体育祭まで数日という日の午後、この日もは木暮と一緒に帰っていた。最近では平良と皆本と帰る機会はめっきり少なくなっている。相変わらず自宅近くにガラの悪いのがたむろしているせいで、どうしてもこの習慣から抜け出せない。
だが、キャップや赤木が言うように、木暮たちは頼んでもいないのに送りを申し出てくれてるのだし、ただ一緒に帰るだけで他には何もないのだから、としつこく言い聞かせている。
「ほんとに毎日いるんだな、あいつら」
「学校終わるとあそこに集まるみたい。それで全員集まるとどこかに行くらしいんだけど」
「集合場所になっちゃってるのか」
ガラの悪いのが溜まっているのは町工場の敷地内。どうやらその工場の子供だか従業員だかが仲間のようで、通りに面したところでいつもわいわい喋ったり騒いだりしている。の自宅へはその町工場の前を通るのが順当なルートで、迂回してもいいが、どちらにせよ近所だ。
「それがまたうちの前通って行くんだよね。この間も予備校終わって帰ってきたら、今度は帰ってきたところに行き会っちゃって、たまたまお父さんが帰ってきたところだったからよかったけど」
それでも集団の中に幼馴染がいなければ、さっさと逃げるだけで済むかもしれないのだが、声をかけられてしまうと愛想よく応えるしかない。自宅は動かないのだし、迂闊に無視などして彼らの神経を逆なでしたくはない。
「通報とか、だめなのか」
「近所の人が何度もしてるんだけど、一応喋ってるだけなんだよね。だから注意されて終わっちゃう」
その町工場が近付いて来たので、は声を潜めた。
と木暮は最寄り駅が隣で、自宅は自転車で30分ほどの距離がある。こんな風に送ってもらうようになって以来、木暮は隣の駅まで自転車でやって来て学校に通うようになった。今も自転車を引いて歩いている。そしてを送り届けると、そのまま自転車で帰る。
「今日も遅いんだろ。しかもひとりで」
「まあ、すれ違うのだって毎日じゃないから」
「なんか心配だなあ。明るいうちなら人通りもあるみたいだけど……」
本日家は両親揃って留守にしていて、がひとりである。とは言ってもも18歳、一晩親がいないくらいはどうということはないけれど、何しろ受験生、今日も夕方から予備校である。帰宅は22時半を過ぎる。
「ひとりでどうにもならないことがあったら、連絡しなよ」
「だ、大丈夫だよ。木暮くんだって予備校でしょ」
「まあそうなんだけど」
を無事に送り届けた木暮は、自転車に跨ると急いで漕ぎ出る。自分もさっさと帰宅して早めに食事をとったら予備校に行かねばならない。けれど、途中通り過ぎる町工場の溜まり場の騒々しい声が気になって仕方なかった。
時間通りに帰ってきたは、暗い夜道を早足で歩いていた。予備校までは往復バスだが、バス停からは5分ほど歩く。前回ガラの悪いのと遭遇したのもバス停からの帰りだった。今のところ犬の散歩をしている男性と2度すれ違っただけで、無事。
家が近付くほどに速度が上がるは、駆け込むようにして自宅の門に飛び込んだ。背後を何度も確かめながらドアを開き、中に入ると素早く閉める。玄関の明かりを点けると、やっと気が抜ける。もう大丈夫。
母親はしつこく防犯と火元を気にしていたが、食事はもう済ませてあるのだし、後は風呂に入れば自分の部屋以外用はない。少し小腹が減ったのでコンビニでカップスープを買って来たが、それもポットのお湯で事足りる。
明日の朝、寝坊をせずに登校すれば、問題は起こりようがない。帰ってくる頃には親も戻っている。
家にひとりだと思うと、妙な開放感が湧いてくる。これで受験生でなかったら友達を呼んだり出来たのにと思うと、少し惜しい。いやいや、友達じゃなくたって、彼氏でもいいじゃないか。そんな想像をしたは頬が熱くなって、慌てて部屋に入る。
風呂と、カップスープと、ちょっと休憩。どれを先にしようかと考えながら着替えていると、バッグの中の携帯が震え出した。半分着替えたところで取り出してみると、なんと着信。しかも木暮からだった。自分の部屋で電話とはいえ、着替え途中が急に恥ずかしくなったは、しゃがみ込んで着信に出た。
「こ、木暮くん!? どうしたの」
「えっ、どうしたの、って、大丈夫かなと思って」
「あっ、うん、ちゃんと帰ってきたよ。もう家の中」
「そっか、それならよかっ――」
しゃがんでいたはなんだか落ち着かなくて、換気をしようと窓を開けた。だが、開けた瞬間、例のガラの悪いのたちが家の前を通り過ぎた。わいわい騒ぐ大声が飛んでくる。慌てて身を引き、携帯の受話口を手で押さえただったが、木暮は言葉を切った。聞こえてしまったらしい。
「なんだ今の、大丈夫か」
「い、家の前通り過ぎただけ。これから帰るんじゃないかな、だから――」
「ー!」
幼馴染の声だ。はサッと血の気が引いた。
「本当に大丈夫なのか、、今の声」
「平気平気、ほんとに部屋の中だから、ちょっと挨拶したらすぐに窓閉めるから」
「だけど――」
「ありがとね、また明日ね!」
無視したままでいるのが怖くて仕方ないは、一方的に通話を切ると携帯をベッドに放り投げて窓から顔を出した。2階の窓から覗き込むと、10人いるかいないかという集団の中で幼馴染が手を振っている。は頑張って笑顔を作り、そっと手を振る。
「ど、どうしたのー、こんな時間に」
「別にーいつもこんなもんだけどー。なに今日親いねーの?」
なぜ知ってる。は肩が震え出した。だが、自宅のガレージは空で、それを気付かれたのだとわかった。
「んーん、いるよ。あ、車? 今出てるだけだよ」
「なんだー。いねーんだったら遊ぼうかと思ったんだけど」
「あはは、受験生だから、勉強しないと」
「1日くらい平気だろー。変わんねーよ」
「私得意なものとかないから、勉強くらいしておかないとさ」
怖くて足が震えてきたが、は何とか笑顔を保つ。遊ぼうって何? 親がいないならって、まさか家に入るつもりだったの? 友達って言う程でもないのに、この人たち、どういう感覚してるの。ていうかもう23時になるっていうのに、そんな大声でバカみたいなこと!
だが、がなびかないのだとわかると、家の前でウロウロしていた連中はだらだらと遠ざかり始め、幼馴染も最後に手を振って去って行った。は急に窓を閉めるのも怖くてその場でぺたりとへたり込んで、大きく息を吐いた。なんとかやり過ごせた。
だが、まだ彼らの声が聞こえている。だらだら歩いているのだろう。はまた窓から少し顔を出して、そっと覗いてみる。だらだらというか、本当にのろのろと歩いている。
少しずつ少しずつ遠ざかる声を聞きながら、は着替えを終わらせて窓辺にへばりついていた。たまに覗いてはまだ姿が見えるので顔を引っ込め、を繰り返し、ようやく声も聞こえなくなったので、窓に手をかけて閉めようとした。が、ちらりと目を落とすと、なんだか見覚えのある自転車が猛スピードでやって来る。
「木暮くん!?」
「、大丈夫か!?」
私服の木暮だった。息を切らして自転車にまたがっている。は取るものもとりあえず部屋を飛び出し、母親のつっかけサンダルを履いて玄関を開けた。
「あああ、聞こえなかったか。出てこなくていいって言ったのに!」
「な、なん、どうして」
「どうしてって、さっき変なところで通話切れたから、何かあったんじゃないかと思っちゃって。ごめん」
門にしがみついたの前で、木暮は自転車から降りると人差し指で頬を掻いた。
「ごめん、って、なんで木暮くんが謝るの!」
「えっ、ごめん」
「だから!」
「あはは。てか平気だった? またあいつら?」
は黙って頷いた。木暮のため息が聞こえる。
「車、なかったから、親いないと思ったみたいで」
「はあ!? なんでそんなに目ざといんだ」
「遊ぼうって言われたんだけど、なんとか断った。だから、大丈夫」
「……怖かったろ、本当に平気か」
気を遣わせまいとしたけれど、そりゃあ怖かった。家の中にひとり、施錠はしてあっても、恐怖は容赦なく襲いかかってきた。まさかとは思うけど、おかしなことになりませんように。ああここに青田くんとか赤木くんがいればなあ。はずっとそんなことを考えていた。
青田や赤木に比べたら木暮は頼りないかもしれない。だが、は今、心底ホッとしていて、気をつけなければ泣いてしまいそうだった。木暮が女の子だったら一緒にいてと頼むのに!
「、あのさ――」
門扉にかけていたの手に、そっと木暮の手が重なる。俯いて何度も頷いていたが驚いて顔を上げると、その勢いで木暮の手もパッと離れた。
「わ、ごめん、つい」
「こ、木暮くん」
「な、なんでもない。あ、いや、そう、明日! 明日、ここまで迎えに来るから、待っててよ」
「明日?」
「ヤンキーは早起きしないかもしれないけど、念のため。家からひとりで出ない方がいいよ」
は心の中に色んなことがぐるぐると渦巻いて、混乱してきた。木暮のこと、平良のこと、皆本のこと、会長、青田、体育祭、元カレ、部活対抗レース。
「オレももう帰るから、ほら、中入りなよ。入るまでここにいるから。ちゃんと鍵かけろよ」
木暮がそんなことを言うので、はがばりと顔を上げると、「待ってて!」と言って家の中に飛び込んだ。階段を駆け上がり、コンビニ袋の中からカップスープを取り出し、また階段を駆け下りると、玄関を飛び出る。
「木暮くん、本当にありがとう。これ、あげる!」
「え!? いいのにそんな、の夜食じゃないの」
「実はけっこう怖かったから、来てくれて嬉しかった。帰り、気をつけてね」
門扉を勢いよく開いたは、カップスープを木暮に突き出すと一気に言って、ハーッと息を吐く。
「……ありがとう。ちょっと腹減ってたから、助かる」
「じゃあ、あ、明日、待ってるね」
「う、うん」
「おやすみなさい!」
ぺこりと頭を下げたは、そのまま振り返り、また玄関に飛び込んだ。気を遣っているといつまで経っても木暮が帰れないので、乱暴に鍵を閉め、チェーンもかける。そしてわざと足音を立てて階段を駆け上がり、部屋のドアも力を入れて閉めた。これなら木暮もが部屋に入ったことがわかるだろう。
部屋のドアにへばりつきながら少し待ったは、窓辺まで這って行き、そろそろと窓の外を覗く。暗い住宅街、さわやかな秋の風が吹き抜ける中、木暮の自転車が遠ざかっていくのが見えた。
木暮くん、さっき、何を言おうとしたんだろう。何を言うつもりだったんだろう。
窓を閉めたはベッドに倒れこんで体を丸めた。考えれば考えるほど想像は飛躍して、どこまでも広がっていく。だけど、それにどっぷりと浸かってしまうのは怖いような気がした。そんなことしてる暇あるの? 受験なんだから、受験生なんだから――