天使と悪魔

03

「遅かったね。大丈夫だったの?」
「花形は別に時間通りに帰ったよ。オレが寄り道してただけ」
「仕事溜まってんじゃないの?」
「これからやるからいいよ」
「ママ待ってるけど」

予選から3日、花形を外縁地区に点在する「ゲート」と呼ばれる検問施設に送り届けてきただけのはずの健司がずいぶん遅くなって帰ってきたので、腕組みのは小言を畳み掛けた。花形は午前中にゲートを通過できればいいと言っていたので、どう考えても昼頃には帰宅できるはずだった。現在18時。

「私も手伝ってるけど、いくらなんでも粉袋いくつも抱えて歩けないんだから」
「わかったよ、明日の朝イチで行くから」
「明日の朝イチは市場でしょ。私は冷却システムと照度センサー、健司はカートの点検」

そうだった。トラットリアやフォンタナの主人のコネで市場に顧客があると健司はちょくちょく足を運んでメンテナンスやらを請け負っている。これは現在ふたりの収入の殆どを賄う大事な顧客なので、キャンセルするわけにはいかない。の不機嫌そうな声ももっともだ。

「じゃあ市場が終わってからならいいだろ」
「今度はちゃんと行ってよ。私そのまま市場の事務所で仕事あるから」
「わかったよ、しつこいな」

の小言から逃げるように自分のねぐらに入ろうとした健司は袖を掴まれて足を止めた。

「健司が行かないから言ってるんでしょ! ママの頼みより大事な寄り道って何よ!」
「別にママの件を蔑ろにして遊んできたわけじゃないって!」
「孤児院がママひとりで大変なのは、私たちが一番よくわかってるじゃない!」
「だからわかってるって言ってんだろ! いい加減離せ!」

の手を振りほどいた健司は確か仕事が溜まっているはずなのだが、階下に降りることはなく、そのままねぐらに入り込み、しばらくが声をかけていたけれど返事もせずにふて寝していた。

このボロビルの2階は一応キッチンとバスルームがついた居住向けの部屋だったわけだが、それなりの広さがあるにも関わらず、壁とドア仕切りの部屋がひとつしかなかった。なのでその部屋はのものとなり、健司はだだっ広いフロアの片隅に幾重にも重ねたカーテン仕切りの部屋をこしらえた。

一応1階は工房なので、そちらが健司の部屋と考えても問題ない。実際1階は彼の仕事道具と私物と不用品で溢れかえっている。なのでカーテン仕切りのねぐらはベッドと歪んだチェストがひとつ、革が破れて中身が飛び出しているアームチェアにサイドテーブルがあるくらいだった。

花形をリパルサーバイクに乗せて送っていったので、健司はあれこれと装備品のついたジャケットを着ていた。の小言を聞きつつそれを脱ぐと、ベッドに倒れ込む。のことは唯一無二の存在だと思っているし、難しい関係ながらも思いがあるが、こういう時はつい反発してしまう。実際は小言が多い。

ヴェルデ・ビアンコのメンバーたちのように、外縁地区の両親のもとで生まれて育ち、その中で知り合った関係であったらこんな風に面倒くさくなることもなかったのに、と思う。きっともっと早くに特別な、そして気楽な関係になれていた気がする。

ジャケットの下に着ていたTシャツの胸元がいびつに盛り上がっている。健司はそれを襟元から引っ張り出す。重量感のある指輪だった。今の健司なら、ちょうど中指に嵌めてぴったり。男物の指輪だ。青緑色の平べったい模造宝石がついていて、石の奥底がちらちらと光る。

対するの指輪は、これも明らかに女性物で、薬指でちょうどいい。健司のものより小ぶりだがデザインはほぼ同じ。やはり青緑色の模造宝石がついていて、その他に特徴はない。ただこの模造宝石が外縁地区では作られておらず、一昔前にアンブローシアで流行したものだということがわかるだけだった。

健司は、花形を送ってゲートを離れると、そのまま翔陽町の練習場に直行した。案の定ヴェルデ・ビアンコのメンバーが何人かいて、そのまま練習してきてしまったのだ。孤児院のチビたちのたどたどしいお手紙は思いの外深い傷を残し、メンバーたちにもその話を聞かせて胸を抉り、みんなで決意を新たにしてきたところだ。

しかしママのオートモービルのメンテナンスをすっかり忘れてしまっていたのも事実で、それに関しては申し開きようがない。ごめん、ママの件忘れて練習に熱中してた、などと言おうものなら、もっとの雷が落ちるに違いない。だから逃げてしまった。ママには申し訳ないと思っている。

だけどもう何年も負けっぱなしで、どうにかしてを総合チャンピオンシップに連れて行きたくて――

一応本心でも目的はヴェルデ・ビアンコの勝利なのだが、心の一番奥底に横たわっている願いはそっちだ。ふたりで暮らし始めてからどうにもギスギスしてしまっているけれど、花形の言うようにもういい加減素直になった方がいいんじゃないだろうか。そのためにもチャンピオンシップに出たい。

だけどもしかしたらの方はとっくに「ふたりでいること」になんか興味がなくて、ただ惰性でふたり暮らしを続けているだけかもしれない。自分のことは家族、兄か弟のようにしか思っていないかもしれない。ヴェルデ・ビアンコのメンバーたちとも仲がいいから、もしかしたらその中に好きな男がいるかもしれない。

健司は指輪を胸に握り締めて体を丸めた。とずっと一緒にいたい。だけどそれはもうきょうだいとかなんかではなくて、もっと違った関係がいい。でももしにそのつもりがなかったとしたら――

こんなのも片思いって言うんだろうか。

外縁地区の中でもあまり「マトモ」でない育ちの健司には、よくわからなかった。

「ごめんねママ、健司今ちょっと忙しいみたいで」
「また変な客に付きまとわれてるんじゃないでしょうね」
「それは平気。組合の方で材料になる素材の流通が止められてるから、やりようがないの」
「難しいことはよくわからないけど……しんどかったら戻っておいでね」

は心の中で健司を罵りながら、何とか笑顔を貼り付けて重い粉袋をママとふたりで運んでいる。市場の仕事はとっくに終わっているが、その市場でウチのアレが調子悪いコレも見てくれ……で健司の方が足止めを食らった。とにかく市場は1番のお得意様なので無視できないのだ。

組合の方で原料の流通が止められるまで、外縁地区では機械と人体の生体接続が一時的に流行していた。しかし、いくら外縁地区に腕のいい技術者が多いと言っても、生体接続自体が完成された技術ではない以上はリスクが大きすぎるし、実際内々に処理されているけれど事故は何件も起きているという話だ。

健司は何もこの生体接続の技術に詳しいわけではなかったのだが、彼は日常で使うような小型の乗り物がとにかく得意だった。そういう、広義での「車」と自分の体をくっつけてしまいたい、という人物がこの翔陽町にもいたのである。車と自分を生体接続してもういっそ車になりたい。だから頼むよ!

そういう、ママの言う「変な客」からなんとか逃げ回っていた健司だったが、最終的に生体接続には欠かせない有機原料の流通を止められたことで生体接続自体が不可能になり、そうした機械と一緒になっちゃいたい人々がやっと諦めてくれた、というところだ。

そんなことがあったなども健司もママに漏らした覚えはないのだが、狭い町内のこと、いつか噂話は怖がりのママのもとにも届いてしまった。彼女は少々特殊な子であったと健司を今でも心配しており、何かというと戻っておいでと言う。

トラットリアの主人が引き取ると言いだした時も不安がり、どうせならこの孤児院の職員ということになればいいのでは、いずれ結婚してふたりで孤児院をやればいいのでは、としつこかった。だが、孤児院の運営は基本的に対象地区からの助成金で賄われているので、ママの采配で勝手なことは出来ない。

ママ自身も早くに夫を亡くしてふたりの子供を育てた人であるが、子供は既に独立していて、なおかつどちらも海町では知られた優秀な技術者になっており、住まいは中心部寄り、割と裕福。なのでママは安心して孤児院の仕事をやっていられる。薄給だが特に使うアテもないから構わないとのこと。

「あんたたちはすぐに大袈裟なって言うけど、妊娠したらそういうわけにいかないのよ」
「にっ……何言ってんのママ」
「他の子と違ってそういう時に頼る大人がいないのよ。もしつわりが酷かったりしたら」
「ちょ、ちょっと待ってママ、私と健司はそういうんじゃないから!」

慌てたは粉袋を落としそうになりながら真剣な顔で否定した。しかしふたりきりで暮らし始めて早数年、周囲の人々はふたりが恋愛関係を否定することを、恥ずかしがって素直に言わないだけ、くらいにしか思っていない。アンブローシアとは違い、外縁地区はそういうところが雑な町だ。

「大丈夫、誰も怒ったりしないから。むしろみんな喜ぶわよ」
「ママ、誤解しないで、私と健司は子供が出来るようなこと、してないから」
「恥ずかしがらなくていいのよ。ほら覚えてる? あなたたちと同い年だった女の子で――
「照れてるわけじゃないの、彼女がもう子供ふたり目なのも知ってる。だけど本当に違うの」

と健司と同期の孤児院育ちの女の子は院を出て病院に勤めていたが、そこで知り合った相手とすぐに結婚、最近ふたり目が生まれたそうで、ママがその手紙を音読して喜んでいたのはも知っている。孤児院育ちは家族への憧れが強いケースが多く、勢い結婚も早いし多産になりがち。

アンブローシアでは10代で出産などありえないらしいが、外縁地区では一般的である。なのでママはきょとんとしているが、そういう事実がないものは仕方がない。は孤児院の厨房にある貯蔵庫に粉袋を運び込むと、パンパンと手を払う。

……もしかしてあんまりうまく行ってないの?」
「ええと、まあその喧嘩することもあるし、付き合いたての恋人同士みたいにベッタリってわけじゃないけど」

この微妙な関係をどうやって伝えたらいいものか。は額を掻きながら視線を外した。

「他の子たちと比べて私たちがちょっと特殊なのはわかってる。だからママがずっと心配してくれてるのも感謝してる。だけど、私たちもあんまり自分たちがどうしたいのかとか、わかってないところもあると思うんだよね。ただ小さい頃からふたりで一緒にいなければならないって、それだけが変わらない感じで」

言いつつママの顔をまともに見られないを、ママは無言で引き寄せて抱き締めた。

「ママ……
「余計なことを言ったわね、ごめんなさい」
「そ、そんなこと」
「私に似ちゃったかしら。あなたは自分だけじゃなくて、いつも健司のことを心配してたから」

ママは遠い記憶を引きずり出す。この孤児院に引き取られ、そこで育つ間にもはいつも健司のことを心配していた。それは自分の手の届くところにいるかという心配はもちろん、彼がくしゃみひとつしても手を引いてママのところへ連れてきた。

「そういう子だったの、忘れてた。もっと心配させるようなこと言っちゃったわね」
「そんなことないよ、心配はもうあんまり、してない」
……だけど何か引っかかることがあるんじゃないの」

さすがに10年近く育ててくれた人だ。ママにそう言われるとは苦笑いで俯いた。

「険悪になってるわけじゃないのは本当だよ。喧嘩も日々の些細なことだし、毎日の生活は問題なくやれてると思う。だけど、ここにいた頃のままというわけにも、いかないでしょ。私も同じだと思うけど、健司もちょっとずつ変わってきてる、その変化をお互いすぐには許容できないんだと思う」

もう体だけなら充分大人だ。だけどその中にはあの夜噴水広場にちょこんと座っていた時からの時間がある。幼年期、少年期、思春期、そういう変化とともに生きてきたけれど、見ないふりをしてきたお互いの変化にお互いが戸惑うことも多々ある。

「だけどそれを改めて『これからの私たちの関係、どうする?』って言い出すのもおかしいでしょ。必要なことだとは思うけど、まだ私も健司もそういうところにまでは到達してないし、明日にでもその結論を出さなきゃいけない、なんていうのは……まだ少し怖いから」

はこんな風に濁した言い方しかしなかったけれど、ママはまたぎゅっと抱き締めて背中を擦る。

「大丈夫よ、健司とはずっと一緒にいられるから。ずっと一緒よ」

自分の心の一番深いところにある気持ちを言い当てられた気がして、は言葉に詰まる。ママはいつでも怖がっていて余計な心配しかしないかもしれない、だけど、どれだけ隠してるつもりの些細な感情も探り当ててしまうんだなと思ったら、涙が出てきた。

はもう何も言わずに、ママに抱きついたまま何度も頷いた。

夕方になっても市場から出られないままの健司を置いて、はトラットリアへ向かう。孤児院の方は準職員扱いで、トラットリアの方はアルバイトである。どちらも慣れた場所で気心の知れた人間しかいないので気楽だが、何しろどちらも賃金は安い。

孤児院の方はそもそもママの一存で値上げが出来ないし、トラットリアの方も主人がならと雇ってくれているだけで、元々人を雇うまでもない程度の規模の店だ。

の仕事が減り続けているのには理由がある。

優秀な技術者が多いとはいえ、外縁地区に存在するテクノロジーは基本的にアンブローシアからもたらされたものだ。アンブローシアにないものは外縁地区にもない、というくらいにはことテクノロジーに関してはアンブローシアなくして外縁地区の技術向上もない。

というのも、外縁地区にはアンブローシアにいるような「研究者」が存在しない。何かを研究し探求し作り出しているのはアンブローシアだけ。外縁地区はアンブローシアから「これやっといて」と頼まれたことを抜かりなく仕上げる腕を磨いてきただけなのである。

それでもが職業訓練プログラムを終える頃はまだプログラマーという職業は一般的だったし、需要もあったし、だからこそ健司とふたりでトラットリアを出てボロビルに引っ越すことも出来た。それがボロビルに移ってから2年ほどで仕事が激減、アンブローシアからの仕事はほぼゼロになってしまった。

が得意としていた言語がアンブローシアで急速に廃れたからである。もちろんそれしか書けないわけではなかったけれど、最もポピュラーでそれ故に使われている場所も多く、職業訓練プログラムを受けている頃なら必修言語だったのだ。それが今やほとんど使われていない。

アンブローシアで画期的な言語が開発されたからだ。それを使うとプログラムを作るプログラムが出来た。

もちろんそれだけで全てのプログラマーが廃業になるわけじゃない。ただ、外縁地区にポイポイと外注に出す必要がなくなってしまった。まだプログラマーとして働きだして数年のなど、そういう技術者の末端もいいところで、押し出されるようにして仕事が減ってしまった。

とはいえ外縁地区は非常にポジティブで雑でしぶとい町である。仕事にあぶれたプログラマーたちの技術をなんとか活かせないものとかと皆試行錯誤しているけれど、まだ決着を見ていないというだけだ。いずれなんとかなる。それが外縁地区の良さでもある。

日が傾いた翔陽町はオレンジ色に染まり始める。トラットリア・ドノは小さな店だが、家庭的な食事が美味いと評判の店だ。も健司も料理はここで覚えた。そのトラットリアから少し離れた場所で足を止めたは、オレンジ色と夕闇の交じり合う空を見上げてため息をついた。

ママの言うように、自分たちはもうとっくに「結論」を出していてもおかしくない立場にある。10年以上片時も離れたことはなく、院を出るほんのすこし前までは同じベッドで寝ていた。どころかべったりくっついて手足を絡ませて毎晩眠っていた。そうしないと不安だったからだ。

それがこのボロビルに引っ越してからはすっかり離れ離れになってしまった。別の部屋で寝ようと言い出したのは、健司だった。しかし部屋はひとつしかない、だったらオレはこの辺にカーテンでも引いて寝るからいい、そう言って健司はの手を離した。

最初は意味がわからなかった。しばらくして、町の同世代の子たちのように「ひとり部屋」が欲しくなったのかもと思った。しかし、やがて健司はが触れてくること自体を避け、そして嫌がるようになった。それにともなって日々の生活の中での喧嘩が増えてきた。どうでもいいことですぐにお互いカッとなった。

ちょうど時を同じくして健司はヴェルデ・ビアンコに入団した。もくっついていくと、一緒に暮らしてるならチームスタッフになってくれよと誘われたので、そのまま一緒にスタッフとして入団した。チームのメンバーは14歳から25歳くらいまでの男子がほとんど、の交友関係も一気に広がった。

はそこで初めて、健司が「かっこいい男の子」だということを知る。

親しくなった女の子はみんなが羨ましいと言った。健司がかっこいいから。

試合をすれば黄色い歓声が飛び交い、差し入れやプレゼントも来るし、噴水広場の近くで練習していてもギャラリーが出来るし、健司はヴェルデ・ビアンコでナンバーワンの人気選手になった。健司はいつでも可愛い女の子たちに囲まれていて、それを見ると胸が痛んだ。

健司の方はもうとっくに「ふたりで一緒にいなければならない」とは思ってない。そう思った。

健司には私がいなくても仲間やファンの女の子がたくさんいるんだし、私にこだわる理由なんて、子供の頃に一緒に放置されてたっていうだけで、自分たちが一体どんな関係なのかもわかってない。私じゃなきゃダメな理由なんて、それくらいしかない。だから避けられてるのかもしれない。

は一度そう思ってしまって以来、その考えが頭を離れなくなってしまった。

「これからの私たちの関係、どうする?」なんて聞いて、もし「切り出してくれて助かった。もう子供じゃないんだし、お互い好きなように生きていこう」と言われたら、どうしたらいいかわからない。

突然別々に寝ようと言われて放り出されて以来、ずっと離れて眠っている。しかし、は今でも健司と手を繋いで眠りたいと思っている。もう手を繋いで大あくびをしておやすみ、では済まない年齢であることもわかっている。それならそれで構わない。それを望む気持ちもある。

は胸に手を当てて深呼吸をする。そこにはチェーンにぶら下がる指輪がある。健司とせめて絆といえるものがあるのだとしたら、この正体不明の指輪くらい。何のためのものなのか誰がふたりに与えたものなのかもわからない。だけどもう、それしか拠り所がない。

ママはああ言うけど、私たち、本当にずっと一緒にいられるのかな……

町の裾にほんの少し青を残して、空から闇が落ちてきた。アンブローシアの真ん中にある光り輝くタワーのせいで、外縁地区は星が見えない。ただただ真っ黒な夜が染み込んできて、遠くに青白くタワーが光り、そして外縁地区がオレンジ色に染まっていく。

は一呼吸置くと、トラットリアに向かって歩き出した。