まだ朝の5時なのに!

そもそも、翔陽男子バスケットボール部では、朝練は強制参加ではなかった。それでも20年ほど前くらいまでは当時の監督の主義で全員6時半に体育館に集合、遅刻したらその日1日は練習に参加させてもらえない……なんていう前時代的なスポ根体制だったらしいが、監督の辞任によりそうした習慣はなくなった。以後部活動の強制行為は禁じられている。

だが、優秀なプレイヤーを有しているこの年にインターハイを逃したことで、朝も練習したいという部員が増えた。もちろんそれは自由なので、まずは夏休み、早朝から学校にやって来る部員がちらほらと現れ始めた。

最初の頃はそれでも校庭を走っているとか、屋外のゴールポストでシュート練習をしている部員がいる程度だったのだが、2学期に入り、冬まで引退しないとして残留している3年生も含め、朝練希望者がかなり多くなってきた。そのため、秋が近付くと部員たちは交代で早朝から登校し、体育館や部室の鍵を開けて練習の準備をするようになった。

それはマネージャーであるも同じで、しかし朝練は基礎練習やら走り込みも多く、また今年正規の監督がいない翔陽は新たな監督の目処も立っておらず、現監督で主将でもある部長の藤真が「当座のところは生徒だけでも練習できるように」と考えているため、マネージャーだから毎回朝練の準備をする、ということにはなっていなかった。

なので巡り巡って11月、やっとに朝練当番が回ってきた。

しかも公式試合が遠かった夏と違い、残留3年生が賭けている最後のチャンスである冬の選抜の予選が間近、朝練の開始時間はどんどん引き上げられ、当番は朝の5時から体育館で準備を始めなければならなくなった。日没時間がぐっと早くなる11月、翔陽は元々放課後の部活動に時間制限が設けられていて、夜は20時までしか校内にいられない。そのせいもあって朝練の時間はどんどん早くなっていった。

部員の中には遠方から進学してきていて寮住まいというのも少なくない。彼らは何なら自転車で20分くらいで登校できてしまうため、まだそれほど負担がないと言えるけれど、は違う。始発が4時55分。親に車を出してもらわない限り翔陽到着は5時20分頃。まあそれはやむなしとして、の当番期間は開始時間が30分ほど引き下げられていた。

そんな11月の朝、まだ真っ暗である。

「お、は」
「おお、おはよう。顔真っ白だぞ大丈夫か」
「夏ならともかく、この寒さと暗さで朝練とか……!」

が部室にやってくると、副部長の花形が既にジャージで準備を始めていた。部長がコートを離れると割と自由人なので、それを両側からサポートしてきたのがとこの花形である。そういう3年間がそろそろ終わろうとしているが、それは思っていても口に出さないようにしてきた。

「女子の制服がスカート一択ってのも考えものだよな……
「この日本でそんなこと言い出す男なんてあんたくらいだと思う」
「そうか? この気温でスカートで自己管理しろとか矛盾もいいところだし、公平性に欠ける」

花形は真面目くさった顔で「だったら体育館も校舎も全館セントラルヒーティングにするとかくらいしろ」とかなんとかブツブツ言っている。は少し笑って、寒さで折れていた気持ちが少し立ち直ってきた。

「部室もエアコン入れていいのは放課後のみとか厳しいよな」
「つけっぱなしが後を絶たないって聞いたことあるよ」
「ほんと、そういう一部の迷惑のせいでルール守ってる方が損するんだよ……

なので朝5時の部室は冷え冷えとしている。はマネージャー用のロッカーからよく冷えたジャージを引っ張り出してスカートの下に穿き込み、レッグウォーマーをつけ、その他の防寒具は一切そのまま戻る。朝練の準備自体はそれほど大変なことはない。も花形も3年目だし、慣れた作業だ。

部室が終わるとふたりは体育館に移動し、ドアを開けたり体育倉庫を開けてボールを出したりとちょこまかと準備をしていく。

「この寒さの中ドアを開けなきゃいけない理由って何?」
「換気だって言われてるけど、どうなんだろな」
「こんな、真っ暗で……これ朝練じゃないよ夜練だよ」
「どこからが朝でどこまでが夜なのかって曖昧だよな」

あんまり寒いのでは少し震えてきた。特に今朝は前日の雨のせいか夜にかなり気温が落ちて、本日も曇りのため真冬のような寒さだと予報されていた。それに朝の5時とは言うけれど、体育館の外は普通に暗い。

「朝の4時起きで練習です! っていうと褒めらるのに、同じ時間にコンビニ行ったら怒られるの理不尽だ」

体育館での準備を終えて部室棟に戻る途中、そう言いながらはくしゃみをした。

「時間が朝だから朝ですってのもなあ。今朝何時に起きたんだ?」
「4時」
「授業大丈夫か?」
「たぶん無理~寝ちゃう~。てか今でも既に眠いもん」

も花形も推薦入学が内定しているので心配はないわけだが、真冬並みの気温の中を4時に起きて5時に体育館は確かに厳しい。花形自身はこれから練習、そして授業、さらに20時までまだ練習である。

部室に戻ったはまた大きなくしゃみをした。朝練の時はエアコン禁止である。

「ちょっと待ってここ何度あるの? 12度!!!」
「日が出てないし、雨戸もないし、人もいないしな」

確かに部室は寒々としているが、例えば部員全員が一斉に押し寄せてきたとしたら、いわゆる「人いきれ」でかなり体感温度が上がる。だが、最大で3桁近い部員数の可能性が高い翔陽の場合、部室は広々、そのせいで窓も多く、壁にかかる温度計を覗き込んだは余計に体が冷えてきたように感じた。これでエアコン禁止とかおかしいだろ!

……てかその前に誰も来ないね?」
……寒いからな」
「もしこれ誰も来なかったら」
「ひたすら待機」
「うん……死を待つのみか……

は電気ポットで湯を沸かして紅茶を飲もうとしたのだが、また大きなくしゃみが3発。

「大丈夫か?」
「寒すぎるよ」
「これ、オレのだけどちょっと着てなよ」
「えっ、いいよ、そんな、花形が着てなよ」

花形がフィールドコートを差し出してくるので、は慌てて遠慮した。フィールドコートは内側がモコモコした素材になっていて暖かそうだが、その花形自身もただのジャージである。これから運動することを考えると妥当な装いかもしれないが、室温12度に適した衣服ではない。

そう思って遠慮しただったのだが、花形は有無を言わさずフィールドコートを着せかける。

「オレは中にヒートテック着てるからいいよ」
「ごめん……それは私も着てる……しかも極暖」

花形は吹き出しつつ、襟元のボタンをしっかり留める。

「風邪引かれたら困るし」
「それは花形の方でしょ。私はまだ風邪引いても予選には影響ないけど、花形はダメじゃん」
「う、まあそうなんだけど」

そうして花形が口ごもった瞬間、彼は顔を横にそむけてくしゃみをした。

「ほらー! スタメンが風邪で予選出られないとかやめてー!」
「いやまだ風邪引いたとは」

は留めてもらったボタンを外し、フィールドコートを勢いよく脱ぐと精一杯背伸びをして花形の肩に着せかけた。ヒートテック着てるとは言うけれど、その時に触れてしまった彼の腕は薄着そのもので、表面はつめたく冷えていた。

……夏の、リベンジ、するんでしょ。それには花形がいなきゃ」

だが、花形はボタンを留めようとするの手を掴んで止めた。

「それはもだろ。約束したじゃないか、みんなで一緒にって」
「風邪引いてたって試合見てるくらいなら出来るよ」
……この間言っただろ。最後くらい、ベンチに入ろうって」

は入部当初バスケットに関しては本当に素人だった。なのでベンチ入りする習慣のないまま3年生まで来てしまったのだが、残すところあと数試合、スタメンと一緒に残留しているにマネージャーとしてベンチ入りしてもらおうか……と藤真が言い出していた。もちろん3年生はみんな賛成。

「だから、も風邪なんかひいたらダメだ」
……うん。えへへ、花形の手の中暖かいね」

最後くらいベンチに入ろうなんて話はまあ「可能なら」くらいの気持ちでいたは花形の真剣な言葉に胸が一杯になってしまい、素直に頷いた。気持ちがふんわりと浮き立ったの手に温みが戻る。次の瞬間、は花形のフィールドコートの中にくるみ込まれていた。

「は、花形……?」
「予選終わるまで、もうそんなに時間、ないから」
……うん」
……最後まで一緒に、いたいんだよ」

耳に痛いくらいの静けさの中、花形はため息とともにそう呟き、の体をぎゅっと抱き締めた。

3年間ずっとずっと一緒だった。何日も離れていたのは年末年始とかお盆休みとかそのくらいで、部活がある限りはずっと一緒に過ごしてきた。副部長とマネージャーになってからはその密度は増したし、3年になった今年の翔陽は順風満帆とはいかない厳しいシーズンでもあって、余計にと花形はチームの屋台骨となってそれを支えてきた。

けれどもう、それも1ヶ月ほどで終わってしまうから。

「そういう、寂しいこと言わないでよ。悲しくなるよ」
「でもしょうがないだろ、引退しないわけにはいかないんだし」
……引退しても、一緒にいればいいじゃん」

胸のあたりでぼそりと言うに驚き、花形はサッと身を離した。なんだかの頬がピンク色になっている。

「引退したら赤の他人になっちゃうの……?」
「そういう、わけじゃないけど」
「じゃあ一緒にいようよ」

が言うなり、また花形はフィールドコートの中にくるみ込んだ。そしてそのままベンチに腰掛ける。

……そうする。引退しても一緒にいるよ」
……卒業しても?」
がいいなら」

膝に乗せたが何度も頷くので、花形はそっと頬に触れてみる。少し暖かくなってきている。

……ねえ、もしかして今日の朝練当番の組み合わせって――

言い終わらないうちに、唇を塞がれては息を飲んだ。触れ合った唇が暖かい。

「誰か来たら、どうしよう……
「大丈夫大丈夫。今日の朝練、6時半からだから」
「え!?」

もじもじしていたはフィールドコートの中でシャキンと背筋を伸ばした。謀られた!

「いつから企んでたの……
「それはたまたまだよ。ふたりの時間が欲しかっただけ」
「もっと早く言いなよね」
「それは普通に後悔してる」
「後悔、他にはもう残ってない?」
……あー、あるかも」
「えっ、なに?」

マネージャーと副部長でいられる時間はもう1ヶ月も残っていない。予選に全力を傾けるためにも、余計な後悔なんか残さない方がいい。そう考えて言ったに過ぎなかっただったが、またきつく抱き締められて心臓が跳ねた。

「彼女と部室でふたり、と思うとな」

耳元で低く囁く声にの背中がぞくりと震えた。これは寒いからじゃない。

「まだ、朝の5時なのに……
「じゃあ今度、夜中の5時に」

さて一体夜はどこまでで朝はどこからなのやら。は笑いながらぎゅっと抱き返した。

END