天使と悪魔

11

アンブローシアに入って数日、健司は洗浄を繰り返され、ありとあらゆる検査を受けてやっとラボ内の隔離室から出ることが出来た。アンブローシア市民の健康を害する何らかを有していないと証明されたので、歩きまわってもいいですよ、ということだ。

しかし彼は客人ではなくて、いわばやっと捕獲した「薬の原料」である。

「遠慮してもしょうがないから先に言うわ。死なない程度に血をもらうぞ。あと造血幹細胞も」
「まあそんなことだろうと思ってたからいいよ」
「けど、また新しく血を作らなきゃいけないわけだから、食事は素材そのままを用意させることにしたから」
「あの板っ切れでなくてな。調理できる人いるのか」
「いないよそんな人。やるのはオレ」
……自分でやっていいか?」

主に議会のメンバーを中心に血を早くと急がされているらしい。まずは花形の部屋に寝起きできることにはなったが、準備ができ次第またラボに戻る。それまではたくさん食べて運動して血を作れとのことだ。

「てか殺風景な部屋だな」
「あんまり部屋にいないからな。ラボか翔陽町にいることがほとんどだし」
……お前なんで翔陽町にしたの」
「チャンピオンシップの予選でヴェルデ・ビアンコが気に入ったのと、遠かったからだよ」

花形の部屋のソファにもたれた健司は、手を持ち上げる。父親の指輪が鈍く光っている。

「まずはお前の血で本当に症状が落ち着くのかもう一回試してみて、それと並行して培養実験もやるし、解析が進んでナノマシンに同じ働きをさせられればお役御免だからな」

花形はそう説明してメガネをくいっと押し上げた。本当はさっさとナノマシンを実用化できるレベルにしてしまいたいんだろう。誰かから血を分けてもらわずとも、人工的に作り出したもので奇病が抑えられるなら、その方がいい。しかしその開発途中のナノマシンを研究しているのが自分だ。歯がゆいに違いない。

……には言ってた来たのか」
「言うわけないだろ。今頃パニック起こしてるだろうけど」
「書き置きとかそういうのは」
「一応、具体的なことがバレない程度にな」

離れたくなんかなかった。ずっとずっと、死ぬまで一緒にいたかった。けれど一斉検査が開始されたら最悪外縁地区すら逃げ出して荒野を彷徨う流浪の旅人にならなければならない。健司は迷い、悩み、しかし結局はを置き去りにしてアンブローシアに行くことを決めた。

自分たちを子供のように愛してくれた父と母の件を探っていてちょっと危なっかしい状態だった花形を助け、彼の功績とすることでへ追及の手は伸びないはずだ。そりゃあもうひとりいた方がいいに決まっているが、目の前の餌に夢中になってくれれば――

もしこの街でオモチャにされて死んでしまっても、が無事ならば。

それから数日、たらふく食っては花形とバスケットで汗を流し、体を休めてはまた食べる、という生活を続けていた健司は、ある日唐突にラボへと連れて行かれた。だだっ広いラボの長い廊下を行くと花形が待ち構えていて、今度はラボ内部の最上階に位置する部屋に連れて行かれた。

真っ白な部屋だった。天井に明り取りの窓が小さく切り抜かれていて、その下にこれまた真っ白なベッドが設えられていた。ヘッドレストからは、巨大な女性像がベッドを見下ろしていた。

「これ、何?」
「天使像」
「天使って表現としてはよく聞くけど……実際はどういうものなんだっけ」
「天の使い。どうにもアンブローシア市民てのは古の神話とか宗教譚とか好きなんだよな」

そういえば母も奇病に神話から取った悪魔という意味の名を授けていたな、と健司は思い出す。

「なんでここに天の使いなんだ?」
「なんで、というか……慈悲とか善行の象徴なんだよな。このタイプの天使って」
「他にも色んなタイプがあるのか」
「本来的には性別がないはずなんだ。だけどここには翼を持った美しい女性て感じの天使ばかりで」

ベッドに横になった健司はその天の使いとやらの顔を見上げながら、深く息を吐く。

「もう採血始まるのか。早いな」
……まだ確認作業の途中だったんだけど、そんなのいいから早く投与しろって騒ぐから」
「必死だな。好きなだけブチ込んでやれ」
「ああ、そうするよ」

花形は銀色のカートを引きずってくると、何やら手にとって採血の準備を始めた。健司は頭上の天使をぼんやりと眺めながら、目を細める。そういや外縁地区の外の荒野に葬った母は父と子供に会えただろうか。この天の使いとやらが導いてくれるといいんだけど。

……花形」
「何だ」
「お前が最初にデータパック持ち込んできた少しあとから、と寝てる」
……そうか。長かったな」

話していなかった。花形は姿を見せなかったし、来たと思ったら筐体と一緒だった。

「それで、一斉検査の話聞いてからは、避妊もしてない」
「結婚したのか」
「いや、届け出もしてないし、誰にも話してない」

結局誰にも真実を話さないまま、を置き去りにしてきてしまった。しかし言えばは行くなと言うか一緒に行くと言うだろうし、にアンブローシアの手が伸びるのを防ぐためにはもうこれしかないと思っての決断だった。あれほど楽しそうにからかっていた花形は穏やかな声で相槌を打つばかり。

「生きて帰れないかもっていう覚悟は、してきたんだ、これでも。だけど後に残したが心配なのは変わらないし、たかだか2週間程度しか時間はなかったけど、もし子供ができれば少しは気が紛れるんじゃないかって」

健司と離れ離れにならなければいけないかもしれない、という可能性を前にしてパニックを起こしたは子供がほしいと口走った。それを思い出した健司は一縷の望みにかけてみた。幸いにはママやドノさんや、雑だけど親身になってくれる人々がたくさんいる。ひとりでも育てていけると思った。

「花形、オレの体が耐えられなかったら、のこと頼む」
……わかった」
「免疫細胞の件もだぞ。が存在していることを絶対に公にするな」
「しないよ」
「ああ、だけど、特別な関係にはなるなよ。お前だけは嫌だ」

健司が真顔でそんなことを言い出したので、花形は鼻で笑ってみせる。

「ならないから安心しろよ。のことは責任持つけど、そこまでにするから」
「約束だぞ」
「わかったって。オレもには悪いことしてるからな」
「悪いこと?」
、新しい言語が開発されて仕事減ってたろ。あれ作ったの、オレなんだ」

あまりにさらりと言うので、健司は思わずむせた。お前かよ!?

「と言ってもナノマシンの開発段階で細かい計算が面倒でそれをやってくれるプログラムを組んだんだけど、それをちまちまとバージョンアップしてる間に思いついていいのが出来ちゃったんだよ。メセウスって言って、オレの唯一の自信作だ。ていうか実際それしかマトモに機能してない」

研究チームの主任で責任者でも、結果が出ているのは片手間に作った言語だけ。苦笑いだ。

「メセウスのせいでの仕事が減ってるのはわかってたけど、かと言って仕事を斡旋してやれるわけでもなかったから。もし万が一お前が外縁地区に帰れなくても、がお前の子を妊娠してても、お前とオレ以外の誰かといつか所帯を持つようなことになっても、が安全でいられるように手を尽くすよ。約束する」

いつものふざけてニヤニヤ笑いの花形ではなかった。反射でメガネの向こうは見えづらかったけれど、健司を安心させるために心にもない約束をしているようにも聞こえなかった。健司は少しホッとして、深く息を吐くと目を閉じた。これでもう安心だ。そう思ったら気が緩んだ。

「この間、洗浄と検査ばっかりしてた時にさ、ラボの職員の人か? ナンパされた」
「は? ナンパ?」
「見た感じ少し年上くらいの女の人でさ、彼女とかいるの、今どこに泊まってるのって」
「誰だそれ。普段外縁地区の人間なんかって言ってるくせに……

メガネの向こうは見えにくいが、思いっきり鼻にシワが寄っている。目を開けた健司はつい吹き出す。

「それどうしたんだ。まさかと思うけど何かされたとか……
「腕とか胸とかは触られたけど、検査の時だし、それはどっちだったんだかな」
「マズいだろそれは……誰だよほんとに」
「顔もよく覚えてないよ。妻がいるって答えたら『はあ? まだ子供でしょ?』って言われた」

憤慨していた花形もつい吹き出した。アンブローシアと外縁地区、生きている人々の価値観は朝と夜ほども違う。自分たちと同じつもりで接したらとんでもない切り返しだった、そんな彼女の驚きを目一杯詰め込んだ「はあ?」だったんだろう。

「その子供にちょっかいかけてんのは誰だよって話だな」
「だからちょっと面白くなっちゃってさ。子供、できてるといいなって言ったらすげえ嫌そうな顔された」
「だろうな。ここではオレたちは年齢的にはまだ子供のうちだ」
「言ってた言ってた。『子供が子供産むとか……』ってブツブツ言ってた」

どちらも良し悪しだ。アンブローシアでは7歳以下の小児の死亡率はとことん低い。先天性の疾患を除けばほぼ100パーセントが成人まで生存している。が、その職員が健司の世代を子供と言うように、出産の高齢化が進んで久しいので、不妊も多く、また出産を望まないケースも少なくない。

一方の外縁地区はドノさんの実家のように貧乏子沢山が溢れかえり、死亡率はアンブローシアに比べれば高いけれど、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるでバカスカ生まれてくる。教育程度も低く治安も悪いが、人手不足にだけは陥らない。アンブローシアがある限り外縁地区は仕事がなくならないので、まあ今のところ問題ない。

「どっちがいいんだろうな。どっちもいいようでどっちも悪く聞こえる」
「オレは翔陽町で育った記憶しかないから、外縁地区の『普通』で別にいいんだけど」
……いつかそれを、お前の『普通』を根底から書き換えようとする人が現れるだろうな」
「あはは、成長と進化だな? 迎合して適応ができなければ淘汰、ってわけだ」

へらへらと笑って、健司は前髪をかきあげた。見上げれば天使がじっと見下ろしている。

「いいよ、淘汰でも。さえ穏やかに生きててくれれば、それでいい」

花形はもう返事をせず、ただそっと針の刺さる健司の腕を撫でた。

大量に血を抜かれ、また新たな血が出来るのをじっと待つ――ということでまた花形の部屋に寝起きしていた健司だったが、本人と花形が思っていたより回復は早く、本人も割と元気だった。その間ヒマなのでバスケがしたいと言ってみたが、もちろん却下。仕方なくただひたすら無為な時間を過ごしていた。

外縁地区でこんな風に時間を持て余したことはなかった。仕事が忙しいのはもちろん、健司にはヴェルデ・ビアンコがあったし、家に帰ればがいたし、がいなくてもママやドノさんがいたし、たったひとりで「何もすることがない」という状態になったことがなかった。

覚悟はしてきたつもりだったけれど、早くもホームシックだ。

テレビは面白くないし、音楽もなんだかよくわからないし、そもそもが花形の部屋なので本は分厚い学術書ばかりだし、よく寝てよく食べてストレスもなく健康的、という生活がストレスになってきた。バスケしたい。に会いたい。覚悟ってなんだったんだろう。いや、確かにを守るためならと思っていたのに。

一世一代の覚悟のはずが、想像以上に元気なことが災いして、それが揺らいできた。外縁地区育ち強い。

というか花形は大量採血の翌日からほとんど帰宅しなくなり、健司から搾り取った血液がお偉いさんたちに投与されて一体どうなったかすら報せてもらっていない。センターラボにほど近い単身者向けの集合住宅エリアでまさかのぼっちだ。ぼっち慣れしていない健司はちょっと泣きそうになってきた。

そんなある日のことだ。夕方を過ぎて薄暗くなってきた頃、花形の部屋のリビングで膝を抱えていた健司は、突然部屋中の明かりが落ちたので驚いて飛び上がった。慌てて携帯端末のモニタを点灯させて周囲を照らすけれど、窓の外も真っ暗で、何が起こっているのか全くわからない。

ただでさえぼっちで心細くなっていた健司はいっそ涙目、花形に音声通信を繋ごうとしてみても反応なし、というか音声通信の回線にアクセスできていなかった。暗闇の中にひとり、健司はいよいよ泣きそうになってきた。

すると玄関ドアの方で激しい金属音が響き、ドアを乱暴に叩く音が聞こえてきた。健司は飛び上がる。

「藤真、動けるか!?」
「花形ァー!!!」

スパークとともに玄関ドアが開き、何やらドリルのようなものを片手に持った花形が飛び込んできた。歓喜の声を挙げて駆け寄る健司に花形はいきなりライトを浴びせてきた。

「なん、ちょ、眩し」
「動けるか? てか走れるか?」
「おいおい、なんだよ何があったんだよ、この停電みたいなのどうした」
「詳しいことは移動しながら話すけど、大丈夫そうだな。ほんとに外縁地区育ちはしぶといな」
「いきなり失敬だな。どこ行くんだよ。避難か?」

斜めがけにしたバッグに物を詰め込んだ花形はフードのついた服を健司に押し付けると、ニヤリと笑った。

「外縁地区だよ。のところに帰れるぞ」

勢いに流されてフードのついた服を着込んでいた健司は、ぽかんと口を開けて止まった。何だって?

「詳しいことは道々話すけど、とにかくここを出よう。それで、翔陽町に帰ろう」
「か、帰る。オレ帰りたい、んところ帰りたい」
「てか無事に戻れたらオレもしばらく翔陽町にいたいから手を貸してくれ」
「そんなもんいくらだって貸してやるよ。走れる、翔陽町までだって走れるから早く行こう!」

部屋を飛び出たふたりは真っ暗なアンブローシアを走り出した。辺りを照らすのはバッテリーが心許ない携帯端末と花形の持ってきたスリムなライトだけ。もうずっと遠い昔から夜の暗闇をぼんやり照らしてきたタワーに光はなく、薄っすらと反射があるだけの白いボディは血の気を失って青ざめた生き物のようだった。

突然光を失いパニックに陥るアンブローシアの人々はそれぞれに走って外縁地区との境目にある高架までほうほうの体で逃げてきた。現在アンブローシアに暮らす人々は、生まれた時から青白く光るタワーとともに生きてきた。光のないタワーなど見たことがない。怖すぎる。

あたりは真っ暗、急に闇の中に放り出された人々の目は明るさに慣れていたせいでよく見えない。夜行性の動物と違い、ヒトの目は暗闇でもくっきり見えるようには出来ていない。だからヒトは暗闇を恐れた。そして火を作り出し、暗闇を少しでも遠ざけようとした。

アンブローシアの人々が好む古代の神話には、ヒトに火をもたらす者がいた。

ヒトには天使だったかもしれない。神には悪魔だったのかもしれない。

その暗闇の中を、ふたつの明かりとともに、健司と花形は駆け抜けていく。

暗闇のアンブローシアの向こう、外縁地区は今日も暖かそうな橙色の明かりが無数に揺れていた。