21時のバスタイム

合宿の夜に花形による「合同宿題片付けタイム」が行われるのもこれで3年目。3学年100人近い全部員が食堂に集まって宿題を開き、懸命にペンを走らせている様は実に壮観だ。練習が終わり、食事も終えて眠くなってくる頃合いだが、部屋にはテレビもないし、合宿中にみんな一緒に片付けておけば後が楽だ。

「去年と一昨年はインターハイがあったからみんな必死だったけど」
「今年は完全にたるんでるな。主にスタメンが。おい藤真、お菓子食ってる場合じゃねえだろ」

全部員の宿題の面倒を見てるのは副部長の花形と、マネージャーのだ。花形の方は本来の偏差値が翔陽より10は上であり、の方は大所帯男バスの女子マネ3年目にして鍛えられた自己管理の鬼。下級生の宿題くらいなら問題ない。だが、人数が多いので時間がかかる。とても1日では終わりそうにない。

しかも日中はずっと練習をしていたのだし、詰め込みすぎると効率も落ちる。花形は20時半頃に解散させると、出来そうなら部屋に帰って続けること、疲れてるなら寝ること、と言い渡した。全6日間ある合宿のうち、まだ3日目だ。宿題が練習に響いたら本末転倒だし、合宿中に全て終わらせなくてもまだ夏休みは残っている。

は一足先に食堂を出ると、部屋に戻り、入浴の支度を始めた。この合宿所は元々県内の企業の古い施設だったが、20年ほど前に売却され、以来こうした合宿や研修に貸し出されている。なので個室にはバスルームがない。厳密に言えばシャワールームはあるが、狭いブース型でただ洗うだけにしか使えない代物だ。

走り回ってはいないが、も1日中立ちっぱなしで疲れていた。特に現在マネージャーは自分ひとりしかいないので、負担も大きい。去年までは怪我で競技が出来なくなってしまった男子のマネージャーがいたので、ひとりでは余計に疲れる。なので、男子の使い終わった大浴場へ行くつもりだった。

森林に囲まれた古い施設にありがちな岩風呂は半露天になっていて、夜は涼しい風が吹き込むのでとても気持ちがいい。昨日は宿題片付けタイムが長くなってしまった上に、友達に捕まってしまったので22時頃に入ったのだが、大浴場の独り占めは最高の気分だった。泳げる! 大の字になっても恥ずかしくない!

一応大浴場は23時まで、という決まりになっているので、はいそいそと支度をして部屋を出た。のんびり風呂に浸かって疲れを癒やし、火照った体は窓を開けて涼しい風に冷やし、館内は無料Wi-Fiがあるので携帯で音楽を聞きながら本を読み、売店で買っておいたプリンを食べる。考えただけで最高だ。

誰もいない脱衣所でポイポイと服を脱ぎ、半露天で少し寒いからタオルをしっかり巻き、コンパクトなサイズのビニールトートを手に、いざ大浴場へ! ほんとはシャワーで流してから入らなきゃいけないんだけど、私が使い終わったらお湯を抜いて洗うだけだから、いいかな? はそのまま岩風呂に足を入れた。

真夏の熱気に汗をかいた体は思いのほか冷えていて、つま先からじわりと熱が伝わってくる。お湯の温かさにぞくぞくと背筋を震わせていると、涼やかな風がサッと吹き込み、ザッと湯の流れる音がした。風にさらわれてもうもうと立ち上っていた湯気がかき消えていき――

湯気が消えると、目の前に腰巻きタオルの男がぬっと立っていた。

これが漫画ならはキャーッと悲鳴を上げていただろうが、一瞬相手が誰だかわからなかったせいもあって、はヒッと短く喉を鳴らしただけでその場に立ち尽くして固まってしまった。むしろ悲鳴を上げたのは相手の方だった。

「わ、ちょ! !? なんで、おま、何で入ってきてんだよ!?」

メガネがないのと、長く垂らしている前髪がないので気付かなかった。花形だ。もやっと声が出る。

「やっ、やだ! なんでいるの!? 何やってんの!?」
「そっちこそ!!!」

ふたりともちゃんとタオルを巻いていたけれど、勢いよく湯の中に沈んだ。

「だって大浴場は20時まででしょ!?」
「は!? 23時までだろ!?」
「それは合宿所の規約!!! 部員と先生は20時までって言ったじゃん!!!」
「だ、だって昨日もこのくらいの時間に入ったけど! いなかったし!」
「それは私が遅くなっただけで!」

どうやら伝達ミスだったようだが、昨日はが遅くなり、初日はシャワーだけで済ませたので気が付かなかったらしい。一応の方が正しい。部員たちは夕食の前にさっさと風呂に入ること、と言い渡されているし、練習の後に風呂に入りたくない部員はまずいないので、全員が済ませているのが普通だ。

「いやオレは風呂入った後に長々と起きてると汚れてくる感じがして……
「そ、それはわかるけど……

お互い背を向けて背を丸め、顎が浸るくらい体を沈めている。だが、花形がすぐに膝を立てた。

、オレ出るから、しばらくそのままでいろよ」
「え、あ、うん」
「オレまだ体洗ってなかったから、そこ、洗い場に私物取りに行ってから出るから、待ってろよ」
「えっ、入ったばっかりだったの」
「だってさっきまで宿題やってたじゃないか」

そうだった。しかも花形はより後に食堂を出たのだから、入浴していたのもほんの僅かな時間のはずだ。は途端にギクリと肩を強張らせた。てことは花形全然温まってないんでしょ……花形も1日練習で疲れてるのに……。それはの中で、羞恥よりもマネージャー精神がちょっと勝ってしまった瞬間だった。

「は、花形!」
「わっ、何だよ!」
「出なくていいよ!」
「は!?」
「つ、疲れてるんだから、少し体緩めないと!」
「何バカなこと言ってんだ」
「順番に、背を向けたまま洗えば見えないし! ここ広いから、私端っこのほう行くし! 見ないよ!」

は言いながらスススーっと湯の中を移動し、出入り口から一番遠い岩風呂のへりにしがみついた。

「あのなあ、そういう問題じゃ――
「誰かいるのか? おお、花形か!」
「せっ、先生!?」
「宿題おつかれさんだったな。いやー、部屋のシャワーは狭くてかなわんなー」

花形は慌てて風呂に飛び込み、が背中に隠れる位置まで移動した。大変なことになった。だが、あのまま花形が風呂を出てしまっても先生は入ってくる。危なかった。すっかり冷たくなった外気に湯気は白く、花形の背に隠れているは見えないはずだ。先生は洗い場で体をシャカシャカ洗うと、ざぶりと風呂に浸かった。

「いやー、生き返るなー」
「ほ、ほんとですね~」
「夏でもこうして体を温めておくとバテにくいんだよな」
「は、はい、自宅でもなるべくそうしてます」
「ははは、さすがだなあ。ほんとにお前さんが卒業したら来年の部員たちは大変だな、宿題」

花形は温かい湯に浸かっているというのに冷や汗ダラダラ、を隠さねばと思うと体もガチガチに固まってしまって、リラックスどころの話じゃない。しかもこの先生、監督のいない翔陽男バスの合宿の引率を買って出てくれただけの、本来は無関係の理系の先生だ。花形のおかげで宿題回収率がいいので機嫌もいい。

なので先生は岩風呂に浸かったまま10分ほど花形と雑談を楽しみ、そして上がっていった。先生が脱衣所から出ていくのを今か今かと待っていた花形は、彼の姿が消えるなり湯の中から飛び出た。肩から下が真っ赤だ。

、もう先生行ったから、今度こそオレ出るからな」

だが、返事がない。

? 大丈夫か?」

それでも返事がないので花形は振り返るぞ、と前置きをしてからちらりと振り返った。

「うわ、!!!」

はぐったりと岩風呂のへりに寄りかかってゆらゆら揺れている。の潜んでいた場所というのは岩の間から湯が流れ出ている場所で、しかし天然温泉ではないのでかけ流しではなく、循環してきた湯の出口だった。スタッフが止めるまでは一定の温度を保つように自動で調節する機能があり、つまり、常に一番熱い湯の近くでずっと首まで浸かっていた。

幸いが巻いていたタオルはしっかりと残ってるし、花形はざぶざぶと湯の中を進むと、の肩を掴んで岩風呂のへりから引き剥がした。湯に浸かっていない顔ですら真っ赤だ。のぼせている。

、あとで殴ってもいいから、ちょっと我慢してくれ」

花形は慎重にタオルのゆらめきを確認しながら、を抱き上げた。体がものすごく熱い。そのまま急いで洗い場の方まで運ぶと横たえ、温度を下げたシャワーを出してのつま先にかけた。そして徐々に足を冷やしていき、次に手首、首、そして頭にも少しずつ流しかけた。熱中症の時の対処法の応用だ。

、大丈夫か、しっかりしろ」
「花……せん……
「大丈夫、もう先生いないよ、タオルちゃんと巻かれてるから、オレも見てないよ」

しばらくするとはふらつきながらも体を起こし、うずくまった。

……な、泣いてるのか」
……ごめ、恥ずかしすぎて、死にそう」
「ごめん、ほんとごめん、でもちゃんとタオルが」
「ち、違、そういうことじゃ、花形も、疲れてるのに、こんな」

色んなことが一気に起こったので、気持ちの整理がつかないだったが、ふと顔を上げると、花形はあぐらをかいた股座に大浴場備え付けの風呂桶を乗せていた。はそれがマトモに目に入ってしまい、勢いよくブーッと吹き出した。

「しょ、しょうがないだろ! 見えたらまずいと思って! 他にタオルないし!」
「ちょ、ごめ、そうじゃ、ついツボっただけで!……っくしゅん!」
「今度は冷えたか、また少し温まれよ」

シャワーで冷やされたのでのぼせは取れたが、その代わり吹き込む風に体が冷えてしまった。は花形が差し出した手に掴まってヨロヨロと立ち上がった。だが、既に総勢100人近い翔陽男バス部員全員が入った岩風呂の縁、はそのまま足を滑らせて花形に突っ込んだ。咄嗟に花形が抱きとめたけれど、その衝撃でタオルの巻き込みが取れてしまった。

「うわ、ちょ、花形動かないで!!!」
「えっ!?」
「ついでに見ないで!!!」
「うわ、はい!!!」

と言ってもの肩と頭は花形の胸辺りにある。花形はどっちを向いたものやら、最終的には上を向いた。星空がきれいだ。

動かないでと言われたので、花形の手はを抱きとめた時のまま、彼女の肩と背中を支えていた。はなんとか足を踏ん張り、慌てて胸元のタオルをぐりぐりと折り返してねじ込む。濡れているのでうまくいかないが、無理矢理折り込む。

……ごめん、ほんとにごめん」
「お、お前が謝ることじゃないだろ、オレたちが時間間違えてたのが悪い」
「うううマネージャーなのに」
「何言ってんだ、そんなこと、いつもひとりで頑張ってて、感謝、してるのに……

タオルをねじ込み直したの体が離れるので、勢いそのまま花形は下を向いた。は胸元を押さえたまま、花形を見上げている。また涙目になっていたの瞳は潤み、肌はまとわりつく湯気に艶めいていて、瞬間、花形は思考が停止して、そっとの頬に指を滑らせた。

の方も、見上げると髪が濡れて乱れた眼鏡のない素顔の花形。その大きな手がするりと頬に触れたので、つい一歩足を進めてしまった。花形が体を折り曲げ、顔が近付いてきて――

――っくしょん!!!」

忘れてたけど、冷えてた! はまたくしゃみをしてしまい、ついでにぶるりと体を震わせた。

……、一緒に、入ろっか」

はまた恥ずかしさで真っ赤になりながら、小さく頷いた。そして花形に肩を抱かれながら岩風呂に戻ると、横からふわりと抱き締められた。湯がとろりと漂って肌を滑らせる。が花形の肩に寄りかかって首をひねると、見慣れないのに安心できる顔が近付いてきていた。温かい唇が触れて、湯に雫を落とす。

「明日、風呂の時間間違えてるって、言わないとね」
「でもオレは入りに来ていい?」
……だから、ちゃんと20時までって、言わないとね」

そうすれば、21時からは、ふたりだけのバスタイムが待っている。

END