天使と悪魔

10

暗く入り組んだ外縁地区にも朝は来る。橙色の明かりが消え、錆と埃で覆われた街は夜明けの白い靄の中で色を失い、束の間の静寂に包まれる。餌を求めて騒ぐ鳥やネズミが活発に動いている他には特に活動しているものもなく、ほんの僅かな間だけ、外縁地区は静止する。

しかし、各所に設置されたゲートだけは別だ。完全24時間体制で、通り過ぎるものがなくても警戒は怠らないし、照度センサーが反応するまではサーチライトもずっと点灯している。

花形は翔陽町にほど近いゲートの傍らでひとり佇んでいた。

ゲートは完全にアンブローシアの管轄だが、やはり外縁地区の外側にあるほど職員の規律は乱れているし、アンブローシアでも中枢に関わるような人々と比べると、だいぶ粗野であった。先程も花形に煙草を勧めて断られ、不思議そうな顔をしていた。

ひんやりとした朝の空気が足元に漂っている。それをかき回すようにして、地下通路の方から人影が現れた。人影はスタスタと花形の前までやってくると、息を吐いてフードを取り払った。健司だ。

「歩いてきたのか」
「バイクで来たらここに置いていくことになるだろ。足がつく」
「そんなものあいつらに頼んどけば1分でどこかに持っていってくれるぜ」
「これでもメカニックの端くれだからな。愛車をそんな風には扱いたくない」

健司は大あくびをして鼻をすする。海町は南からの温暖な風が通年通してよく吹いているが、寒い朝もある。普段なら重装備でリパルサーバイクをすっ飛ばしてどこへでも行くから、長い時間外を歩いたのは久しぶりで、すっかり体が冷えてしまった。

「アンブローシアって風呂あんの?」
「そりゃあるだろ」
「そうじゃなくて、浸かれるバスタブ」
「うちにはないけど、療養用の浴槽なら」
「せっかくあんなバカ高いタワーがあるのに。絶景の風呂くらい用意しとけよな」

フードを被っていたけれど顔は丸出しだった健司は鼻をズビズビ言わせながら花形に並んで歩き出した。

「持ち物は?」
「何も。普段の装備品なんて必要ないだろ。持ってないと不安になるものもないし」
「飴は持ってきたか?」
「飴はトラットリア時代に卒業したんだよ」
「煙草が欲しければゲート職員が持ってるぞ」
「アスリートが肺活量下がるような真似するかよ」

ふたりはぼそぼそと喋りながらゲートに向かう。既に花形と話がついているのだろう、ゲート職員は何も言わずに健司も通し、スキャナーの下は通ったが反応なし、やや蛇行しながらアンブローシアまで続く高架道路が見えてくると、健司は足を止めて後ろを振り返った。

花形はその健司の後姿に遠慮がちに声をかけた。

……本当にいいんだな」
「もう決めたことだからな。何も知らないまま突然連行されるよりはいい」
「名残惜しいならもう少し――
「いや、もういい。ちょっと感傷的になっただけだから」

振り返った健司は厳しい顔をしていた。花形は試合前を思い出す。普段はそこそこ人当たりのいい人物だが、この藤真健司はこと試合になると怖くもなるし熱くもなるし、とにかくいつも真剣勝負だった。彼は今、そういう顔をしていた。決意に満ちた、覚悟を決めた目をしていた。

「じゃあ、行こうか」

花形に促された健司は流線型の平べったい車に乗り込む。外縁地区の中をうねうねと蛇行しつつアンブローシアまで直通の高架道路、この流線型で平べったい車が自動運転で連れて行ってくれる。恐ろしいのはヒューマンエラー、全てAI任せなら事故もない。

車は排気を少しだけ吐き出すと、ほとんど音もなく走り出す。健司はシートに身を沈めて目を閉じた。

彼はを置いてアンブローシアに行く。彼女を守り、自らを贄として差し出すために。

遡ること2週間前、隠していたことを全部話して欲しいと請われた花形は、それほどたくさん隠していたわけじゃないとしつつも、あのと健司の「パパとママ」が行方不明になった後にすっかりスピードダウンしてしまった奇病の治療法の研究を現在引き継いでいるという。

それでもまだ当時は患者数の増加が緩やかだったため、チームに焦りは見られなかったし、約20年前においては罹患者のほとんどが高齢者だったせいか、深刻な事態とは思われていなかったという。外部の人間は免疫システムに異常が出るのも加齢による誤作動なのではとよく口にしていたそうだ。

何しろ一朝一夕に結果の出ない研究は金がかかる。街の管理者であるアンブローシア議会は楽観的だった。

だが、予算をケチったせいだけではあるまいが、その20年近い時を経て奇病は予算を渋った御仁たちに襲いかかり始めた。治療法はない。自分たちが高齢になる頃にはいい加減完成していると思ったか。さらに花形によればここ数年の間に子供から壮年の間でも患者が発生した模様。短期間での死亡例もあるという。

アンブローシアは突然焦り始めた。まずい、年寄りだけがやられて死んでいくだけと思っていたのに、気付いたら自分たちが年寄りになっていたし、年寄りじゃなくても発症するようになってしまったし、打つ手がない。

この時、あのドクター夫婦が行方不明になってから十数年、ということが災いした。ラボには行方不明になってしまった開発責任者と一緒に研究をしていた人物がゴロゴロ残っていたのである。当然人さらいまでして未知の免疫細胞を探し求めていたことも知っている。

慌てる上層部に対し、そういう未知の免疫細胞という可能性があったのは事実なのだが開発責任者がデータ閉じ込めて行方不明、という困り顔の報告が行くのに時間はかからなかった。

じゃあまた人さらいを再開すればいいじゃないか、というのは簡単だ。と健司のようにいくらでもさらってくればいい。だが、未知の免疫細胞を持つ人間に当たるかどうかはわからない。人さらいをしている間にくたばってしまうかもしれない。花形は急げ急げと毎日のようにせっつかれていた。

「じゃあオレたちの持つ免疫細胞の件はずっと宙に浮いてたのか」
「それまでの研究結果は見られないし、実際その後もキャリアを発見できなかったから」
「じゃあ別の方法を取ってたの?」
「そう。というか最初はその方向で行ってたんだ。人工免疫」

言いながら花形は自分の胸をトントンと指で突付いた。

「人工てことは、オレたちの免疫細胞に似たものを作ったってことか?」
「似たものも何も、資料がないから、それとは別物だよ。有機ナノマシン」
「有機……何?」
「人工免疫体。目に見えないくらい小さな機械と生物の中間物質」
「それって何するの」
「例の奇病を直したりはできないんだけど、誤作動起こした細胞を捕まえて排出したりとか」

と健司は聞きながら揃って首を傾げた。そんな便利なものがあるならそれでいいじゃん。誤作動がなくならなくても、そのナノマシンが働いてくれればそれでいいんじゃないの?

「それが……自己複製機能に問題があるもんだから定期的に投与し直さないとならないのと、今のところオーダーメイドで作らないとならないから時間も費用もかかりすぎて現実的じゃないんだ。初期の段階では焦ってそれを投与しろと言って聞かなかったとある御仁が増殖しすぎたナノマシンに逆に食い殺された」

やや期待した目を向けていたふたりは、また揃って肩を落とした。そりゃダメだ。

「まだ成功してないのか……
「いや、一応成功はしてる」
「は?」
「オレの中に入ってる」
「何!?」

健司のひっくり返った声に花形はつい吹き出した。

「言ったろ。定期的な投与とオーダーメイドだ、って。オレは自分でできるから、自分用に最適化してあるものを定期的に入れてる。だからもし例の奇病を発症してたとしても、とりあえずのところは何も変化がないはず」
「それはちょっとずるくないか……?」
「研究者兼実験台と言ってくれ。他人で試すよりいいだろうが」
「あ! だから花形って外縁地区の食べ物平気で食べるんだね?」

アンブローシアの住民は外縁地区に降り立つことすら嫌がるケースが多いと言うのに、花形は平気で入ってくるしシャワーも使うし飲み食いはもっとするし、は不思議に思っていた。

……そう、食べ物。オレはそれこそが例の奇病の正体なんじゃないかと思ってるんだが、もちろん確証はないし、雑談混じりに話してみても一笑に付されることの方が多いからな」
「食べ物が原因なの? じゃあそれを食べなければ――
「ああ、そうじゃなくて……なんというか、アンブローシアの食べ物って、生き物が食べるものじゃないんだ」

またと健司の首が傾く。わかるように話してください。

「最初はもちろん元気に生きていくために病を遠ざけたい、そういう志だったはずなんだ。だけどそういう考え方が極端になっていって、アンブローシアってのは『世界は何もかもが汚い』っていう感じになりつつあるんだ。だから直接口に入れる食べ物なんかは特に神経質になってて」

花形は大荷物の中に手を突っ込むと銀色の平べったいパッケージを取り出した。外縁地区の駄菓子屋で売ってる豆の入った焼き菓子みたいな外見をしている。花形はそれを健司に手渡した。

「なんて書いてある?」
「え? えーと、ランチ」
「そう、ランチ。中身は焼き菓子的なもの」
「だからどういう意味だよもったいぶるな」
「もったいぶってない。それが『ランチ』だ」
「は?」
「それを昼の休憩時間に食べれば午後の活動は充分、ランチです。クソだろ?」

えっ、こんなんじゃ足りねーよバカか? という顔をしている健司に向かって花形は顔をしかめる。

「オレが外縁地区に出入りするようになったのは主にバスケットが目的だけど、自分で調節したナノマシンも入ってるし、興味本位でフォンタナの料理を食べた時の衝撃はお前らにはわかるまい……生まれて初めて『美味い』という感覚を味わったんだからな。以来オレはヴェルデ・ビアンコの選手としての活動はもとより――

花形は力説しているが、それを軽くかわしたが健司の手から「ランチ」を取り上げる。

「もしかして私たちが持たされてた焼き菓子って、これだったりして」
「あ! そうかも。ママが固くて味が雑で品質の悪い、って言ってたやつか」
「これ、じゃなくてアンブローシアの食い物ってのはほぼこんなんだ。栄養価的には完璧」

しかし確か健司は口の中に飴玉を突っ込まれていたはずだ。

「それはおそらく子供の栄養補給用に甘くしてあるビタミン剤かなんかだと思う」
「お菓子ではないわけね……
「お菓子を食うなんて言うのはもはや罪悪に等しいからなあ」
「えっ、なんでよ!?」
「雑にまとめると、生物本来の欲求を満たす行動を良しとしないんだよな」

と健司が汚いものを見るような目になったので花形は吹き出した。

「食欲性欲睡眠欲、どれも強ければ強いほど人として低俗と思われるのがアンブローシアなんだよな。だから外縁地区とは仕事のやり取りはできても他のことでは何も相容れないんだよ。歴史で習わなかったか? 昔は信仰の違いで戦乱が絶えなかったって。あれと同じ」

花形は笑っているけれど、どうにも嘲笑のように見える。

……初めてフォンタナの料理を食った日の夜、オレの体は驚いて大変なことになった。腹は痛いわ気持ち悪いわ全身が火照ってかゆくなって、眠れなかった。だけど、どうしてかそれが、今オレの体めっちゃ生きてる!って思えてさ。必要な機能が必要な時にちゃんと機能してるんだと思って感動したのを覚えてる」

それを「有害なものを体の中に入れてしまった」と思わなかったところが、花形をこの年で研究チームの主任にまで押し上げたと言えるだろう。彼がラボで頭角を現すまでには常識的に考えて行き着くところは全て研究しつくされたはずだ。非常識の扉を開けてみるしかあるまい。

「クリーンで必要最低限の栄養素だけ注入していれば大丈夫、それも間違いじゃない。だけどフォンタナの料理を食べてエラい目にあって以来、例の奇病ってのは、本来ならあるべき機能がまったく機能できなくて、いざという時に何をどうしていいのかわからないような状態なんじゃないかと思うようになって」

しかしそれが原因だっとしても、治療法とは直接関係がない。今後予防には役立てていけるかもしれないが、今苦しんでいる患者に対しては意味がない。結局、と健司が持つ免疫細胞を使うか、花形の中に入っている手間と費用がかかりすぎるナノマシンを使うしか手がない。

「ただ、オレはチームの責任者ではあっても、ラボの所長でもなければ議員でもない。そんな仮説は後でいいからさっさと治す方法見つけろって言われてるに過ぎないんだよ。見つかりそうにないけどな」

これで全部、と花形は両手を広げてみせた。

この日花形はボロビルに一泊、翌日の深夜に筐体の解体作業を行い、ドクターの希望通りコンピュータを壊した。実験の段階では最長41時間しか生存できなかったとされる生体接続、ドクターの脳は実に十数年生き続け、最期は娘息子と呼んだふたりの手で外縁地区のさらに外にある荒野に葬られた。

その翌朝には空っぽになった筐体とともにアンブローシアへと帰っていった花形だったが、去り際、ゲートにて健司にだけぼそりと囁いた。

……そういうわけだから、治療法は見つからないのに患者数は増える一方で、議会のじいさまたちはものすごく焦ってる。高齢者に多いのは変わらないから、まだ発症してない人も明日には発症するんじゃないかって怯えてる。だからその、まだ決定じゃないけど一斉検査、始まるかもしれない」

朝のひんやりとした風が健司の背中をするりと撫でる。一斉検査ってことは……

「今度こそ所在や名前を記録した形でお前らの持つ免疫細胞探しが始まるかも」
……見つかったらどうなるんだ」
「そりゃ、まあ、連行されるだろうな」
「お前のラボの話じゃないのかよ」
「言ったろ。そういう意思決定はオレに権限はないって」

検査を拒否すればまだ免れるだろうが、どうやって拒否する? 何を理由に? 逆に怪しまれる。

「この街を出ていくのも手だけど、あの荒野の先に何があるのか、わからないしな」
……父さんの躯を見つけるのがオチだろうな」
「うちのラボがやるならデータを改竄することもできたけど、これはオレの力ではどうにも」

ドクター夫婦は映像の中で、都市管理AIが完成した暁には外縁地区を壊してしまうつもりなのだと言っていた。もちろん1日やそこらでこの広大な外縁地区を破壊することなど不可能だけれど、つまりアンブローシアにはやはりそういう思惑があるし、外縁地区の人々のことなどなんとも思っていないわけだ。

奇病に冒され明日をも知れぬ体を抱え焦る議会の手が、と健司ふたりに迫ろうとしていた。

ほとんど振動もなく、トンネル部分では気持ちが落ち着く薄暗さが続き、アンブローシア直通の車に乗っていた健司は早起きをしたせいもあってぐっすり眠り込んでいた。花形に揺り動かされて目を開けると、アンブローシアと外縁地区の境目に当たる高架の手前に到着していた。

反射がなければ何もないと錯覚してしまいそうなキャノピーが開き、ドアがスライドしていく。

ここは最終的な検疫ゲートになっているようで、しかし花形が予め準備をしておいたらしく、健司は車を降りると簡易的な検査をしただけで通行を許され、なおかつゲート内のクリーンルームで体を洗って服を着替えさせられた。真っ白な上下で、胸に花形の所属するラボの略称がリンゴを象ったロゴマークとともに印字されていた。

「なんでリンゴなんだ?」
「古い神話だかなんだかだったような。リンゴを食べることで知恵を得た、いわば勝利の印なんだそうだ」
「へえ。リンゴ食って知恵が授かるんなら、お前らいらないな」
「まったくだ」

健司は嫌味のつもりだったのだが、花形は普通に同意見だったらしい。頷きながら健司を促し、ゲート内の通路を進むと、アンブローシアの街に入る。健司は思わず息を呑んで空を見上げた。首が折れそうなほど上を向いてもタワーのてっぺんが見えない。

白亜の塔は地上部では翔陽町がすっぽり入ってしまいそうなほど広く、周囲を何重にも高架がめぐり、列車や車がひっきりなしに走っている。しかし驚くほど音がせず、また外縁地区と違って空気がキリッとしていて、しかも無臭だ。健司はついキョロキョロとあたりを見回した。

「人が少ないな。アンブローシアって朝は遅くてもいいのか」
「いや、単に外へ出たがらないだけ。今くらいの時間だと、出勤か運動してるかのどっちかだな」
「へえ、朝トレが一般的なのか」
「お前らと違ってあんまり動かないからな。しかも夜にはもう疲れてるし。朝がちょうどいいんだ」

ヴェルデ・ビアンコも予選が近くなると朝晩の練習を欠かさなくなってくる。覚悟を決めてやって来たとは言え、とヴェルデ・ビアンコにだけは未だに未練がある。どちらともずっと一緒にいたかった。アンブローシアなんかとは関わり合いになりたくなかった。

行く手には健司が着ているものと似たような制服の男性数名が待ち構えており、傍らには足がなく浮遊した状態のストレッチャーがあった。貴重な免疫細胞なのであれで運ぶというわけか……と少し呆れた健司だったが、花形の声に遠慮なくため息をついた。

「外縁地区から来たものは不衛生、ということになってるから」
「バイキン扱いかよ」
「まあそういうことだ。ラボであちこち徹底的に洗浄されるからな」
「はいはい、どうせ外縁地区育ちですよ」

音もなく開くストレッチャーのハッチ、健司は仏頂面のまま無言で横たわった。

横を行く花形の横顔が、まるで知らない人のように感じられた。