天使と悪魔

07

確かママの「賭け」はふたりに血縁のあるなしで、ママはない方に賭けていて、それは絶対正しいのだと彼女は主張していて、なのでいずれ健司が負けることになっていて、そうしたらと一緒に院に来て食事をするのだと言っていたはずだが、延々引き止められた健司はみんなで晩ご飯を食べてしまった。

に連絡を入れなかったのはトラットリアでバイト中だと知っていたからだし、院の子どもたちに引き止められたのも事実だし、自分が院で生活していた頃を思い出すと気が休まるし癒されるし、きっと小言は言われないに違いないと信じて健司は家路を急いでいる。

今はそれほど遅くはないけれど、連絡もせずに日付を跨ぐようなことがあるとは心配のあまり真っ青な顔になるので、健司はリパルサーバイクのスピードを上げる。最近また喧嘩が増えてしまったし、余計なことで言い合いになるのも嫌だった。

外縁地区の夜は暗く、オレンジ色の明かりが灯る町を駆け抜けた健司は、ビルの外階段の真下にリパルサーバイクを停めると、素早く2階まで駆け上がる。バイクをしまうのはあとでいい。先にに帰ったことを報せて、それから工房に降りて中からシャッターを開けた方が楽だ。

元は錆びた鍵しか付いていなかったドアだが、今は生体認証に取り替えてある。特に3階4階を貸しているので1階と2階は窓も厳重にロックしてある。パーツを付けたのは健司で、中から管理・監視できるようにしたのはである。健司はドアに手をかざし、解錠するとすぐにドアを開けた。

2階はそもそも部屋として区切られているのが1ヶ所だけで、あとはただのだだっ広い空間でしかなく、玄関に相当するドアを入ると、キッチンもダイニングもリビングもすべて見渡せる。なので健司はドアの中に体を滑り込ませながら、キッチンにいたの後ろ姿に向かってただいまと言った。

驚いて振り返ったは、青白い顔で大きな綿棒を手にしていた。

「どうし……お前それ、花形が置いてったやつじゃないか!」

具合でも悪いのだろうかと驚いた直後に、健司はが手にしている綿棒が検査キットだと気付いて声を荒げた。一瞬で頭に血が上る。捨ててしまえと言ったのに、どうしてそんなもの持ってるんだよ!

健司は早足で歩み寄ると、綿棒を持っているの手を力任せに掴んだ。

「検査、したいのかよ。面倒ごとは嫌だって言ったじゃないか」
「そ、そういうわけじゃ」
「じゃあ何だよ。アンブローシア生まれだって証明したいのか?」
「そんなこと言ってないでしょ!」

健司の手を振り解くと、は思い出したように大きく息を吸い込み、綿棒を元に戻した。

「べ、別にこんな検査なんかしなくたって、私たちはこのままで平気だって、もしかしてアンブローシアと関係があるってことになったらまた面倒だし、そういうつもりでいたけど、だけどいきなりあんなもの見せられて、それで気になってつい、引っ張り出してみただけ!」

なんとか取り繕おうとしただが、健司は検査キットを掴むと乱暴にゴミ箱に叩きつけた。

「だけど捨てなかったじゃないか。検査したいならしたいって正直に言えよ」
「そういうことじゃないって! も、もし具合が悪くなったときとか、必要になるかもって思ったから」

これは嘘だ。検査キットはふたりを引き裂くトリガーであると同時に、血縁がないことを証明してくれるかもしれない切り札でもあったのだ。それを思うと、捨てられなかった。健司の心が自分にはないのではと不安になりながらも、どこか夢見心地でこのキットへ僅かな希望を抱いていた。

だが、それは健司には伝わっていないし、知りようもない。

……きょうだいでもそうじゃなくても、一緒にいなきゃならない理由はないからな」

健司は健司で、はいつか血縁のあるなしを科学的に証明する必要がある、ないしは証明したいからこのキットを自分に隠れて所持していたのかと思い、一瞬で絶望した。オレだってこのままでいいと思ってたけど、はこのままじゃダメだと思ってたからキットを隠してたんだな……

「まあママもドノさんも、誰も彼もいつ結婚するんだとか子供出来たかとか、そんなことしか言わないからな。一緒に暮らしてる限りそう言われ続けるわけだし、この状態からいきなり別に相手とくっついたりしたら、それこそ面倒だからな。赤の他人になるなら、今が潮時かもしれない」

健司は悔し紛れの嫌味を言った。には、別れて暮らしたい、と聞こえた。

別の相手とくっついたり……それはがずっと不安に感じていたことそのもので、しかしだからこそ健司は自分に冷たく当たるようになり、喧嘩も絶えなくなっているのでは、と考えてきた。やっぱりそうだったんだ。検査をしてしまって面倒な姉か妹が増えるのは、困るってことなのか。

「け、健司は、好きな人とか、いるの?」
「は?」
「そういう話、一度もしたことなかったよね」

少しでも気を抜いたら涙がこぼれそうだった。それを誤魔化したくて口を開いたと思ったら、そんな言葉が出てきてしまった。まずい、こんな話やめなきゃと思うのに、止まらなかった。今まで、健司がヴェルデ・ビアンコに入団してからずっと心の中に閉じ込めていたことだったからだ。もう楽になりたい。

「私たち孤児院の中でもちょっと変だったし、普通がよくわからないよね、今でも――
「お前はどうなんだよ」
「わた、私?」

健司は両手をギュッと固く握り締め、努めて静かに呼吸を繰り返していた。自分の精一杯の嫌味に恋愛の話で返してくるなんて、これは「実は好きな人がいてさ」と報告されるのだと思った。ヴェルデ・ビアンコの選手だったらと思うと胃が痛むが、だったら先に聞いてしまって、楽になりたい。

……いるよ」
……付き合ってんのか」
……ううん、好きとか、言ってないから」
「言えば、いいんじゃないの」

もうこんな風に苦しいのは嫌だ。自分ばかり相手のことが好きで、きょうだいかもしれないという可能性はいつまで経ってもどこまでいっても着いてくるし、だけど他の人を好きになれそうもない。他の人は友達以上にはどうしても思えない。心も体もどちらも少しも反応を示さない。だから楽になりたい。

「向こうは、私のこと好きじゃないと思うから」
「諦めんの?」
……しまっておく。死ぬまで隠しておく」
……そんなに好きなのか」
「他の人は、無理だった。どうしても、その人じゃないと、ダメだったから」

健司は目が眩み、頭がぼんやりしてきた。胃どころか全身が痛い。

……健司は?」

の瞳が潤んでいたことなど、顔を背けていた健司は気付かなかった。

「オレも……そんな感じ」

静かにの頬に涙のしずくが伝う。

健司にも、自分が健司を思うような相手がいた、それは実はきょうだいでしたと知らされるよりショックだった。これがもしヴェルデ・ビアンコの練習をよく見に来ている女の子とかだったりしたら、遠くでひっそり思いを抱いたまま年老いていくことすら罪悪なのではと思えてくる。早く楽になりたいと思ったけれど、ちっとも楽にならなかった。苦しいだけだ。そしてこの苦しみは半永久的に続いていく。

もう一緒にいられない、明日にでも引っ越しを始めなければ。そう考えたの中で、何かが切れた。

……健司、ひとつ、お願いしたいことがあるんだけど」
「え?」
「私、子供がほしい」
「は!?」

一歩進み出たは胸のあたりで手を組み、淡々と言う。

「今日の夜だけでいいから、そうしたら、もう二度と迷惑かけないから」
「ちょ、何言ってんだ」
「真っ暗にして顔なんか見えないようにして、事が済めばそれでいいから、すぐに出ていくから」
ちょっと待て、落ち着け、それは好きなやつに頼むこと――
「だから健司に頼んでるの!!!」

宥めようとして伸ばした健司の腕を掴み、は掠れた声で叫んだ。

「そんなに簡単に出来ないかもしれないけど、だけど、もし出来ても何かしてくれとか言ったりしないから、健司が父親だなんて絶対に教えないから、翔陽町――じゃなくて海町も出て遠いところへ行くから、もしきょうだいだったとしても、バレようがないように気をつけるから、お願い――

健司の腕を掴んだままがっくりと頭を落としたと一緒に、健司もぐにゃりと体が傾いた。が錯乱してとんでもないことを口走っているが、つまりそれは、の言う「どうしてもその人じゃないとダメ」なくらい好きな人とは、健司のことだ。そして、健司は自分のことなど好きではないと思っている。

健司は妙に冷静な頭で会話を遡る。確かに恋愛的な意味で好かれているとは思えないか、あれじゃ。

納得がいくと、健司は音を立てないように深く息を吸い込み、の両腕を支えて引き上げた。は涙目で震えながら、絶望した顔をしている。さっきまで自分もこんな顔だったろうなと思いつつ、健司は数年ぶりに全ての心を開放してを抱き締めた。全身の痛みが一瞬で消えていく。

で健司が提案を受け入れてくれたのかと思って体を強張らせた。


「ば、場所はどうする? ここじゃ真っ暗にならないから」
、ちょっと落ち着いて」
「私まだシャワー入ってないんだけど、待っててもらえる?」
、聞いてくれ」

錯乱したが聞いていないので、健司は彼女の顔を両手で挟み込んで、真正面から覗き込んだ。

……やっぱり、ダメかあ」
の好きな人って、オレなの?」
「そうだよ、だからせめて子供と思ったんだけど、そうだよね、無理だよねそんなの、きょうだいかも――
!!!」

健司はつい大声を上げた。はそれに驚いて少し我に返る。

、オレの好きな人は、なんだけど」
……は?」
「孤児院にいる頃からずっとが好きなんだけど」

健司には他に好きな女がいる、という思い込みだけで錯乱してしまったは、きょとんとした顔をしている。健司はそのの体を支えながら、主に廃品で揃えられているリビングまで移動してソファに腰を下ろした。

「オレも、も、きっと向こうは自分のことなんか好きじゃないって、思ってたんだな」
……きょうだいかも、しれないのに?」
「それはお互い様だろ。でも、もし本当にきょうだいだったとしても、もう無理だよ」
「無理?」

興奮状態にあったところをぺしゃりと潰されたので、はまだいまいち状況が飲み込めてないらしい。健司は肩を撫でてやりつつ、の頬に触れる。の肌に触れるのはいつ以来だろうか、最近では物を手渡すときですら触れ合わないように意識していた気がする。

「もし今、本当はきょうだいだってことがわかったとして、すぐに嫌いになれる?」
……無理」
「ほら、無理だろ。オレもずっと不安に思ってたけど、だけど、なあ、全然似てなくないか」

まるで似ていないきょうだいがいないわけじゃない。しかしと健司の間によく似た身体的特徴は強引に考えてもほとんどなかった。ママが賭けてもいいと言い出すくらいには、元々ふたりに似通ったところはなかった。それだけが心強い可能性だった。

「オレも、にはオレじゃない別の好きな相手がいるんだと思ってた。でも、そうじゃなかったんだな」
「嘘じゃ、なくて?」
「今そんなこと嘘ついてどうするんだよ。嘘ついてたのは、ここ何年かの方だ」

ずっと嘘をついてきた。逃げて逃げて先延ばしにしてきた。

「ずっと嘘ついてきたんだ。ずっと、好きだったのに。のこと、好きだったのに」
「私も、ずっと嘘ついてた。別に好きじゃないって、嘘、ずっと嘘だった」
…………嘘つくの、もうやめようか」

は健司の目を見つめながら頷く。

「ずっと一緒に、いられる?」
「いられるよ」
「昔みたいに、同じベッドで寝られる?」
「うん」
「手を繋いでもいい?」
……いいよ、今日からそうしよう」

気が緩んだの左目から、涙がひとしずくこぼれる。それを親指で払った健司は、唇をひと撫でしてから、そっとキスをした。どうしてか、やけに懐かしい匂いが鼻をくすぐる。

「でも、オレ、もう手を繋ぐだけじゃ済まないかも」
……そうだね」
「いいの?」

は頷き、腕を伸ばしてぎゅっと抱きついた。

「もう、子供じゃ、ないから」

同じベッドで、とは言っても、このボロビルでの生活ももう数年、も健司もそれぞれの「部屋」にはある程度私物があったし、それはの場合ちゃんと壁で区切られた部屋なので余計に私室として出来上がっており、すぐにふたりの寝室とはいかなさそうだ。

ともあれ、健司はのベッドで人差し指に引っ掛けた指輪を眺めていた。

いっそこの指輪を廃棄してしまえば、自分たちとあの研究者夫婦を繋ぐものもなくなるのでは。そうしたら万が一血縁があったのだとしても、自分たちの意志で確かめようと思わなければ、永久に確定しないのでは。だとしたら、ひっそりふたりで愛し合っている分には、罪にはならないのではないか――

だけどなぜか、どうしてもこの指輪を手放す気になれなかった。手放してはいけないと思ってきた。

……もしきょうだいだったら、どっちが年上かな」

そこへシャワーを浴びてきたが戻ってきたので、健司は腕を伸ばしてぺたりと抱きつく。

「きょうだいじゃないから」
……このビルに引っ越してきた時、最初は一緒に寝たよね。わーい、また一緒だ!って」

トラットリアの2階で共同生活をしていた時は、小さくて今にも壊れそうなベッドを3つ並べてそれぞれ寝ていた。しかしこのビルに入った時、ふたりは当然のように大きなベッドをひとつ買い、初めて自分たちだけしかいない夜に大はしゃぎをしながらベッドに飛び込んだ。

ママも院の仲間もドノさんもいない! このビルは自分たちだけの城だ! 大きくなったら手を繋がなくても寝られるようになろうね、と教えられてきたし、トラットリアではそうしてきたけど、と健司にとっては、手を繋いで眠る方が自然だった。触れ合っていた方が当たり前という気がしていた。

誰も別々のベッドで寝なさいと言う人がいないこのボロビルで、も健司も、これでようやく「元通り」になった、と思って手を繋ぎ、明かりを消した。ベッドの上には大きな窓、そこから月明かりが差し込んでいた。

……久しぶりだったから、手も繋いでたけど、ぎゅーって抱き合ってたんだよ」
「そう、また一緒に寝られる! と思って嬉しかった記憶があるんだけど……
「先にが寝ちゃったんだ。喋ってたけど、急にストン、て」

誰の手も借りずにふたりだけで引っ越しをしたから、疲れていたんだろう。はこれからの新生活にどんなことをしてみたいだのと喋っている途中で、突然寝てしまった。健司の体に腕を回したまま、枕に頭を沈めてぐっすり寝ていた。それを見た健司に、異変が起こった。

……夏が近かったから、肩紐があるだけのワンピースだったんだよな」
「そうだったっけ……?」
…………その時初めて、胸が、あるってことに、気付いたんだ」

物心ついた時から片時も離れなかったは、トラットリアで過ごしているうちに、いつの間にか子供から大人になろうとしていた。初夏の夜、眠ってしまったを見下ろしてみたら、白い胸元は少しだけ膨らんでいた。自分の体を抱く腕に押し潰されて歪んだせいで余計にぷっくりと膨らんで見えるその胸元を見た健司は、心臓が跳ね上がった。

突然暴れだした心臓に驚いて健司は思わず目を逸らした。そこには疲れて寝てしまったの顔があった。

「胸を触ってみたい、唇にキスしてみたい、そう思ったんだ」

しかしそんな健司の脳内にママの声が蘇る。早熟であることが多い外縁地区では重要なことである性教育とともに、彼女は近親婚がタブーなのだと言っていた。健司の中でふたつがどろどろと混ざり合う。

自分たちが血縁である可能性が色濃く残っていることには自覚があった。確定ではないにせよ、きちんと検査をしたら、もしかしてきょうだいなのかもしれないという長年の疑惑があるところにママの性教育の記憶が重なり、目の前のに対して感じているものが恐ろしくなってしまった。

「無意識に、自然に感じたことだったから、こうして近くにいたら危ないと思ったんだよ」
「触っちゃうかもしれない、ってこと?」
「もしきょうだいだったら大変なことになると思って」

しかし欲情してしまったこととは別に、いくら距離を置いても喧嘩をしても、気持ちはいつでもへ向いていた。ヴェルデ・ビアンコに入って友達や仲間が増え、のいない時間が多くなっても、それは変わらなかった。と一緒にいたい、離れたくない、本当は触れ合いたい。

「私もいきなり別々に寝るって放り出されてから、そういうの、あったなあ」
「え」
「最初はやっと手を繋いで寝られるのに、って悲しかっただけだったけど」

目を丸くする健司に、は照れくさそうに微笑む。

「お互いそういう時期だったんだね。チューしたいな、ぎゅーってしたいなって、思ってたよ」
……今は?」
「今でも」

変わらなかった。他の人ではダメだった。もう、無理だった。

「健司、好き」
「オレも好き。、好きだよ」

最初の夜には怖くて出来なかった。やってはいけないことだと思っていた。自分のためにものためにも、ふたりの関係は小さな子供の頃と同じでなければ。そういう枷を自らに科して数年、ようやく健司はに覆い被さってキスをした。手を伸ばせば、柔らかな乳房がそこにあった。

あの日と同じ月明かりが静かにふたりを照らしていた。