0時きっかりに鳴った携帯

海南の場合、朝練は毎日必ず行われているわけではない。大会が近くなると朝も放課後も詰めて練習するけれど、それ以外の時は基本的には個人の自主性に任されている。というか監督がいる時は実戦を想定した練習も多いので、個々のトレーニングなどは部員それぞれが独自に取り組むことも多い。

そういうわけで、今年の主将である牧もたまに夜更かしをすることがある。ただ彼の場合、早朝にサーフィンを楽しむ習慣があるので、もちろんそういう時は早く寝てしまうのだが、今日は日付が変わろうという頃まで起きていた。最近部内で流行っている海外ドラマのDVDを借りてしまったからだ。見始めたら止まらなくなった。いかん。

後輩が貸してくれたDVD、まあ一応見てみるかと再生してみたのが確かまだ20時台だった。なにこれこわい。まだまだドラマは続いているが、このままでは1シーズン見終わるまで止まらない。見終わる前に授業が始まってしまう。なので牧は心を鬼にして視聴を中止、寝支度を始めた。携帯を取り上げると23時59分。

その表示が0時00分に変わった瞬間、手の中の携帯が鳴り出した。見ればマネージャーのである。

「どうした、こんな時間――
「牧、たすけて!!!」

それこそ大会前などで伝達事項があって遅い時間に連絡を、ということはある。だが、今はそういう時期ではないし、部の連絡だったとしたら、電話ではなく文字でいいはずだ。着信に応じた牧は少し心配そうな声を出したのだが、の切迫した声に遮られた。たすけて?

「助けてって、どうした、何かあったのか?」
「やっ、やだ、来ないで、牧、お願い助けて、やだーーー!」
「ちょ、!? 何があったんだよ、てか今どこだ!」
「うち、家、部屋にいる、牧、たすけて、怖い」
「だから何があった、――
「やだあーーー!!!」

は悲鳴をあげるばかりで要領を得ない。挙げ句、涙声の悲鳴を残して通話が切れてしまった。牧の全身の血がサーッと引いていく。そして、振り返ろうとして足がもつれた。はどう考えても自宅にいるはずだが、彼女の家はこの1年ほど両親が不在であることが多く、も基本的には部活でほとんど家にいないので、夜をひとりで過ごしていることは少なくない。

それは部員であればよく知られたことだが、まさかあの家はしょっちゅう女子高生がひとりになるとでも良からぬ連中に知られてしまったんじゃあるまいな。悪い想像ばかりが牧を圧迫する。はクローゼットか何かに隠れてSOSを寄越したのでは、そして見つかってしまったのでは。冷や汗が頬を伝った。

牧は部活の都合でひとり暮らしをしていて、の自宅とはそれほど離れていない。血の気が引いて強張る体を奮い立たせると、彼は携帯と鍵だけを手に外に飛び出した。自転車を飛ばせば15分で行かれる。

何かの間違いであってくれればいいけれど、、無事でいろよ……

深夜の町は人も車も少なくて、牧は焦る気持ちを慎重にコントロールしながら家までの道のりを走り抜けた。どこにでもあるような住宅街、しんと静まり返った通りに外灯だけが煌々と灯っている。

の自宅も同じだった。玄関灯は消され、門もしっかり閉じられ、家の中の明かりもほとんど見えない。深夜0時過ぎの住宅として何も不審な点はなかった。の自転車もある。……ただ、駐車場は空っぽ。自転車は壁際に寄せてあるし、車を運転する大人が不在であることは、これでわかる。

牧は少し離れると携帯を取り出す。通知はなし。に「大丈夫か、今家の前にいるよ」とメッセージを送ってみる。

すると、ガチャンバタンと大きな音がして、玄関からが飛び出してきた。

――
「牧ぃ!!!」

おそらく牧同様寝支度を終えていたであろう様子のはしかし、ダッシュで牧のもとまでやってくるとそのまま両腕を伸ばして抱きついた。とりあえず侵入者などではなかったことで安堵していた牧は飛び上がった。薄着のの体が腹に柔らかく押し付けられ、洗いたての髪の甘い匂いが襲いかかってくる。

「ちょ、な、何があったんだよ、大丈夫か」
「うえええ怖かった、怖かった、もうどうしようかと、牧~」
「だから何なんだ、何が怖かったんだよ」

心臓がドキドキしているのを悟られたくなくて、牧はを引き剥がした。すると彼女は涙目で彼を見上げ――

「ゴキブリが!!!」
…………ゴキ?」
「ねっ、寝ようと思ったら、壁に、いて、すっごい大きいの、しかも私の方に来るの、もうやだー」

一体どんな大変な事態なのかと緊張していた牧はまた気が抜けて肩を落とした。部員の中にも虫がダメというのは少なくないが、牧はそれほど苦手ではない。ゴキブリくらいならひとりで対処できる。ので、正直のこの狼狽えようは少し大袈裟に感じた。だが、恐怖のあまり牧にしがみついているはなんだか可愛かった。

普段後輩を怒鳴り散らしてるお姉さんマネージャーがまるで、子供みたいだな。

「まだいるのか?」
「わ、わかんない、牧と話してる時に追いかけられて、それで部屋を出てから戻ってない」
「親いないんだよな」
「普段ならお母さん大丈夫な人だから困らないんだけど、どうしたらいいかわかんなくなっちゃって」
「いいよ、まだ起きてたし」
「ごめんね」
「どうする、オレが見てみようか」

涙目のが頷くので、牧はつい頭を撫でた。それでもがしがみついて離れないので、肩を抱いたまま家に足を踏み入れる。家はそれほど古い家ではないように見えるが、確かの話では小学校に入る前に引っ越してきたという話だった。築10年以上、ゴキブリが出てもおかしくはない。

「どこで見たんだ」
「自分の部屋」
「入って大丈夫か」
「わ、私入りたくないからお願い、これ、お母さんの武器」

玄関に入ると、シューズボックスの上に「武器」が並んでいた。新聞紙を丸めてガムテープでぐるぐる巻きにした棍棒と、コールドタイプの殺虫スプレー、そしてピンク色のハエたたき。

「おっかさん強え」
「遠いところから攻撃しないと逃げることがあるし、その棍棒にハエたたき刺して使うの」
「でももしベッドの上にいたりしたら困るからスプレー併用、ってことか」

というか牧は平静を装っているけれど、ゴキブリどころの話じゃない。の部屋。

いや、落ち着け落ち着け、ゴキブリ退治、女の子の部屋に遊びに来たわけじゃない。

牧は深呼吸をして階段を上がり、廊下にを残してそっとドアを開けた。さきほど顔に直撃した甘いシャンプーの香りが漂ってくる。牧は余計なものに惑わされないよう、ドアを開けるとすぐに壁を確認した。黒い影はない。

「壁にはいないな」
「さっきは床の上にいたけど……
「床の上も……いないな」

部屋はだいぶ荒れているが、それは散らかっているのではなくて、ゴキブリ怖さにが暴れた跡のようだ。だが、無情にもそれを淡々と確認していた牧の目に飛び込んでくるのブラジャー。淡い紫。海南カラーかよ、勘弁してくれー!

……、部屋ん中色々散乱してるけど、いいのか」
「お願い見なかったことにして助けてえ~」
「それはいいけど……
「大丈夫、牧なら平気」

それ、どういう意味だよ。牧はちくりとざわめく胸に深く息を吸い込むと、スプレーとハエたたきを手に部屋の中に入った。

というかの服や雑貨類が散乱しているので余計にターゲットを確認しづらい。は構わないと言うが、どうにも後ろめたい。家具の隙間や床との隙間にハエたたきを差し込んでみるが反応はなし。カーテンを棍棒で突っついてみても出てこない。牧は窓を開けると今度は机の周辺を確認していく。

机の上と横付けされた棚にはいくつもフォトフレームが飾られていて、それら全てがバスケット部の写真だった。当然、牧もいる。というか同学年の数人だけで映っているものもあって、それがこそばゆい。フレームの中のは牧に後ろから抱きついてピースサインをしている。

「ま、牧……?」
……今んとこいないな。窓から出ていってくれればいいんだけど」

ゴキブリが侵入しそうな隙間にはハエたたきを突っ込んでみるのだが、壁に黒い影は現れず、意を決してベッドの下も覗いてみたけれど、わずかなホコリしかなかった。となると残りはクローゼットか。しかしそこは開けたくない……

「牧、クローゼットクローゼット」
「開けていいのか」
「何でもいいからなんとかしてえ~」

もうにとっては羞恥心より恐怖心、ゴキブリの脅威から逃れるためならクローゼット開けられるくらい構わん、という心境になってしまっているらしい。牧はこっそりため息を付きつつ、クローゼットを開けてみた。まあ下着類がずらりぶら下がっているわけではないので、牧はそのままハエたたきの柄の部分で服を避け、ざっと確認した。いない。

だが、その瞬間、廊下での悲鳴が上がった。

、こっち!」

練習で鍛えられた瞬発力で飛び出した牧は、恐怖のあまり硬直しているの腕を引いて背中に庇うと、素早く廊下を見回した。すると、階段のあたりに僅かだが影が見えた。牧は身をかがめ、音を立てないように部屋を出ると、腕を目一杯伸ばしたまま、飛んだ。そして着地する前にターゲットに向かってスプレーを噴射、無事に仕留めた。階段にこげ茶色の影が転がる。

、もう大丈夫だよ」
「ほ、ほんと……?」
「スプレーで殺したから、ティッシュか何か貸してくれるか」
「だだだだめだよ、包んで捨ててもし蘇生したらどうするの」
「あー、じゃあビニール袋くれるか。オレが持って帰って捨てるよ」
「え!? そんな、でも」
「平気平気。ビニール袋は口を結べればなんでもいいから」

無事に仕留められてホッとしている牧は色んな緊張が一気に抜けたのでにこやかだ。からティッシュとコンビニのビニール袋を受け取ると、虫の死骸を包み、しっかり口を結んだ。もし蘇生してビニール袋を食い破ることがあっても、自分の部屋なら問題ない。牧はそのまま外に出ると自転車のカゴにぽいと放り込んできた。

玄関に戻るとまだ少し目が赤らんでいるが待っていた。

「これでもう大丈夫だろ」
「あ、あの、牧、ありがとう、こんな遅い時間にごめんなさい」
「いいよ、例のDVD見てたら遅くなっちゃって、起きてたから」

気が大きくなるというのはこういうことを言うのだろう。ミッション・イン・コンプリート、真夜中のヒーローの出番は終わった。恐怖に怯えるヒロインを救うことが出来たし、やけに達成感を感じているし、今日はいい夜だったかもしれない。

「あっ、ねえ、お腹空いてない? お礼って言うほどじゃないんだけど、ケーキ焼いたの!」
「えっ、そんな、気を使わなくていいよ」
「い、いらない……?」

初めて見るの上目遣いに、くらりと視界が揺れた気がした。

……そういう意味じゃないよ。じゃあ、お言葉に甘えて」
「ほ、ほんと? 紅茶とコーヒーどっちがいい?」
「こんな時間にカフェイン飲んで大丈夫かな」
「あっ、そうだね、じゃあえーと、ほうじ茶!」

だが、が出してくれたのは鮮やかな緑色の抹茶のパウンドケーキだった。ザ・高カフェイン。

「ごめん……!」
「いいからいいから、美味いよこれ」
「神くんに抹茶パウダーもらったからそれで作ったんだけど」
「なんで神からそんなものもらってんだ」

牧はカットされたケーキをかじりながら吹き出した。

「神くん家ももらったみたいなんだけど、使い道ないって話になったから」
「えーと……だったらこれ神にあげないとマズいんじゃないのか。オレが食っちゃったら……
「あ」

抹茶パウダーをもらったは、今夜は親もいないことだし! と夕食は買い食いで済ませ、のんびりとケーキを焼き、そのケーキの粗熱が取れたので冷蔵庫にしまって休もうとしていたところだったらしい。

「で、でもいいの! 抹茶パウダーまだあるし! 牧にはほんと感謝してるから!」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないって! 平気な人にはわからないと思うけど、ほんとに死ぬほど怖かったんだから」
「オレもビビったよ。誰か侵入者とかじゃないだろうなと」

牧は抹茶によく合うほうじ茶を啜りながら、また安堵のため息をついた。が無事ならそれでいい。おいしいケーキにお茶ですっかり和んだ牧は、時計を見上げてそそくさと立ち上がった。もう1時半だ。

「ごちそうさまでした」
「明日別に休みとかじゃないのにほんとごめん……
「もういいって。一番家が近いし、こんな時間だしな」

言ってから牧はふと思った。、なんでオレに電話かけてきたんだろう。なんでオレだったんだろう。

……牧なら、助けてくれるんじゃないかと、無意識で」
「ちょっとヒーローみたいだったろ」

牧なら。無意識で。その言葉がまたみぞおちのあたりに少し響いたけれど、牧はそう言って笑った。

……うん。本当に、ヒーローみたいだった」

少し俯いたはスッと息を吸い込み、吐き出すのと一緒に言う。

「こんな時間なのに見捨てないで飛んできてくれるし、怒らないし、てかもうあんな、低い位置から飛んでスプレーで倒すとか普通できないよ。めちゃくちゃかっこよかった……ほんとにヒーローみたいだった……

それはの本心だったのだろう。何より怖い黒い影に怯えていたところに駆けつけてくれたヒーロー。だが、今の牧にはあまり嬉しい言葉ではなかった。そういうのは、ものすごく困る。

「そういうの、いいから、やめてくれるか」
「ご、ごめん」
……帰りたくなくなるから、やめてくれ、そういうの」

ただでさえ色んなものに圧迫されていたというのに、そんな風に言わないでくれ。だが、は牧の手に指先を引っ掛ける。

……じゃあ、帰らないでよ」
「それは、まずくないか」
「誰も、いないのに?」
「誰もいないから、だろ」

誘惑に負けそうな自分を抑えていたつもりだったのだが、しかし牧は気付くとそのの手をぎゅっと握り締めていた。

……オレ、もう眠いんだけど」
……私も。寝ようと思ってたし」

携帯にアパートの鍵だけ掴んで飛び出てきてしまったのだし、登校前に一度帰宅しなければならない。そのためには少し早く起きなければならない。だから、もう眠らなくては。眠れなくても、目を閉じなければ。

するりと抱きついてきたの体を抱き締めながら、牧は目を閉じた。

END