天使と悪魔

05

鋼町で行われているチャンピオンシップでは宿敵パールス・ゲールが破竹の勢いでトーナメントを勝ち進み、健司のライバルと称されるリーダーが毎日のようにインタビューに答えている中継映像を、ヴェルデ・ビアンコのメンバーたちは苦虫を口いっぱいに頬張ったような顔で見ていた。

来年の対策のため、そして何より心からバスケットを愛するものとして、パールス・ゲールのことはいつまでも引きずらない、純粋にチャンピオンシップの試合を観戦したい――などと言っていられたのはものの2日くらいなものだ。それは健司たちだけでなく、ヴェルデ・ビアンコファンの翔陽町の人々も同じ。

それぞれ思いはあるにせよ、あの場所にを連れて行きたかったという後悔が残る健司は特に腐り、パブ・フォンタナではまだ取り繕っていられたけれど、帰宅するとそのフラストレーションがどうしても隠しきれなくなり、結局と喧嘩していた。

一方は仕事にあぶれたプログラマーをどうにか活かせないかという海町のカンファレンスに足を運んだりしつつ、再度職業訓練プログラムを受けることも考えてアルバイトを増やしていた。健司がヴェルデ・ビアンコに入団したときからもマネジメントを行っており、そういう仕事もいいんじゃないかと考え始めていた。

その後、バスケットのトーナメントが終わってしばらくは顔を見せなかった花形だったが、ある日の夜、突然健司に音声通信を寄越した。この日はひどい雨で、そこに海町名物の風が混ざり、さながら嵐のような夜だった。

「どうしたの、こんな時間に」
「なんか急ぎの件があるから、今から行ってもいいかって」
「それはいいけど……ゲートの方は大丈夫なの」
「あいつのことだから、その辺はクリアになってると思うんだけど……

まだベッドに潜るのは早いけれど、後は寛いで寝るだけという程度には深夜だった。心配そうに眉をひそめたは、健司にリパルサーバイクのキーを差し出しつつ、ついその手を取った。

「健司が整備したバイクなんだから大丈夫なのはわかってるけど、気をつけて」

アンブローシアと違って、外縁地区の夜は暗い。しかもこんな嵐のような雨だ。花形がいつもコソコソと通り過ぎてくるゲートまでの道のりは平坦だが、事故にならないとは限らない。健司はそのまま引き寄せて抱き締めたい気持ちをグッと飲み込む。そんなことしたら花形のことなど忘れてしまう。

「わかった。あったかい飲み物、頼んでおいていいか」
「もちろん。お風呂も熱いお湯張っておくから」
「すまん。じゃあ行ってくる」

久しぶりに繋ぎ合わされた指先をキュッと握り締めると、健司は工房に降りていった。

も移動用に一台欲しいと常々言うけれど、表向き「タダでやれるか」と言いながら内心「危ないからダメ」と断り続けている細身のリパルサーバイクを引っ張り出す。雨がひどいのでゴーグルにナビゲーションレンズを重ね、普段あまり使用しない携帯用のデータパッドをアームに装着する。

花形の声は、いつになく焦っていた。

あまり意味はないかもしれないが一応防水のパイロットスーツを着込み、健司は工房を出た。大粒の雨が地面を叩きつけている。顔を巡らせれば、こんな悪天候の夜でもアンブローシアのタワーはぼんやり青白く光っている。どうかあの花形の焦った声が、自分たちには関わりのないことでありますように――

健司は胸元に潜む指輪に手を当てると、雨の中を走り出した。

ふたりが暮らすボロビルから一番近いゲートまでは、健司のリパルサーバイクならものの20分ほどで着く。これが徒歩だと車両専用ブリッジを通れないので迂回せねばならず、しかも一旦地下に潜って地上に出てを繰り返さないとならないため、時間がかかる。

上へ上へと伸びていくアンブローシアと違い、外縁地区は逆に下へ下へと掘り下げる習性がある。結果アンブローシアのような高層構造になる場合もあるけれど、街の興りからしてコソコソする癖がついているのかもしれない。健司は雨になると排水の音がうるさい縦穴の上を通り過ぎていく。

このあたりは通常それほど雨量が多くないので雨は基本的には歓迎したいところだ。だが、それが仇となって大雨に対する備えが弱い。コソコソと穴を掘ったはいいが、うっかり排水のことを考えずに掘り下げて水没し、以来貯水湖になっている場所もある。

翔陽町にある噴水広場の水も、そうした貯水の循環の一環で行われている。飲用とは別の生活用水は町ごとに管理されていて、特に冷却用水が必要になる海町と鋼町では水の管理は徹底されている。

健司がゲートに到着すると、周囲を警戒する細いサーチライトが地面をゆらゆらと走り回っていた。海町を蛇行しながらアンブローシアまで続く高架道路をほぼ等間隔で区切るゲートはアンブローシアの管轄で、物資も人も、全てスキャンされてからでないと通過できない。

外縁地区の中では、「ゲートの入出にはそこそこめんどくさいプロトコルがあり、仕事で常に出入りするような必要がないなら少し遠回りでも外縁地区内を使った方がいい」と言われている。特に職業上装備品の多い健司のようなタイプは全て検査に回さなければならないので、出来れば近寄りたくない場所だ。

しかし花形はそのゲートをいつも簡単に通り抜けてくる。ゲートの職員も気にしていないようだし、何なら花形の方を上に見ているような扱いだし、健司は彼を送迎するたびにそれが気になっていた。

あいつ、聞いてもいないことはベラベラよく喋るけど、肝心なことはめんどくさいとか説明が難しいとか言って、よく逃げるからな……。アンブローシアのでっかい研究所でちまちま病気の治療法を研究している職員だと言うけれど、それもどこまで本当なんだか。

近くを見るのには邪魔なのでナビゲーションレンズを押し上げると、ちょうど花形がゲートを出てくるところだった。いつものようにすっきりとした装飾品のない服を着て、しかしそれでは外縁地区では目立つので、古びたコートを羽織っている。

雨と風と排水の音でうるさいので、ふたりは言葉も交わさずにゲートを離れる。このリパルサーバイクは健司の得意分野でもあるので、安定した走りを見せる――が、何しろこんな荒れ模様である。タンデムシートに跨っている花形はフードを目深に被って手で押さえているけれど、水滴でメガネの向こうが見えない。

元来た道をそのまま戻り、普段であればフォンタナへ行こうかだの、ちょっと練習していくか? となるところを、まっすぐにボロビルに帰ってきた。工房にそのまま乗り入れ、シャッターを閉めると、ふたりはやっと大きく息を吸い込む。全身ビショビショだ。

「すまん、こんな遅くに」
「うちはいいけど、よくゲート通れたな。お前ほんとに研究所の職員?」
……ID見せようか?」
「そういう意味じゃない。うちと関わってる間に面倒には巻き込まれたくないから言ってるだけだ」

健司はパイロットスーツを脱ぎ捨て、それでも雨が染み込んできてしまったジャケットも放り出し、髪をかきあげた。花形はやはり少し様子がおかしい。しかしパイロットスーツを着ていた健司と違って、花形は服から髪からびしょ濡れだ。暖めなければ風邪を引くかもしれない。

がバスタブにお湯張ってくれてるから、入れよ」
「悪い、助かる。それから見てもらいたいものがあるんだ。R1タイプのホロレンズあるか?」
「今はアーソテック社のしかない。R1なんてとっくに生産終わってる」
「R1タイプなら大丈夫だ。頼む」

健司は棚を漁って確かめると花形に指示されたものを取り出し、彼を追って階段を駆け上がった。

「はいこれ、タオル使って」
「すまん、にも見てもらいたいものがあるんだ。待ってて」
……わかった。健司は? 花形の後に入る?」
「オレは首から上しか濡れてないからいいよ。乾かして着替えてくる」

温かい飲み物の準備もすっかり整い、周到なことには軽食まで用意していてくれた。

そうしてバタバタすること30分ほどで、3人はリビングにあたる場所でそれぞれソファに身を沈めていた。花形はまだ頭にタオルを引っ掛けたまま、何やらプレート状のものを手に、健司に借りたホロレンズを取り付けている。

「ずいぶん古いデータパックだな」
「もうアンブローシアにはこのタイプのレンズが残ってなくて、データだけ吸い出そうとしたんだけど」
「破損してたのか?」
「いや、サムネイルは取れたんだけど……個人の所有物だからプロテクトがかかってて突破が面倒だった」
「そのために来たのかよ。明日でもよかっただろ」
……これを見つけた場所がちょっとな。よし、これでいい」

レンズを取り付け終わった花形がデータパックをテーブルの上に置き、変換ケーブルを通したキーパッドで操作をすると、高さ30センチほどの立体映像が現れた。花形の言うように個人の雑多なデータを収納してあるようだが……。花形は内部のデータをスキャンし、目的のものを見つけると拡大表示に切り替えた。

瞬間、と健司は思わず腰を浮かせて身を乗り出した。

「どういうこと、これ!?」
「なんだよこれ!」

ふたりは揃って胸元に手をやる。

少し旧式の立体映像、ぼんやりと浮かび上がるその中には40代くらいの男女がひとりずつ。男性が女性の肩を抱き寄せていて、見た感じでは夫婦のようだ。アンブローシアらしい飾り気のない清潔な服を着て、微笑んでいる。そしてふたりの指には、お揃いの指輪が嵌っていた。青緑色の石がついた指輪だった。

「だから慌てて来たってわけだよ」
……これ、どこで見つけたんだ」
「話すと長いけど……いいか? 、明日の予定は?」
「そういうのいいから、話して、全部」

花形はタオルで髪をかき回すと、温かいコーヒーを一口飲んで、ため息をついた。

「わかった。まだ不明なことも多いんだけど、そこは我慢してくれ」

「この間、シノウゾル16使ったAIの話が出ただろ。帰ってからそれがちょっと気になって調べてみたんだ。藤真の言うように開発当初はすごく盛り上がってたらしいんだけど、オレの記憶では開発チームのリーダーが死んだとか急病だとかで完成しないままになってるって話だったはずなんだ」

シノウゾル16という結晶体を使ったアンブローシア全体を管理するAIが開発されているということは外縁地区でもよく知られた話だった。外縁地区には技術者がひしめいているけれど、その多くは自らの手で物を作り、直し、動かして活かすという職に就いているものばかり。人工頭脳に管理されるなんて、と評判は悪かった。

「そもそも、そんなAIの構想が出たのはオレたちが生まれるずっと前だし、どうもアンブローシアではもう100年近くそういう都市管理AIの開発に挑戦しては頓挫してきたみたいなんだよな。調べてみたら大きなプロジェクトだけで4つもあった。その4つめがオレらがよく聞く『クシャスラ』、一番新しくて、22年前に開発中止」

花形はホロレンズからぼうっと浮かび上がっている立体映像を指す。

「その『クシャスラ』の開発責任者でチームリーダーがこのふたり。厳密に言えば女性の方」
「厳密?」
「クシャスラ自体は共同開発で個人のものじゃない。けど、基礎理論を作ったのがこの女性の方なんだ」

ということは、クシャスラの開発はチームリーダーを欠いたことで中止になっているという話なのだから、この女性が亡くなったか病を得たかしたということだ。

「ここまではクシャスラ開発をしてた研究機関の記録。ところが、この画像データ、17年前のものなんだよ」
……病気が治った、とかじゃなくて?」
「だったら開発を再開してるはずだろ。しかもこの場所、クシャスラの開発してた研究所じゃないんだ」
……どこだよ」
「うちの研究所」

と健司の視線が花形に集中する。

「ついでに藤真が嫌がってる生体接続も元はこの人が生みの親」
「はあ?」
「で、話はここからなんだけど、本当にここだけの話にしてくれ。約束してくれるか?」

すぐにふたりが頷いたので、花形は手を組み、咳払いを挟む。

「実は、この間言ってたアンブローシアでしか発症が確認されてない病気、あれ、実はかなり深刻なんだ」

花形はぼそぼそと喋っているが、幸い外は嵐のような雨、万が一このビルに近付く者があっても、絶対に聞こえないに違いない。激しい雨の音を背に、と健司は息を呑んだ。

「この女性、記録だけで言えば、最初は医者だったんだ。クシャスラの基礎理論を思いついたのも脳だけ残して全身機械化するっていう藤真が怒りそうな研究してる時だったっていう話で、そのクシャスラの開発が止まった時期っていうのが、22年前、ちょうど例の病気が増え始めた時期に重なる」

以来22年間、患者は増加の一途を辿り、しかし根治に至る治療法は確立されないままだ。

「これはオレの予想でしかないんだけど、恐らくクシャスラは議会主導のプロジェクトだったと思うんだ。予算の桁も違うし、今度こそ本気でアンブローシアを管理するAIを作るつもりだったんだろうと思う。だけど、そんなことしてる間にこの病気で市民が全滅するかもしれない……てことで引き離されたんじゃないかって」

なので開発プロジェクトは「リーダーを欠いたために中止」なのであり、開発チームの解散、とはされていない。

「だけどそこで記録はプッツリ。今でもこの病気の治療法は研究し続けられてるけど、この女性は行方不明」
「行方不明? ええとその、すごい学者かなんかだから、病気の解明の方に呼ばれたんだろ?」
「この画像を見る限りではそれ以外考えられないんだよな。クシャスラ投げ出してこんなところにいるってことは」
「で、ここは今お前が勤めてる研究所で、だけどこの女性はいない、と」
「そう。見たことない。名前も記録にあるのみで、どこにも使われたりしてない」
「じゃあやっぱりその後に亡くなったんじゃないのか? この男の方は?」
「こっちも知らない。少なくとも今うちのラボにはこんな人いない」

健司は花形の話し声を聞きつつ、立体映像に顔を近付けると、胸元の指輪を取り出した。

「同じ指輪……のように見えるよな」
「石にもリングにも、何も書いてないんだよな? のもそうか?」
「うん、柄も何もない。健司のとはサイズが違うだけで」
「ひとつだけならスルーしたけど、ふたつ、出てきちゃったもんだからさ」

しかも男性用女性用が夫婦と思しき男女の手にひとつずつ嵌っている。と健司の持つ指輪と同じものなのでは、と思ってしまっても仕方あるまい。も胸元から指輪を引っ張り出すと、比べ始めた。

……花形、この人たち、家族か?」
「クシャスラの方とうちの方、どちらも研究所の資料として残るデータでは、判別付かない」

アンブローシアでは婚姻による姓名の変更はなくても構わない。住民のデータに伴侶を定めている場合のみその記録が付けられるだけだ。なので外縁地区のように苗字が同じだから夫婦の可能性大、と簡単に断定できない。しかしそう言った花形はため息をつきながらキーパッドを操作し、データを切り替えた。

新たに浮かび上がった立体映像に、と健司はウッと喉を詰まらせた。

「これ、どう考えても、結婚式だよな」

と健司が持っているものと全く同じ指輪、それを指に嵌めている男女が礼服とドレスで抱き合い、幸せそうに笑っていた。かなり若い頃のようだが、先程の男女と見て間違いない。

「あとのデータは大したことないぞ。たぶんこのデータパック自体、端末のバックアップのはずだ。親戚へ送ったメッセージの控えとか、高価な買い物をした時の領収証とか、そんなのばっかりだ。写真もないことはないけど、自宅らしい場所の日常のショットばかりで参考になるものは何も」

花形が適当にキーパッドを操作してデータを送るが、彼が言うようなものしか出てこない。この夫婦と思しき男女のどちらかがプライベートで使用していた端末の、さらに個人的なデータのバックアップ、まさにそんな感じだ。

……花形、これ、どこで見つけたんだ」
「うちの研究所の古いロッカー。ふたりのロッカー、残ってたんだ」
「そんなところにこんなもの残してたのか?」
「いや、ほぼ空だった。捨て忘れのゴミみたいに箱にひとまとめにしてあった中にこれが入ってた」

パワーオフにしたデータパックからホロレンズを外すと、花形は再度テーブルの上に戻した。

「どうせプロテクトがかかってて突破は簡単じゃないし、かといって今ではもうホロレンズの規格が古すぎてアンブローシアじゃ再生できないし、それで放置されたままになってたんだと思うけど。オレみたいに外縁地区に気軽に出入りしてるアンブローシア市民なんてほとんどいないしな」

例えプロテクトを解除されたとしても、中身は日常の記録や控えばかり。本当にゴミだったのかもしれない。

すっかり話し終わると、花形は思い出したようにコーヒーを飲み、が用意しておいた軽食をバクバクと食べ始めた。はそれをぼんやりと眺めながらぼんやりと考える。そういえば花形って「上」の人なのに、外縁地区のもの、平気で食べるよね――

とはいえ花形の話と立体映像だけでは、似たような指輪をしている人物がかつて実在したというくらいしかわかることはなく、と健司はいまいちすっきりしない気持ちを抱えてその日は眠りについた。

普段外縁地区に来ると長居をしたり遊びまくって帰ったりする花形だが、この日は「明日の朝イチで帰る」と言い、本当に明け方にボロビルを出ていった。普段なら健司かのどちらかがゲートまで送っていくのだが、それもいらないと言って、勝手に出ていった。

そして翌朝からと健司はある考えに取り憑かれた。

あの指輪が自分たちの持っているものと同じものなら、あの男女ふたりから譲られたものなのだとしたら、そしてあの男女ふたりが夫婦で、今はもうどちらも存命でないのだとしたら。最悪のイメージがと健司を襲う。今までずっと否定してきた、しかしどうしても捨てきれなかった可能性だ。

もしや自分たちはあの夫婦の子供で、きょうだいなのではないだろうか?