8時、いつもと違う朝食

土曜の早朝に出発して北陸の強豪校と試合、当日の22時頃には神奈川に着。時間が遅いので翌日曜の練習は午後から。

一応そういう予定だった。北陸新幹線が開業したので日帰りが可能に。

だが、生憎当日の北陸は激しい雨に見舞われていて、それでも新幹線の運行には影響がなかったのだが、現地の試合会場から抜ける唯一のルートが冠水、幸い雨はすぐに小振りになったけれど、駅に到着するのが予定よりも4時間も遅れてしまった。当然乗車予定だった新幹線は行ってしまい、監督は途方に暮れた。

今すぐ宿泊の手配をすると言っても監督以外全員高校生、しかも全部で数十人、簡単に都合出来るものではなかった。それを哀れに思った対戦校の監督が手を貸してくれて、何とか深夜の新幹線に全員分の席を確保できた時の監督のついた安堵のため息といったら、近くにいた清田の髪をそよがせるほどだった。

もちろん新幹線の席はバラバラ、乗車中監督と主将の牧とマネージャーのは全員の席を交代で巡回して何とか神奈川まで帰ってきた。そこから地元近くの駅まで戻ってきた時には既に終電ギリギリ。電車では自宅に帰れない部員が何人か発生した。

最初は監督が全員を送って帰るか、という話になったのだが、帰宅困難者の自宅の位置を考えると最後のひとりは推定で帰宅が深夜3時を過ぎ、監督がそこから戻ってくると確実に朝日が出てきてしまいそうだし、しかも監督の車は5人乗りなので、全員送れなかった。これはアウト。

そういうわけで監督は寮にかけあい、帰宅困難で家族の迎えが難しい生徒を一泊させられないかと交渉、ひとまずOKが出た。悪天候という不可抗力で男子バスケット部の帰還が遅れていることは連絡済みだったし、食事や入浴は出来るようになっているから問題ない、とのことだった。終電で海南最寄りの隣の駅まで行き、そこからは歩き。

寮生は少なくないし、3年生も何人かいるので監督が付き添わなくても大丈夫、ちゃんと寄り道しないで帰ります! 帰宅困難部員がそう言って帰り、監督が車で帰っていった後に残ったのは、終電で自宅に帰れる部員数人。マネージャーのもそのひとりだった。次の終電に乗れれば帰れる。

「駅からは?」
「歩き」
「え、制服でこんな時間にひとり歩きはまずくないか」
「まずいかな……

電車を待っていたと話していた牧は目を丸くした。既に0時を過ぎている。

「親に迎えとか頼めないのか?」
「今日親いないんだよね」
「そっ、そうか……

すると、同様に終電帰宅可能だった1年生の清田が素っ頓狂な声を上げた。

「何だよ、静かにしろ」
「いやいやいやいや! 先輩何してんすか、先輩の最寄り駅、これ止まらないすよ!?」
「えっ?」

と牧が顔を上げると、2分後に到着する終電はの最寄り駅まで行かずに、2つ手前の駅止まりとなっている。

……あっ! 今日土曜か! 平日の最終より手前までしか行かないのか」
「えっ、ど、どうしよう……

サッと青くなったと牧だったが、監督も帰ってしまったし、どうにもならない。オロオロしているうちに終電が来てしまったのでたちは慌てて乗り込む。終点まではこれもほんの3駅。2年生の神はすぐ次の駅で降り、清田と残った部員が2駅目で下車するとと牧だけが残った。

、どうする」
「ど、どうするって、ええと、終点からタクシーとかしか、手段が」
「金、足りそうか?」
「あんまり、ない……

大きな荷物を引っ掛け、がっくりと落としたの肩を牧はポンポンと叩きつつ、少しだけ自分の方へ引き寄せた。

「牧?」
「ごめん、制服やっぱ危ないな」
「あ……

は背中に強い酒の匂いを感じて身を縮め、牧に寄り添った。牧が背が高くてがっちりした体型で助かった。

そもそもと牧は主将とマネージャーであり、牧は1年生の時からチームの中心だったし、ずっとコンビ状態で過ごしてきた。なので牧が酔っ払いを警戒して抱き寄せてもは臆することなく彼の背中に腕を回してしがみついた。しかも今、安全に自宅に戻れないかもしれないという大ピンチのさなかだ。心細いし不安で怖い。

終電はすし詰めというほど混雑しておらず、酔っ払いからを遠ざけた牧はそのまま背中を丸めて屈み込む。

……、うち、来るか?」
「えっ」
「今一番確実で安全な方法って言ったら、それしかないと思ったんだけど」

が顔を上げると、牧は真剣な顔をしていた。彼の家は次の駅を降りて少し海南方面に戻る位置にある。

……ひとり暮らしの男の部屋には違いないけど」

それほど遠方からの進学ではないのだが、彼はバスケットとは別にサーフィンも大好きで、海南へ特待生で入れることが決まったので、親に頼み込んで寮より海に近いアパートでひとり暮らしをしている。それを知るは瞬間、全身が緊張した。けれど、背に腹は代えられないし、牧が自分を部屋に連れ込んで何かひどいことをするわけはないし。

「行ってもいいの?」

牧が頷くと、次の駅に到着するアナウンスが流れてきた。停車の際の揺れにまた寄り添ったふたりは、ドアが開くとそのままホームに降りた。ひと気がなく、普段より暗いような気がしてしまう駅はすぐに閑散として、そして終電は走り去ってしまった。

「ごめん牧、でもありがと」
「いいよ、あのままひとりで帰らせたくなかったし、他に方法もなかったろ」
「な、なんか食べたくない? お礼に奢るよ! コンビニ行こ!」
「えっ、いいよそんな、いや腹は正直減ってるけど」
「てか私も泊まりの支度なんかして来てないから……ちょっと寄らせてもらえると助かる」

そう言葉にしてしまうと途端にドギマギしてしまうふたりは、そそくさと改札を抜けて駅前のコンビニに駆け込んだ。コンビニはすっかり商品がなくなっていて、残ったもので悩む人で溢れていたが、は牧と離れて化粧品のコーナーへ急ぐ。

清潔なパッケージの「トライアルセット」はしかし、ベーススキンケアしかラインナップされておらず、バス用は入ってなかった。シャンプーも入ってない。しかもよく考えたらバスタオルがない。顔を巡らせると、ある。しかし1000円。お小遣い生活のにはかなりの痛手だ。しかもすぐ近くに避妊具が並んでいて目眩がしてきた。

「牧……ボディーソープとか借りれる……?」
「あっ、そうか、大丈夫、洗濯してあるオレのでよければタオルもあるよ」
「平気平気、借りていいの?」
「こんな時なんだし気にするなよ。シャンプーとかだけ買っとけば? 寝る時はジャージでいいだろ」

は頷きながら泣きそうになってきた。牧がいてよかった。最後まで一緒だったのが牧でよかった。

「食べ物もあるし、何ならまた買いに出てもいいし、今欲しいものだけにしておけよ」
「うん、そうする……でも牧にはこれ買ったげる」

牧はが差し出すスポドリに思わず吹き出した。スポドリも買い置きがあるが、せっかくだからもらっておこう。

牧のアパートは比較的新しい作りの、広々とした1Kのアパート……というよりマンションだった。

「なんかこう……もっと狭い学生のひとり暮らしを想像してた」
「オレはそれでもよかったんだけど、家族がよく来るんだよな」

が想像していたのは収納もほとんどなく、キッチンはホットプレートしかなく、狭いユニットバス……というようなアパートだったが、牧の部屋は部屋がひとつしかないというだけで、その他の点ではの自宅と大差ないような作りだった。

「家族用ので悪いけど布団出したり片付けたりするから、先に風呂使ってくれるか」
「なんかそれも申し訳ないけど、とりあえず言うこと聞いておきます」
「タオルはこれ、ドライヤーはそこな」

は荷物を預けてバスルームに入り、さっさとシャワーを浴び、全身をくまなく洗った。疲れているから本当は湯船に浸かって温まりたいけれど、そこは我慢。それでも1日の汚れを落としてコンビニで買ってきたパンツに海南ジャージを着ると、本当にホッとした。終点の駅で交番に頭下げるしかないと思っていたが、安全な場所で眠れる。

「お風呂ありがとー……って何これ」
「えっ、衝立てになるようなものもないし」
「いいよそんなの……牧が気にならないならだけど」

が部屋に戻るとすっかり寝支度が出来ていたが、牧の寝床であるベッドから見えないようにサーフボードがテーブルに立てかけてあり、の荷物やタオルを掛けた椅子などで布団が取り囲まれていた。が気にしないと言うので牧はまたそれらを戻すと、照れくさそうに風呂に消えた。

は布団の上にちょこんと座り、トライアルセットの中の化粧水をつけてみたりしつつ、ぼんやりと牧の部屋を眺めていた。本棚にはトロフィーや賞状と一緒に、1年と2年の時の全国大会の写真も飾ってある。なんだか懐かしい。それを除けば比較的物が少ない部屋だった。まあ、部活ばっかりで家にいる時間て、少ないもんなあ……

牧が戻ると、もう1時半を回っていた。早朝から北陸まで出かけて試合をしてきたので、ふたりともそれなりに疲れている。

「寝ててよかったのに」
「今ちょっと食べちゃったから少し起きてないと」
「そんなに変わらないだろ」

そういう牧も冠水で足止めを食らっている間に少し食べたきりだったので腹を減らしていた。コンビニで買ってきたものを詰め込み、にもらったスポドリで流し込むと、やっと人心地ついたようだった。

「なんか……いいね、ひとり暮らしって」
「あんまり家にいないけどな」
「なんかここ落ち着く。静かだし、きれいだし」

は布団の上で膝を抱いてゆらゆら揺れていた。依然緊張していることには変わりないが、それでも居心地の悪さはないし、部屋に牧とふたりっきりでも、何も心配はない。というかむしろホッとしていた。だが、とにかく疲れている上に明日も午後から練習、楽しいお泊り会とはいかない。

牧はテーブルの上を片付けると、ベッドサイドのライトだけを残して明かりを落とした。も横になる。

……ひとり暮らしって、寂しく、ない?」
……最初は少し、あったよ」
「平気だったの?」
「部活が始まったら疲れてそれどころじゃなかった」

家族と離れて心細かったことなど、入学からほんの1日か2日くらいだっただろう。中学時代も部活漬けバスケット漬けだった牧でも、海南のハードな練習に慣れるまでには1ヶ月ほどかかった。マネージャーであるですら疲れまくっていた。

ぼそぼそと話しているうちに、は少しずつ瞼が重くなってきた。とっくに2時を過ぎている。

「今日も、早かったから、疲れたね……
「他にも色々あったしな」

牧の声も眠そうだ。はついにんまりと微笑みつつ、目を閉じた。

……ありがとね、牧。牧がいてくれて、ほんとによかった。おやすみ、なさい」

牧の「おやすみ」という声を聞きながら、は眠りに落ちていった。

違和感を感じる寝床に強張る体がだるい。はかすかな物音に目を覚ますと、大きく欠伸をした。

見慣れない部屋の意味はすぐに思い出した。昨夜は何とも思わなかったのだが、カーテンの隙間から差し込む朝の光がちらちらと揺れるのを見ていると、途端に全身が熱くなってきた。私、牧の部屋泊まっちゃったんだ……どうしよう、何もしてないけど、何もなかったけど、だけど泊まっちゃったよ。

……こんな風に、牧の部屋に泊まった女の子って、いるのかな。

1年生4日目に知り合ってから、おそらく年間300日くらいは一緒だったはずだ。その間、牧から彼女だとか好きな人だとか、そんな話題は出たことがなかったし、誰からも聞いたこともなかった。特に主将になってからは責任ある立場とリーダーとしてチームを牽引していくことに真正面から取り組んでいて、彼の気が休まるのは波に乗っているときくらいだったに違いない。

だとしたら、何もしてないけど、こんな風に牧の部屋に泊まった女の子は、自分が最初なのかもしれない。

枕に顔を押し付けてそんなことを考えていたの耳に、ペタペタという足音が聞こえてきた。意を決して首をひねると、首からタオルを下げた牧が傍らに座っていた。

「なんだ、起きてたのか。今声かけようかと」
……おはよう」
「え、ああ、おはよう。朝飯、食べられるか」
「朝飯?」

牧ははっきりと目を合わせてくれない。しょうがないよね、気まずいよね……と考えていたは、そう言われてひょいと上半身を起こした。見ると、テーブルの上に食事の支度が出来ていた。お椀から湯気が立ち上っている。は布団から這い出てくると御膳を覗き込んで歓声を上げた。

「え、なにこれ、牧が作ったの?」
「作ったっていうか、まあ、そう」
「なにこれすごくない?」
「えっ、そうか?」

テーブルの上にはシンプルな和の朝食が並んでいた。白飯、味噌汁、漬物、煮物、煮魚、卵。牧の方はたっぷり多め、の方は少なめ。そして湯呑みからはほうじ茶と思しき香りが立ち上っている。遠征で泊まるホテルより豪華だ。

「こんなの作れるの、部活で忙しいのにいつ練習してるの」
「いや、オレが作ったのは白飯と卵だけ」
「えっ?」
「味噌汁はインスタントだし煮魚は缶詰、漬物煮物も買ってきたやつだけど」
「嘘お、見えない!」
「食べられそうか?」

四つん這いのままうんうんと頷くに、やっと牧は笑った。は改めて牧の向かいに座り、ひょいと頭を下げる。

「泊めてもらった上にこんな朝ごはんまで、ありがとうございます」
「だから、気にしなくていいっていうのに」
「気にするなとか無理だって……。てか牧、親切すぎない? 逆に心配になるよ」
「何の心配だよ」
「私みたいなナマケモノが入り浸るよ」

しかめっ面でそう言うに、牧はまた吹き出す。海南男バスのマネージャーのどこがナマケモノだ。

「別に入り浸ってもいいけど。他に誰もいないし」
「だからあ、そういうこと言ってると! 後で困るよ!」
……まあ、そうだな」
「でしょ? こんな豪勢な朝ご――

立てた膝に肘をついた牧の視線を感じたはしゃきっと背筋を伸ばした。なに、どうしたの……

……確かに、昨日の夜は、疲れてるのに眠れなくて困ったよ」
「牧……?」
「人の気も知らないでナマケモノがスヤスヤ寝てたからな」
「え、あの、牧?」
「だから、入り浸るなら、そこんところよく考えてからにしろよ。2度目はないからな」

聞くなり、は素早く這い寄って牧に飛びついた。いきなり抱きつかれたので受け損なった牧が倒れる。

……よく考えろって今言っただろ」
「よく考えた結果です」

よく考えた割には耳が真っ赤なを、牧は優しく抱き締めた。

「ちゃんと、2度目はないって、言ったからな」
「そっちこそ明日からナマケモノが入り浸るから毎回ご飯用意しなさい」
……いいよ。泊まった翌朝だけ、作ってやる」
「じゃあ毎回泊まる」

テーブルの上の牧の携帯のアラームが軽やかに鳴り響く。8時、朝練がない時の、海に行かない時のアラームだ。

……一旦、帰るか?」
「まさか。ご飯食べて、ゆっくりして、それから一緒に学校行こ?」

本日の練習は午後から。まだまだ時間はある。さあ、冷めないうちに、朝食を。

END