白蝋館の殺人

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部屋を出てきたふたりを敬さんと柴さんが待っていて、話を聞こうかと言ってくれたのだが、牧とは疲れたので少し眠りたいと断って部屋に戻った。もし必要なら警察には志緒さんから聞いたことを全て伝えねばなるまいが、今すぐにぺらぺらと吹聴する気持ちにはなれなかった。

それに、志緒さんの気持ちは大人には言いたくない気もした。

敬さんと柴さんはそれ以上引き止めはせず、必ずひとりは207号室の前にいるから、困ったら声をかけてくれと言ってくれた。ふたりはまた頭を下げ、203号室に戻った。

志緒さんと話しているうちにすっかり空が白み、真夜中の闇がいつの間にか消えていた。203号室の中もやけに白っぽくて、雪の反射だろうか、カーテンの隙間がほんのり光っている。殺人事件ということで急ぎ救助が来るなら、いよいよこの白蝋館ともお別れかもしれない。

そう思うと途端に名残惜しくなってきたは、窓辺に近付いた。

「忘れられるわけ、ないよね。きっと一生忘れ――
、好きだ」

ぼそりと呟いてカーテンに触れようとしたは足を止め、驚いて振り返った。牧がすぐ近くにいて、そのまま強く抱き締められた。

「今のうちに、言っておく。ずっと、ずっとお前のこと好きな気持ちは変わってない」
「ま、牧……

驚くに構わず、牧は唇を押し付けた。も逆らわずに受け入れる。

「付き合わなかったことは後悔してない。それがあの時のオレたちの正直な気持ちだったし、選手とマネージャーであることを選んだのも、そういう関係で1年以上過ごしてきたことも、何ひとつ後悔してない。オレたちはいつでも自分たちにとってベストな選択をしてきたと思う」

も同じ気持ちだった。バスケットを優先し、ふたりで勝利を目指してきたことを悔いてはいない。運命の悪戯で白蝋館に閉じ込められさえしなければ、自分たちの関係に気持ちが揺らぐこともなかった。けれど、夢は覚め、いつか白蝋館での日々のことは遠い記憶になってしまうかもしれないから。

「それでも今、を抱き締めたいと思うことを否定したら、後悔すると思う」
「私も……今、牧のことを紳一って呼ばなかったら後悔する気がする」
、もっとキスしたい」
「して。いっぱい、して……!」

それを人は「衝動のままに」と言うだろうか。「軽率な未成年の性」と言うだろうか。ともあれふたりは絡み合いながらベッドに倒れ込み、キスを繰り返した。恋より部活という選択をした日から1年以上、その間殺し続けた気持ちが一気に溢れ出して止まらなかった。

志緒さんの言葉に触発されただけなのかもしれない。この白蝋館を出ていく時が近付いている焦燥感から逸っただけなのかもしれない。けれど明日に日常が待ち受けていることは変わりがなく、静かな白い朝に体中を埋め尽くす気持ちを捨てられそうもなく、それならばこの降り積もった雪の中に置いていこうと思ったのかもしれない。

白蝋館を覆い尽くした大雪は、閉じ込められた人々の思いすら飲み込んで朝日に輝いていた。

牧とが自宅に帰還できたのはそれから3日後のことで、除雪やら警察の到着やらで白蝋館での滞在は思ったより延びた。警察の到着後は閉じ込められていた2日間のように他の宿泊客やスタッフたちとは気軽に話せず、特に未成年であるふたりは事情聴取なども優先されたので、それぞれの保護者が到着したその日には神奈川へと帰ることになった。

白蝋館は現場検証のために物々しい雰囲気になっており、オーナーである敬さんや支配人である菊島さんは警察に行ったきり帰ってこないし、志緒さんは当然連行されたし、牧とが保護者と一緒に白蝋館を後にする時、ふたりを見送ったのは国竹さんと松波さんだけだった。

「またいらして下さいって言いたいけど、先のことはわからないね」
「敬さん、白蝋館、廃業しちゃうのかな」
「してほしくないけど、206号室に泊まりたいなんて人はいないかもしれないし」

肩を落とすと国竹さんだったが、遠くから「早くしなさい」との親の怒声が聞こえている。色んなことを一緒に乗り越えてきた仲なのだし名残惜しいが、あまり時間はかけられそうにない。すると松波さんが一歩進み出てペコッと頭を下げた。

「色々ありがとうございました」
「えっ?」
「君たちを見ていたことで、美晴がいることの大事さが分かりました」
「えっ、ほ、ほんとですか!?」

国竹さんは真っ赤、は口元のニヤニヤを抑えきれない。

「もし白蝋館が廃業になっても、ふたりで一緒に乗り越えていきたいと思ってます」
「ご、ごめんなさいね、こんな話」
「何言ってるんですか、自分のことみたいにめちゃくちゃ嬉しいです」
「紳一くんとちゃんも、どうかいつまでも仲良く」

無愛想で人相の悪い松波さんのその言葉に、牧とは深く頷いた。

「はい。オレたちもふたりで協力しながらまたインターハイ目指します」
「今年は優勝します!」

肩を抱かれて真っ赤な顔の国竹さんと、もしかしたら微笑んでいるのかもしれないいびつな表情の松波さんに見送られてふたりは白蝋館をあとにした。踏みしめる雪道は泥だらけ、振り返っても白蝋館はブルーシートで覆われていて、一気に現実に引き戻されていく。

まるで雪に誘われて迷い込んだ異世界だったのでは。そんな気すらしてくる。

「牧、明日からどうするの私たち」
「どうするのって、まあひとまずみんなの総ツッコミへの対応策を練る方が先だろうな」
「そっち!」

親たちの少し後ろを歩きつつ、ふたりはへらへらと笑った。白蝋館を出たら極限まで盛り上がっていた気持ちが少しトーンダウンしてきてしまった。とても現実、ものすごく日常、部ジャージに親、もう5日も練習してない。おそらく明後日には部活に戻ることになるだろう。

だが牧はひょいと手を挙げての頬にするりと触れ、ニヤリと笑った。

「嘘。もう自分の気持ちを殺しておくのはやめる。もっと一緒にいたいし、のことなんとも思ってませんていう顔してるのも嫌だし、白蝋館で過ごしてた間の自分たちが1番自然なんだと思うから」

寄り添い、手を取り合い、支え合い、抱き合い、そしてキスをして。いつでも並んで同じ方向を見て、何よりお互いを案じていたこの白蝋館での日々はふたりが押し込め殺し続けてきた心を解き放ったのかもしれない。その心とともに在りたい。

は牧の手を取って繋ぐと距離を縮め、冷たい空気を吸い込む。

「紳一、大好き」

5月、すっかり日常に戻ったの元に島さんからメールが届いた。出版関係の仕事をしているという島さんは報道の仕事をしている知人などにもあたって、白蝋館のその後についてを綴っていた。

今回の事件の原因となった北峰千紘の件は葛西・最上・下谷が当時未成年だったことで当然不問に処された。10年越しで真実を知ることになった遺族は志緒さんの凶行にも心を痛めていたそうだが、何も出来ることはなかった。東丸の遺族も沈黙を貫いている。

事情聴取の結果、同窓会組の「旅行」は東丸が他の3人を1年に1回一方的に呼び出し、「オレたちは共犯なんだ、それを忘れるな、自首は許さない」と言うためのものであったと判明。特に葛西は旅行のたびに同意なく体を触られ続けていたそうで、最終的に「これで私も解放される」と言ったとか。

しかし3人とも北峰千紘の事件に関しては「東丸が主導してやったこと、自分たちは『その場のノリ』に逆らえなかっただけ」と全く同じことを言い、それ以外については口をつぐみ、志緒さんについても「彼女について詳しいことは知らない」を通した。

一方の志緒さんは概ね牧とに語った通りの供述をし、白蝋館での「静養」は毎年北峰千紘が亡くなった時期に彼を悼む目的で続けていた旅だった、彼を亡くしてから塞ぎ込み体調を崩しがちな彼女に白蝋館を紹介したのは北峰千紘の遺族だった、ということも判明した。

東丸を殺めてしまったことについては一貫して「無計画だが制裁のために自らの意思で殺意を持って行ったこと」と容疑を認めている。事件を知った高校時代の同期有志が裁判に備えて嘆願署名を準備しているという話があるが、志緒さんはそれを望まないのではないかと島さんは書き添えていた。

白蝋館は当面の間休業、スタッフは国竹さんと松波さんを除いて全員敬さんが引き継いだ別のホテルへ回された。というのも、敬さんは白蝋館を畳む気はなく、しかしそれまで待ってますと言ってくれそうなのは国竹さんと松波さんしかおらず、ふたりは別の仕事をしながら再開を待つことになった。

なので牧とが言ったように、いずれ国竹さんが新たな白蝋館の支配人となり、松波さんとふたりが中心になってホテルが再開するのかもしれない。その時は無料で招待してくれないかな、と島さんは正直な気持ちを綴っている。

また、メイさんの正体が明らかになったので調べてみたところ、彼女は遅筆な上に逃亡癖があると業界内では有名だったそうだ。しかし彼女は国竹さんと松波さんの一時的な転職の世話を引き受け、生活が落ち着くまでの面倒を見ているらしい。

……一応聞くけど菊島さんと梅野さんと春林夫婦は?」
「何も書いてない。柴さんと島さんのことは書いてあるよ。今度のダーツは広島だって」
「今年のインターハイじゃないか。見に来ればいいのに」

ふたりは島さんからのメールを頭を並べて読んでいた。県予選は目の前、中間を翌週に控えて練習が短縮されているので一緒に勉強中。というか白蝋館の一件で家族に恋愛関係にあることは即バレ、しかしふたりで協力して無事に生還、犯人を挙げたというおまけまでついた勢いに飲まれた親たちは歓迎の意を表している。どちらもが「たくさん助けてもらった」と大袈裟に吹聴したのは言うまでもない。

部活中そんな素振りを見せなかった主将とマネージャーがクローズドサークルから生還したと思ったらデキていた、ということに関しては、仲間たちはやや渋い顔で「何のひねりもなくて面白くない」と言う程度で特に驚きはしなかった。というか彼らも合宿所に閉じ込められて数日を過ごしている間に「これがきっかけで牧とは付き合うのか」という賭けをしていたそうで、むしろあの堅物ふたりは付き合わないに賭けた方が多かったらしい。

そして最後に島さんは「自分はジャーナリストではないけれど、裁判も追いかけてみるつもり。志緒さんの今後を見届けたい」と綴っていた。

「気持ち、ちょっとわかるね」
「仲間意識って言うのかな、白蝋館の中で起こったことはオレたちにしかわからないから」
「志緒さん、早く自由になれるといいな」
……それには、オレたちが志緒さんのことを忘れなきゃいけないのかもな」

志緒さんにとっての本当の自由とは、今回の事件も含めて全てのことを「過去」に出来る時だろうか。牧はしょんぼりしてしまったの肩を抱き寄せて撫でる。

「志緒さん、最後に『忘れて』って言っただろ」
「そんなの、悲しくないのかな」
「志緒さんにとっては『忘れる』ってことが唯一の救いなのかもしれないぞ」

それが出来ていたなら、こんな悲しい事件は起こらなかった。はしょんぼりしつつも頷いた。志緒さんの「忘れて」は叶わない願いであったのかもしれない。

島さんからのメールを閉じたは携帯を傍らに置くと、牧の肩にすり寄って目を閉じた。初夏の日差しは汗ばむほどに暖かく、雪に閉じ込められて凍えそうになっていた日々のことは鮮明でも実感の伴わない記憶になりつつある。

暑い季節には寒い冬を恋しがり、寒い冬には暑い夏を待ちわびる、そんな繰り返しの中に白蝋館での出来事は埋もれつつある。今でも事件以降のことは事情聴取とまったく同じことを証言できるくらい覚えているが、好んで繰り返し見た映画やドラマの記憶のように茫漠としている。

「私たちは私たちの日常を生きていれば、いいんだよね」

そしていつか、白蝋館での出来事を思い出さない日々になるまで。

牧はの体を抱き締めると、額に唇を寄せる。あれだけ不安に思っていた部活と恋愛の両立はあっけないほど順調で、もっと早く挑戦してみるべきだったのではないかと思えるくらいだった。後悔はしていないが、空白の1年はちょっともったいなかった。

なので最近の牧は遠慮しない。額から頬、首筋へと唇を這わせていく。

「えっ、ちょ、ダメダメ、来週から中間だし昨日もろくに勉強してないじゃん」
「オレは普段から予習復習しっかりやってるしなあ」
「いや君は推薦決まってるから余裕だろうけどね?」
だって引退したら今度は受験で時間なくなるじゃないか」
「だからそのためにも今を疎かに出来ないんでしょ」

このところ牧は「が受かればふたりとも春から東京なんだし一緒に住みたい」とひとりで盛り上がっている。それも悪くはないが、牧たちより一足先に引退して受験に備えなければならないはちょっと憂鬱だ。時間がなくなるのは私だっていやだよ。

しかしどうにも牧の誘惑に勝てない。はずるずると床の上に崩れ落ちる。

「もー、今日だけだよ」
「昨日も同じこと聞いた気がする」

痛むほど冷たい冬は遠く、窓からは暖かな初夏の風が流れ込み、唇を重ねるふたりを優しく撫でていく。素足に感じる夏の湿度、耳に甘い囁き声はふたりをひとつに溶け合わせ、束の間全てを忘れる。

洋館も殺人事件も、溶けて消えゆく春の雪のように。

END