天使と悪魔

12

突然健司が行方不明になった時、はしかし取り乱さなかった。

朝目覚めたら隣には健司のぬくもりがなくて、シャワーでも浴びているのだろうかと部屋を出てダイニングテーブルに近付くと、簡単すぎて拍子抜けしてしまう書き置きがあった。

上に行ってくる。ママとドノさんに事情を話して、今日から名前を変えて、オレのことは忘れて

一番最初に出てきた感情は怒りだった。健司というのは変なところでかっこつけたがる。私を守るためにひとり上に乗り込んでいこうなんて思っちゃって、そのヒロイックな思いつきに奮い立ってしまったら止められなくなってしまったんだろう。バカ! なんの解決にもなってないじゃない!

怒りがおさまると、次はげんなりしてきた。ママとドノさんに話すって、何をよ。私たち実はかくかくしかじかで実験体でした。そんで色々あって恋仲になったけど、健司がアンブローシアに乗り込んじゃったの! ってそんなのママが泡吹いて倒れるだけじゃない! ドノさんなんか信じてくれないよ!

それが過ぎてようやく涙が出てきた。

健司が避妊具をつけていないことは数日前から気付いていた。が、はそもそも体調管理のために経口避妊薬を服用しており、妊娠の可能性はないものの、無断で避妊をしなかったことを、どう突っつくべきかと考えていたところだったのだ。私が子供欲しいとか前に言ったからかな……そう思うと涙が出てきた。

子供が出来たら出来たでそれは嬉しいけど、それは健司の代用品にするものじゃないでしょ。健司がいなくても子供がいれば寂しくないよ、なんて言うわけないじゃん。ふたりの子供ならふたりで育てたかったのに。ふたりでおじいちゃんとおばあちゃんになりたかったのに。

偶然同じ頃にさらわれて、ふたりとも未知の免疫細胞を持っていて、優しい父と母に守ってもらって、その時からずーっと一緒なのに。途中嘘をついて喧嘩ばかりしてたけど、やっぱりふたり一緒がいいねって、結婚なんてちょっとまだ恥ずかしいけど、だけど毎日手を繋いで眠りたいねって、やっとそういう風になれたのに。

私たちがそうやって「恋仲」でいられた時間は半年もなくて、健司が企てた妊娠も薬飲んでたからありえなくて、私ひとりでこの翔陽町に取り残されて、どうしたらいいの。健司のいない翔陽町でひとり、ひとりになったことなんかなかったのに。

半身をもがれた気分だった。

丸一日何もする気が起きず、ベッドの上で健司の服にくるまっていたは、2日目にようやく大荷物を背に家を出て、孤児院へと向かった。書き置きのように全部ママに打ち明ける気はなかったが、健司同様この孤児院は気が休まる「実家」なのだ。

ママには、健司が仕事でアンブローシア近くの町まで行ってしまった、長くかかる仕事らしいからここにいたい、と言った。ママは両手を広げて大歓迎、も大勢の子供に囲まれていると気が紛れた。朝からママを手伝って厨房で働き、子供たちと遊びながら洗濯をして掃除をして、夜は甘えん坊に囲まれて眠った。

そうして少しずつゆっくりとママにどう話そうかと考えていた頃。夕食を終えてそのまま寝てしまった子をベッドに運んだり、まだまだ眠くない子供たちに本を読んで聞かせたりしていた宵の口のことである。

孤児院は翔陽町の噴水広場の南を少し下った場所にあり、外縁地区では珍しい小高い丘の上にある。周囲は工房に囲まれていて日中は騒がしいが、夜になると静まり返るので孤児院としては問題がない。その孤児院をぐるりと囲む鉄柵、正面入口の堅牢な門扉に施錠していたママがけたたましい悲鳴を上げた。

ただ、幸いママは孤児院稼業が長いと言うのに芋虫毛虫の類が大の苦手で、子供たちがそれらを手に持って見せに来るたび悲鳴を上げる。なので幼い子供たちはまたママが虫を怖がっているのかと笑っていたほどで、異変を感じて飛び出していったのはと年長の子供たちだけだった。

「どうしたのママ」
、あれ、あれ!」
「あれ?」

あわあわしているママが門の外を指差す。その指先を目で追ったたちは音を立てて息を呑み、思わず両手で口を覆った。いつもならはるか遠くにぼんやりと青白く光るアンブローシアのタワーがなく、常に白っぽく夜の闇に浮かび上がる街が消えていたのだ。

「さ、さっき、あれ、タワーがチカチカって光ったなって思ったらパパパパパーって消えて」
「えっ、消え、消えたの!? 街の明かりが全部!?」
「だってそう見えたの! ほら見てよ、うねうね伸びてくる高架道路も真っ暗じゃない!」

はごくりと喉を鳴らした。孤児院からだと白っぽい光に象られた高架道路がうねうねとアンブローシアへと続いているのが見えるはずだが、橙色の外縁地区の明かりの隙間が真っ黒に見える。

アンブローシアには、健司がいるのに。の体から血の気が引く。

、ねえ、健司って今」
「あああアンブローシアの近くの、街だって話だったけど、詳しいことは私も」
「大丈夫かしら、中央で何かあったのかな、ああどうしよう、健司に何かあったら」
「お、落ち着いてママ、私ちょっとフォンタナ行ってくるよ。何か知ってる人がいるかもしれないし。ね?」

不安による恐怖を飲み込み、はママの背中を擦って宥め、必死の思いでにっこりと笑ってみせた。

「健司は要領いいから大丈夫だよ。また予選に向けて練習詰めていこうって話してたところだったし、まさか健司がバスケット投げ出していなくなったりしないって。そのうち花形と『いやー参った』とか言いながら帰ってくるから、心配ないよ。みんな、ママのそばにいてやって」

ママに言い聞かせているつもりで、自分に言い聞かせていた。健司は大丈夫。絶対にチャンピオンシップに連れて行ってくれるって、約束したんだから。は年長の子供たちにママを任せると、施錠を解いて敷地の外へ出る。門柱にくくりつけてあるのは健司のリパルサーバイクだ。

「遅くなるかもしれないから私のことは待たないで。不安はあるだろうけど、パニックにならないでね」
、危ないことはしないでね」
「私は何も危ないことないって! フォンタナと、行ってもドノさんのとこくらいだよ」

涙目で門扉にしがみつくママの手に触れ、また微笑んでみせたは、一息吸い込むとエンジンをかけてアクセルをひねりこむ。健司が毎日のように手入れをしていたリパルサーバイクは軽快な音を立てて走り出した。

ひと気の少ない孤児院の辺りを抜けると、いかな外縁地区の中の外縁部である翔陽町でも人々は表の通りに出て、初めて見る暗闇に包まれたアンブローシアを見上げて不安そうな顔をしていた。その中をは駆け抜ける。服の上から胸元にある指輪に触れ、父と母に健司の無事を祈った。

無事でいてくれたらそれでいい、生きてさえいればそれでいいから……

外縁地区が異変に気付いてざわついている頃、健司と花形はアンブローシアを駆け抜けて外周ゲートに忍び込んでいた。何をどうしたかアンブローシアは全ての電力供給をカットされてしまい、ということはつまり全てのシステムがダウン、巨大な立体都市はそのコントロールが掌握できていない状態に陥った。

「というわけで、こういう時に物を言うのは筋肉です」
「偉そうに講釈たれてないでさっさとやれよ」
「そんなモシャモシャ物食いながら偉そうに指図すんな」
「監督に歯向かう気か」
「そういやそろそろ予選までのスケジュール組まないとならん頃だな」

ゲートの通用口が開かないので、花形は途中で拾った金属の棒でドアのガラス部分を叩き始めた。健司はまだ大量に血を抜かれて数日なので、これまた途中で拾った例の薄っぺらい焼き菓子をバリバリ齧っている。久しぶりに体を動かしたので消耗するが、気力の方が勝っているので補給しながら進めば大丈夫。たぶん。

「で? 結局オレの血はどうだったんだよ」
……今から言うことひとつだけ、絶対に怒らないって約束してくれ」
……その前提で既に怒りたいけど、まあいいだろう。何だよ」
「実は、の血も少しもらってきてたんだ」
「お前な!!!」

健司は焼き菓子を吐き出さんばかりの勢いで怒鳴った。その勢いかどうか、ドアのガラスが割れ、そこから腕を突っ込んだ花形が鍵を破壊すると、ドアは音もなく開いた。これまた途中で拾ったボトルの飲料水を飲み干した健司は深呼吸してから走り出す。ついでに花形の尻も蹴る。

「別に何かに使おうっていう目的じゃないぞ。お前たちの持つ免疫細胞が同じものだったかどうかもわからないし、もし異なるものならそれがどう作用するかも確認したかったし、それは単純にナノマシンに転用できたらって、そういうところからだ。だとわかる証拠は何もないし」

それはわかるが、無断での採血をしたかと思うと腹が立つ。

……クソ腹立つけど約束だからな。それで?」
「完全に同じものじゃなかった。どちらかというとお前の血の方が強かった」
「それを投与したんだろ」
……まだ確認してる途中だったんだ。だけど議会は待ってられないって騒いで」

ゲートを抜けると外縁地区に続く高架が現れる。こちらもトンネル部分は真っ暗だ。花形はライトを照らして監視所を覗いてみるが、無人だ。ゲートの職員は外縁地区の人間との交流が少なくないし、恐怖に駆られて逃げ出したということも十分考えられる。

「藤真藤真、リパルサーバイクあるぞ」
「えっ、マジか。おお、いいじゃないか、これならふたりで乗っても結構な速度出るぞ」

花形はまた監視所のガラス面を割って中に入り、ストッパーが下りたままのバイクを引っ張り出してきた。

「キーは……なさそうだな」
「それはプロに任せろ。なんか工具になりそうなものないか」
「あるある。普通に工具箱ある」
「おお、貸してくれ! なんだよ、天使が助けてくれてんのか?」
……かもしれんな」

普段からさんざん相手にしているリパルサーバイクなので、健司はテキパキとドライバーを入れていく。

「行けそうか?」
「大丈夫そうだ。ジェネレーターが少し古いけど、翔陽町まで片道なら最大出力でももつはずだ」
「そこのモジュール、何それ」
「これか? これはシールド発生装置だな。前方しかカバーできてないけど」
「なんでそんなもの」
「何を企んでたんだろうな、この街は」

疲れも手伝ってげんなりした花形だったが、エンジンがかかると気を取り直してタンデムシートに跨る。健司の整備したバイクより騒音がうるさかったけれど、これでもう翔陽町に帰れるかと思うと、まるで天国に連れて行ってくれる天使の手のひらのように感じた。

そしてあれこれと確認をしている健司に向かってぼそりと付け加えた。

……我先にとお前の血を求めて投与した約数十人、全員死んだよ」
……効かなかったのか」
「逆だ。お前の持つ特殊な免疫細胞は強すぎたんだ。あいつらは、適応できなかったんだよ」

奇病から人々を救う天使だったのか、悪魔だったのか。健司はふんと鼻を鳴らして笑うと、ストッパーを外してゴーグルを着用する。健司が普段乗っているものより速度が出るようだし、ナビゲーションを付けておかないとこの暗闇ではうねる高架から飛び出してしまいかねない。

「確かめてる途中だったけど……の細胞はちゃんと効いてたよ」
「オレは悪魔、天使はだったか」
「ああ、そうだな、お前は悪魔だ」
「よし、じゃあ地獄へ連れて行ってやる。しっかり捕まってろよ!」

ふざけて笑い合ったふたり、健司は思い切りアクセルをひねった。暗闇にヘッドライトが踊り、誰もいない高架にリパルサーバイクのエンジン音が響き渡った。

噴水広場はちょっとした騒ぎになっていた。しかし翔陽町はアンブローシアから充分すぎるほど距離があるので、人々は落ち着きなく外に出てきたはいいけれど、詳細を知るものが誰もいない広場でウロウロするしかなかった。気になって帰れないけど詳細は来ない。

そういうウロウロが続いたのち、しかし真っ暗なアンブローシアなんて見たことないしそれはちょっと怖いし、ひとり暮らしなんかだとなおさらだし、よし、ちょっと飲むか! という心理状態になるのも致し方あるまい。フォンタナを始め噴水広場の飲食店は急に賑わい始めた。

そこへリパルサーバイクで突っ込んできたは、なんだかお祭り騒ぎのようになっているので呆気にとられて呆然としていた。まあ気持ちはわからないでもないけど、みんな楽しそうに飲んでるな……

元々が寄生虫で始まったこの雑然とした街は、まーなんとかなるだろ! という楽観的な気性の人が多く、そういうところがやっぱりアンブローシアとは相性が悪いのだが、タワーの光が消えてアンブローシアが見えなくなってしまっても、やがて楽しそうに酒を飲んでいる。見えないだけで、なくなったわけじゃねーんだしな!

そんな声を耳にしたはふと空を見上げた。子供の頃は月の満ち欠けは本当に質量が変化していて、やがて消え、そしてまた新たに生まれるのだと思っていた。それが隠れているだけだと知った時は、ちょっとだけがっかりした記憶がある。月もアンブローシアも遠くて得体が知れないけれど、消えたりはしない。

フォンタナに行くと、ちらほらとヴェルデ・ビアンコのメンバーがいたので急いで駆け寄ってみたのだが、みんなやっぱり飲んでいた。特に情報らしい情報もなく、ただこの騒動の中で外縁地区に変化があったとすれば、全体で数十人の行方不明者が出ている、ということだった。事件との因果関係は不明。

一応ドノさんのところへ顔を出してみようかな、と外へ出てみれば本人が噴水のへりに腰掛けて知人と一杯引っ掛けていた。噴水広場付近の店はどこも大混雑で席がないらしい。

「お店はどうしたの?」
「みんな、なんかちょっと怖い、なんだよな。こっちに集まっちゃって誰も来ねえから閉めてきた」
「まだそんなに遅い時間でもないけど……いいの?」
「毎日真面目に働いてんだ、たまにゃいいだろ。上がくれたお休みと思いやいいんだ」

根が文句言いのは「そういう問題か」と思ったが、どうにも町全体がそんな雰囲気だ。アンブローシアに変事あれば仕事が止まるという者も多いし、焦っても仕方ない、時間も時間だし飲んじゃうぞー! というのが外縁地区という街だ。が到着した頃は男性ばかりだったけれど、次第に女性や子供も増えてきた。

健司のことは心配だったけれど、少しだけ気が緩んだは自宅へ帰った。そんなところで待っていても健司は帰らないかもしれないけれど、もし彼が戻るなら、それはこのボロビルだと思ったのだ。そこでニュース映像をぼんやりと眺めながら、ベッドに横たわっていた。

映像の中でリポーターは「何もわからない」を繰り返すばかり、しかしとにかくアンブローシアの全ての電力がダウンしていること、アンブローシアへの送電施設も一緒にダウンしていること、しかし外縁地区へのおこぼれ送電は止まっていないこと、などが淡々と報じられていく。

時間だけが刻々と過ぎていき、真夜中だっただろうか、深刻な顔をしたリポーターは、何者かによってアンブローシアの送電施設が破壊された可能性があると報じてきた。さらに現在アンブローシア議会が機能しておらず、街中がパニックに陥っていることもわかってきたようだ。

少しずつの中で、健司はこの騒ぎの中で本当に消えてしまうのかもしれない、という静かな諦めの気持ちが大きくなってきた。ニュース映像に映る白亜のタワーは沈黙を続け、しかし外縁地区からズームインしただけでも外周の高架道路は慌てふためく人々で溢れかえっている。

そう思うと、このボロビルが途端に色褪せて見えた。ぴったりくっついて眠った幸せな記憶しかないはずのベッドも、やけに埃っぽく感じた。健司がいないだけで、世界はこんなにつまらない――

昨夜ベッドに倒れ込んだままだったはむくりと起き上がると、ヨロヨロとボロビルを出て歩き出した。時間的には真夜中だが、外へ出てみるとほんの少し空が白っぽくなっている。暖かい季節が近付いてきている。ということは予選の季節だ。ヴェルデ・ビアンコのメンバーになんて言おう。

勝手に勝手なことしたふたりはあろうことかヴェルデ・ビアンコのトップ2。そんな大事な戦力を欠いてチームはどうなってしまうんだろう。トップ2がいてもパールス・ゲールに負けてたんだから、もっともっと不利になっちゃうんじゃないだろうか。チャンピオンシップに連れて行ってくれるって、言ったのに、バカ健司――

白々と明け始める夜、徐々に明るさを増す空の下をは歩いていた。健司のリパルサーバイクは噴水広場に置きっぱなしだったけれど、それも思い出さない。

十数年前、噴水広場に置き去りにされたあと、ママに手を引かれてこの道を歩いた。ママと健司と手を繋いで、「おうちに着いたらあったかいミルクを飲もうね」と言うママに、健司は「飲む!」と即答し、は「寝る前なのに飲んでいいの?」と聞いたものだった。

孤児院は何も変わらない。変える予算もないからだ。外縁地区らしくボロボロだが、この家しか知らないにとっては気の休まる実家だったし、それは今でも変わらなくて、だけど健司を失ったことは自分自身を失ったのも同じで、歩きながらどんどん背中が曲がっていく。

昨夜しっかり施錠されたままの門までやってくると、錆びた門扉に触れてため息をつく。まだあまりに早朝で、今ここでママを起こしてしまうと誰かしら一緒に起きてしまい、あとは芋ヅル式で全員起床、大騒ぎが始まってしまう。それはママが可哀想なので、は門柱に背中を預けると、ずるずると崩れ落ちた。

顔を上げると、暗闇の中で光を失って見えなくなっていたアンブローシアのタワーが白くぼんやりと浮かび上がっていた。遠くからでもわかるつるりとした輝きもなく、青白い光もなく、死人のように見えた。

目を閉じると、健司の呼ぶ声が聴こえる。遠く微かに、愛しい人の声が聞こえる。

健司のいない世の中なんて、いらないなあ……。そんな風に思って泣きそうになっていただったが、脳内を駆け巡る健司の声がうるさい。もっと優しく呼んでよ、ベッドの上で囁くみたいに、好きって気持ちをいっぱい込めて。その叫び声みたいなの、ほんとにうるさいから。

全身に電流のような痺れが走り、は目を開けた。

――!!!」

ゆるい坂を駆け上がる健司の姿が見えた。の目に涙があふれる。声にならない。

地面に手をついて無理矢理体を起こし、も走り出した。