郎はプロ2年目に怪我で引退と競技生活の断念を余儀なくされた。

それをきっかけにふたりは湘南に移住したのだが、その際に手を貸してくれたのが、誰であろう、例のぎっくりいってしまったおじいちゃんこと、亀田さんだった。

というかは湘南への移住なんてことは考えてもいなかったのだが、宗一郎が怪我で療養している頃、デリが繁盛している義父が支店を考え始めたというので、冷やかしで湘南の古民家を見に行ったことがあった。古民家と言っても趣のある邸宅などではなく、古いだけの空き家だったが、現地に行ったら玄関に亀田さんが立っていたのである。そういえばおじいちゃん地主だった。

そこからと宗一郎の人生はまた転がりだし、ふたりは宗一郎の怪我が治りきらないうちに湘南に越してくることになった。改めて亀田さんが紹介してくれた古民家で、こちらはかなりの大きさがある田舎家だった。そこでは幼児向けの英語教室と、移住コーディネーターをやっている。

亀田さんは古くからこのあたりに住む地主だが、湘南は湘南でも人気のある地域の外にはご多分に漏れず空き家が増えているそうで、億単位の金が必要な移住ではなく、なんなら東京都心に勤めたまま移住出来るようなプランを推進しているそうな。その現地スタッフを探していたのだという。

おじいちゃんいわく、なら真面目に勤める人間であることは知っているし、他の地域から湘南に越してくるということのメリット・デメリットも実体験として知っているし、かと思えば宗一郎は湘南生まれ湘南育ち、地元の知識なら彼に聞けば間違いもないので最適な人材だという。

おじいちゃんの記憶の中では高校生だった神が気付いたら大人になっていて、しかもと結婚していたことについては、ふたりが知る限りでも珍しい反応が出た。なんと「ちゃんみたいに堅実で真面目な人を選んだ宗一郎くんは賢い。人生は長いんだから、チャラチャラした女はダメだ」という。年が離れていることについても「いいじゃないか、姉さん女房をもらった男は幸せなんだぞ」と、さしもの宗一郎まで驚くご意見であった。

というわけで移住コーディネーターをしつつ、実の父から教わった発音によるごく幼児向けの英語教室をやっているは基本、自宅で仕事をする日々だ。一方の宗一郎は体の調子が問題ない頃になると就活を始め、ほどなくしてテーマパークの設備保全の仕事を見つけてきた。

聞けば就職相談に乗ってもらっていたハローワークの職員さんの思いつきだったそうだが、面接に向かった宗一郎はその場で立ち上がって手を伸ばし、会議室の天井に触れた。ある程度の高さなら脚立がなくても届きます。その場で採用だった。

そういうわけで職場では大変重宝されているらしい宗一郎だが、すぐに作業着姿で超長身のかっこいいお兄さんがいると常連客の間で話題になり、表に出る仕事も兼任しないかと言われては逃げ回っているらしい。なんで逃げるの、特別手当がつくならやりなよと憤慨しただったが、本人は「夫が女の子にキャーキャー言われてもいいわけ」とお冠だった。やりたくないが、表に出たらキャーキャー言われる自覚はあるらしい。

が、金は必要なのである。結婚3年目、宗一郎が転職したその年には子供を産んだ。

というか、結局巡り巡って湘南に暮らすこととなった現実を前に、ふたりはここで生きて家族になることを決意し、移住直後に避妊をやめた。ふたりはいつかひとりでも授かれば充分、とのんびり考えていたのだが、予想に反してすぐに妊娠、初期の頃は宗一郎がまだ就活中という有様だったが、ここでも亀田のおじいちゃんがたくさん援助をしてくれて乗り切ることが出来た。

の母と祖母はもちろん孫ひ孫に喜んでくれたが、どうもこのふたりは宗一郎にはそれほど親しみを感じないらしく、それなりの関係のまま今に至る。ところが義父の方が宗一郎をすっかり気に入ってしまい、ふたりの収入が少ない時期を積極的に支援してくれたのは彼だった。亀田のおじいちゃんといい、どうにも男性に好かれやすいのかもしれない。

そんなわけで義父はひとりでも遊びに来るようになってしまったわけだが、やはり湘南での支店に未練があるようで、デリとカフェはもちろん、併設のペットサロンで保護活動を始めたいと考えており、それに一枚噛まないかとを勧誘している。

一方の宗一郎は怪我にずいぶん落ち込んだものの、亀田のおじいちゃんが庭にバスケットゴールを設えてくれたので、リハビリがてら自分のペースでボールに触れるようになった。それを見ていた亀田のおじいちゃんの甥っ子がミニバスチームを作りたいと鼻息が荒いが、まだ実現していない。

というわけで弱冠24歳で夫と父親の宗一郎だったのだが、ここで宗一郎自身の親も仰天する事態が起こる。子供を設けることはの願いのためでしかなかった宗一郎は、生まれてきた我が子にドハマり。あまり外で言うなとにきつく口止めされているが、迂闊に「お子さんかわいい?」などと聞かれようものなら、最低30分は我が子推しを語りまくる人物になってしまった。

は当初、こんな流転の人生なのだし、その日その時を大事に臨機応変に子育てをしていきたいと考えていたのだが、我が子推し激しい宗一郎は過保護過干渉まっしぐら、これには主に宗一郎の父親が自身の体験と反省を元にやりすぎはよくないと苦言の日々だ。あまり説得力がない。

だが当の子供自身が幼児ながらに淡々とした子で、その辺は思い切り宗一郎に似たのではともっぱらの噂だが、現在父親の過保護過干渉には毅然と拒絶をする2才児である。今日もひいおばあちゃんと手を繋ぐのだと決めてしまったらしく、父親が手を取ろうとすると怒る。

そんな我が子と祖母を潮風に吹かれながら眺めていたの背後から、宗一郎の心配そうな声が聞こえてきた。パーキングが離れているので停めに行っていたが、子供が心配で走って戻ってきた様子。

「大丈夫だって。さっき線を引いて、そこから出るなって言ってあるから」
「でももしおばあちゃんがそこからはみ出したら」
「それでもあの子は出ないの、知ってるでしょ」

つまりそういう性格だ。基本的に一度ダメと言われたことは守るのだが、逆に言えば一度インプットされたことはそう簡単に覆らない頑固者であり、それはそれで雑にダメ出しをすると修正が効かないというやりづらさがあった。

「おばあちゃん昼マックで夜焼肉がいいって」
「で、明日はラーメンか? この間のドロドロのつけ麺えらく気に入ってたよな」
「かもしれない。まあもう不摂生くらい、好きにしたいよね」
「それはまあ、そうなんだけど」

防波堤に腰掛けていたの隣に座った宗一郎は、保冷ボトルを取り出して中身を流し込む。この春、出会って10年目の記念にオーダーメイドで作ったツバメマークのボトルで、と色違いのお揃い。中身は亀田のおじいちゃんの知り合いが作っている大麦で作った麦茶。移住後は宗一郎の方がひと手間中毒になっていて、子供の食にもうるさく、に習った料理はそのために活かされている。

「でも……一緒に暮らすなら毎日そういうわけにはいかないよ。そんなジャンクな食事」

宗一郎の渋い顔には吹き出す。まだ決定事項ではないのだが、祖母は東京の家での生活が息詰まるようになってきたと言い出し、しかし仕事が忙しい娘と義理の息子の家での同居は気が進まないらしく、と宗一郎が住む広い家に置いてもらえないかと希望している。

確かには基本自宅にいるし、祖母は歩行に問題がないので日常生活の介助の必要は少なく、かつ自宅で仕事をしている以上は子供を見ていてもらえるという、そこそこ利害の一致は見ている。家が広いのと、祖母は宗一郎に一切干渉しないのと、祖父の仕事の関係で祖母は年金の額が高く、それを全て家計に入れると言っているので、宗一郎も悪い話ではないと考えている。

彼が心配しているのは何しろ子供のことで、賞味期限が切れた食品を与えるのではないかとか、転んで擦り傷を作った時に唾液を塗り付けるのではないかとか、あれこれ想像しては腕を組んで唸っている。正直それをやりがちなのは宗一郎の母親なのだが、いつかの状態だ。

「てかお義父さんもこっちに店出す時は泊めてほしいとか言ってたしな……
「亀田のおじいちゃんもしょっちゅう来るし、みんなの家みたいになってきたよね」
「オレとと子供のスイートホームなのに」
「ま、タダほど高いものはなしってね」
「タダじゃないじゃん30年ローンじゃん絶対ローン終わる前に倒壊するよあの家」
「いまさら何言ってんだ」

宗一郎はたびたびそう嘆くが、現在の家は亀田のおじいちゃんから相当安く都合つけてもらった家だ。一応安全性は確認済みだし、リフォームも込みで30年ローンなのでコネに勝る得はないのだが、英語教室含めて他人の出入りが多すぎる家というものにまだ納得しきれていない様子だ。

あるいは子供のことを考えると「駅まで平坦な都市部でもなく田舎でもない地域の新築一戸建て」が最良なのではないかという考えが払拭出来ないらしく、しかし時すでに遅し、子供を作ると決めたときには現在の家に住んでいた。

「あの家だから好きなだけバスケの練習出来るんでしょうが」
「そっ、それはそうなんだけど」
「ゴールポストだけじゃなくて友達と2on2出来る広さの庭、そんなの買えないでしょ」
「そうなんだけど……!」
「おばあちゃんのお金、亀田のおじいちゃんの援助、お義父さんの仕事に噛めばそれも収入」
「そうなんだけどー!」

この中で言えば特に亀田のおじいちゃんは全くの他人ながら、親しい友人という感覚で知り合いにもらった米だの野菜だの魚だのをよく届けてくれる。それを一番消費している宗一郎は両手で顔を覆って嘆いた。すいませんまだ20代なのでめっちゃ食います。

すると浜辺で遊んでいた子供と祖母が手を繋いで戻ってきた。

、お腹減らない?」
「いいよ、そろそろ食べに行こうか?」

だが、本人に聞いてみたところ、子供は茹で卵が食べたいという。ファストフードの方がいいと言い出さなかったので宗一郎は嬉しそうだ。たまごくらいいくらでも茹でたる。

「じゃあおばあちゃん、テイクアウト……持ち帰りでもいい?」
「何でもいいよ。宗ちゃん、あたしも茹で卵食べたい」
「じゃあ車取ってきますね」
「やだーばばといくー」
「じゃあみんなで歩いて行こうねえ」
「えっ、でも」
「大丈夫だよ、そんなに遠くないって」

防波堤から立ち上がったの背中を支えた宗一郎はちょっと困り顔で頷き、の腹にそっと触れた。は現在、第二子を妊娠中。予定日までは3ヶ月を切っている。

そういう意味でも広い家と周囲の人々の支援がどれだけ助けになっているか知れない。だから宗一郎は嫁と子供と自分だけのスイートホームへの憧れを抱えつつも妥協することを選んだ。ダメ元で挑んだ二番目だったが、あっさり妊娠、これを亀田のおじいちゃんあたりは「相性がいい」と言う。

「あんまり動かないのもよくないんだから、歩こうよ」
「そうなんだけど、つい」

愛する嫁の腹からまた愛しき我が子が出てくると思うと気が気じゃない宗一郎だったが、は先を行く祖母と子供の後を追って歩き出す。そして手を伸ばし、宗一郎の手を取った。

「だったら手、繋いでて」
……、今すごくチューしたい」

平日の午前中、浜辺は人もまばらで、先を行くふたりは振り返りもしないので、しようと思えば出来ないことはなかった。だがは人差し指で宗一郎の唇に触れてニヤリと笑った。

「あとでいっぱいさせてあげる」